その6

 ヒュドラは毒を吹きつけてまわりはしなかったらしく、一定以上の高さの場所は被害を免れていた。だが、小規模な村の家屋はほとんどが平家だ。それでも、集会所らしい三角屋根の建物には二階があった。


 今、フェリはその窓際に残された机を使用している。彼女は鞄から出した羽根ペンにインクをつけ、彼女は真剣な面持ちで走らせていた。トローは机の上で腹這いになり、ぴっ、ぴーっと他の蝙蝠には出しえない音を断続的にあげている。それに耳をそばだてフェリは紙に点と線を引いた。書くところが埋まると、彼女は素早く新しい一枚を手に取った。


 猛烈な速度で、作業は進められていく。


 その様を横から覗き込み、クーシュナは不思議そうに小首を傾げた。


「我が花よ? 我のお前は、一体どこの誰と連絡を取り合っているのだ?」


「誰とも連絡してはいないわ―――盗聴中よ。凄いの。今、『試験管の小人』同士が、大量の信号を投げ合っているわ。どうやら緊急事態みたい」


「と、盗聴? そんなことができたのか、我が花よ?」


「トローの性能ならば、ね。でも、今まではやらなかったの。職務倫理違反だから。けれども、今は世界の危機の前だから、仕方がないわ。ねぇ、トロー?」


 フェリの問いかけに、トローは鳴くことは止めないまま、えへんと胸を張った。世界の危機の前には、正しい行動を選べるのが、勇者トローというものだ。


 フェリは更に指を走らせた。途中でペン先を替えながらも、彼女は『試験管の小人』達のやり取りが一段落するまでの全てを書ききった。最後の紙を掴み、フェリは頷いた。


「………やはり、大変なことになっているのね」


「一体、何がどうなっているのだ、我が花よ。内容は長いようだが、手短に頼むぞ」


「今、幻獣調査官本部では、秘密裏に訓練した部隊で『火の王様』に総攻撃を行い、弱体化させ、捕縛、ヒュドラを倒す計画が改めて実行されようとしているの………他の幻獣達の火は、全て試したけれども無駄だったみたい………勇者については不明なまま」


「そんな馬鹿な。まだ懲りておらんかったのか。自殺行為だ」


「私もそう思うわ………でも、理論上だけならば、勝算があるようにも見えてしまうから。彼らはそのための魔力を数年がかりで蓄え、一部の竜種とも魔力譲渡の契約を結んだの………でも、今度こそ『火の王様』が形を崩し、自我を捨てれば全てがおしまい」


 フェリはぎゅっと最後の紙を握り締めた。『火の王様』が本気を出せば人と幻獣の全面戦争が始まることになるだろう。そうすれば、今度こそ世界は終わりを迎えてしまう。


「どうやら、今から行くべき場所は一つだけのようね」


「『火の王様』の城、か………だが、ヒュドラの毒で大鴉の森も、もう」


「それについては大丈夫よ」


 バサリッと、力強い羽音が鳴った。室内に猛烈な風が起こる。紙が何枚も舞い散った。


 木戸の外れた窓の向こう側に、黒い姿が舞い上がった。クーシュナは唖然とする。


 それは凜々しい一羽の大鴉だった。翼を上下させて滞空しながら、彼は懐かしいというように何度も頭を振る。トローは―――大鴉の反応を求め、調整した音波をあげ続けた甲斐があったと―――喜び勇んで飛び跳ねた。フェリは信頼と安堵の滲む声で囁いた。


「彼らは人よりも聡い種族だから、きっと無事なところに逃げていると思ったの」


 トローを鞄に入れ、フェリは窓枠に足をかけた。兎頭の紳士はその隣に並んだ。彼は、彼女の掌を支える。大鴉は乗りやすいように頭を下げてくれた。


 純白のヴェールを翻しながら、フェリは大鴉の背中に飛び乗る。


 義理堅い幻獣は友の騎乗を歓迎し、高らかに声をあげた。


「まだ、何もかもを諦めるには早いわ」


 フェリはそう、力強く断言した。

 そうして世界の終わりを防ぐため、彼女達は飛び立った。


             *    *    *


『火の王様』の城は、以前よりも更に分厚い炎で覆われていた。


 暗い森の中、揺らめきながら、紅い幕は固く来訪者を拒んでいる。


 今、そこには蒼い光が這い寄り始めていた。浸食するように光は炎を蝕んでいく。ソレは人間の手にした杖の先端―――見事な加工の施された水晶から―――放たれていた。


 城を囲んで、黒や白のヴェールを被った調査官達は真剣に詠唱を行っている。


 選ばれた人員達は、厳しい顔つきで石の魔力を解放していた。彼らもまた、全身全霊を賭けてに世を救おうとしているのだ。だが、この場に集まった者達の中で、廃墟の内側にいる幻獣の力を、正確に理解している者はいなかった。


 炎は少しずつ弱まっていく。その様を確認し、指揮を務めるクレメンスは頷いた。長く苦労を積み重ねてきたのだろう。彼女の頭には白髪が目立ち、肌もくすんでいる。


 やがて、炎は人の跨げる大きさとなった。クレメンスは片手を挙げる。


「よし! 魔力解放一時中断。総員、前に――――――っ!」


 その語尾は驚愕に呑み込まれた。全身を、彼女は黒い蔦に音もなく絡め取られたのだ。


 部下達も短い悲鳴をあげる。辺りを見回し、クレメンスは感心したかのように囁い

た。


「………これは、やられたな」


 城を囲む全調査官が闇の蔦に拘束されていた。


 場は困惑に呑み込まれる。そこに草を踏み鳴らして、一人の少女が現れた。


 花嫁のような白いヴェールを揺らして、彼女は蜂蜜色の瞳をあげる。


 調査官達は動揺と―――再編された人員の中にも、彼女を知る者がいたのか―――一部は思わぬ喜びの滲む声もあげた。クレメンスは噛み締めるようにその名前を呼んだ。


「調査員フェリ・エッヘナ」

「お久しぶりです。調査官クレメンス・アービー」


 二人の調査員と調査官は、そうして向かい合った。


 殺されかけた者とは思えない穏やかな眼差しを、フェリは彼女に向けた。一方、クレメンスの顔からも驚愕の表情は消えた。意外にも、後には安堵の色だけが残される。


「そうか、君は生きていたのか、何よりだ」


「………素直に受け取るのが難しい言葉ですね。あなたは私を殺そうとしたはずです」


「あぁ、だが、あの時、君は妖精達に連れ去られ、そのまま安否不明となった。幻獣に殺されたわけではなかったのならば、調査官としてその結果は心から喜ばしいものだ」


 クレメンスは応えた。フェリはじっと彼女を見つめる。その目の中に嘘は見られない。


 今、ようやく理解ができたというかのように、フェリは口を開いた。


「あなたは、間違いなく幻獣調査官なのですね」


「そうだとも、調査員フェリ・エッヘナ。私と君では、その職務倫理は全く異なるがね。私は傾いた天秤を、強制的に戻す者なんだ。そこに不安要素を侵入させるつもりはない。だが、確かな誇りをもって、私はこの職務に就いてもいる」


「意外よな。抵抗すらせぬのか、毒虫よ。我の花を殺そうとした貴様は、もっと足掻くものだと思っていたが」


 兎耳を揺らし、クーシュナはクレメンスの顔を覗き込んだ。彼女は金縁の片眼鏡の向こう側の目を細める。そこにもまた安堵の光を宿して、クレメンスは彼を見つめ返した。


「やぁ、『闇の王様』。君も無事だったか。ここまで縛っておいて、そう言われてもな………調査員フェリ・エッヘナは、こうして私達を拘束してどうするつもりなんだ?」


 肩を竦めようとして、無理だと諦め、クレメンスは尋ねた。フェリは問いに応える。


「私はあなたを説得しに来たのです。『火の王様』は人間が敵う相手ではありません。自分達の力を過信しては、今度こそ世界を滅ぼすこととなります」


「だが、方法は今やこれしかない。説得を持ちかけ、『火の王様』が聞いてくれると?」


「可能性はあります………現に、世界はまだ滅んでいません」


 フェリは力を込めて語った。残念そうに、クレメンスは首を横に振る。

「信じるには、あまりにも不確定な要素が多すぎる話、調査員フェリ・エッヘナ………だが、眩しくもある。過去には、私も君のように人と幻獣はもっとわかり合えるものだと信じていた。なぁ、一つだけ、君に私の秘密を教えようか?」


 急に、クレメンスは声量をギリギリまで絞った。彼女は限界まで首を突き出し、フェリに顔を寄せる。


 そして、クレメンスはまるで内緒話をする子供のように囁いた。


「私はね………実は、人間よりも幻獣の方が好きなんだ」


 秘密だよと、彼女は人差し指を唇の前に立てた。


 フェリは目を見開く。拘束から逃れ、クレメンスは腕を動かしていた。


「我が花よ!」

「っ、と………だからこそ、諦めるわけにはいかなくてね!」


 クーシュナはフェリを素早く抱き寄せた。クレメンスは手を掲げる。彼女の指には、蛇の指輪が光っていた。その目に嵌まった水晶の光で、クレメンスは闇を焼き切ったのだ。


 続けて、彼女は自身の杖先の水晶を地面へ叩きつけた。蒼い欠片が散り光が広がる。それはクレメンスの部下達を縛る闇を溶かした。


 戸惑いながらも、調査官達は草地へ降り立った。

 フェリを庇いながら、クーシュナはクレメンスを睨んだ。彼女は優しい目で応える。


「片方が片方を利用し、世を保つ………これも共存のためなんだ!」

「それだけでは保てないものもあります。争いだけでは、世は続かない!」


 調査官と調査員は―――白のヴェールを揺らし―――互いの主張を叫ぶ。

 その時だった。この場にいる全員にとって、理解し得ないことが起きた。


 音もなく、異様な鎧がその場に現れたのだ。

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