今年は去年に比べるとまだ暑さが控えめな印象ですが、リアル学生時代はそれが平均的な気温だったことに過去の天気を調べて震えました。このまま平温を保って欲しいものです。
すっかり夏になってしまいましたが、以前書くかもと言っていた後日談をようやっと書けたのでここに置いておきます。
『ボイタチさんとフェムネコさん』のホワイトデー回の内容が含まれますが、いちゃついてるだけの話なので未読でも大丈夫です。
それではまた。
※時系列:付き合って最初のホワイトデー
・SideA
「今日はごちになりまーす」
おどけて入ってきた彼女といつも通りの抱擁を交わして、洋室へ招き入れる。
テーブルの上に置いてある白いケーキ箱に、おおと彼女が感嘆の声を上げた。
「これが例の白いガトーショコラ?」
「そう。珍しかったから買ってみた」
先月のバレンタインはちょうど旅行期間と重なったため、簡単に市販のチョコレート菓子で済ませた。
お返しのリクエストは『ホワイトチョコでうまそーなのあったらよろ。あんたも食べそうなやつでね』とのことだったが、自分も好みそうなものとなると選別には難航した。
正直、これまでの人生で食べた覚えがない。
白い固形物にはどうも食欲が動かなかった。
そういえば、ケーキの飾りによくある砂糖人形やチョコ細工は親に押し付けていた子供だった。
「普通のチョコレートなら思い浮かぶが、ホワイトだとこれといった有名どころが分からなくて」
「白い◯人とか、ブ◯ンチュールとか、ハ◯ダのラスクとか食べたことない?」
「いや……初めて聞いた」
「おいおい、後者はともかく修学旅行で北海道行ったやんけ」
指摘されて思い出す。
親からは『甘くないお土産で』と言われていたのでお菓子コーナーには目もくれず、鮭ルイベ漬とチーズ帆立にした記憶があった。
可愛らしい包装の菓子箱を抱える女子に混じって、一人だけ酒のつまみを持ってレジに並ぶ姿は相当浮いていたに違いない。
「てかこの箱、近隣のケーキ屋さんじゃないよね。どこまで行ってきたん?」
「東京」
「律儀に3倍返しするとは……」
なかなかの有名店だったらしく、箱に記載されている店名を調べていた彼女が『値段は10倍返しや……』と声を震わせる。
あまり高いものだと重い女と引かれそうだが、付き合って最初のイベントを安物のお菓子で済ませるのも気が引けた。
どうせ一本で都心まで行けるのだし、思い切って選択肢が豊富な場所で探したほうがいいと思ったと正直に口にする。
「ま、それだけ真剣に探してくれて嬉しくないわけないよ。君昔からそういう子だったもんね」
昔っていつの話だ。心の中で突っ込みながら玄関横のキッチンへと向かう。
クラスメイトが遊びに来ていた時期もあったので来客用の食器は無駄にあるが、今は決まったものしか使わない。
お揃いの柄のマグカップを2つ取り出し、急須から蒸らした緑茶を注いでいく。
洋室に戻って湯気の立つカップを置いて、ようやく箱を開封した。
「おー、レモンの香りがする」
丸みを帯びた純白の姿があらわになる。
細かく削ったホワイトチョコレートに表面は覆われて、新雪が降り積もっているように見える。
激戦区で生き残っている名店というだけあり。ミントを添えただけのシンプルなデザインながら、無駄を削ぎ落としたゆえの気品が感じられた。
何件か回って吟味するつもりだったのが、直感で購入に至ってしまうほどには。
「んんー」
一口運んで、弾んだ声とともに彼女の口角が上がった。
目を細めながら何度も首を縦に振っている。お気に召したようでよかった。
「どんどん食べていいよ」
「じゃ遠慮なくー」
数口で胃におさめた彼女がお代わりのケーキに手をつける。ホールで買っておいて正解だった。
どっしりと構えた存在感とは裏腹に、スポンジは柔らかくさっくりとナイフが通る。
舌にはまろやかな甘さとレモンの酸味が広がって、薄く散りばめたホワイトチョコレートがさらりと溶けだす。
爽やかさが鼻に抜け、優しい食感と控えめな甘さが次の一口を誘発し、あっという間に皿のケーキが小さくなっていく。
しばらく無言で私達はフォークを動かしていた。
美味しいと言葉にする時間すら惜しかった。ケーキはショートで十分だと思っていたが、これはいくらでもいけそうな気がする。
「…………」
「?」
視線を感じて顔を上げる。
新たに切り分けたお代わりには手を付けず、彼女がこちらを見つめていた。
頬杖をついて、満足そうに目尻を下げている。
「どうした?」
「んー、美味しそうに食べるなって。ほんとガトーショコラ好きだね」
……好き?
ああ、確かに去年の自分の誕生日はガトーショコラを注文したが……学生時代の彼女は自作するほどガトーショコラを好きだったことを思い出したという理由の方が大きい。
今ではクッキーやマドレーヌといった定番のお菓子が一通り作れるほどに上達しており、飽くなき向上心は見習いたい姿勢だ。
「あたしも今度買おうかな。リピートしたくなるわこりゃ」
「あなたの腕前であれば作れそうだが」
「いやいやいや。本場で修行を積んできたプロに素人が敵うわけないって」
ずれた褒め言葉になってしまった。
作ってみてとプレッシャーをかけているようなものだろう。手間と材料費のコストを考えれば、また同じものを買ったほうがいいだろうに。
「……や、まあ、使ってるもの自体は揃えられそうだし、似せられないことはなさそうだけど」
「あ、いや、本気で再現しろと言ったわけでは」
「完璧に味を求めてるんじゃなかったら、次のバレンタインにでも挑戦してみようかなとは思ったんだけど」
君の好みは作れるようになりたいし、と一言こぼして彼女はケーキを口に運んだ。
今度は喉をすぐに上下させず、もごもごと頬を動かして味わっている。
味を盗もうとしているのか、美味さに緩んでいた目尻はいつものように吊り上がっていた。集中しているときの目つきだ。
相手の好むものを作れるようになりたいという主張には同意する。
自炊のためにと覚えた料理も、一人暮らしを始めた当初は作る手間に見合わないと思うときがあった。
食事はほんの数分で無くなってしまうのだから、買ったほうがいいのではないかと。
なのに、自分の手料理を喜んでくれるというだけでもっといろいろなメニューを作れるようになりたいとやる気が芽生えてくるとは。恋のエネルギーは計り知れない。
それを知った以上は、応援するのが恋人の務めというものだろう。
「なら、来年を楽しみに待っているよ」
「おっけー。なるべく近づけるように頑張ってみる」
少し先になる約束を交わして、いつの間にか残り二切れとなっていたケーキを互いの皿に分けた。
「まじで美味しいね、これ。ぜんぜん舌がだるくならないんだけど」
「絶対余ると思っていたのに食べきってしまうとは……」
二人でホールケーキを食べ尽くしたというのに、甘ったるいしつこさや胸焼けを喉や胃に覚えない。
相当な分のカロリーを摂取している罪悪感も溶かすように、整いきった味わいだけが舌の上に残される。
少し贅沢するだけでこんなにも満足感が違うものなのだろうか。
そういえば、彼女が初めてガトーショコラを焼いてきたのもいつかのバレンタインだったか。
表面は軽やかな焼き加減で、中はほろほろと崩れる柔らかい口溶けがガトーショコラに抱いていた苦手意識を書き換えた。
最初に食べたものがスーパーの安物だったせいか。いつまでも溶けずにねっとりと残る生焼けの舌触りは、大抵のものは食べられると思っていた己でも完食できなかった。
それまでチョコレート菓子そのものを避けていたが、お菓子作りに目覚めた彼女の試食係を続けるうちに好物に変わっていったことは間違いない。
相手の好みは作れるようになりたいから、頑張れる。
……ああ、もしかして。
「バレンタインで思い出したけど、高校の時によく作ってくれていたよな」
「ああうん、そんな時期もありましたな」
「最初に頂いたあれは、本命……でした?」
「んが」
「根拠が……二年越しの発言から逆算するとなると」
最初に肩と首が固まって、徐々に彼女の耳が朱に染まる。
のらりくらりと淀み無く返答してくれるはずの舌も動かないのか、うっすら開いた唇が震えていた。
反応から大体の心情が読み取れて、熱が感染したように胸から顔を駆け上がっていく。照れと無知への恥に焦がされそうだ。
「そうなると、先程の”昔から”って言葉の意味も」
「待って待って待った」
スマートフォンを取り出し、あるものについて検索する。
ホワイトデーの贈り物にはいくつかの意味があることを、こういった関係になってやっと知った。
あのとき私が買ったものは……確か、飴玉。
それが表す、意味を。
「なるほど」
「真顔で頷くな」
照れが限界値を振り切ったのか、彼女の瞳は真っ赤に潤んでいた。
我ながら、鈍すぎるにも程があった。匂わせていた行動を今更暴かれた彼女からすれば、顔から火が出るなんて程度では済まないだろう。
項垂れて表情を隠した彼女が、長く息を吐く。
「…………遅い」
「仰るとおりです」
「なんで君は不意打ちで殺しにかかってくるかなぁ」
拳を握った彼女の腕が肩へと振り下ろされた。
手首を緩慢に振って、肩叩きとかわらない威力の打撃が交互に繰り出される。
本気で怒りをぶつけてこない慈悲深さに、自責の念が冷や汗となって吹き出していく。
振り返れば私は、どれだけ想われていて、どれだけすれ違ってきたのか。
罪悪感から重く垂れた頭を上げられない。とても合わせる顔がない。
けれど、今伝えるべきは謝罪の姿勢や言葉ではないことだけは分かっていた。
「ほら」
腕を彼女の背中に伸ばす。
すっぽり腕の中におさまる華奢な身体を抱き寄せて、後頭部にそっと手のひらを置いた。
玄関で交わしたときよりも彼女の体温はずっと上がっていて、少し暑さを覚える。
「顔、あげて」
「……ん」
律儀に瞼を閉じている彼女へと、軽く唇を落とす。
もう少し重ねていたくなる欲を押さえつけて、静かに顔を離した。
鼻先が当たりそうなほどの距離で、まっすぐ彼女を見据える。
「嬉しいよ」
素直な想いを、声に出す。
「あのときよりも、ずっと。言葉にできないくらい嬉しくて……愛しくなった」
恋人の美しい容貌が視界いっぱいに広がっている状況と恥ずかしい台詞を放ったことにより、悶絶寸前の羞恥が膨れ上がる。
顔は煙が出そうなほどに熱く、動悸も発作を起こしそうなほどに激しい。
額を打ち付けたくなる衝動を必死に噛み殺して、手汗がにじんできた両手の指に力をこめる。
とんでもなく間抜けな顔になっているであろう私をしばし見つめて、やがて呆けていた彼女の表情がくしゃっと崩れた。
ひひっと忍び笑って、頭に手を伸ばしてくる。
「追いついたから許す」
わしゃわしゃと髪を撫でくりまわされる心地よさに、緊張の糸が緩んで一気に力が抜けた。
身体が前へと傾いて、彼女に覆いかぶさりそうになって。
あわてて体勢を立て直す前に、柔らかく重い質量に受け止められた。
「するときは大胆なのに、ウブなのも相変わらずですねぇ」
「むぐ、」
後頭部を捕らえた彼女によって、顔が豊かな胸元に埋められる。
刺激の強すぎる感触と甘やかな体臭に情緒がかき乱されて、意識が遠ざかりそうになる。
最後まで決めきれない己の情けなさが恨めしい。
けれど、ご満悦で抱きついてくる彼女の仕草を感じて、伝わったのならいいかと流されかけている自分もいる。
惜しみなく注がれる愛にどれだけの言葉と行動を重ねれば足りるのか、私には推し量れない。
彼女との日々を歩むたびに、話したいことが、想いがあふれ出して止まらない。
きっとそれは死ぬまで満ち続けるもので、たくさんの形で伝えていくことが私なりの愛情表現なのかもしれない。
ちなみにこの後、摂り過ぎたカロリーを燃やしたい彼女のお誘いを受けて昼と夜の運動に付き合うことになった。