その3


 夕暮れを映して、海は橙色に染まっていた。光をきらきらと反射した水の中に、人魚は下半身を遊ばせている。その長い髪は、上質な酒のような金色に泡立つ水の中に溶けこんでいた。海に半ばまで浸かった階段の上に、彼女は裸の上半身をもたれさせ、目を閉じている。

 

 フェリ達が近づくと、彼女は弾かれたように青い目を開き、顔をあげた。


 彼女に向けて、フェリと共に歩いて来た青年は片手をあげた。


「やぁ」

「あなた」


 人魚の顔に、フェリ達への表情とはまるで違う、とろけるような笑みが浮かんだ。彼女は嬉しそうに青年に擦り寄る。水に濡れた彼女の頬をゆっくりと撫で、彼は目を細めた。けれども、何かを振り払うかのように首を横に振り、彼は彼女に林檎を差しだした。


「ほら、旅の人にねだっただろう?」

「だって何度頼んでも、あなたが持ってきてくれないから」


「まだ季節には少し早いんだ。酸味が強いよ? 聞かれる度にそう応えただろう?」


「それだけじゃないわ。あなたが最近、私のところに来てくれないからよ。私と一緒にいる時も寂しそうな顔をするからよ。だから、もう自分からは持ってきてくれないかもしれないと、そう思ったの」


「………そうかい、気づいていたんだね」


 青年は微かに顔を強張らせた。その寂しげな色の張りついた目を見て、人魚は裸の肩を震わせた。彼女は青白い手を伸ばし、青年の服の袖を掴んだ。


「私、知ってるのよ。それはあなたの父親と、父親の父親と同じ目だわ。あなたもきっと、ろくでもないことを考えているに決まっている」

「ろくでもないこと、か」

「ねぇ、何がいけないの? 一体、あなたと私の何がいけなかったっていうの?」


 人魚は悲しげに訴え、青年の服の袖を必死に引いた。青年は目を細める。だが、もうその目には竪琴を弾いていた時のような愛しげな色は戻ってはこなかった。彼はそっと人魚の手を振り払った。人魚は呆然と空になった指先を見つめる。


「次の遠漁船に乗ることにしたよ」

「……………そう」


「決めたんだ。きっと長い旅になる。その先で、僕はきっと次々と船に乗るだろう。もう帰って来られないかもしれない。でも、僕はもう人に馬鹿にされるのは嫌なんだ。今までありがとう。これからは自分の手で幸運を掴むよ」


「あなたがいなくなったら、私は誰から『甘い陸のたまご』をもらえばいいの?」


「崖の端に『甘い陸のたまご』の苗を植えるよ。そうすれば、崖から落ちた『甘い陸のたまご』が君の手に落ちてくるようになる。もう僕は必要ないんだ………そう、最初から必要なんてなかったんだ」


 青年は自分自身にも言い聞かせるような口調で人魚に告げた。けれども、人魚は首を横に振った。大きな目を歪ませて、彼女は唇を尖らせる。


「あなたは何もわかってない。そんなのいらないわ。『甘い陸のたまご』の木が育つより早く、きっと帰ってきたあなたの子供が、私に『甘い陸のたまご』を届けてくれるようになるんだから」


「僕は帰ってこないかもしれない。それに、子供は女の子かも知れないよ?」


「女の子ならなおさらよ。その子は遠くに漁に行ったりしないわ。彼女はいつでも私に『甘い陸のたまご』を届けてくれる。そして、私と一緒に歌を歌うの。私は彼女を大事にして、その髪を色とりどりの珊瑚や貝や難破船の宝石で飾ってあげるわ」


「すねないでおくれよ」


「さようなら、お馬鹿さん。どうぞ、好きにしたらいい」


 人魚はそうつれなく尾を翻した。彼女は海に飛びこみ、あっという間に波間に消えてしまう。後には金色の海だけが残された。燃えるように輝く海面を眺めながら、青年は前へ手を伸ばす。だが、彼はそのまま拳を固めると海に背を向け、一目散に走りだした。


 いつかのように、青年は狭い階段をフェリと擦れ違って、上へと駆けて行く。だが、彼はもう二度とこの浜辺に戻ってくることはないのだろう。


 ひとり残されたフェリはじっと金色に泡立つ海面を見つめた。だが、人魚は現れない。フェリも階段を昇ろうと振り向き、段に足をかけた時だった。



「娘達には野に咲くニガヨモギの花の汁を飲ませなさい」



 美しい声が追いかけてきた。フェリがハッと振り向くと、波の間に人魚が顔を覗かせていた。彼女はじっとフェリを見つめ、歌うように言葉を続けた。


「彼の船はどんな嵐にもあわず、沈むことはないでしょう。彼は航海から航海を続けて、最後の最後に見つけた娘と共に故郷に帰り、家を継ぐでしょう」


 彼女は深い溜息を吐き、軽く唇を歪めた。その表情はどうせ戻ってくるくせに、彼が選択したことを嘲笑っているようにも、嘆いているようにも見える。海水に濡れた青白い頬をいくつもの滴が零れ落ちた。それはまるで涙のようだが涙ではないのだろう。


 人魚は人に似ているが、人ではない。だが、その顔はやはり悲しげなものに見えた。


「彼の父親の父親もそうだった。彼が戻って来たと思ったら、それは彼の息子だった。彼はすっかり老人だった。彼の父親もそうだった。彼が戻って来たと思ったら、それは彼の息子だった。彼はすっかり老人だった。どうして、人間ってわかってくれないのかしら。どうして最後には帰ってきてくれるのに、旅になんて出るのかしら」


 パシャンッと人魚は強く尾を揺らし、いらだたしげに海面を叩いた。波間に滴が散り、金色の波紋を生む。しばらく、人魚はそれを無言で眺めた。やがて彼女は小さく呟いた。



「どうしてかしらね。私は可愛いあの子たちの一番男盛りのころの姿を知らないの。一度でいいから見てみたいってずっと思ってるのよ………でも、今回も無理ね」


 

 次の瞬間、人魚は身を翻した。だが、彼女は一度海中に沈んだ後、再び戻ってきた。


 彼女は合図をするように青白い手を振り、高く何かを放り投げた。フェリは慌てて手を伸ばし、それを受け取った。彼女の掌に、赤く色づき始めた林檎が落ちる。人魚は口元に手を添え、声を張りあげた。


「いらないわ。お食べなさい。美味しいわよ」


 そこで、彼女は一瞬黙った。青年が去って行った方角を、彼女は青い瞳で見つめる。

 ぽつりと、人魚は噛み締めるように呟いた。



「まるで、地上に落ちてきたお月様みたいな味がするわ」


 そして、人魚は身を翻し、今度こそ海の中へ消えた。



 フェリはじっと海面を見つめた。そのヴェールの上からパタパタとトローが羽ばいた。彼はフェリの足元の影に近寄り、何かを尋ねた。それに陰鬱な声でクーシュナは応える。


「ん? 何故それでも繰り返すのか、だと? さぁな、人可愛さか恋情か、ただ海の生活が退屈なだけなのか、男の望む姿を見れぬが故のつきぬ好奇心か、そんなことは人魚にしかわかるまい。人魚への想いか、富への執着だかを断ち切れず、疲れ果てながらも戻ってくる男達も、自分達に惜しみなく与えられ、縛ってくるものが本当に祝いなのか、それとも呪いなのか、わかってすらおるまいよ」


 クーシュナはそう語った。フェリは小さく頷く。時に、人でない者は人の『小さな親切』に惜しみなく応える。それを受けるか否か選ぶのは、親切を与えた人間だけだ。その喜びも苦しみも受け止めるのはその者ひとりだけ。


 そして、いつまで恩恵を与え続けるか選ぶのは幻獣だった。それが祝いなのか呪いなのかは、恐らく幻獣自身にもわかっていない。



 人にもきっとわからないことだろう。


 どんなに、何回繰り返したとしても。



「ただ――――林檎を渡し、受け取った。それだけで長く祝われ、あるいは呪われることもあるだろうさ」



 クーシュナの言葉を聞きながら、フェリは林檎を齧る。

 まだ早い林檎は微かに甘く、そして酸っぱい味がした。



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