その4


                 ***


「うっ………わっ、わわっ!」


 グリフォンが青空を舞う。その背中で、ライオスは子供のように息を呑んだ。獣の匂いと熱、筋肉の動き、何よりも自分が宙に浮いている事実に、彼は翻弄される。


 グリフォンに乗れとフェリに指示された際、彼は拒んだ。だが、無理やり闇に固定されたのだ。その前で、フェリは胸を張ってグリフォンの首筋に腰掛けている。トローは飛ばされないよう、蓋を閉じた鞄の中から顔を突き出していた。


 傷が痛むだろうに、フェリはヴェールを揺らして明るい声をあげた。


「どうですかー、空を飛ぶのは気持ちいいでしょう?」


「ど、どこが気持ちいいもんか! 落ちる、落ちるっ!」


「大丈夫です! この子を信じて、しっかり掴まっていてください!」


 フェリはグリフォンの首筋を軽く叩いた。彼は翼を広げ、急降下する。


 空に浮かんだ時点で、ライオスは闇から解放されていた。つまり、体を支えてくれるものは最早何もない。彼はグリフォンの胴体にしがみつき、悲鳴をあげた。


 速度をあげて、二人は森の上を飛んだ。やがて、どうやら急に放り出されることはなさそうだと理解したのか、ライオスにも余裕が生まれてきた。

 彼は鼠色の髪を風に遊ばせながら、恐る恐る辺りを見回し、ぽつりと呟いた。


「………凄いな」


 空を飛ぶ機構の発明は、現在、一部の錬金術師達が秘密裏に取り組んでいるという。だが、まだ人間―――少なくとも一般の民衆は―――その方法を得てはいなかった。


 人間が鳥の視界を得ることなど、本来ならば一生できない。


 どこまでも世界を見渡せることに、ライオスは圧倒されかける。だが、首を横に振って、彼は顔を憎悪に引き締めた。それに気づかないまま、フェリは言葉を続けた。


「レンヴァートさんも、ナックラヴィーから逃がれる際、大鴉レイヴンに乗ったんです。丁度、近くに以前縁があった、優しくて賢い子達がいたので、運んでくれるよう頼みました」


「………親父を幻獣で運んだのか」


「地面を歩いていては、間に合わない傷でしたから」


「結局、親父は助からなかったんだろ」


「えぇ………力及ばず、申し訳ありません」


 フェリはそう応えた。一時、沈黙が落ちる。

 やがて、ライオスは気まずい空気に耐え切れなくなったというかのように口を開いた。


「で、だ。俺をどこに連れてく気なんだよ」


「レンヴァートさんのご遺体は、幻獣調査官の地方支部でお預かりしています………後ほどお連れしましょう」


「はっ、そのまま俺は牢屋行きなんだろ」


「過去に遭遇した獣害についての意見書を携え、私も同行します。今まで殺害した幻獣の数にもよりますが、いくらかの減刑は望めることでしょう。その罪状に見合った歳月を過ごせば出ることができますよ………ですが、私達が今向かっているのは、お父様が亡くなられたところです」


 フェリは淡々と応えた。ライオスは沈黙する。彼らはそのまま飛び続けた。

風が髪を揺らし、太陽の光が網膜で弾ける。黒い森が波のように下を移動していく。

やがて、フェリは声をあげた。


「見えてきました! あそこです!」

「………これは」


 ライオスは呆然と声をあげた。


 そこには、一面の花畑が広がっていた。

 


 山の表面を覆う木々が途切れたところから、地面には豊かな色彩が溢れ出していた。数百種の柔らかな花々が、圧倒的な美しさで咲き誇っている。人の心を呑み込むかのような豪奢で絢爛な光景だ。だが、その花畑には一点だけ奇妙で不気味なところがあった。


 花畑の中心が、変に盛り上がっているのだ。


「あれは、なんだ?」


「…………近づけばわかります」


 フェリはその答えを言わなかった。たくましい翼で、グリフォンは大きく空気を一打ちした。円状の風を起こしながら、彼はそっと花畑の上に着地する。


 フェリとライオスは、濃密な芳香と静寂に包み込まれた。彼は呆然と辺りを見回す。だが、その視線は中央部の不自然な盛り上がりで止まった。


 花の壁に乾いた血痕が残されている。

 ある予感に駆られ、ライオスは走り出した。花弁を散らしながら壁に辿り着き、彼は震える手を伸ばした。


「………親父」


 恐らく、傷ついたレンヴァートはここにもたれかかったのだろう。


 そして、幻獣調査員に招待状を渡したのだ。


 一体、何故か。死の間際に、何が彼に考えを変えさせたというのか。


 ライオスは後ろを振り向いた。そこにはグリフォンとフェリが立っている。大鴉に重症の身を運ばれたせいだろうか。違う考えを持つフェリに、命を賭けて助けられてしまったからだろうか。両方とも理由の一つではあるだろう。だが、それだけとも思えない。


 そこで、ライオスは初めて父親がもたれかかったものの全貌を見た。


「―――――なっ、」


 大きく目を開き、彼は絶句した。その正体を確かめ、辺りを見回し、ライオスは間抜けに口を開いた。


 数秒後、彼は細かくその頬を震わせた。


「くっ………ふふっ………はははははははっ!」


 ライオスは笑い出した。おかしくてたまらないというように、笑って、笑って、笑い続けた挙句、彼は咳き込んだ。


 その周りでは、圧倒的に美しい花畑が揺れている。

 笑いすぎたせいで浮かんだ涙を拭いながら、ライオスは呟いた。


「あぁ、そうかよ………親父、アンタもこれを見たんだな」


 ある意味、そこにあるものは、幻獣という存在の答えを象徴していた。


 花畑の中心は、大きな獣が横たわっているかのように盛りあがっている。


 その下には、一匹の竜の死骸があった。


 牙の生え揃った顎を持つ、巨大な竜だ。大人しい個体だったとは到底思えない。だが、彼が眠りについた後、周りにはその体を栄養源とした花畑が広がっていた。


 竜の死骸を苗床に、数百種を超える花々が育っているのだ。

 あまりにもその光景は美しかった。


 ライオスは笑って泣いた。彼は笑う以外、何も言わない。その考えは特に変わりはしなかった。幻獣は人間と相容れない危険な生き物だという信念も、崩れることはない。だが、この光景には、確かに固く凍った心を震わせる何かがあった。


 恐らく、レンヴァートはライオスに―――ずっと憎悪にだけ目を向けて生きてきた息子に―――これを見て欲しいと望んだのだろう。


 フェリならば、ライオスをここに案内すると彼にはわかっていたのだ。だから、ただ憎しみと殺意だけを残すには負けたと、彼女に封筒を手渡した。


 風に舞い散る花弁の中、ライオスはその単純な事実を思い知る。 

 人も幻獣も生きている。誰もがいつかは死に躯となる。


 やがて躯は朽ち、

 その上には花も咲くのだ。

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