その4


              ***


 フラスコを大事に胸に抱え、レオナルド公は馬を駆っていた。


 どっくんどっくんという心臓の力強い鼓動に勇気づけられながら、彼は村へ続く道を急ぐ。幻獣調査員が国へ報告を行うにはまだ時間がかかるはずだった。それまでに彼は別館で財をまとめ、行方をくらますつもりでいた。だが、今はそのためにも血が必要だ。


 村で補給用の子供をさらってから旅に出ようと彼は心に決めていた。本当は娘の血が好みなのだが、この際贅沢ぜいたくを言ってはいられない。生きるためには時に妥協も必要なことを、彼はちゃんと承知していた。


 朝の近い森の中を風のように走りながら、彼は生き伸びるための決意を固める。


「死ぬものか………そうとも、誰が死ぬものか………私は生きるぞ。全てのクズ共を踏み台にして、永遠に生き続けるのだ」


 レオナルド公は、ナメクジのように分厚い舌でぬらりとひび割れた唇を舐めた。彼は鞭を入れ、更に馬を急がせる。だが、朝の近い、薄青く染まった道の先を見て、彼は眉根を寄せ、慌てて馬の足を止めた。



 白い道に、狼の死体が落ちていた。



 頭を撃ち砕かれた狼は四肢を突っ張らせ、息絶えている。何故、昼の狩りの死骸がそのままになっているのか。領民の怠慢たいまんに舌打ちしながら、レオナルド公は器用に馬を操り、死体を乗り越えさせた。彼は再び馬を走らせるが、すぐに足を止めることとなった。



 白い道に、狼の死体が落ちていた。



 胸を撃たれた狼は舌を突きだし、苦悶の表情を浮かべている。ぞっとして、レオナルド公は顔をあげた。すると蛇行する道の先に、目印のように点々と狼の死骸が落ちているのが見えた。異様な光景に、レオナルド公は息を飲んだ。次の瞬間、馬は狂ったように激しく暴れると彼を振り落とした。腰から道に落ち、レオナルド公は悲鳴をあげる。


「ぐあっ、おっ、おいっ!」


 ヒヒーンとおびえたいななきを残し、馬は風のように駆け去った。痛む腰を支え、レオナルド公は仕方なく歩き始めた。道に落ちる狼の死骸を恐る恐る越え、彼は背を丸め、びくびくと視線をさまよわせながら進んでいく。だが、彼は愕然として足を止めた。


 

 白い道は、狼の死骸で埋めつくされていた。



 まるで壁のように積み重なった死骸の下からは紅い血が染みだしている。じわじわと油のように重く広がる血潮がレオナルド公の爪先に届きかけた。彼は悲鳴をあげ、森の中へ駆けこんだ。恐怖のまま闇雲に走り回り、彼は広場に似た開けた空間に辿り着いた。


 

 そこには、大きな穴が開いていた。



 生きた灰色の狼達が穴の周りにずらりと腰かけている。獣の瞳が一斉にレオナルド公を貫いた。彼はその場にへたりこんだが、獣達は興味がないと言うようにすぐに視線を逸らした。狼達はまるで何かを待つかのように尻尾を揺らして行儀よく座り続けている。


 不意に、彼らは耳をピンッと立て、穴の方へ顔を向けた。


 釣られて、レオナルド公もそれを見てしまった。

 

 大量の蠅が、おぞましい羽音と共に飛びたった。黒雲のように蠅は頭上を埋めつくす。


 あらわになった穴の底では、ところどころに毛の生えた肉色の塊がうごめいていた。不意にレオナルド公はその正体に気づいた。狼の死骸から溶けた腐肉が流れだし、毛皮の外にまで広がっているのだ。


 次の瞬間、死肉は膨れあがり、山のように高く持ちあがると破裂した。ぶくぶくと泡立ちながら、肉はある形を取り始める。その上に、灰色の毛皮が蛆虫のように這いながら覆いかぶさった。やがて、巨大な狼の形が穴の底で完成した。



 何頭もの死体が繋がりあった怪物は、レオナルド公に向けて吠え声をあげた。



 ヴぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!



 生臭い獣の息とよだれ、強烈な腐臭と腐肉の欠片がレオナルド公の顔をどろどろに濡らした。地獄の炎を宿したような目が、彼を睨む。彼は恐怖のあまり何十歳も歳をとったような顔を震わせた。ゆっくりと狼の巨大な口が開いていく。その喉奥には、真っ白な狼の頭蓋骨が何頭分もみっしりと隙間なく詰まり、ガチガチと楽しげに牙を鳴らしていた。



 レオナルド公は、甲高い叫び声をあげた。だが、それはすぐに消えた。



 遠い城にて、バン・シー達はやっと泣き止んだ。


 妖精たちは棺桶の蓋を閉じ、レオナルド公の顔をした人形を静かに埋葬した。


                 ***


 地下室から井戸を辿り、外に出ると、フェリ達は中庭まで歩いた。透明で清浄な空気を吸いこみ、彼女はゆっくりと息を吐く。


 その頭上には、青い空が広がっていた。荒涼とした丘の上に建つ城にも、朝の金の光が射しこんでいる。中庭の植物達は早朝の風に揺れ、爽やかな音をたてて歌っていた。灰色に染まっていた木々も、彼らを歓迎するかのような緑色に輝いている。薔薇ばらも夜よりも更に紅く豪奢に咲き誇り、宝石のような朝露を輝かせていた。


「………よかった、生きて帰って来られて」


 フェリはそう胸を撫で下ろし、鞄の蓋を開けた。途端、中から矢のようにトローが飛びだしてきた。彼は一度高みに舞いあがり、急降下すると、べしべしと翼でフェリの顔を叩いた。クーシュナも今度ばかりは止めようとはしない。


 フェリは微笑みながら、それを受けとめた。やがてトローは無言のままべしゃりと彼女の顔に張りついた。落ちそうになりながらも、彼は必死に彼女にしがみついてくる。


 その背中を支えてやりながら、フェリは心の底から囁いた。


「ごめんね、トロー」

「………! ………!」


 いい子、いい子とフェリはその頭を撫でた。べそべそと泣きながら、トローはぎゅっとフェリにしがみついた。だが、彼は再び矢のような速度で、急に鞄の中に引っこんだ。


 すねてしまった彼にもう一度ごめんねと呟き、フェリは後ろを振り返った。


 そこには獣の姿のままのレナードがいた。一度獣化すると戻るのには時間がかかるという。彼は運んできた娘の死体を柔らかな芝生の上へ降ろし、その隣に立ちつくしていた。フェリは一度目を閉じた。だが、彼女は覚悟を決め、レナードに話しかけた。


「私は幻獣調査員です。私には人に捕らえられ、無理に使役されていた幻獣を保護する義務があります。あなたには幻獣―――人狼―――として保護を求める権利がありますが。いかがいたしますか? あなたの意志を聞かせてください」


 レナードは呆然と顔をあげた。彼に向けて、フェリは辛い問いを投げかける。



「あなたが人か、幻獣かを」



 レナードは息を飲んだ。彼は再び娘の死体を見つめる。領民の虐殺は重罪であることを、領主の息子である彼は把握しているはずだった。捕まれば死罪、よくて終身刑だ。だが、自分は人狼だと主張すれば、少なくとも命だけは保証された。

 

 レナードは強く拳を握りしめた。だが、彼は緩やかに首を横に振った。


「僕は………僕は人として、自分のやったことの償いつぐなをしたいと思います」


「血を求めるのは、人狼として逃れえない性質です。そのうえ、あなたは父親に暗示をかけられ、耐えがたいえと渇き、死の恐怖の中で生きるためにもがいていた………私は幻獣調査員として、あなたは十分保護対象にあたると判断していますが」


だまされ、利用されていたのだとしても、僕は自分を信じてくれる領民達を自分の意志で欺き続けてきました。それだけじゃない。僕は自分が生きるために知恵を回して、狩りを行ってきた………そんな卑劣で残虐なことをするのは、人間だけでしょう?」


 レナードはまっすぐにフェリを見つめた。彼女は何も言わない。後悔はないのかと問うような静かな蜂蜜色の瞳を見て、レナードは一瞬激しく顔を歪めた。だが、一度目を閉じて、開いた時、その顔には確かな決意の色が浮かべられていた。


 獣の頭に、人の表情を浮かべながら、レナードは応える。


「僕は人間です。獣達から追いだされ、人里にも近寄れなかった僕を拾い………それがどんな目的のためであろうと育ててくれたレオナルド公の息子だ。そう、僕は暗示をかけられ、死の恐怖と飢えに晒されていなかったとしても………もしも、彼が死にたくないから力を貸してくれと僕を頼っていたのなら………彼のために狩りを行っていたかもしれません」


「あなたは、それほどまでに」


「人を殺したのは、彼の罪であり、僕の罪です。あなたの保護を受けるわけにはいきません。僕は人間として、彼の息子として罪を背負います」


 その断言を聞き、フェリはぎゅっと目を閉じた。彼女は細く息を吐く。


 人狼は幻獣書には記されていなかった。人狼を人と幻獣のどちらに定めるかは、幻獣調査官の間でも意見がわかれ続けている。人の理性と獣の本能、両方の体を併せ持つ存在は、第三者の判断で定義づけることが難しい。そして、彼は自分自身を人と定めた。



 彼がそう望んだのだ。人として罪をあがなうと、自らの行うべきことを決めた。


 

 最早もはや、幻獣調査員として、フェリにできることは何もなかった。ただ、彼女は最後に、自分自身が疑問に思っていたことを、ひとりの人に対して投げかけた。


「わかりました。私はあなたの選択を尊重します。国への出頭の際は、幻獣調査員としての意見書を手に同伴しましょう………ですが、ひとつだけ聞いてもいいですか?」


「なんでしょうか?」


「何故、あなたは私に逃げろと言ったの?」


 フェリにはそれがずっと不思議だった。あの時のレナードの言葉には、切実とすらいえる響きがあった。あれほど怪しいことをすれば、疑いの目を向けられるというのに、何故、彼は必死になって彼女を逃がそうとしたのか。


 レナードは泣きそうに顔を歪めた。彼は一瞬迷った後、手を伸ばした。人の指先がフェリの頬に恐る恐る触れる。彼女は武骨な手をこばまなかった。まるで、その感触を覚えておこうとするかのように、彼はまだ獣のままの掌全体で白い頬を包みこんだ。


「僕は………僕は幻獣調査員が来たと聞いて、あなたの後をつけたんです。どんな人間なのか、始末をする必要のある人物なのか、確かめるつもりでした」


「えぇ、あなたがあそこに現れた理由は、そうなのだろうと思っていました。だからこそ、私にはあなたの言葉が不思議だったのです」


「そこで、子狼のためにひざまずいて祈るあなたを見て、僕は………僕は」


 灰色の目に涙が滲んにじだ。狼に似た毛皮に、零れ落ちた滴は音もなく吸いこまれていく。泣きながら、彼は眩しく、どこか懐かしいものを見るように、フェリのことを見つめた。



「僕に母がいたのなら、きっとあなたのような人だったのだろうと、そう」



 その胸を、農業用のフォークが刺し貫いた。



 フェリの顔に、熱い血飛沫が飛んだ。彼女は言葉もなく、目を見開く。レナードも呆然と自分の胸を貫いているフォークを眺めた。数秒後、彼はぐらりと前に傾ぎ、その場に崩れ落ちた。二撃目に飛んできた鎌を、クーシュナが弾き飛ばした。


 フェリは慌てて顔をあげた。見れば、中庭の入り口付近に、農民が数人集まっていた。ひとりが怯えた顔で、背後に向けて大声をあげる。


「ここだっ! 獣だ、獣がここにいるぞっ!」

「領主様は? 馬だけ村に走って来たんだ。きっと逃げようとなされたはずだ」

「わからんっ、レナード様もいねぇ。きっとコイツに食われちまったんだっ!」

「あれは調査員様? あぶねぇだ、調査員様、早くソイツから離れてっ!」


 彼らの後ろから、更に足音が聞こえてきた。どうやら異変を察した多くの村人が城を訪れているらしい。中には事情を知らない城の従者も混ざっているようだ。フェリは慌てて立ちあがり、彼らに事実を訴えようとした。だが、その足首を急に獣の手が掴んだ。


「い、いんです。人として、裁きをうけられない………のなら、このまま、僕が」


 顔を強張らせ、フェリは下を向いた。倒れたレナードは必死に目をあげ、フェリに視線で自分の意志を伝えようとしている。一度、領民達に唸り声をあげ、まだ来ないように牽制すると、彼は血を吐きながら必死に言葉を続けた。


「僕、が………幻獣が、ぜんぶ殺した、ことに………すれば」


「なにをっ、あなたは、あなたは自身を人だと。彼の息子だと。彼と共に罪を負うと」


「領主が、殺したと、わかれば………次の領主に反発も、だから………これで、いいんです………獣として死ぬなら………そうした方が、みんなの………ため、つぐないに」


 フェリは激しく首を横に振った。だが、レナードは縋るように手に力をこめた。鉤爪がフェリの肌に食いこむ。全身で彼女に望みを訴えながら、徐々に彼の目は虚ろになっていった。それでも、レナードは自分にも言い聞かせるかのように必死に言葉を続ける。


「ぼくは夜な夜なおおかみに、なってひとを………さらって………たべて………そう、ぼくはかいぶつだから…………ぼくが、ぜんぶ………あぁ、………………………ねぇ」



 彼は涙に濡れた目を宙に向けた。震えながら、彼はその言葉を吐きだす。




「こわいよ、とうさん」



 

 その手から、ふっと力が抜けた。


 フェリはもう動かない彼を呆然と見つめた。やがて、糸が切れたかのように、彼女はドサリと彼の隣に膝を突いた。獣が動かなくなったのを見て、領民達は駆け寄ってくる。


 獣の死骸を前に、彼らは歓声をあげた。その中で、フェリはゆっくりと震える手をあげた。蜂蜜色の瞳から止めどもなく涙を流しながら、彼女はレナードの瞼を閉じてやる。



その頭をいい子、いい子といたわるように撫で、彼女は自身の手を組みあわせた。



 そして、フェリは目を閉じて、彼のために祈り始めた。


                 ***


 領主レオナルドとその息子レナードは、城下に埋められていた娘達の骨から恐ろしい獣の住み処をついにつきとめ、城に追いつめたが力及ばず食われてしまった。獣は農民達の手で仕留められた。だが、領主とその息子の勇気を人々は忘れることはないだろう。



 そして、彼らふたりの勇気を語り継ぐための御伽噺が、村には生まれた。



 領主とその息子の葬儀は、駆けつけた領主の兄弟の手により、盛大に執り行われた。


新しい領主となる彼は、その儀式を通じて、領民達に温かく迎えいれられた。娘達を失った悲しみは根深いが、新しい主の下、村はすぐに落ち着きを取り戻すことだろう。


 恐ろしい獣は、呪いを避けるために狼の穴の近くに埋葬された。一応墓石も設けられたが、その墓には今後一切、誰も祈りを捧げることはないだろう。獣の墓は呪われた場所とされ、接近禁止の決まりを破った遺族達からあらゆる罵詈雑言を投げかけられ、時には汚物も投げ込まれるはずだった。だが、今、そこには誰もいない。



 今日は、新しい領主を改めて歓迎するための祭りが開かれる日だ。


 造られたばかりの獣の墓の前に立ち、フェリは城へ向かう人々の歓声を聞いていた。



 新しい領主のはからいで、今日は暗い城の扉も開け放たれているという。その中ではごちそうが振舞われ、様々な催しが行われるはずだった。前領主とその息子を称える宴も開かれることだろう。明るい声を投げかけあいながら道を行く人々を、フェリは木々の間からそっと眺めた。その背中に向けて、クーシュナは囁く。


「勇敢な領主親子と呪われた獣の話は、長く長く続くことであろうよ………よいのか?」


「いいの。これが彼の望みだったから」

 

 そうフェリは呟いた。彼女は胸に抱いている比較的傷みの少ない本のページを開く。


 そこにはある文章が追加されていた―――ある村であった獣害と疑われた事例とその真実について―――他人に広く知らせるために書かれた幻獣の項目とは違い、その箇所には封印が施してあるが、全ての詳細が記してある。文字をなぞり、フェリは囁いた。



「真実はこの本の中にある。私もずっと覚えておくから」



 フェリは本を閉じ、地面の上に置いた。クーシュナの影がそれを飲みこむ。


 彼女が歩きだすと鞄から滑りでてきたトローがその頭の上に乗った。まるで慰めるように小さく鳴くトローに、フェリは指を伸ばす。彼の顎をくすぐりながら、彼女は歩いた。その隣に寄り添うようにクーシュナの影が並ぶ。やがて、フェリはぽつりと呟いた。


「私はあなたたちのことを、絶対に、絶対に大事にするからね」


「何を言うか。逆であろう。お前を大事にするのは我らの方よ。そう、我も、この小僧っ子もな、って、いてて、自分で言いたかったのはわかったから、つつくな。いいであろうが、我が言おうがお前が言おうがそうは変わらぬぞ、って………いててっ」


 トローは羽ばたき、クーシュナは怒り、フェリはそんなふたりのじゃれあいを見て笑う。彼らは変わらぬ旅を続ける。だが、フェリの艶やかな髪の上に白いヴェールはない。


 森に埋められた、獣の呪われた墓。


 その上には、まるで花嫁のものにも似た白いヴェールが、静かにかけられていた。


―――――――――――――――――――――――


綾里けいし先生の『幻獣調査員』お読みいただきありがとうございました。

この作品の続きは、文庫『幻獣調査員 第1巻』にてお楽しみください!

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