第四話 会長と夜叉

 会長は、その報告を聞くとまゆひそめた。

 自宅の応接間、畳の上には自然木の一枚板を磨きあげた座卓が鎮座している。

 当然のように上座に位置する会長に、友の会事務局で総務担当をしている男が額の汗を拭きつつ、正座しながら調査報告を説明していたところだった。

「――結果、二名の素姓が明らかになりませんでした」

「明らかではない、だと」

 会長は不満気な声を出す。

 途端に総務担当の額からは、先刻よりも倍の汗が流れ出た。

「はい、いえ、あの、もちろん調査は継続しておりますゆえ、しばらくのご猶予ゆうよを頂ければ、必ずや――」

「素姓が分かるというのかな」

「……」

「もういい。下がり給え」

「――は」

 男は、足のしびれでよろめきながら立ち去る。勧めたにも関わらず、とうとう使わなかった厚みのある座布団の隣には、汗で出来た男の痕跡が残っていた。

 それを見ると、更に会長の不快感は増してゆく。

 まあよい。あの男はどこか二度と合わないところに送ることにしよう――そんな、男にとっては死刑宣告にも等しい決定を、畳の上に落ちた埃を払う程度の注意深さで決断すると、会長は濡れ縁から庭に下りた。

 それにしても――飛び石の上を辿りながら会長は考える。

 友の会の情報網とて完璧ではないものの、氏名と顔まで特定されている人物の素性が分からない、という事態がありえるとは、会長も思っていなかった。

 ここでいう素性とは、もちろん戸籍や住民票レベルの個人情報ではない。学歴や職歴などの経歴情報でもない。公的な情報は公的な機関から取り寄せることができる。

 ただ、少々非合法な手順が必要になるだけのことだ。経歴についても同様で、企業のデータベースから少々拝借すれば良い。仲介業者は掃いて捨てるほどいる。

 問題は、それよりも深い個人の趣味・趣向の世界の情報だ。

 例えば、図書館で借りた本、書店で購入した本、レンタルビデオショップの貸出履歴。それらは、その人間の興味の方向を雄弁に物語る情報である。

 さらに、そこにパソコンの画面履歴と検索履歴を加味する。それを入手するためには流石に費用が嵩むが、無理ではない。

 さらに、郵便物や宅配便の配達記録やクレジットカードの利用履歴などを加えれば、その人物の私生活がかなり明らかとなる。そして、集中攻撃すべき弱点も見えてくるものだ。

 それがまったく見えないという。

 現代社会に生きている人間とは到底思えない。極めてシンプルな原始生活を送っているとしか思えない。

 図書館の利用登録はあったが、開架での閲覧が中心で借出や予約の履歴がない。購入された図書も殆どない。

 パソコンの履歴は、この調査を行う前からシークレットモード等で隠蔽されていたり、その都度消去されていたり、直近ではパソコンを使用した様子すらない。

 買い物はすべて現金決済で、給与口座からそれ相当の金額が定期的に引き出されている。特に大きな金銭の動きはない。要するに、何もおかしなところがみあたらないほどクリーンである。

 だからこそ、異常だ、何かある、と会長は考えた。

 会社のパソコンの使用履歴については、友の会の動きを事前に予測していなければ消去することはありえない。

 いや、常時自分の生きている痕跡を消し続けることが習慣になっているとしたら――そう考えて、会長は頭を振る。その考えは馬鹿げていた。

 必要性が分からない。データが残らない生き方は、現代においては相当無理がある。携帯電話の通話記録すら残る時代であり、携帯電話を持たないこと自体が変人の証明となる時代なのだ。

 素性不明の一人である笠井洋の携帯電話の履歴は、ほぼ着信専用で発信記録がない。

 親族からの着信が残されていたが、そちらも「東京の大学生」「仙台市の何の変哲もない豆腐屋」以上の情報がなかなか出てこない。

 直接の関係者ではないし、甲信越の住民でもないので、わざわざ素性を調べるために外注に大枚をはたくことはしなかったが、それも異常事態ではある。

 もう一人の人物に至っては、通話記録自体が入手できなかった。銀行口座の入出金記録も、友の会のつてを駆使して圧力をかけたにもかかわらず、金融機関が開示しなかった。

 メガバンクが相手だったので力不足の感は否めないのだが、それでも、友の会以上の組織が阻止したのではないかと疑われる。それも想定外のことだった。

 友の会の評議委員の一人は、今日の会議の席上でこう言った。

「もう少し早い段階から本格的な調査を行っておけば、こんな事態にはならなかったのではないか」

 会長はその意見を一蹴した。

「いや、そんなことはなかろう」

 そんな簡単な事象とは思えぬから、会長はわざわざ総務担当を自宅まで呼んで、詳しい事情を聞くことにしたのだ。

 その程度の見識しか示せぬようでは、会の大事を議論する場には不向きではないかと思う。彼も排除の対象に含めよう。

 それにしても――会長は考える。

 友の会の陣容も昔と様変わりしてしまった。発足当時の、国を憂い、再建を誓った気骨ある人物達は、その後の歳月の中で次第に鬼籍へとその位置を変えていき、当時の生き残りは自分しかいなくなってしまった。 二代目、三代目は既得権の確保に汲々とする小人物が少なくない。

 第一の鍵を保管していたあの家も、二代目の嫁がいなければ瓦解していただろう。三代目の見てくれだけのあの男が、軽率にも友の会関係者以外から妻を迎えたのが、今回の諸悪の根源なのだ。

 事ここに至っても、あの家からは何の抗弁も謝罪も聞かれない。それどころか刀自は、

「そんなことはありませぬ。何かの間違いにございましょう」

 の一点張りで、取り付く島もないと聞く。過去の経緯から会長としては暴力に訴えたくない。しかし暴力以外の手段で彼女を攻略できないのが、今の友の会の実力だった。

 会長がそんなことを考えながら、庭にある池を遊弋している鯉の姿を眺めていると、ふいに背後に気配がした。

 会長は苦笑した。

「唐突に現れるのは、悪い癖だからやめたまえと言ったはずだが」

 会長が振り向くと、そこには夜叉が立っていた。相変わらず、しまりのない微笑みが顔全体を覆っている。

 ただ目の部分だけが、そこだけ繰り抜かれた仮面をかぶっているかのように、笑っていなかった。

「これは失礼しました。ご自宅に伺ったのは随分と久しぶりなもので」

 夜叉の特殊技能を考えたら仕方のないことではあるものの、この家の警備を担当している者達の不甲斐なさに、会長は腹が立つ。

 柏倉まで反応できなかったとは。これでは、夜叉ならば簡単に会長を暗殺することができる、ということではないか。

「まあ、お怒りにならず。彼らは彼らの職分を十分に全うしておりますよ。ただ相手が悪かっただけです」

「――サトリのバケモノか、お前は」

「そんな、バケモノだなんて」

 佐藤はへらへら笑う。もっと厄介な存在だろう――そう言いたくなるのを抑え、会長は夜叉に向かって尋ねた。

「それで、結果はどうなったのだ」

「はい、それが警察の情報網を使っても一向に潜伏先がわかりません」

「車で移動しているはずではなかったか。であれば、警察お得意のナンバープレート読み取りシステムがあるだろう?」

「そうなんですが、移動に使ったと思われる車は、東京湾岸の御台場にある商業施設の駐車場で見つかりまして」

「結局巻かれたのか」

「はい」

「警察の情報網もたいしたことはないのだな」

「私も警察の中でははぐれ者に過ぎませんからね。本店から派遣されて支店勤務していると、どうにも肩身が狭い」

「そんなことはなかろうに。随分自由気ままにやっていると聞いているが」

「いやあ、ばれていましたか」

 後頭部に右手を当てて笑う姿が、やはりわざとらしい。

「警察の情報も役に立たないとなると、他に調査していないところは――あまり関係を持ちたくはありませんが、国税庁ぐらいですかね。あそこはあまり無理を押しすぎると、友の会の会計にとばっちりが及びかねませんし」

「しかも、それで分かるのが公式に届け出た納税関係だけとなれば、意味はなかろう」

「まあ、そうですな」

 この時点で会長と夜叉はミスを犯している。笠井洋の国税情報を確認しておけば、以降の展開は全く変わっていたはずだった。

 それとは知らない会長は、話を締めくくった。

「ともかく、笠井という男のことは素性がつかめない以上、要注意だ。引き続き、警察のネットワークで照会を進めてくれ」

 会長は、話は終わったとばかり、きびすを返して母屋へと向かう。その後姿を見送りながら、夜叉はほくそ笑んだ。

「素性がつかめない以上、要注意だ、ときた――」

 徐々に笑いが深くなる。

「あいつの正体知ったら小便チビるぞ」

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