その7

 全ては、一瞬の内に起こった。


 まず、左端にいる調査官の一群が鉄色の風に薙がれた。


 大量の血が飛び散った。悲鳴すらなく、数人の人間が紙のように切り裂かれる。一拍を挟んで、内臓と肉が派手に草地へ飛び散った。


 そして鉄色の風の正体―――音もなく奔る鎧―――は返り血を浴びつつ、更に手近な人間達を切り伏せた。徐々に、彼は調査官達の作った城を囲む陣の中心へ移動していく。


 数秒の空白後、時は猛然と動き出した。


 混乱に陥りながらも、調査官達は少しでも死から逃れようと駆け出した。だが、フェリとクーシュナ、そしてクレメンスは逆に動いた。


 クレメンスは転びかけた部下を蹴って逃がした。そのまま、彼女自身走ることなく、鎧と向き合った。杖の先端を掲げ、クレメンスは柔らかな動きで鎧の関節の隙間を狙う。


 クーシュナは闇の茨を、鎧の四肢へ向けて放った。

 そして、フェリは両腕を広げ、鎧の背中に抱き着いた。


「駄目っ!」

「………………っ!」


 直後、幾つかのことが同時に起こった。


 四肢へ向けて放たれた闇の茨を、あろうことか鎧は剣で切り捨てた。更に鎧はクレメンスの杖も断ち割った。剣を伸ばし、鎧は彼女の脇腹を突く。だが、その剣先はクレメンスに触れたところで停止した。


 鎧の足に、新たな闇の茨が巻きついたのだ。それでも、鎧はクレメンスの体内に剣を押し込もうとする。その背中に、フェリは更に強く縋りついた。


 クーシュナは慌てて声をあげた。


「何をしているのだ、我が花よ!」


「人を傷つけては駄目よっ!」


 クーシュナの叫びすら無視して、フェリはしっかりと鎧を抱き締めた。

 次の瞬間、思いもよらないことが起こった。鎧が剣を手放したのだ。


「なにっ?」


 クーシュナは驚愕の声をあげた。躊躇うような動きを見せた後、鎧は滑稽なほど慎重に、そっとフェリの腕を横に払った。それでも、彼女はよろめき、地面に倒れかけた。


 びくっと体を震わせ、鎧は手を差し伸ばそうとした。だが、鎧は音を立てて首を横に振った。身を屈め、鎧は闇の茨を掴んだ。『闇の王様』の拘束を、鎧は手で引き千切る。


「なんとっ! 我が闇を腕の力だけで?」


「………………っ!」


 不意に、フェリ達に背中を向け、鎧は城内へ逃げ出した。


 突如として現れ、凶行の末に去った背中を、フェリは緊張の面持ちで見送った。

 調査官達の惨状を振り返り、彼女はどう動くかを迷った。鎧を追うか、この場で負傷者の治療に全力を尽くすべきか。だが、フェリが残りかけた時、意外な人物が声をあげた。


「行きたまえ、調査員フェリ・エッヘナ………この場合、恐らく君の勘は正しい」


 頬を血で濡らし、肩を震わせながら、クレメンスは言った。その声は嗄れている。

 惨状を前に、フェリは判断を迷わせた。


「………ですが、」


「我々の生存者も、連絡用の『試験管の小人』は所持している。治療の腕も、君より、上だ………それに、あの鎧に刺された者達は………どうせ、皆、助からない、さ」


 荒く息を吐き、クレメンスは自身の脇腹を押さえる手を放した。刃は触れただけのはずだ。だが、その傷口からはごっそりと肉が抉られていた膨大な量の血が溢れている。


 フェリは唇を噛み締めた。諦めろというように、クレメンスは首を横に振る。

 そして、何故か、彼女は母親のような温かさと慈愛の滲む微笑みを浮かべた。


「行くんだ、調査員フェリ・エッヘナ………信じる、ものが、あるのなら」


「………私、は」


「理想論、でも、それが叶うの、なら、私だって、嬉しい、さ………」


 不意に、クレメンスは手を伸ばした。震える指が、何かを求めて彷徨う。だが、それに触れることは諦めたかのように、彼女は途中でぎゅっと掌を握り締めた。

 そのまま、クレメンスはクーシュナに視線を向けた。その姿を頭から足先まで眺め

―――初めて彼を見た時と同様に―――彼女は感嘆の溜息を吐いた。


「さようなら、闇の王さ、ま………あぁ………でんせつは、ほんとう、だったんだ」


 その言葉の中には、確かな憧れが滲んでいた。


 ある想像が、電撃的にフェリの頭に浮かんだ。クレメンスは人よりも幻獣が好きだと語っていた。かつて、彼女は一種の憧憬と共に、王様の資料を捲っていたのではないか。


 まるで子供のような言葉を最後に、クレメンスは緩やかに目を閉じた。

 最期のその時まで、クレメンス・アービーは幻獣調査官であり続けた。


 フェリとは異なる方法だったが、彼女も守りたいものと理想のために戦ってきたのだ。


 フェリは目を閉じ、掌を組み合わせた。一瞬の祈りの後、彼女は踵を返した。フェリは城へ向かって駆け出す。クーシュナはクレメンスの言葉にはあえて触れずに、尋ねた。


「………何故、先程、あのように危険なことをしたのだ、我が花よ」


「あの鎧から、あなたと似た印象を覚えたの。鎧の奥に隠された目から、そうとわか

ったわ。あの子はとても強くて寂しい子………それになんだか、とても懐かしかった」


 必死に涙を堪えながら、フェリは応えた。彼女は炎を跳び越えて進む。

 その先には、朽ちた城門が待っていた。


『火の王様』が棲む貴き場所を前に、彼女はぎゅっと杖を握り締めた。

「もしかして、あの子こそが、世界を救う鍵なのかもしれない」


                 *   *   *


 城内に侵入した枝は、更に育っていた。暗い色の花々も数と種類を増やしている。階段周辺はまるで屋内庭園だ。その一つ一つの花弁の奥でも、小さな炎が燃えている。


 冷たい石畳を靴裏で叩き、フェリ達は奇妙に光る城を奥へと急いだ。彼女達は肖像画の飾られた廊下も超える。やがてフェリ達はいつかのように玉座の間へと駆け込んだ。


 そこは何も変わらなかった。

 ただ堂々と、『火の王様』が玉座に座している。


 蜥蜴頭と紅色の長衣に包まれた姿は、衰えることのない威厳を放っていた。その様は、世界を滅ぼす魔王のようにも、勇者の訪れを待つ賢王のようにも見える。


 彼の前に、フェリは粛々と進み出た。彼女は再び『火の王様』の前で両膝を折る。


 深く深く頭を下げ、フェリは祈りを込めて懇願した。


「再度の訪れを失礼します。『火の王様』、どうかお願いです。今、人間と幻獣はヒュドラに苦しめられています。このままでは不死の蛇の毒により、世界は終わりを迎えるでしょう………あなたは長く世界を滅ぼされませんでした。どうか、お慈悲を。その不思議な火を私達に貸しては頂けませんか?」


『火の王様』はじっと彼女を見つめる。しばらくの間、彼は無言を貫いた。


 やがて、『火の王様』は不機嫌な視線を横へ向けた。彼はぼそりと囁く。


「私は平穏を好む………以前と今回のことにより、人にはほとほと愛想が尽きた。それに、お前は何故ここへ辿り着けたのか。アレはどうした?」


「………アレ、ですか?」


 困惑して、フェリは問いかけた。どうやら、その答えは『火の王様』の気に障ったらしい。深く溜息を吐き、彼は片手を挙げた。その指先に、猛然と紅い炎が渦巻き始める。


 慌てて、クーシュナはフェリの前に立とうとした。だが、トローの入った鞄を床に降ろし、遠くに滑らせると、彼女は首を横に振った。『闇の王様』を、フェリは止める。


「いいわ………大丈夫よ」


「馬鹿な、自殺行為だ、我が花よ!」


 紅い輝きを、フェリは臆することなく目に映した。火の矢が引き絞られ、放たれる。

 空中で、それは消滅した。

 玉座の間に駆け込んだ鉄の疾風―――先程の鎧―――が矢を切り払ったのだ。


「――――――っ!」


「やっぱり、来てくれたのね!」


 クーシュナが驚愕する一方、フェリは信頼の滲んだ声をあげた。

 返す刃で、鎧は火矢の欠片を消し切った。だが、『火の王様』の一撃を潰した衝撃で、その兜は弾き飛ばされた。鎧は軽くよろめく。彼は一度顔を押さえ、静かに掌を外した。


 黒髪に囲まれた、青白い肌が見えた。その目はまだ幼い印象を残している。

 鎧の中身は、痩せた青年だった。彼とフェリは見つめ合う。


 フェリの蜂蜜色の瞳に、じわりと涙が滲んだ。彼女はそっと手を伸ばす。青年は動かない。まるでかつて届かなかった何かに触れるかのように、彼女は彼の顔を包み込んだ。


「あなたを心配していたのよ」

「………いきてた」


「えぇ、えぇ」

「あなたは、いきてた」


「えぇ、あなたも生きていてくれた」


 フェリはそう微笑んだ。青年もぎこちなくだが、表情を和らげる。

 その様子を見て、クーシュナは大きく目を見開いた。


「お前は………もしや、勇者なのか!」


 鎧の中身は、勇者の少年だった。


 その異様なほどの力の理由が漸くわかった。フェリ達が『妖精の国』で過ごす間に、少年は青年となり、『火の王様』の城の守護を、鎧姿で務めるようになっていたのだ。


 察したとばかりに、クーシュナは自身の顎を撫でた。


「なるほど………幼い勇者は、中身が虚ろであったからな。洗脳は容易い。あの時、『火の王』は残る力を振り絞って調査官達を撃退、少年のことは殺さずに捕らえ、己の守護として使い続けてきたわけか………王様の敵となるのは勇者だけだ。それを従者としてしまえば最早敵はおらぬ。上手いことをやってきたものだな?」


『闇の王様』は『火の王様』を睨んだ。厳しい批難の響きが覗く言葉に、『火の王様』は応えない。彼は―――だからどうしたと言うように―――蜥蜴頭の目を細めた。


 勇者の青年は刃を構え直した。改めて、彼はフェリを庇う位置に立った。『火の王様』に対する恐怖心を打ち払うかのように、青年は何度も必死になって首を横に振った。


「だめ………このひとは………あのとき、ぼくを」


 遠い昔のことを、フェリは思い出した。彼女の伸ばした手を、少年は掴み返さなかった。彼は何を求められているのかわからないという顔をした。恐らく、少年に手を差し伸べた者など、あの時まで誰もいなかったのだ。そのせいで、彼はどうするべきかも、どうしたいのかすらもわからなかった。


 最後の最後まで、彼という『人間』を心配したのは、フェリだけだった。


「さぁ、どうするのだ、『火の王』よ………最早、勇者の洗脳は解けたようだが?」

『闇の王様』はそう挑発した。『火の王様』は軽く首を横に振る。


 爪と鱗で形作られた指を、彼は徐にパチンッと鳴らした。同時に、勇者の構える剣に、静かに、だが激しく煌めく、不思議な火が灯った。


 それは消えることのない、幻獣の炎だ。


 フェリは大きく目を見開いた。彼女は『火の王様』に向けて、深々と頭を下げる。


「あっ、ありがとうございます!」


「それを持って、どこへでも去ね。そして、二度と帰るでない」


『火の王様』は冷たく囁いた。玉座から立ち上がり、彼は紅い長衣を翻す。

 そして、『火の王様』は下らない騒動はうんざりだと言うように囁いた。


「私の城に再び人が入れば―――今度こそ世を滅ぼしてくれる」


 彼は自身の城の奥、孤独と静寂の中へ消えた。


『火の王様』は長く続いた舞台から去る。

 後には、火を授けられた勇者とフェリ、『闇の王様』、小さな蝙蝠が残された。

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