第九話 核心
「さて、本日、皆さんにここにお集まり頂いたのは、他でもありません」
洋は、推理小説の名探偵による謎解きシーンにありがちな言葉から、話を始める。
「皆さんには、とある共通点があります」
全員の顔を見回す。
「それは、ある事件に関連してその影響を受けたか、あるいは今後受ける可能性がある、という点です」
洋はそこで立ち上がると、事務机から窓側を経由して応接セットのほうに歩く。
「そんな覚えはない、という方もいらっしゃると思いますので、そのへんから明らかにして行きたいと思います。それではまず、皆さんが巻き込まれている事件の発端からご説明しましょう」
洋は窓を背にして立った。
「発端は、昭和二十年八月七日、広島に原子爆弾が投下された翌日のことになります」
正確に言うと、それより以前に計画は存在していた。
第二次世界大戦以前、旧日本軍は海岸に近く平野の端にある東京では、本土決戦時の防衛が困難であるとの観点から、有事の際に山間部へ中枢機能を移転する計画を進めていた。
昭和十九年一月に陸軍省の井田少佐が計画書を提出、大本営幹部会での承認を経た後、地盤調査の結果、大本営の建設場所に松代が選定される。
さらに、昭和十九年七月、東條内閣による閣議で「長野県松代への皇居、大本営、その他政府機関の移転」が了承されると、計画は具体的に進行した。
なにしろ、皇居も移す大計画である。大本営建設には学徒を含めて、かなりの大規模な動員がかかった。実際に十キロにも及ぶ地下坑道とその地上部分に建物が造られて、現在でも残っている。
昭和十九年十一月、松代でその最初の工事が開始された頃――
松本平野から山間部に深く分け入ったところでも、突貫工事が行われていた。
松本のそれは些細なものである。建設作業に徴用されたのは、朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心であるが、大本営建設のために徴用された朝鮮人労務者、公称二十五万四千人のうち、二千人程度が流用されたに過ぎない。
建築されたものも「物資を秘匿するための倉庫」ぐらいであり、表から見えないようにするために神経を使った他は、全くの人海戦術である。
不思議なことに、大本営の建設のために働いた朝鮮人労働者は、白米や麦、トウモロコシなどが毎日配給されるという当時としては破格の待遇を受けており、さらに希望者は一人当たり二百五十円の帰国支度金を受け取って富山港から船で帰国したから、当時のことを懐かしく語る者もいたのだが、松本の山中倉庫建設にあたった朝鮮人労働者が帰国したという話は聞かない。
大本営の移転先として松代が選抜された理由の一つに「長野県の人は心が純朴で秘密が守られる」というものがあったが、その評価にたがわず、関連する事実を含めて松本倉庫の一件は戦後も秘匿し続けられていた。
さて、旧日本軍が秘匿していた戦争継続のための費用の多くは、金塊、銀塊、ダイヤモンドなどの貴金属として保管されていた。
この資金を、敗戦時のどさくさに紛れて軍の管理下から密かに運び出して隠匿する計画があり、それに従事したのは長野県出身者のみで構成された軍閥である。
新型兵器による広島壊滅の報を受けた、彼ら『長野閥』は、機は熟したとばかりに、関東平野の各部隊に分散保管されていた各地の軍事物資倉庫から戦争継続資金のみを輸送し始めた。
その際、戦後に怪しまれることがないよう、一部を越中島沖に投棄したり、米国軍の接収を想定して日銀地下倉庫は放置したりと、実に細やかな気配りがなされている。
「あの、ちょっといいでしょうか」
信濃大学四人組の一人、三好が手を挙げる。
「どうぞ」
「すいません。なんだか規模が大きすぎて意味が分かりません。どうして僕らと旧日本軍の秘匿資金が関連するのか理解できません」
「まあ、そう思われても不思議ではありませんね。旧日本軍の財宝伝説なんて、普通は「絵空事だ」と鼻で笑ってお終いですからね。でも、次第に関係が明らかになっていきます。先を続けても宜しいですか?」
「途中ですいませんでした。続けて下さい」
三好の実直な姿に洋は微笑んでから、話を続けた。
そもそも「戦争継続資金の存在」自体、念入りに秘匿されており、組織上位の者しか具体的な話をしらない。全体像を把握していたのは会計を掌握していた部署の者のみと言われているが、それも定かではない。
軍上層部の真実を知る者達は、戦後の裁判でA級戦犯として死刑に処されている。事務方でその実態を把握していた者の多くは、BC級戦犯として投獄生活を送った後、一部が保釈されて郷里に戻った。
その、郷里に戻った者たちが、隠匿資金の管理団体として組織したのが『友の会』である。
計画そのものにはかなりの数の長野閥軍人が関与しているが、実際の保管場所については二十名程度の士官クラスが関与したのみで、その内の数名はB級戦犯として処刑されている。
従って、実際にその場所を知る者は当時でも十名にすぎなかった。
彼らはその正確な位置情報を、いくつかの数字の組み合わせに分割し、その計算方法も含めて記載した文書を作成した。
文書の多くは古文書の形を取っていたが、一部は絵画の中に組み込まれたりもしている。
『第一の鍵』と呼ばれる文書をスタート地点として、順にその記載から次の情報の秘匿場所を割り出して、分割された数値と計算方法を入手し、最終的に『第二の鍵』まで至ると、素材はすべて揃う。
その上で『第三の鍵』と呼ばれる文書に記載された最後の数値を当てはめると、秘匿場所の正確な緯度と経度が現われる仕組みだ。
なぜこのような面倒な仕組みにしなければならなかったのか。
彼らは資金が一度に市場に流れ込むことで、その存在が明らかになることを最も恐れていた。そのため、ごく一部についてのみ換金し、それ以外を保管に気を遣わなくてすむ貴金属のままで秘匿したのである。
物資であるから、彼らが最初に行ったのと同様に、流用される危険性がある。しかも、初代の友の会会員達は、この隠匿が長期間に亘ることを見越していた。
世代が下がるにつれて不届き者が現われる危険性は高まる。
そこで、直接の情報を握る初代会員は次世代にその情報を直接伝達することを禁忌とし、かといって秘匿場所が不明となる事態を避けるべく、対策を講じたのだ。
「途中で申し訳ございません。私もちょっと疑問があります」
今度は山根先生が手を挙げた。
「何だか、友の会に関する情報が詳細すぎるような気がしますが、気のせいでしょうか。確か笠井さんは国会図書館で調査をしたと仰っておりましたよね。いくら国会図書館でも、お話に合ったような友の会の内幕まで調べることが出来るとは思えません」
「仰る通りです。国会図書館でもここまでは分かりません」
「ではどうして――」
洋は右手を挙げて制した。
「分かりました。ちょっと話が前後しますが、先にそちらの種明かしからしましょうか」
*
その前日の午後二時。
四月朔日恵美と笠井鞠子は松本の幹線道路である山麓線の途中でタクシーを降りた。
途端に蝉時雨が
目の前に山の際に沿うように集落が広がっており、その集落の間には山に向かって登ってゆく二車線の坂道がある。四月朔日と鞠子はその坂道を登り始めた。
五分ほど先へ進む。
それから坂道の途中で行く先を眺めると、集落から隔たったところに、木立に囲まれた昔のままの姿で、その屋敷は屹立していた。
まるで砦のように屋敷の周囲は高い塀で囲われている。その向こう側に瓦屋根が、こんもりと連なって見えていた。
屋敷の主の名を告げれば、松本市内のタクシー運転手ならば道筋を告げなくても、全員が全員間違いなくその門前まで車をつけてくれるのだが、四月朔日はそうしなかった。
「四月朔日さん」
隣を歩く鞠子は、いくぶん気遣わしげに四月朔日の名前を呼んだ。
鞠子も松本市の警察官であったから、屋敷のことは承知していた。総領息子が結婚して、離婚したことも知っていた。しかし、その相手が四月朔日であるとは思ってもみなかった。
地元の名士であれば公式の場でほぼ顔合わせしたことがあり、一度挨拶を交わした相手であれば鞠子は忘れない。その総領息子も会ったことがある。
「大丈夫です。いつかは直面しなければいけないと思っていましたから、覚悟はできています」
言葉とは裏腹に、四月朔日の笑顔はぎこちなく歪んでいた。
(本当は――怖い)
あの屋敷には人の形をした魔物が住んでいる。そして、その息子は魔物に魂を抜かれた人形だった。五年前にそのことに気がついた四月朔日は、耐えられなくなって逃げ出したのだ。
彼女は坂の上の門の前に立った。鉄鋲を打たれた重厚な木の扉が、相変わらず来訪者を萎縮させている。
九年前に初めてこの門の前に立った時、四月朔日はまだ何の事情も知らない小娘だった。緊張しながらも幸福感に満たされた気分でいられた。
すべてが暗転したのはこの門から中に足を踏み入れて以降のことである。今回はどうなるのだろうか。
大門の左には通用口がある。四月朔日はその横の呼鈴のボタンを押した。
さして待つこともなく、中から、
「はい、どなたさまでしょうか」
という声がして、通用門が開いた。禿頭、小太りで、いかにも人の良さそうな初老の男性が姿を見せる。そして、四月朔日の顔を見るやいなや硬直した。
「奥様――」
「高見さん、その呼び名は適切ではありませんよ」
四月朔日は肩の力を抜いて言った。まだ
「あ、いや、すいません。で、お隣の方は?」
狼狽しつつも、高見は尋ねた。
「私は、松本警察署刑事課におりました笠井鞠子と申します」
そう言って、鞠子は背筋を伸ばしてお辞儀をした。その折り目正しさと「警察」という言葉に、高見はさらに狼狽し、「おりました」の言葉をスルーしてしまった。
見事なものだ。決して嘘はつかないが、使えるものは最大限に利用するということか、と四月朔日は苦笑する。
「は、その、そうですか。で、ご用件はなんでしょうか」
慌てながらも、高見は決して己の本分を忘れない。
四月朔日は息を吸って、
「
と真正面から切り出した。
高見に案内されて、屋敷の玄関から奥へと通る。
人の良さそうな老人ながら、主からは全幅の信頼を得ているらしい。中にお伺いをたてることもなく、どんどん先へと進んでゆく。廊下が長々と続いて、四月朔日ですら正確な位置を把握できなくなった。
それで、自分がこの屋敷で過ごした期間の世界の狭さを思い出して、彼女は身震いする。
そんな四月朔日の背中を、鞠子は後ろから黙って眺めていた。
「こちらでお待ち頂けますか」
とある一角で、高見は
その向こう、十二畳近くありそうな和室の中央には大きな机が置かれており、その周りに座布団が四つ置かれていた。四月朔日と鞠子は、床の間から離れた側に並んで座った。
高見が立ち去り、そのまま時が過ぎる。
鞠子は張り込み等の経験から、無為な時間を最小限の消耗で乗り切ることに慣れていた。ところが四月朔日も、部屋に通されてから一時間近くが経過しようとしているが、身動き一つしない。
一般人にはありえない、訓練された者の忍耐強さである。
雑誌の編集者というのはそういう訓練も必要になるのだろうか、と鞠子が考えたところで、
「お待たせ致しました」
という、落ち着いた女性の声が襖の向こう側から聞こえてきた。
瞬間、四月朔日の背中が伸びた。
刀自というのは女主人を指す尊称である。
七十近い年齢に似合わず、静代の腰は真っ直ぐに伸びている。夏の最中であるにもかかわらず、細身を明るい鼠色の着物で包み、薄い茶色の帯を締めていた。白髪がきっちりと結い上げられている。
彼女は当然のように床の間を背にして座った。
四月朔日は、人の上に立つことに慣れきった者の尊大さを感じる。四月朔日はともかく鞠子は客人として遇するのが当然ではないかと思ったが、口には出さなかった。
出しても無駄である。静代には通じない。旧家の仕来りというのはそういうもので、付き合いのために世間一般の常識は熟知しているにも関わらず、屋敷内ではあえて自らの位置づけをその上に置こうとする。
外においては仏、内にあっては鬼、それが旧家の主である。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
細い目で二人を見つめながら、静代は話を始めた。
「娘が拉致されました」
四月朔日がいきなり核心から切り込む。静代の目が僅かに開いたように鞠子には見えたが、彼女は何も言わなかった。
「刀自も御存知の通り、娘は原発性免疫不全症候群に罹患しています。ですから簡単には拉致できません。組織的な力、しかも大規模かつ極秘裏に人員と設備を投入することが可能な組織が絡んでおります」
「随分と夢のようなことを仰る。陰謀論ですか? 貴方ごときにどうしてそんな組織が動くのでしょうか」
静代は冷やかな声で応じた。四月朔日は動じない。彼女も平然とそれに応じる。
「その理由については刀自も既にご承知でしょう」
「……」
「元はといえば私の軽率な行動が招いた災禍です。しかし、それにより私だけでなく、こちらの笠井さんのご家族まで巻き込まれました。娘のこともありますが、私にはさらにそれが耐えがたい。どうして私だけを狙い撃ちしてくれなかったのかと思います」
「……」
「復讐にしては手が込みすぎてはおりませんか」
四月朔日がそう断定すると、静代は微かに笑った。
「何のことでしょうか。そのような腐った性根は持ちあわせておりません。私は無関係でございます」
そう言って薄っすらと笑う静代を、鞠子は見つめていた。
彼女は嘘をついていない、と鞠子は確信していた。
「そもそも復讐だと思うのならば、なぜわざわざここに顔を出すのです? 敵の本拠地に乗り込むのであれば、用心棒が必要でしょうに」
「それは考えましたが、ある方が必要ないと言ったものですから」
「ある方? はて、随分と軽率な忠告ですね」
そこで、鞠子はやっと横から口を出すことにした。
「いえ、理由があってのことです」
と、落ち着いた声で言う。静代は鞠子の方を向くと細い目をさらに細める。
「どういうことでしょうか。高見から聞きましたが、貴方は松本警察署の刑事さんだとか。貴方が一緒だから大丈夫とでも?」
と言いながら隠然と笑う。県警本部の上層部にも知り合いは多数いるのだろう。余裕のある態度だった。
鞠子も平然と応じる。
「既に退職届を提出済みですから、圧力をかけたところで無駄です」
「ほう、準備が周到でございますこと」
「それに、先ほどの軽率な者――私の夫ですが、こうも言っておりました」
鞠子は静代を見つめながら言った。
「刀自が首謀者だとすると、今まで事態を放置していた理由が分からない。四月朔日さんの素性は割れているのだから、最初からそちらに当たれば良いことです。にも関わらず、事態が急変したのはここ数週間のことでした。つまり、刀自は明らかにこの件には関与されていない。それどころか無言を貫いているようにも見える。つまり、関係者ではあるが敵ではないということです」
黙ってそれを聞いていた静代は、僅かばかり眉を上げると、こう言った。
「前言を撤回しましょう。どうやら、その方は状況を十分に把握していらっしゃるようですね」
「はい、おそらくは。ただ、どうしても分からないことがありまして」
「それを直接問いただしに来たと」
「その通りです」
しばし無言が続いた。
静代は静かに二人を眺めている。四月朔日は不思議な気分だった。五年前にこの家を出た時、彼女はこの静代の底知れないところが心底怖かった。
その瞳で見つめられると、息の詰まる思いがしたものだった。ところが今はそうではない。娘のことで必死だという理由もある。しかし、それ以上に鞠子が隣にいることが心強かった。
仲間がいるということが、これほど落ち着くものだとは思わなかった。
しばらくして静代は小さく息を吐く。
「ここで私が何も知らないと言いはったら、どうするおつもりなのですか」
「それも聞かれるだろうと夫は言っておりました。その時はこう答えるようにと――」
鞠子は苦笑した。
「――次に福岡さんのところに参ります」
鞠子の回答を聞き、静代の眉が下がる。そして、彼女は初めて僅かばかりながら笑顔を浮かべた。
「随分と驚かされますね。私の痛いところばかり見事に突いてくる。多分、貴方の夫はこうも言っておられましたのでしょう。私は、関係者が無意味に増えることを決して望まないだろう、と」
「はい、そのようなことを言っておりました」
鞠子もそう言って微笑んだ。
「まったくもって腹立たしい。そもそも、息子が貴方のような女性と結婚したのが間違いなのです」
静代は四月朔日のほうを見つめながら、そう静かに言った。
決して責めるような口調ではない。むしろ事実を淡々と述べるような言い方だった。
「あの子の脆弱な精神では貴方のような女性は御しきれない。そんなことは、最初に貴方にお会いした時にひと目で分かりました。それから――貴方の娘さんのことは、私も責任を感じております。息子をあのような男に育ててしまったこともそうですが、暴走する組織を抑えきれなかったことについてもです」
それから静代は庭のほうを眺めた。
障子と、その外側にあるアルミサッシの掃き出し窓を開け放った向かう側には、夏の盛りであるにもかかわらず涼し気な日本庭園が広がっている。そこには、先刻の瘴気の影も形もなかった。
四月朔日は、人の心なんて現金なものだ、と思った。
「それに、貴方に過剰な期待をかけて、拙速に事を進めてしまった私の過去の過ちについても、そうです」
静代は四月朔日の目を見てそう言うと、頭を下げる。
外においては仏。
中においては鬼。
底においては再び仏に帰る。
なるほど、高見のような人物が喜々として補佐役に徹するわけだ。
「さて、お聞きになりたいのは友の会の現状に関することですね。過去の経緯は下調べ済みのようですし、貴方が持ち出した古文書もどきの中身からも推し量られるでしょうから」
「その通りです」
四月朔日が答える。
「では、枝葉の話は置いておいて、速やかに核心から話しましょう」
静代の背筋が伸びた。
静代の話を簡単に纏める。
静代が知る限りの過去の経緯は、洋が仲間達に説明した通りである。
が、彼女は現在の運営体制についても語った。
今の友の会を支えている中心人物は三名。それぞれ「会長、鉄人、夜叉」と呼ばれている。
会長は、旧日本軍の備蓄品を横取りした張本人である。当時、とある部隊の隊長を務めていたほどであるから、現在は九十を超えているはずだが、息子に代替わりをした話は聞いていない。
鉄人はその直属の部下だった者とその子孫で、代々、組織の実行部隊――身も蓋もない言い方をすれば、暴力装置の機能を担っていた。
夜叉については静代も詳しくは知らない。発端の事件とは無関係な男で、会長が突然連れて来て友の会の情報担当をさせているらしい、と話には聞いている。
『第一の鍵』という重要事項を任された家柄にしては、静代は友の会の現状を把握していなかった。
なぜなら、物資輸送を統括し、事後に輸送先への経路を記載した『第一の鍵』を託された義父と、その後を継いだ夫が相次いで亡くなって以降、静代は極力友の会と距離を置いていたからである。
それは、次第に会長の私的機関となってゆく友の会に危機感を感じたからであり、とある出来事からの教訓でもある。
四月朔日は思わず聞き返した。
「教訓、ですか?」
「はい。それについてはあまりお話することはできませんが――」
静代は鞠子のほうを向いて言った。
「貴方の笠井という苗字を聞いた時、もしやとは思ったのですが、先ほど伺った話の論理展開からやっと確信が持てました。貴方は笠井清さんのご親戚か何かでしょう?」
唐突に意外な人物の名前が出てきたので鞠子は、思わず眉を上げた。
「どうして義父の名をご存知なのですか?」
「やはり、そうでしたか……」
突然、静代は今までの旧家の主としての威厳を失う。視線を落として、僅かに背を丸めた彼女に、四月朔日は驚いた。いままでこんな気弱そうな静代の姿を見たことはなかったからだ。
「約束通りですね。まったくお見事だこと――」
静代は視線を落としたまま呟いた。
「会長は、調子に乗りすぎて虎の尾を見事に踏み抜いた、ということでしたか」
*
「あの、これで全部でしょうか?」
山根先生が尋ねると、洋はにっこりと笑って、
「はい。これだけです」
と言った。
「肝心の、会長、鉄人、夜叉に関する情報が欠けているように思いますが」
「はい、現在の鉄人と夜叉については、中川刀自も簡単な素性のみで詳しくは知らないとのことですから」
「パパ――ちょっと回りくどい」
鞠子に指摘されて洋は苦笑する。
「ああ、ごめん。会長については中川刀自もちゃんと素性を詳しく語ってくれましたが、今日はその辺のことを当事者に直接確認したいと思いまして」
「当事者、ですか?」
山根先生が驚いた顔をした。いや、その場にいた全員が驚いた顔をした――ただ一人を覗いては。
洋はその一人に優しく尋ねた。
「今、ここですべて話したほうがよいと思うのです。どうでしょうか?」
その視線の先には浅月深雪がいた。
彼女は下を向いて全身を小刻みに震わせている。
ハンカチを握った両の拳が白くなっており、そして、その上には涙が次から次へと落ちていた。
「こんな…こんなことになるとは、全然、思っても…いなかったから…」
喘ぐように途切れ途切れに話す彼女に、三好と沢渡は咄嗟にどうしてよいのか分からない。二人がおろおろしていると、四月朔日が静かに立ち上がった。
彼女は浅月の方に寄ってゆく。三好と沢渡は僅かに腰を上げて浅月を守ろうとしたが、四月朔日の顔を見て思い留まった。
四月朔日はひどく穏やかな顔をしていた。
彼女は浅月の後ろに立つと、ゆっくりと浅月の身体を上から覆うように抱きしめて、優しく言った。
「そうでしたか。辛かったでしょう? 私も少しだけ同じ経験をしたことがあるから、なんとなく分かります。貴方は旧家の支配関係に苦しんでいたのね。可哀想に」
途端に、浅月の中の張り詰めていたものが決壊した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさぁい!」
浅月は振り向くと、四月朔日にすがり付き、謝りながら号泣した。
「さて、浅月さんが落ち着くまで、私の方から経緯を補足したいと思います」
洋は目を真っ赤にして、しゃくりあげている浅月に穏やかに頷きかけると、話を続けた。
「四月朔日さんの正体を友の会が把握し、その身柄を確保しようとして彼女の行方を見失ったことで、彼らは四月朔日さんの娘を拉致するという強硬手段に出ました。しかし、よく考えてみますと、どうして四月朔日さんがショコラ・デ・トレビアンであると彼らは知ったのでしょうか。警察内部でもその正体は不明なままでしたから、友の会に警察ルートとは別の情報があったとしか考えられません。そうなりますと、彼女の娘さんが拉致される前に、四月朔日さんと直接の接触があった人物からの情報となります。今日集まっている人の中に彼女と面識のある方は結構いらっしゃいますが、ショコラ・デ・トレビアンとしての彼女と接触した人物は、私の他には一人しかおりません」
「それで浅月だということですが、しかし、一体どこで彼女が四月朔日さん――いや、この場合はショコラ・デ・トレビアンですが、接点があったのですか?」
沢渡がそう尋ねた時、その隣から三好の腕が伸びて、彼の肩を掴んだ。
「それは僕から説明するよ」
「何でお前がここで出てくる? 実はお前も友の会会員か何かか?」
「そうじゃないけど、今やっと分かった」
そして、三好は洋に向かって言った。
「福岡さんの家に僕がバイトで寿司を出前して、笠井警部に捕まった一件ですね。確かに浅月がバイトをしている時間に、ショコラ・デ・トレビアンと思われる人物からの注文電話が入ってきて、浅月がそれを受けました。それで、四月朔日さんと同好会のイベントでお会いした時に、声からその正体に気がついたということですか?」
「私もそう思いましたが、それで宜しいですか?」
洋が浅月に向かって穏やかに尋ねると、浅月はこくこくと頷いた。
「そのことを最初のうちは浅月さんも隠そうとしていた。そのことはイベントと拉致の間の時間差から推測できます。しかし、信濃大学にショコラ・デ・トレビアンが忍び込んだらしいことが分かり、その同じ日に大学の体育館でプロレス同好会のイベントが開催されていて、そこに浅月さんが参加していることが明らかになった時、恐らく彼女は尋問を受けたのだと思います」
浅月の身体がびくりと震えた。その時のことを思い出したのだろう。
そして、尋問という言葉に三好も反応した。
「だから実家に帰った浅月は、その後、あんなに落ち込んでいたのか!」
「その、通りです」
浅月はぎこちなく微笑みながら四月朔日の腕を解くと、顔を上げて洋を見た。
「私が、四月朔日さんがショコラ・デ・トレビアンであると、友の会に漏らしました。先程から出ております友の会の会長は、私の祖父、
彼女は顔を上げて、言葉を押し出すようにしながら、そう断言した。
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