グリフォンとナックラヴィー

その1

 そこは一面の花畑だった。

 山の表面を覆う木々が途切れ、密に重なる枝葉がなくなったところから、地面には豊かな色彩が広がり始める。柔らかな花弁に隙間なく埋め尽くされ、大地は地肌も見えないほどだ。ラナンキュラスにデイジー、ポピー、他にも数百種を超える花々が、春の光の中、咲き乱れている。桃に黄、赤に橙、紫に青とあらゆる色が揺れる様は圧巻だ。


 だが、夢のように美しい光景の中、一点だけその花畑には奇妙で不気味なところがあった。


 花畑の中心が、変に盛り上がっているのだ。


 その様は、花に包まれた大きな獣が、横たわっているようにも見える。

 山の奥深くにある花畑は、芳香と共に重く濃い静寂に包まれていた。人里から遠く離れた場所に、誰かが訪れる気配はない。だが、不意に、静寂を破って、鳥の羽ばたく音が場を揺らした。


 花畑に、異様なほど大きな影が射した。

 ぽたり、ぽたりと、花弁を血の雨が濡らした。


 次の瞬間、崩れ落ちるようにして、一羽の大鴉レイヴン――外見は鴉と同じだが通常よりも尾が長く、体躯が巨大な幻獣―――が花畑に着地した。大地を削り、色彩を舞い散らせながら、それは二、三度羽ばたき、動きを止める。


 その背中から、純白のヴェールを花嫁のようになびかせて、一人の少女が飛び降りた。大鴉に怪我はないことを確かめながら、彼女は口を開く。


「お願い、クーシュナ」


 言葉に合わせ、少女の影が蠢いた。それは鴉の背中から、一人の男を地面に下ろした。


 男は武装しており、頬には目立つ傷もあった。日頃から荒事に関わっている人間だと一目でわかる外見をしている。その腹は纏った鎖帷子ごと、何かに噛み破られていた。


 獣の背のごとく花畑が盛りあがった部分に、影は男を持たせかける。彼が呼吸をする度、腹から血が溢れ出した。止血用の布の隙間からは生々しい内臓すら覗いている。


 少女は自身の肩掛け鞄の中から、幅広い包帯を取り出した。彼女は服が汚れることを厭わずに、慣れた手つきで傷口を止血し直す。


「もう少しです。気をしっかり保ってください。この子も頑張ってくれますから」


 男の傷は深い。到底助からないだろう。そうわかっているだろうに、彼女は訴えた。


 何かを応えようとして、彼は血を吐いた。男は虚ろな目を、ここまで自分を運んできた―――これからも運ぶという―――大鴉に向ける。賢い幻獣は、彼に静かな眼差しを返した。その視線を厭うように、男は顔を横に背けた。


 そこで、彼は初めて自分がもたれかかっているものを見た。


「―――――なっ、」


 大きく目を見開き、弾かれたように男は顔をあげた。自分が体重を預けていたものの正体を確かめ、辺りを見回し、彼は間抜けに口を開いた。


 数秒後、男は失血のため、青ざめた頬を震わせた。


「くっ………ふふっ………はははははははっ!」


 彼は笑い出した。激痛に襲われているだろうに、男は血を吐きながら哄笑を続ける。


 おかしくてたまらないというように、笑って、笑って、笑い続けた挙句、彼は咳き込みながら、懐に手を入れた。動いてはいけませんと、少女は男を諫める。だが、それを無視して、彼は一通の封筒を取り出した。震える手で、男は彼女にそれを差し出した。


「俺の負けだよ、嬢ちゃん」


 それが、男の最後の言葉となった。


 大量の血を吐き、彼は動かなくなる。

 ヴェールを揺らし、少女はその場に跪くと祈るように瞼を閉じた。


 とてもとても美しい、花畑での出来事だった。


                   ***


 石造りの天井に、水煙草の甘い煙が漂っている。他にも香辛料を利かせた料理の湯気と強い酒の芳香、鍋を焦がす脂の匂いが混然一体となり、窓のない部屋は独特の臭気に包まれていた。この場では、他ではあまり見ない嗜好品が消費されている。


 部屋自体、窓もなければ、扉も穴を開けただけの変わった造りをしていた。置かれている家具達の新しさと、一部が自然と剥離した壁の旧さもちぐはぐに見える。


 それもそのはず、この部屋は大昔、火山灰の中に埋もれた廃墟の一角にあった。


 巨大な―――それこそ山中都市一つ分だ―――廃墟自体は、今でも学術的研究の対象とされている。だが、調査員の多くは図書館や神殿跡地に割かれていた。


 その目を盗んで、歴史的価値はない出土品を下町で売り払い、日銭を得ている盗掘勢は片隅で好き勝手をしている。珍しい嗜好品の数々は、国から正式な依頼を受けた荷運びの連中が、羽目を外しに立ち寄り、置いていった代物だ。


 廃墟自体の奇妙さと、立ち寄る人間の雑多な出自が寄り集まり、ここには不思議な空間が形成されていた。


 そんな怪しい場の片隅に、フェリはちょこんと座っていた。

 何をしているのかと言うと、先程から、彼女はサンドイッチを頬張り続けている。


 固い胚芽パンで、両面をこんがりと焼いた厚切りベーコンと茄子を挟んだ品だ。滴る肉汁を上手く包み紙で受け止めながら、フェリはもっしもっしもっしもっしと真剣な表情で食べ進めている。


 その姿は周りから明らかに浮いていた。他の客達も反応に困っている。


 ここは子供が来るところではない。そう言って追い返すには、サンドイッチを齧る彼女の目はあまりにも据わりすぎていた。蜂蜜色の目に浮かぶ、ブチ切れたような光は正直に言って怖いほどだ。


 何よりも、フェリはこの場に入るのに必要な『招待状』を持っていた。身内には甘く外敵には厳しい、悪党達のルールに照らし合わせれば、彼女は尊重されるべき客なのだ。

 それをいいことに、フェリは堂々とサンドイッチを食べ進めていく。


「………むっ、んぐっ」


 最後の切れ端を、フェリは口の中に押し込んだ。やっと彼女が食事を終えたことに、周りはほっと空気を緩ませる。だが、フェリは―――それもまた後から運び込まれたものである―――本格的なカウンターの内側に立つ男に片手を挙げて訴えた。


「では、次のサンドイッチをください」


「ま、まだ食べるのかよ? 食べすぎじゃないのか?」


「いいんです。本日は食べなくてはやっていられませんから」


 そう、フェリは応えた。呆れながらも、髭面の店員は次のメニューを作り始める。

辛く味つけした豆と玉ねぎ、赤いソーセージを黒パンで挟んだ代物だ。またしても綺麗に食べるのは難しい品だったが、フェリは器用にもっしもっしと食べ進み始めた。


 一口欲しいと、その頭の上からトローが訴えた。フェリは指先で、豆付きのパンをほんのちょっとだけ千切った。トローはドキドキとそれを食べ、ひっくり返った。


 試験管蝙蝠である彼は、何でも食べられるはずなのだが、口に合わなかったらしい。


 ぺっぽーっと鼻から奇妙な音を発しながら、トローは左右に転がった。その度、フェリの白色の髪が揺れる。今、彼女の頭からは花嫁のようなヴェールは取り外されていた。


 店員と他の客達の戸惑いは、ここに来て最高潮に達した。

 実はこの場では、もうすぐある催しが開かれる予定なのだ。


 それはフェリのような年若い少女に見せられる代物ではなかった。だが、これから何があるのかを承知しているのかいないのか、彼女は口出しを拒むオーラを発しながら、サンドイッチを齧り続けている。しかし、流石に放ってはおけないと、髭面の店員がフェリに声をかけようとした時だった。


 勢いよく、銅鑼が鳴らされた。

 弾かれたように顔をあげ、フェリは口の中に残りのサンドイッチを押し込んだ。水を一飲みして彼女は立ち上がる。この催し目当てかと、髭面の店員は忠告を飲み込んだ。

 同時に、灰色狼を思わせるくすんだ髪を一つに結んだ青年が、溌剌と声をあげた。

「さぁ、待ちに待った時間だよ! 入場券をお持ちの方は、会場に急いだ、急いだ!」


 青年はそう宣言すると踵を返した。代わりのように、際どい格好の女店員が前に出る。


 客達は次々と彼女に金貨を渡し、入場券―――と呼ばれている紙片―――を見せると、入り口とは別の出口を通過していった。


 フェリもその後に続こうとした。だが、女の店員に止められた。フェリは慌てることなく、胸元から封筒と金貨を取り出し、彼女の鼻先に突きつけた。


「ご確認ください」


「………た、確かに。どうぞ。でも、アンタには刺激が強いかもよ?」


「構いません、お気になさらず」


 女の店員は戸惑いながらも金貨を受け取った。


 フェリは足を進める。廃墟内部の通路は迷路のように入り組んでいた。先導に従って、彼女は圧迫感のある道を急ぐ。やがて、フェリは炎が煌々と燃やされた、明るい空間に辿り着いた。


 いつの間にか、彼女と他の客達は外に出ていた。

 夜空の下に、円形の闘技場が広がっている。


 階段状になった席には既に多くの人間が着いていた。いい席はあらかた埋められている。最も催しが見えやすい位置には仮面をつけ、女を侍らせた身分の高そうな者がいた。


 フェリも全体を見渡せる席を選んで座った。

しばらくすると、闘技場の中央に先程の青年が現れた。特に飾り気のない姿のまま、彼は深々と礼をする。


「さぁさぁ、皆さんお待ちかね!」


 いつの間にか、青年の背後、闘技場の端には黒布を被せた檻が置かれていた。

 その中から、獣の低い唸り声が聞こえてくる。



「幻獣狩りの時間だよ!」



 青年は檻に掛けられた布を取り払った。


 内部で暴れる影を確認し、フェリは蜂蜜色の目を細めた。

 周囲から歓声が沸く。檻の前に一人の男が進み出た。彼は凶悪な剣を掲げる。


 フェリはぎゅっとナナカマドの杖を握り締めた。




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