【カクヨムだけの特別短編】

『闇の王様』を待ちながら 1


 深い深い森を歩いて、高い高い岩山を超え、広い広い泉を渡った後、やっと辿り着ける世界の果てのような草原に、彼はただ一人で棲んでいた。


 小さな小屋と、小さな畑、魚のよく釣れる川、立派な牝牛、美しい馬。


 それが彼の全てで、実際、生きるためには、他には何もいらなかった。


 ここに彼を探しに来る人間などいない。それどころか、彼を知る人間はこの世に誰もいなかった。彼は見た目こそまだ若かったが、彼の家族も、数少なかった友人も、みんなみんな、死んでしまった後なのだ。彼はたった一人きりだったが、孤独なわけではなかった。彼の周りには、いつも人ならざる気配が集っていたし、その生活は物理的にも満たされていた。それこそ、他のあくせくと働く人間達よりも、彼はよっぽど恵まれた、裕福な生活を送れているといえた。


 長く、美しく草の生え揃った草原に、何の因果か迷い込んでしまった者は、彼の小屋にこれ幸いと立ち寄った後、いつも目を見開いた。その畑には豊かな作物が実り、魚は自ら魚籠に飛び込み、牛は溢れんばかりに乳を出し、馬は望まれれば千里を走った。


いつも、迷い人は驚きと共に彼に尋ねた。


『何故、これほどまでに、あなたは恵まれた暮らしができるのですか?』と。

『善き隣人達のおかげです』と、彼は応えた。


『善き隣人』とは、妖精達のことだ。実際、彼は隣人達にとても愛されていた。妖精達からの愛に、彼もよく応えた。隣人達の中にはお礼を言われることを好まない者もいる。そのため、彼は無言で炉端を綺麗に保ち、綺麗な水や牛乳を用意した。そして、きょろきょろすることや、妖精達の日頃の生活に口出しをすることは決してしなかった。けれども、口やかましく話しかけても、彼ならばきっと許されたことだろう。妖精達は詮索を好まないが、彼だけは特別だった。彼は妖精達にとって、大切な宝物だったのだから。


 彼は遠い昔、詩を作り、唄を歌うことを好んだ。だが、この草原で、彼は見事な低音を響かせることはしなかった。


 じっと、じっと、彼はただ、あることだけを待ち続けていた。


 眼鏡をかけた地味な顔立ちに、岩の亀裂のごとく深い眉間の皴を刻み、苦悩をはっきりと浮かべて、彼は毎日毎日、あるものの訪れを待っていた。だが、ソレが来ればすぐにわかるはずなのに、待っている報せは届かなかった。


 彼が待つ間に、緑に萌える草原は黄金色に変わり、白く沈み、また蘇り、美しく輝いた。永久不滅の自然の繰り返しに包まれて、単調で恵まれた日々が続いた。


 彼は妖精達に愛されながら、時たま迷い込む旅人を歓迎し、一晩の宿を与え、送り出した。そして揺り椅子の上で微かに笑い、また退屈の中に埋もれた。


 そんな凪いだ日々の中、彼女達はやって来たのだ。


「すみません、旅の者ですが」


 そう、白い少女が現れた瞬間、彼はその影の中に黒い存在が潜んでいることに気がついた。彼の部屋に隠れている、『善き隣人』達もざわりと動揺した。白い少女も、そのことに気がついたようだ。彼女は蜂蜜色の目を見開き、驚きの声をあげた。


「『善き隣人』達がこんなにもたくさん………驚いた。あなたは随分と愛されているのですね?」


「あなたも随分と変わった者を連れていますね」


「えっ?」


「ほう、間違いなく人間の身の上で、我に気がつくとは。ただ者ではないな」


 陰鬱な声が快活な響きで聞こえてきたかと思ったら、白い少女の影からずるりと黒い者が現れた。黒一色の夜会服を着た、兎頭の異形が地面の上に立ち、長い耳を左右に振った。その艶やかな黒色の姿を見た瞬間、彼は何年ぶりかの熱い歓喜が、腹の底から湧きあがってくるのを覚えた。


 この高揚感、そして全身に受ける威圧、妖精達の動揺。間違えようがなかった。

その今の形は予想とは遥かに違っていたが、彼がずっとずっと待ち望んでいた者が遂にやって来たのだ。だが、それには予想しないどころか、あってはいけない、余計なおまけまでついていた。これは一体どういうことなのかと戸惑いながらも、彼は即座に冷静な判断を下した。


 なに、余計なものは取り去ってしまえばいい。

 固く心と表情を凍らせたまま、彼は二人に優しく声をかけた。


「よくいらっしゃいました、一風変わった旅のお方。もうすぐ日が暮れます。夜の間は、この草原はひどく冷えるし、夜露に濡れた草は肌に貼りつき、肉を切りかねません。どうですか? 今宵は我が家でお休みになられては? 何、不自由な場所に住んではいますが、見た目よりも裕福ですし、お食事も出せますよ。湯も使って頂けます。ただ、明日になったら私の願いごとを一つ聞いて頂きたい」

 

 彼の提案に、白い少女は助かりますと無防備に頷いた。蝙蝠もそれを真似て頭を下げる。彼は深く微笑んだ。旅人にそうして決まった頼みごとをするのが、彼のいつもの楽しみだった。兎頭の異形は、何か不穏なものを覚えたのか、警戒するように目を細めた。だが、彼は嘘偽りのない笑顔を浮かべ、二人を招き入れた。台所には、温かなシチューが煮えていた。その匂いは旅人の警戒を解くには十分だった。


 彼は人間のことが好きだった。

 こうして招き入れるとき、彼は心の底から、人間のことを愛しいと思えた。


***


「何、頼みごとと言っても簡単なことなのですよ」


 朝の爽やかな光の中、彼は黒パンとチーズ、新鮮な牛乳と野菜のサラダを出し、よく磨かれた机の上に置いた。蜂蜜を牛乳の上に垂らしながら、彼は少女に語りかけた。


「ここからずっとずっと東に進むと、岩でできた廃墟があります。前に訪れた旅人が、そこで老人の姿を見かけたというのです。呼びかけたけれども、奥に逃げて行ってしまったと。それ以来、私はずっと心配していまして………この草原には、町の暮らしが嫌になった者がたまに入り込みますが、『善き隣人』の助けなくして、生き抜くことは難しい。よろしければ、このパンと水を持って行って、そのまま外に連れ出してあげてはもらえませんかね?」


「ええ、構いませんが」


「何故、貴様は自分自身では行かぬのだ?」


「おっしゃる通りです。本当は、私自身が行くべきなのでしょう。ですが、この通り、前に棚を直そうとした際に、足を痛めてしまいまして。家での暮らしは、隣人達が助けてくれるので困りませんが、廃墟に行って老人を探し、町まで連れ出すことなど、とてもできそうにないのです。よろしければ、お願いします」


 そう言い、彼は昨夜のうちに包帯を巻いた足を、さも痛そうにさすって見せた。彼の言葉に、白い少女は綺麗な心を持っている者特有の無垢さで頷いた。


「わかりました。それは確かに心配ですね。私にお任せください。温かなもてなしをして下さり、本当にありがとうございました」


 そう、彼女は深々と頭を下げた。蝙蝠もその真似をする。彼はこちらこそ感謝しますと囁いた。少女は丁寧に食事を平らげ、彼からパンと水を受け取ると深々と頭を下げて家を後にした。彼女の姿が見えなくなるまで、しっかりと、注意深く手を振り続けた後、彼は細く溜息を吐いた。


 さて、この先は一体どうなるのだろう、その答えは、彼にもわからなかった。だが、どう転んでも致命的な何かが起こるはずだ。その結果次第では、彼も死ぬことになるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。『善き隣人』達は話が違うと怒るだろうが、この件に関してだけは、彼も決して譲るつもりはなかった。


 そわそわと、彼は落ち着かない時間を過ごした。


 彼は暖炉の掃除をし、久しぶりに詩を書いた。らしくないにもほどがある、春とヒバリの詩だ。あと少しで完成する―――その瞬間、彼は紙をぐしゃぐしゃに丸め、勢いよく屑籠に投げ捨てた。


 その間にも、草原は夕焼けに燃え、緑色から黄金色に変わった。美しくはあるが、今まで延々と見続けてきたせいで、新鮮味のない光景だ。それをぼんやりと窓の外から眺めていた時、彼はぎょっとした。白いヴェールを茜色に燃やしながら、あの少女が草の海を歩いてきたのだ。彼に見られていることに気がつくと、彼女は親し気に手を振った。その体には傷一つない。応えることも忘れて、彼は窓枠を握り締め、呆然と呟いた。


「そんなはずはない」


 そんなことはありえないはずだった。

 今まで、彼が同様に送り出してきた旅人達は、二度と砦から帰らなかったというのに。


「ただいま帰りました。まずは、これを見てください」


 彼女は白い掌を広げてみせた。そこには一本の長い歯が乗せられている。その意味を瞬時に理解し、彼は寒気が背筋を走るのを覚えた。だが、彼の変化に気がつくことなく、少女は穏やかに語った。


「これは、あなたに頼まれました老人の―――正確には人間ではなかった者の、歯です。あなたの心配していた方は幻獣、妖精種だったのです」


「え、ええっ?」


 彼は必死に、動揺した振りをした。実際に混乱していたこともあり、咄嗟にしては上等な演技ができたと思う。彼の言葉に頷き、少女はその場に屈み込んだ。いつの間に―――どこから出したものか―――そこには一冊の古びた本が置かれていた。


「幻獣書、第一巻二百二十三ページ―――『赤帽子レッドキャップ』―――第二種危険幻獣」


 本を抱え上げると、彼女はページを捲り、流れるような声で言った。古びた紙を、そっと優しい指使いで押え、彼女は優しく語り出した。


「『妖精種・悪い妖精アンシリーコート・背の低い、ずんぐりとした老人の姿をしており、鷲のような爪と骨ばった指、燃えるような大きな紅い目を持つ。髪を背中に垂らし、鉄の長靴を履き、左手に杖を持ち、頭に赤い帽子を被っている。人間に害を成し、その帽子を人の血で紅く染めることを好む』―――この幻獣は、その生息範囲に絶対に侵入してはならない、【第二種危険幻獣】に指定されています。人間の力では、『赤帽子』に対抗することはできません。私もクーシュナがいなければ、危ないところでした」


 クーシュナ―――彼女がそう兎頭を優しく呼んだ瞬間、彼は首を絞められたような思いがした。だが、それを必死に隠して、彼はおどおどとした声をあげた。


「そ、そんな………いえ、そんな危険な生き物がいるとは全く知らず、本当に驚きました………私はただの老人だとばかり………申し訳ありませんでした。よくぞご無事で」


「いいえ、お気になさらず。それよりも、私以外に襲われた方がいなくて幸いでした。私は『幻獣調査員』ですから。危険な幻獣の対処に当たることも責務です。クーシュナに敗れ、『赤帽子』は歯を一本残して掻き消えましたが、また戻って来るかもしれません。廃墟には、人が二度と入ることのないよう、闇の茨を生やしておきました。これでもう、被害者が出ることはないでしょう」


 少女の言葉に、彼は内心で激しく舌打ちした。冗談ではない。

旅人達を『赤帽子』の下へ差し向けるのは、彼の唯一の娯楽だったというのに。だが、彼は本心をしっかりと隠し、涙まで浮かべて少女の手を取った。


「あぁ、本当にありがとうございます。私を許してくださるばかりか、他に犠牲者が出ないようにして頂けるとは………なんとお礼を申し上げればいいのか! そうだ、よろしければ、ぜひもう一泊していってください! 今日もご馳走を作りますから!」


「ありがとうございます。今から旅立つには、遅い時刻となってしまいましたので、申し訳ありませんがお言葉に甘えさせてください」


 少女はそう頭を下げた。彼は瞳に深い憎悪を宿しながら、頷いた。不意に、彼は彼女の後ろに立つ、黒くすらりとした影に目を向けた。兎の紅い目が、彼のことを映している。その視線の鋭さに身を震わせながらも、彼は必死に兎頭を睨み返した。


 この異形―――クーシュナと言うらしい―――が、待ち受けていた危険から白い少女を庇い、本来人間の力では太刀打ちできない『赤帽子』を追い払ったのだろう。

それは、一体何故なのか。


 二人が親しいことは、彼にも見てとれた。だが、所詮、幻獣と人間だ。それほどまでの仲とは思わなかった。彼は白い少女の影に潜んで、共に移動をしているだけではなく、この直ぐに死んでしまう短命な生き物の庇護までしているのだ。


『闇の王様がただの少女を庇っているなんて、そんなおかしな話があってたまるか!』


 そう、彼は叫びだしたくなった。だが、彼は子供のように地団駄を踏みたい気持ちを押し殺し、必死に激情を飲み込んだ。彼は笑顔で扉を開き、二人と蝙蝠を招き入れた。


 その夜、少女が眠りについたのを見計らい、彼は狩猟のためのナイフを取り出した。


                  ***


『善き隣人』達は止めるように言った。


 それだけはやってはならないと。あなたの手を汚してはいけないと。だが、そう止める妖精達も、愛らしい見た目とは異なり、人の命を奪うこともあれば、盲目にすることも、赤子を攫うこともあった。だが、妖精達が彼を止める理由は、別に殺人を防ぐためだけではなかった。白い少女は、世にも恐ろしい生き物に庇護されているのだ。


 アレは『闇の王様』だ。人間に敵う相手ではない。


 それどころか、この世界にアレよりも強い生き物がいるとは、彼にも妖精達にも思えなかった。だからこそ、彼には白い少女の存在を、尚更許すことができなかった。


 今、廊下は妖精達の金の光に、星灯りのごとく照らされている。

 その明るさを頼りに、彼は客人用の寝室へと音も立てずに滑り込んだ。白い少女は寝台の中で、安らかに眠っている。見える範囲に、蝙蝠と黒い兎の姿はない。

 

 彼は音を立てないように歩き、白い少女の前に立った。彼女は安らかに眠っている。月光が、その純白の髪を、一本一本、美しい銀色に輝かせていた。何と無防備で弱い生き物だろう。そう、彼は哀れみと憎悪と共に思った。

 

 人と幻獣の共存する世界を歩き続けるには、彼女はあまりにも脆弱だ。自分が何もしなくともこれはきっと旅の途中で誰かの悪意に殺されることだろう。それならば、ここで死んでも同じことだ。そう胸の内の罪悪感を殺して、彼は高々とナイフを振り上げた。

 

 それは、彼の腹に深々と突き刺さった。

 

 刃が内臓に触れるひやりとした冷たさと、灼熱にも似た激痛が、確かに彼を貫いた。だが、それは錯覚に過ぎなかった。よく見れば、彼の体には傷一つついていなかった。ナイフの柄も、しっかりと掌の中に納まったままだ。だが、その真後ろには、彼が殺されたと勘違いをするほどの殺気を放ちながら、黒い影がひっそりと偲び寄っていた。

 

 死が真後ろに立っている。彼はそう思った。

 絶対的な死は陰鬱な声にふさわしい、暗い調子で囁いた。


「やはり、な。あの『赤帽子』の件もわざとであったな?」


「………」


「本来ならば、即座に殺してやるところだ。だが、貴様如きに我が花の安らかな眠りを妨げられてもたまらぬ―――こちらに来い。小さき者達も、余計なことはするなよ? その時は、例外なく皆殺しにするだけだ」


 周囲に煌めく者達に、闇は低く警告した。その言葉は嘘ではないと、彼にもすぐにわかった。この兎頭の異形には、それが可能なのだ。彼は息をするよりもたやすく、蜻蛉の針よりも薄い妖精の羽を、千の針で貫くことができるに違いない。


 恐れながらも、彼はその事実に歓喜した。これぞ『闇の王様』だ。

 何もかも全てを壊す権利と力を、この世で唯一得ている怪物だ。

 

 そのまま、彼は兎頭に引きずられ、外へ出た。

 

 夜露に濡れた草の海に、彼は兎頭に口を塞がれながら立った。その震える掌に、ぺたりと濡れた草が貼りついた。彼が剥がそうとするとそれは皮膚を裂き、肉を切ってきた。

 

 辺りにはしっとりと重く、冷たい闇が満ちている。

 

 風に吹かれて葉が揺れる音だけが、波音のように聞こえてきた。


 殺されるのだと彼は確信した。同時に、それでもいいと思った。


 最早、彼は十分に長い時間を生きたのだ。周りを飛び交う妖精達はその死を容認しないだろうが、彼の人間としての精神はとうの昔に摩耗していた。

 

 ここで死ぬのもいいだろう。彼はそう諦めた。だが、その覚悟を嘲笑うかのように、兎頭は影を振るうことなく、悠長に口を開いた。


「さて―――貴様が我が花を殺そうとした理由を聞かせてもらおうか?」


「まるで、人間のような言葉だな!」


 猛烈な怒りに駆られ、彼はそう叫んだ。ドウッと音を立てて、風が草原を渡った。


 彼の叫びに、兎頭は不思議そうに眼を細めた。その表情も、彼には気にくわなかった。兎頭の何もかもが、腹立たしくて仕方がない。その顔の妙な人間臭さは、本来

『闇の王様』にふさわしくないものだった。お前はそんなものではない。そう、彼は思った。


 お前はそんなものではなかった、と。

 遠い遠い昔、彼が一度だけ見かけた『闇の王様』はそんなものではなかったのだ。


「お前は『闇の王様』だろう?」

 

 彼は叫んだ。もう一度、ドウッと風が鳴いた。獣の吠え声のような音だ。あるいは、岸辺にぶつかっては砕ける波の悲鳴にも聞こえた。

兎頭は応えない。だが、彼は知っていた。


 兎頭は『闇の王様』だ。彼がずっと待っていた相手なのだ。


「遠い、遠い、遠い昔、僕はお前のことを見たことがあるんだ」


「………ほうっ?」


 兎頭は、それだけを応えた。興味があるのかないのか、わからない声だ。その反応に構うことなく、彼は淡々と続けた。


「僕の故郷で、国と国同士の戦いがあった。兵士達は剣を手に取り、二色の鎧が何日も何日も殺し合った。僕の母は死に、父は死に、姉は死に、妹は死に、友達もみんな死んだ。僕も死ぬんだと思っていた。でも、その時、黒い何かがやって来たんだ」


「………」


「黒い何かは、その影でできた体を伸ばして、生きている者達の姿を真似た。きっと、これは死神だとみんなが思った。僕達はみんな、僕達と同じ姿形をした者に殺されてしまうんだと。城を捨てて、国を捨てて、敵も味方もみんなが逃げた。僕も逃げて、逃げて、逃げて、その先で、黄金の毬を取れずに困っている女性を見つけた。それを助けると、彼女は僕の傷を癒してくれた。僕は彼女に詩と唄を送った―――彼女は僕を気に入って、自分の国へ招いてくれた―――彼女は妖精の女王だったんだ」


 以来、小さき者達にとって、彼は特別な人間となった。


 彼は妖精の女王の真の恋人、甘い詩と唄の作り手だ。たとえ、その体が人間の国にあろうとも、隣人達にとって彼は守るべき客人だった。


 妖精の国と人間の国では、時間の流れ方が違う。女王の下で暮らす間に、彼のことを知る者は人の世にはいなくなってしまった。だが、彼はそれでも構わなかった。既に、彼の親しい者達は皆死んでいたし―――彼は人間のことが大っ嫌いだったからだ。


 憎み合い、いがみ合い、富と権力を求め、殺し合う人間の愚かさを、彼は憎悪していた。彼が人のことを好きだと思えるのは、自分の手で間抜けな連中を死の罠に送り出す時だけだった。人間の世界に戻ることなく、長い長い時間が過ぎた。


 その間、彼はずっとあることを待っていた。


「妖精の国に招かれて直ぐ、僕は女王に聞いたんだ。あの時、現れた黒い何かはなんだったのかと。女王は応えた。『闇の王様』が遂に産まれたのだろうと」


『闇の王様』とは、言語能力を持つ幻獣達の間で、長く言い伝えられていた存在だった。


『闇の王様』は闇の精霊と、物凄く強い幻獣の間の子供だ。それは生態系を変え、世界を壊すために現れる。『闇の王様』は新しい世界への喇叭を吹き、何もかもを崩して回るのだ。その伝承を耳にした瞬間、彼は激しい歓喜を覚えた。


 あの時、彼が見た黒色は、終わりの始まりだったのだ。


 人の世はきっともうすぐ終わる。その時を、彼は待った。待って待って待ち続けた。


 それでも、人の世は終わらなかった。


 待つことに耐え切れなくなり、彼は女王に頼んで、一度人の世に戻ることにした。自分の目で滅びは近いのか遠いのか、確かめずにはいられなくなったのだ。妖精の女王は渋りに渋ったが、南の海に棲む人魚達から、仲間が『闇の王様』に会ったとの話を聞き、ようやく了承してくれた。彼女は『闇の王様』が必ず立ち寄る場所を占い―――そこに恋人のための小屋を建てた。いつか必ず、恋人が『闇の王様』と会えるようにと。


 その時から、彼は不吉な予感は覚えていたのだ。何故、何もかもを壊す王様が、大人しく自分と会ってくれるというのか。その理由が、あの白い少女だった。


『闇の王様』は本来の自身の役目も果たさずに、よりにもよって、あの少女のことを守っていたのだ。あの白い少女が、『闇の王様』に何らかの影響を与えているのは間違いなかった。だから、彼は兎頭を『闇の王様』に戻すため、少女のことを取り除こうとしたのだ。『闇の王様』には、世界を壊してもらわなければ困る。

 

 何せ、彼はずっとずっと待っていたのだ。


 あの戦争以来、彼は一人で待っていた。

 

 世界の終わりを待っていた。


「どうして、お前は『闇の王様』なのに、何もしないんだ? お前は何もかもを壊して、全てを変えてしまう存在じゃないのか? お前はそのために産まれたんだろう?


 それなのに、どうしてあの少女と旅をしているんだよ! お前はそんな存在じゃないはずだ! 『闇の王様』は全てを滅ぼすために、『闇の王様』は」


「――――聞くが、世界の終わりを望む、人間よ」


 ふと、とても陰鬱な声が、彼の耳を打った。


 気がつけば、辺りから妖精の光は完全に消えていた。暗闇の中に、血のように紅い目だけが灯っている。重苦しい闇は、どこまでも静かだ。風も死んでいる。何も聞こえず、何も動かない。真っ直ぐで平坦な闇の中に、彼は『闇の王様』と閉じ込められていた。本能的な恐怖を覚えた彼に、『闇の王様』は囁いた。


「お前は、我に何かをしてくれたか?」


「………………えっ?」


「亡ぼせ、亡ぼせと自身の望みばかりをぶつけながら、お前は我に何かをしてくれたのかと聞いておる、毒虫よ」


 その言葉に、彼は目を白黒させた。『闇の王様』にそんなことを言われるなどと、彼は考えてもみなかった。『闇の王様』は世界を亡ぼす存在だ。彼はそう信じていた。そうあるべきだと、当然のように思っていた。


『闇の王様』が何を考えて、何を望んでいるかなど、彼は考えたこともなかった。それを咎めるように、『闇の王様』は細く長い指を、彼の喉に食い込ませた。


「お前は我を外に連れ出してくれたか? 一緒に旅に出てくれたか? 世界を亡ぼせと言うのなら、そうすべき理由を語ったか? 我に『そうあれ』と望みながら、お前は我に何を与えた? 与えていない。それなのに、壊せとばかり、貴様は言う、毒虫よ」


『闇の王様』は怒っていた。彼の怒りは鋭く、重く、深かった。喉が徐々に絞められていく感触を、彼はまざまざと感じた。


 それから、『闇の王様』はどこか悲痛な痛みを孕んだ声で続けた。


「壊すことの意味を、もう会えなくなることの意味を、失われることの意味を、なくなることの意味を、貴様はわかっておらぬ。わかっておらぬから、そんなことを言う」


 壊すことの、意味。彼はそうぼんやりと考えた。彼にとってはどうでもいい言葉だ。だが、そこで彼はふっと―――――ふと、遠い日のことを思い出した。


「守ることの大変さを、亡くなることの悲しさを、貴様らは何故、わからぬのだ」


 それは、家族が死んだ時の記憶だった。

 兵士に背中から切られ、倒れ伏しながらも走れと叫ぶ両親の姿を、自分達を突き飛ばした姉が代わりに暴走した馬に潰されるのを、友達の家が焼けているのを、手を引いて逃げていた妹が死んでいたことに気づいた瞬間を――――彼は思い出す。


 その時、確かに彼も、今の『闇の王様』のような、痛みと怒りと深い悲しみに燃える目をしていたのだ。彼はずっと忘れていた。


 どうして、世界に滅んで欲しいと思ったのか。

 壊すというのが、一体、どういうことなのか。


 彼にもようやくそれがわかった。だが、それを『闇の王様』に伝えることはできなかった。もうすぐ、彼の喉は潰れてしまう。その瞬間だった。


 白い腕がそっと『闇の王様』の背中に回された。まるで、泣く子供を後ろから抱き締めるような自然さで、平坦で重い闇の中、それは当然だと言うように差し伸ばされた。


「クーシュナ」


 優しい声が響いた。ザァッと風が頬を撫でた。


 そのたった一声だけで、重すぎる闇は晴れ、彼らは草原に戻っていた。

人の首を絞める『闇の王様』を恐れもせずに抱き締めて、白い少女は優しく囁いた。


「クーシュナ、駄目よ」


 責める声ではなかった。怒る声でもなかった。

 姉のような、母のような―――悲しく、切ない、声だった。


「人を、傷つけては駄目」


『闇の王様』は――――ただの兎頭は目を閉じた。

 そして噛み締めるように呟いた。


「あぁ――――わかった」


 兎頭はそっと手を離した。彼はその場に尻もちをつく。白い少女は駆け寄ってくると、彼の首の傷を確かめた。彼女はちらりと、彼の手にしたままのナイフに目を向けたが―――何も言わなかった。少女はただ、彼の喉が大丈夫なことに頷くと、そっと安堵の息を吐いた。その隣に座った兎頭が、低い声で囁いた。


「覚えておけ、人間。もう『闇の王様』などどこにもいない。ここにいるのは、ただのクーシュナ。それだけだ」


 風と共に戻って来た妖精達が、彼の肩や背中に停まった。労わるように、彼を小さな手で撫でる妖精達を確かめると、少女は立ち上がった。彼女はぺこりと頭を下げ、兎頭と共に小屋へと戻る。


 一人残され、彼は呆然と辺りを見回した。やがて、彼は声をあげて泣き始めた。まるで子供のように、彼は人間の時間に換算して、数百年ぶりに号泣した。


「父さん………母さん………姉さん………リア…………みんなぁあああああ」


 それはとてもとても久しぶりで。

 本当はもっとずっと昔に、流しておくべき涙だった。


                  ***


 翌日、彼は果物を切り、牛乳に蜂蜜を垂らし、炙ったチーズをパンに乗せた。用意された食事を丁寧に平らげ、少女は深く頭を下げた。


 昨夜のことについて、彼女は何も言わなかった。彼も何も言わなかった。

 ただ、白いヴェールを揺らして、少女は彼のために祈ってくれた。


「あなたのこれからの人生が、幸いなものでありますように」


 白い少女はそう囁き、蝙蝠とただのクーシュナを連れて旅立った。

 彼女が見えなくなるまで手を振り終え、彼がひとりで草原を眺めていると、入れ違いに、別の者が草原を渡って来た。見たことがないほどに美しい、雄と雌の鹿だ。二頭は、彼の前に立ち、主にするように深々と頭を下げた。彼は直感的に悟った。


 二頭は妖精の女王の迎えだった。ここ数日の騒ぎに、流石に彼女も、恋人の身勝手さを放っておけなくなったらしい。妖精達が心配そうに自分を見あげる中、彼は頷いた。


「――――――あぁ、そうだな。帰ろう」


 もう、待っても待っても、世界の終わりは来ないのだ。

 彼のことを心から愛する恋人を、これ以上待たせるわけにもいかない。


 小屋の中で数少ない荷物を纏め、彼は喜ぶ妖精達と共に、鹿の後に続いた。

光の群れを連れ、草原を渡りながら、彼は思った。


 やはり、人間を好きにはなれない。これから先はずっと妖精の国で暮らそう。そして、いつか自分も妖精になるのがいいかもしれない。そう、彼は考えた。

その間、あの少女とただの兎頭は、終わることのない世界を回るだろう。だが、いつか人の短い命が尽き、少女が亡くなる日が来たら、兎頭はどうするのだろうか。

それでも、ただのクーシュナは世界を愛するのだろうか。


 それはわからなかった。もしかして、彼の諦めた世界の終わりが、今度こそ訪れる日が来るのかもしれなかった。それは喜ぶべきことだろう。だが、―――――彼はそこで一度、後ろを振り向いた。


 最後に見た、緑に萌える草原は、見飽きた光景だったが確かに美しくて。


 ふと、

 それが失われないでよかったと、彼は思ったのだ。


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