第三話 三好と沢渡と野沢

「いつ来ても遠近感がおかしくなるよなあ」

 沢渡がぼそりと呟く。

 松本駅の南側、大きなホテルのある一角の更に向こう側に、松本市内で一番背の高いタワーマンションがそびえ立っている。

 建築当時、土地に余裕のあるこの地域で高層分譲マンションの需要がある訳がない、という地域住民の冷ややかな視線を浴びたこの建物は、案の定なかなか全室完売に至らなかった。

 完成から五年経過した現在でも、二割程度が売却できず空き部屋のままである。

 そのタワーマンションの最上階、三年前まで全く見向きもされていなかった物件が、野沢の住居だった。驚くことに七SLDK。

 田舎の高級マンションの最上階だから、余裕のある作りになっている。リビングだけで三十畳あり、三好と沢渡の部屋がそのまま二つ、すっぽり収まった上で更に余裕があった。

 その空間に簡単なダイニングテーブルが一つだけ置いてあるのだから、贅沢にもほどがある。

 野沢曰く、

「親父が投機目的で購入したものだから、俺の趣味じゃない」

 ということだったが、三好と沢渡は彼の親父が寺の住職らしいという情報しか持っていない。

 出身が長野県と聞いているだけに、まさか善光寺ということはあるまいなとビクビクしていたが、怖くて聞けなかった。

 さて、彼はこの広大な住宅を、リビングとそれに接する主寝室、キッチンとバス、トイレ以外はまったく使っていなかった。さらに六人がここで住める勘定になる。

 三好と沢渡はこの野沢の住宅事情を知った当初、真剣に野沢との同居を検討した。

 ただ、さすがに二人から先に「一緒に住もうか」と言い出すことは出来なかったし、野沢も「空いてるから一緒に住まないか」とは言わなかった。

 なぜなら、このような住居で暮らすことの無意味さを野沢は最初から知っていたし、三好も沢渡も後になってそれに気がついたからである。

 必要以上のスペースというのは権力の浅墓な表象であり、心地良さとは対局に位置するものである。

 この三十畳のリビングに三人がおのおの座っている光景を想像したところで、その空虚さに三好と佐渡は愕然がくぜんとした。

 リビングの真ん中にわざわざ嫌がらせのように置かれた、シンプルな白木のダイニングテーブルに腰を下ろして、窓の外をぼんやりと眺めながら、三好は大きく息を吐いた。

「まったくだよ」

 大きな窓の向こう側には北アルプスが一望できる。いつもながら、観光地の売店で売っている絵葉書のような見事さだ。見事過ぎてリアルな感じが全くしない。

「部屋も、綺麗好きなだけに余計に偽物臭いし」

 沢渡が毒づく。彼がそう思うのもやむを得ない、と三好も思う。

 野沢はそのいい加減な性格に反して、とても綺麗好きである。この巨大な空間の中を塵一つ、埃一つ落ちていない状態に常に維持している。

 専門の業者が週一回クリーニングに入っていると聞いているが、それを入れる必要が本当にあるのか、と思うほどの綺麗さだ。

 だからといって、三人がここで話をする時に、部屋が汚れないように野沢が注意を払っているかというと、そうでもない。

 持ち込んだ惣菜の汁が零れて、椅子の座面に張られた布地に油汚れが付いた時、野沢は、

「ああ、後で俺がやっとくからそのまま、そのまま」

 と言って、軽く流してしまった。

 その次に三好と沢渡が来た時には、汚れの痕跡すらなくなっており、二人は

「まさか、丸ごと買い直しているわけではあるまいな」

 と思いつつ、そのことも怖くて聞けなかった。


「確かに浅月の様子はおかしい」

 見るからに重そうなバカラのグラスに、プラスティック製の安そうな容器に入った麦茶を注ぎながら、野沢はいつもの深遠な謎を語るような声で言った。

((おかしいのはどこのどいつだよ))

 三好と沢渡は心の中で、同時に同じツッコミを入れる。

「そうだ。先日の『三好と一緒に沢蟹わいわい親睦大作戦』の後、少しは改善されたと思っていたのに、やはりどこかおかしい」

「ちょっと待て、沢渡」

「ん、どうした、三好」

「なんだその作戦名は」

「いや、この方が分かり良いのではないかと思い、俺が命名した」

「むしろ分かりにくい。先日の『三好の大誤算』と言い、お前のネーミングセンスはどうかしている」

「センスは関係ない。出来事の本質を抽出して、素直に配列したらそうなっただけだ」

「だったらセンスをもっとちゃんと働かせろ。センスがニートじゃ話にならない」

「そんなものは最初から俺には必要ない。マイ・センスレス・ライフだ」

 と言いながら、沢渡は右手で顔を仰ぐふりをしながら椅子にふんぞり返る。

「――で、浅月だが」

 三好は無視して野沢に向き直る。

「うん。俺もおかしいと思っていた」

「なんだよ。野沢、三好。無視するなよ。ここはツッコミを入れるところだろう。扇子レスかよ、とか」

「確かに沢渡の言う通り、あの沢蟹採りの後は元の笑顔が戻っていたように思う」

「ちょっと待てよ。だからセンスがないから、扇子レスという――」

「それが一週間もしないうちに元の陰りのある表情に戻っている」

「ああ、俺達に気を使って無理して笑おうとしているよな」

「おーい、俺を一人にするなぁ。誰かツッコめよ」

「むしろ、ここ三週間ほどは前よりも深刻度が上がっている気がする。誰も見ていないと思って、気が緩んでいる時の落ち込みは半端じゃない。そうは思わないか、沢渡」

 うるさいので三好が話をふると、沢渡はいつもの皮肉屋の顔に戻って言った。

「その通りだよ、三好。明らかに浅月は無理をしている。確か、三週間ぐらい前に実家から呼び出しがあって、帰ったんじゃなかったか」

「そうだ。しかもかなり急だったらしく、バイトのシフト変更すら事前連絡ができなくて、後で店長に懸命に謝っていた」

「何があったんだろうか。実家がらみで浅月が楽しそうにしている姿は見たことがないけど、今回はひどい」

 そう言うと、野沢はバカラのグラスから琥珀色の液体を一口啜った。

 声と室内の雰囲気、そしてバカラと琥珀色のコンビネーションだけを抽出すると、欧米の大富豪宅で歴史の闇に埋もれた謎を、有名大学の歴史学者がウィスキー片手に、ゆっくりと紐解いてゆくシーンが想像できるのだが、如何せん目の前にいるのは童顔の大学生で、飲んでいるのは麦茶に他ならない。

「まるで、その、なんだ。あれだよ。隠していた大事なおやつをお姉ちゃんに勝手に食われたというか――」

「浅月がいないからってなに無理してんだよ、沢渡。胸に秘めた想いを無理に引き出されてしまったかのような、とか気の利いたことをすんなり言えないのかよ」

「事実、そうかもしれないな」

 野沢の重く緊張した声に、三好と沢渡はぎょっとする。彼が本気で声を出すと、尋常ではない。

「な、なんだよ。お姉ちゃんにおやつを取られたぐらいで――」

「そっちじゃない、沢渡」

 野沢のモードがいつもと違う。

 三好と沢渡が気圧されて黙りこむ中、野沢はこう呟いた。

「多分、何か強制されたんだよ。実家で」

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