体調を崩しやすい時期ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私はちょっと前に、たぶん6年ぶりくらいに熱を出しました。異例となる暑い日だったのですが、寒気のあまり冬用の長袖で寝込んでおりまして。その間まったく汗をかかなかったので恐怖でした。
もうクリスマスの気配が近づいてきておりますが、『赤い鎖』からちょっとしたハロウィンのお話を書いたのでここに乗せておきます。
よろしければどうぞ。
・紫苑Side
久方ぶりに不快な朝が訪れてしまった。
鼻詰まりに似た閉塞感が上咽頭のあたりを覆っていて、何度かんでも吸い込んだ空気が気持ちよく鼻腔を通らない。
息が通りづらくなっているのは喉も一緒で、いがらっぽい違和感がある。
痰のようなものが奥に絡まっていた。軽く咳払いをするも、ひりつく痛みと粘膜の腫れによって唾がうまく飲み込めなくなっていた。
冬になるまでは電気代を節約しておこうと、暖房をケチったのが裏目に出たのかもしれない。
「風邪か? さっきからずっとくしゃみしてるけど」
「薬、飲んだから。そのうち効いてくると思う」
とはいえ、ティッシュが手放せない状態での料理は衛生的にまずいのでは。
朝食の準備は父に任せて、洗濯物を干してくることにした。
仕事の忙しい父に代わって家事全般は基本私が担ってきたけど、最近は父が率先して厨房に立つことが増えていた。
気休めののど飴を口に放り、マスクを掛ける。
洗濯かごを抱えてベランダに出ると、どん、と号砲花火が打ち上がる音が澄んだ秋の空に響き渡った。
これから交通規制の時間に入る合図だ。目を凝らすと、駅前あたりがすでに賑わっているのが見える。
ハロウィンを来週半ばに控えた週末。
駅に続く大通りでは、土日にわたってハロウィンパーティーが開催される予定となっていた。
今日は前日よりも盛り上がるプログラムが組まれている。晴れ間が続き、日中は過ごしやすい気温に上がると予報では告げていた。
絶好のお祭り日和も、この体調では愉しむどころではない。
「食べやすい雑炊にしてみたけど、どうかな?」
「ばっちり。彩りに紅生姜と三つ葉が入っているのもいいね」
お世辞ではなく、嗅覚と味覚が曖昧になってしまっている状態でも旨味は十分に感じ取れた。
レンゲで黄身を崩し、お米と絡めていく。風味豊かな汁はとろみがついていて、柔らかく煮詰まった米粒と紅生姜との異なる食感が癖になる。
嚥下しづらくなってしまった喉をさらさらと流れ落ちていく喉越しは、呼吸への不快感を薄れさせてくれた。
昔は風邪を引くと食物もほとんど受け付けなかったから、バイトを始めて免疫がついてきたのだろうか。
「鰹節と昆布の合わせ出汁にしたのが良かったなあ」
「本当に美味しいよ。私も次作ろうかな」
「そんときゃホタテの缶詰かカニカマ混ぜてみてくれよ。絶対美味いだろうから」
下味や下処理が大雑把だった去年の春から目覚ましい成長を遂げているあたり、料理そのものの楽しさに目覚めたらしい。『建築は完璧な数字の世界だけど、料理は要領さえつかめば自由度が高いのが魅力』と父は前に語っていた。
お菓子作りは数字の世界だけれど。
何より、片付けも料理のうちに入っているのがいい。
食後の洗い物は多いほど億劫になるので、調理中に済ませてしまったほうが精神的にも体力的にも楽だ。
ゴミ屋敷のシンクに洗い物が溜まっている映像を見かけると、面倒事を先送りにして積み重ねてしまった過程に共感できてしまう。
私もシフトがきついときは片付けるまでの余力がなく、散らかし気味になってしまうことがあるので。
汚部屋のラインを超えずにいられるのは、頻繁に家に訪れてくれる恋人のおかげである。
休出の父を見送ってすぐ、スマートフォンがLINEの通知音を鳴らした。
件の恋人からだった。”いまお電話大丈夫ですか?”と来ている。
友人だった頃は早朝でも深夜でもお構いなしに掛ける人だったが、付き合い始めてからはこうして丁寧な一言を挟むようになった変化が面白い。
トーク画面から音声通話のボタンをタップして、耳に当てる。
「おはよ、せっちゃん」
『おはー。今日も憎たらしいまでの秋天だね。昨日以上の地獄が見込まれてますよ』
第一声からハロウィンへの怨嗟が隠しきれていない。
伝統に倣うならモンスターを模した仮装集団の中で働くので、地獄とは言い得て妙だ。
「抑えて抑えて。それでご用件は?」
『今日、うちら13時からのシフトじゃん。それまでどっちかの家で過ごしたいなーと思ってるのですが……どうです?』
てっきり屋台に出向きたいと言うのかと思っていた。
けど、これからバイトを控えているのに遊び回っていては余計な体力を消耗してしまうし、妥当な提案と言える。
……さて、どうしよう。
断る理由などもちろんない。けれど会いたい気持ちに肉体がブレーキをかけている。
体調不良を隠して会うことは身勝手他ならない行為だろう。
受験勉強に追い込みをかけ始める時期になった今では、二人きりになれる機会は必然的に減っていた。
近所で、同じクラスで、同じバイト先。顔を合わせている時間は遠距離恋愛中のカップルが鼻で笑うほど長いはずなのに、もどかしい距離だからこそ求める欲が膨れ上がっていく。
駄目だ、ここで感情を優先してしまっては誰のためにもならない。去年節制できず芹香を成績低下に追い込んだのはどこの誰だと思っている。
理性の堤防により波が引いた私は、急いで取るべき行動に出た。
「ごめん、今日はちょっと風邪気味で。電話で許してくれないかな」
『え、大丈夫? たしかに鼻声だね』
「ただの鼻風邪。熱はないからバイトには出られる」
『いやいやいや。引き始めがいちばん危ないんだから休んで。悪化したらどうすんの』
昔の私を知っている彼女からしたら当然の反応といえる。自分が芹香の立場だったら同じ反論をするだろう。
でも、薬のおかげでくしゃみと鼻水は治まってきている。水分の分泌を抑えるわけだから代わりに喉は乾きやすくなるけど。
何より今日は、一人でも多くの人員を必要とする稼ぎ時だ。昨日嫌というほど味わわされた。
それもこれも上が悪い。
毎年10月に開催されていた市民祭りは担い手不足により継承が困難となり、春の臨時総会で解散することが発表された。
問題は行事を完全廃止にしなかったことだ。市の発展のため、この枠には新たな運営母体が発足された。
市民祭り以上の賑わいが見込める催し。
そう、ハロウィンである。
大都市では、治安維持と混雑緩和のために年々規制が強化されている傾向にある。
この機会を逃すまいと、市は新たな”騒ぎ場所”に誘致することを決定づけたのだ。
『労働規則だから仕方ないけど、休憩に入れる空気じゃなかったよねー』
「なぜあの混雑ぶりを見て来店しようという気になれるのよ……」
私たちのバイト先は駅の近くにあり、これまでも駅前通りのイベントによって混雑は経験してきたものの……見通しが甘すぎた。
シフト人数は余裕を持って配置していたはずなのに、誰も目立ったミスはしていないのに、提供はどんどん遅れていく。
洗い物のスピードが追いつかない。食材を補充する業者さんが来る前に在庫が切れていく。
お昼のピークを過ぎても、客足が止まる気配はない。
メインイベントが夜ということもあり、夕方頃からはますます人の密度が増していった。
とうとう長蛇の列までできてしまい、捌き切るまで退勤時間を大幅に上回ってしまった。
売上が伸びるならいいや、と楽観視していた過去の自分をしばきたい。
ハロウィン商戦に乗っかりたがる企業が後を絶たないわけだ。
「何がそんなにいいんだろう」
『まあ、馬鹿騒ぎで毎年問題視されてるから印象はあんまりよくないよね』
「それもあるけれど、元々はお盆と魔除けが合体したような風習から来ているでしょう。現代に残っているのは仮装することくらいで、とくに見どころがないと思うのだけど」
経済効果のため、企業側が無理やり定着させようとしているだけではないかと思ってしまう。バレンタインとホワイトデーのように。
『”なんでこれ続けてんの?”って疑問の声があるのになくならないものはね、だいたい”儲かるから”って大人の事情が入ってんの。戦争とか、対立を煽る記事とかもね』
「資本主義である以上は仕方ないのね……」
『そゆことです。ま、仕事の愚痴はこれくらいにして。もう休みなさい。お話はいつでもできるんだからさ』
母親のような口ぶりで諭される。
まだ話していたい名残惜しさはあったけど、体調管理も仕事のうちだ。バイトが始まるまでの時間に、しっかり寝て体を養うべきだろう。
『ちなみに、休めというのは丸一日って意味で言ってますからね』
……見透かしたように釘を差されてしまった。
けれど私が欠けると、昨日よりも少ない人数で回さねばならなくなる。
それで倍以上の負担がかかってしまう芹香たちが逆に体調を崩してしまったらと考えると、素直に首肯しづらい。
自分なりの抵抗を主張すると、『だと言うと思ってた』とため息混じりに笑う声が返ってきた。
『店長が昨日の惨状からなにも学んでないわけがないじゃん。特別ボーナス支給を条件に、他店舗から増員してくれるみたいだよ。整理券を導入して、待ち時間をボードや公式SNSで知らせる形にするって。あとは座席数が限られてるせいで並ぶ羽目になってるわけだから、料理だけ持ち帰れるテイクアウト方式も強化するみたい……ってStockに書いてある』
「あ、ごめん……まだ確認していなかった」
『いーのいーの。ここは私らに任せて、しーちゃんは安らかな眠りにつきなさい』
「別の意味での眠れに取れるんだけど……」
従業員に無茶を強いるのではなく、今できる最善を尽くす。
飲食業界は人の入れ替わりが激しいと聞くけど、うちは進学就職を除いて辞めた人はほとんどいないことに今更気付いた。そのあたりも、店長のお人柄によるものなのだろうか。
「心配してくれてありがとう。……本音を言うと、会いたかったから残念な気持ちはある」
『具合が悪いことを正直に言ってくれたのはいいことよ。本音をはっきり口にしてくれるとこもね』
「……うん。今日、声だけでも聞けてよかった」
『また聞きたいならいつでも待ってるぜ。今日だと9時以降になるけど』
「ありがと。あと、ちゃんとこの後連絡するから」
『よろしい。ではまた、次の機会にお会いしましょう』
おやすみなさいといってらっしゃいを交わして、芹香との通話は途切れた。
熱もないのに当日欠勤をしていいものか。罪悪感はまだ残っていたが、これ以上心配を重ねるわけにはいかない。
布団に入り、緊張の汗がにじみ始めた指でスマートフォンを握りしめる。
履歴画面をスクロールし、店長の番号を呼び出した。
「…………」
次に目覚めたときは、針が午後2時をまわっていた。
暑い。背中にぐっしょりと汗をかいている。
とはいえ、計った体温は平熱のままだ。特有の寒気や関節の痛みはなく、空腹感もそれなりにある。肉体が悪化を食い止めていることに安堵した。
軽い昼食を摂り、薬を飲んだ私はベランダへと足を運んだ。
風に当たりたかったのだが、日差しが強いせいであまり涼みにはなっていない。
もうすぐ11月になるとは思えない気温の高さだ。外にいる人のほとんどが、半袖の格好で歩き回っている。
今の時間は演奏でもやっているのか、昔のヒット曲が手拍子に乗って耳に流れてきた。
かつての私にとってお祭りとは、今みたいに窓の向こうや画面から眺めるものであった。
長時間歩くことができない身体では、人混みの中をかき分けていくなど以ての外。
少食のため屋台巡りに心躍ることもないまま、ただ疲れるイベントとして苦手意識が植え付けられていった。
当然、同級生と楽しく回れるはずもなく。
相手からしても、いつ具合が悪くなるかわからない子を連れていては疲れるに決まっている。
私が合わせられる範囲はとても小さかったため、自然と誘われることは減っていった。
お祭りだけではなく、集って遊ぶことそのものに。
「……相変わらずの盛況」
総合スーパーの隣に建つ雑居ビルに視線を向ける。一階には私の職場があり、ここからでもギリギリ見える位置にあった。
入口付近には立て札らしきものを持っている従業員の姿があり、昨日ほどではないがやはり行列ができている。
……あれ?
見渡して気付いた。
多くの人が行き交っているから分かりづらいが、このあたりは食堂街である。うち以外にも選択肢はいくらでもあるはずだ。
にもかかわらず、他の飲食店はそこまで賑わっていない。通り過ぎたり近くに腰を下ろして固まっている人が大半だ。
スーパーがお祭りに便乗して臨時屋台を入口付近に出店しているからか、食事目的の客もほぼそちらに取られている。
なんでうちだけが?
ハロウィン限定メニューがあるとはいえ、昨日の注文率は突出して人気というわけでもなかった。気軽に買える価格設定というわけでもないのに。
考えを巡らせる中、答えはすぐに出た。
行列に並ぶ人も、通りかかった人も、スマートフォンを構えたり立ち止まる姿が多く見られることを。
公式SNSを確認すると、新メニューの宣伝よりも圧倒的に”いいね”をもらえているひとつの投稿があった。
みんなで必死に飾り付けた、ハロウィン仕様に模様替えした外観と内装の写真であった。
ああ、なるほど。
お客様は、これを買いに来ていたんだ。
目的もなく、集って、遊ぶ。
その最たるものであるお祭りの何がいいのか、なぜそこまで人々を駆り立てるのか、私にはわからなかった。
今、なんとなくわかった気がする。身体が多少は丈夫になったことで、余裕というものが出てきたのかもしれない。
花見なら桜を愛でて、夏祭りは打ち上げ花火に見惚れて、クリスマスはツリーやイルミネーションの美しさに浸る。
それと同じことで、ハロウィンは異国情緒漂う雰囲気を愉しむものだということを。
企業のゴリ押しだけではない。四季が曖昧になりかけている現代だからこそ、確かな需要があるのだ。
うちの業績が回復したのは新メニューを積極的に考案しているだけではなく、店の雰囲気づくりに力を入れるようになったことも大きかったのか。
それは紛れもなく、芹香を筆頭に他従業員の芸術センスがあってこそだろう。
さて、まだ本調子とはいかないのだから無理をしてはいけない。
まだ鼻と喉の違和感は残っているから、とにかく温かくして体内にエールを送らなくては。
部屋に戻ると、私は再び床についた。
父からは早く上がれそうだから何食べたい? と留守電が入っていたので『たこ焼き』と送った。お祭りの空気に見事に感化されているチョイスだ。
『ちゃんと寝てるかー?』
直後に芹香からの通知が画面を流れた。しっかり休息は取れているらしく安心した。
というか、寝てほしいはずの人に送ってどうしたいというのか。
既読がすぐについたらちゃんと寝なさいとお叱りを受けそうなので、次に起きたら返信することにしよう。
次のクリスマスは、万全の状態で思い出に残せますように。
この先の季節をずっと、いちばん大切な人と過ごしていけますように。
今の空模様みたいにどこか清々しい気分の中、私は眠りについた。