キャンパスの学生たち

 雨が降る日、傘を差して歩いていた望月は、キャンパスであのマドンナの姿を見かけた。 緊張しながらすぐ後ろを通ったが、マドンナは気づかなかった。望月は悶々とした気分を持て余した。

別の日にまた、乗降客の多い駅の改札の前で、偶然マドンナと鉢合わせした。女友だちらしい若い女性と歩いていた。

 望月はわざとまっすぐに、マドンナの方に進んだ。マドンナは睫毛の長い大きな目を開いて、望月を正面から見た。そのあと下を向いて自分から身をかわした。

 その後しばらく、マドンナの姿を見かけない日々が続いた。望月は、マドンナへの恋心に迷っていた。これからも期待を持ち続けるか、それとも、そろそろ諦めてしまうか。

 そんなところに、マドンナは急に目の前に現れた。

 ある講義で、望月が教室のいつもの席にすわっていた。すると、目鼻立ちの整った顔が、教室の入口の向こうで光ったように見えた。見つめた望月は、ひどく緊張した。

 マドンナが女友だちと一緒にいた。彼女たちはなんと、広い教室の中で望月の前の列にすわり、声を上げて話し始めた。望月は、マドンナに接近できる機会はこの講義の時だろうと、以前から予想していた。

 マドンナは驚いたことに、望月のすぐ目の前にすわった。手を伸ばせば届く距離だった。望月はうれしかったが、緊張した。自分の所作に注意した。よそ見をしたり、体を机に伏せて寝たふりをした。ときどきため息をついた。

 マドンナは、急に背もたれに体を持たせかけた。カールした、つやのある髪に、望月は鼻先がくすぐられるような気がした。

 望月は講師の話に聞き入る振りをして、マドンナの肩越しに顔を突き出してみたりした。マドンナが自分の存在を意識してくれたらいいと思った。

 マドンナは、講義の終わり頃になると、友だちの方に体を持たせかけて、ふぜけてみせた。交際相手の相談でもしているのかもしれない。望月はマドンナの茶目っ気のある一面を見て少し失望し、他方では少し安心した。

 つかの間の幸福な時間が去ると、望月はつらくなってきた。マドンナと知り合う機会なんて、やはりこれからもない。恋に落ちるなんてことはあり得ないだろうと改めて思った。


翌週の同じ講義のとき、望月はそれでもやはり、恋心に動かされるままマドンナの姿を探した。しかし、どこにも見つからずにがっかりした。

 講師は予定より早く講義を終了させた。すると実は、マドンナがそばの席にいたことが、講義の終わり頃になって分かった。望月は友だちと早々に教室を出た。マドンナも出てこないかと振り向いて、教室の出口のあたりを眺めた。しかし、その姿は見つけられなかった。男友だちは図書館につき合ってくれと言い、望月は、その日はもうマドンナのことは諦めた。

 ところが、図書館からの帰り、先ほどの教室の入り口からほど遠くないところに、再びマドンナの姿を見つけた。そちらに視線を遊ばせながら、キャンパスの歩道を友だちと並んで歩いた。

 マドンナとの出会いに期待していたその講義は、一年間で終わることになっていた。あと数ヶ月で、顔を合わせる機会はなくなってしまう。そう思うと、望月は気もそぞろになった。


「野口の奴、直子に惚れてるみたいなんだよ」

 クラスメートの日野が、望月に耳打ちした。二人は、真夏の太陽に照らし出されたキャンパスを並んで歩いていた。

 野口も直子も、望月のクラスメイトだった。日野は、野口が初めて直子をデートに誘う場面に立ち会っていた。狭い電話ボックスに一緒に入り、横合いから受話器に耳を押し当てて、会話の内容を聞いていた。結局、野口は色好い返事をもらえなかった。

「何だか、付き合ってるのがいるみたいなんだよね。それで、かなり落ち込んでてさ。あいつは、かなり本気だよ」

 望月は、好きな女性への交渉に一緒に連れ添っていくほど、野口と親しくはなかった。淡泊で一定の距離を常に保った関係だった。恋愛問題で悩む若者がここにもひとりいるのかと冷静に思い、ひと言言った。

「付き合ってるのがいるんじゃあ、むずかしいだろう」

 あとから振り返れば、学生たちの身も心も自由な青春時代が、この頃から始まっていた。


 文芸部の付き合いでは、望月は豊岡と阿部と意気投合して、よく飲んだ。

 豊岡は、世相を嘆くような口調で話した。

「最近の大学生は、政治問題や学生運動には、あまり関心を示しませんね。昔からノンポリという言葉があるじゃないですか。マスコミから批判されていたんですよ。ぼくも大学生ですけど、締まりのない大学生の生活には不満を感じてるんです。女子学生たちが国を滅ぼすって、警告を鳴らす識者もいるんですから…」

 望月は、最近読んだ新聞記事の話をした。

「この間、関東の大学の女子学生が、わざわざ関西の盛り場に出かけていって、脱いだらしいよ。男の助平な客の前で、衣装を一枚ずつ脱ぎ捨てて…。ダンサーだな。そんなのがおれたちのキャンパスで、身の周りの女子学生の中にいるってことだよね」

 阿部もひと言付け加えた。

「教え子に手を出した大学教授もいたよね。不倫のスキャンダルだね。挙げ句の果てに、家庭も社会的地位も失ったっていうけど…。普通の平凡な学生には信じられないようなことが、普通の場所で結構、起こってるんだよ」

 その晩は、三人の中で特に豊岡が飲み過ぎた。

 豊岡はにこにこしながら、友人の言葉も酒も快く受け入れた。しかし、二軒目の店を出たところで、豊岡の内蔵はアルコールに耐えられなくなった。

 重たい体を持て余し、人々の行き交う街路にじかに座りこんだ。目つきはおぼろで、体を揺すっていた。通行人の視線を無視して、空を見上げて大声で歌を歌った。望月も気分を良くして、行動を共にした。

 比較的冷静だった阿部が、腕時計で時刻が一二時に近づいているのを確かめた。

「それじゃあ」

 そう言って、駅の方向に歩き始めた。

「帰らない、帰らない」

 豊岡が阿部の背中に向かって、大きな声を浴びせた。

 勝手な節を付けて歌った。続いて、望月も笑いながら口ずさんだ。阿部はそのたびに、体をわずかに左右に揺らして、笑いながら引き返してきた。

 その繰り返しを、酔った三人の学生は夜の街で楽しんだ。


 三人がすわりこんでいると、背広姿の中年男が、にこにこしながら声をかけてきた。

「なんだ、どうした?おい」

 学生たちを見下ろし、ひたいに手を当てていた。夜の薄闇の中で、眼鏡の中の両目を細めていた。大声で歌う威勢のいい若者に興味が湧いたらしい。本人もどこかで飲んできて、すでにできあがっているらしかった。

「酔っ払ってるんですよ。はははっ」

 豊岡がいい気分になって、大声で答えた。

 望月は上目づかいに尋ねた。

「何をやっている人ですか?」

「私は銀行員だよ。元気だなあ、みんな。よし、気に入った。飲みに行こう」

 銀行員は初めて会った三人の学生に、中華料理をごちそうした。

 豊岡は回転するテーブルに向かって、最初は行儀良くすわっていた。赤ら顔で眠そうな目をしていたが、冷静に会話していた。

 しかし、やはり三人のうちで一番飲んでいて、酔いは簡単には醒めていなかった。

 話している最中に突然、胃の中の物を猛烈な勢いで、口から吐き出した。

 大皿に並んだ大きな餃子の上に、吐いた物が広がった。高級料理は、ヘドロまみれになった。従業員があわてて片づけに来た。

「いやあ、こいつは大物だ」

 中年の銀行員は豊岡を指さして、大笑いしながら言った。

 全員が酔っていたせいか、その場はそれほど白けなかった。しかし、もはや料理に箸を伸ばす者はいなかった。


三人はやがて、中年男と別れた。

 結局、豊岡は体を引きずるような歩き方になった。三人のうち、その場所から一番近い所に住んでいたのが望月だった。

 阿部も帰宅を諦め、三人は望月の下宿部屋に泊まることになった。

 豊岡は駅から下宿までやっと歩いてきた。望月の部屋に転がり込んだ。望月はあり合わせの布団を押入から出して、座敷に広げた。泥酔して仲間に迷惑をかけたわりには、豊岡は寝つくのが早かった。

 望月は横になったが寝つきが悪く、特にアルコールの入った晩はそうだった。

 阿部はそれ以上に眠り込むのが苦手らしいことが、望月にはその気配で分かった。

 横になった望月がときどき視線を送っていると、阿部はうつぶせの格好で自分の恋の話を始めた。

「北海道に、高校時代からつき合っていた女性がいたんだよ。そのうち、ぼくが東京の大学に入学することになったでしょ。東京に発つ日、彼女は空港まで見送りに来てくれたんだ。今までのようには会えなくなるし、遠く離れて暮らすことになるなって覚悟したんだ。二人とも、自分たちの将来のことはよく分からなくてね。付き合いを続けられるのか。他に付きあう人ができて、別れてしまうのか。不安でつらかったな。飛行機の座席にすわって、雲海の向こうの太陽を眺めてたよ。彼女との別れを惜しんで、涙を流れてきてね」

 阿部の神妙な横顔が、部屋の薄闇の中に浮かんでいるのを、望月は見た。その姿は、望月の記憶にのちのちまで残った。

 望月は北関東の出身で、一時間も電車に乗れば実家に戻れる。自分とは異なり、阿部の感じる関東と北海道の距離には、格別な遠さがあるのだろうと感じた。

 阿部は、身だしなみには特別な気配りはしていないようだった。髪型は、長髪を肩のあたりで切り揃え、服装はジーンズとポロシャツが多かった。もともとほっそりした体つきで背が高かった。色白の美男子で、性格もさっぱりしていた。女子学生には持てているらしかった。

 望月は、阿部と彼女の仲がその後どうなったのか知ることはなかった。


 望月が深雪とラブホテルで過ごした熱い夜から、一ヶ月くらいが経った。望月はためらったあとで、深雪のところに電話をかけた。

 会わない間に何度も、深雪のことを思い出していた。夜中に布団に入ると、深雪の声や体温や動きを思い出して興奮していた。愛情よりも性欲が先行しているようだった。性欲を満たすのに都合の良い女が見つかったような気がしていた。

 深雪は自分の住む港町で会いたいと言った。しゃれた喫茶店で待ち合わせ、正面の席に着いた深雪は、ぽつりと言った。 

「もう会わない方がいいのかもしれない」

「えっ、それはどういうこと?」

 望月は驚いて尋ねた。

「わたしね、アメリカに留学するの」

 深雪は、視線を窓の外の森と芝生の方に向けていた。しかし、気持ちは、望月の気配と次の言葉に向かっているようだった。

「留学?うそでしょ?」

「本当よ。前から行きたいと思っていたの…」

 望月は返答に窮した。

「だって、知り合ったばかりじゃない、おれたち…」

「そうね」

「もう決まっちゃったの?」

「外国を自由に飛び回りたいの」

 深雪は望月の同意を求めるように、にこりと笑った。

 望月は気を取り直して聞いた。

「どれくらい行っているの?」

「とりあえず一年。それからまたどうするか、今は分からない」

「長いね」

「一年て、長いのかな、短いのかな」

 深雪は首を左右にひねる。

「外国かあ。会えなくなっちゃうかな?」

「うん。そうね」

 深雪は視線を落とした。

 望月は一呼吸置いた。

「でも、君のことは好きだよ」

 深雪は疑り深そうな目つきをしてから、にっこり笑った。

「ありがとう。わたしも…」

 望月は外の景色を眺めた。

 深雪は軽い口調で言った。

「そのうち、またいつか会えるかも…」

「そうだね」

 望月はかすかに笑った。

 喫茶店を出た望月は、駅への道すがら深雪に尋ねた。

「ねえ、もう一度、どこかで二人だけにならない?」

「うん。でも、離れられなくなると困るでしょ」

 望月は深雪への欲望を体の中で持て余した。

 駅前で別れるとき、望月は言った。

「ねえ、最後にもう一度だけ抱かせて」

 望月は深雪の体に抱きつき、しばらく動かずに抱き心地を味わった。深雪も抵抗しないで、体を任せているようだった。そのうち、周囲の視線が気になり始めた。


 望月は数日後の朝、あの超高層ビルを見上げた。教授の家に泊まったあとにも眺めたことを思い出した。

 ビルは雄大で、山岳地帯の巨峰のようにも見える。巨峰の山頂には、何か巨大な彫像が腰を据えている。巨峰の裾野には、人々の暮らす町がある。

 彫像は台座に鎮座している。人々を見下ろし、人々は彫像を見上げている。仰ぎ見る人々は、せわしない様子で動き回る。彫像に対して憧れと、一方でひがみを覚える。見下ろす彫像は余裕のある様子を見せて、人々に対して誇りと、一方で哀れみを感じる。

 あるいは、ビルはゾウのようなものかもしれない。自分はアリのようなものかもしれない。毎日あくせくして、下界を走り回っている。地上の出来事、日常的な事件に巻き込まれ、引き回されている。

 自分では、ちょっといい女に見えた女子学生の深雪を遊んでやったつもりでいた。それが、不意に相手からぽいと捨てられてしまった。向こうの方が上手だったか。


文芸部の部員の一部は、授業のないときにはよく部室に集まっていた。望月がたまに部室に顔を出すと、おなじみの面々を目にした。

 その中には、読書好きで黒縁の眼鏡をかけ、地味な雰囲気の女子学生も混じっていた。文芸部はもともとが、外部からは地味に見られる部活動だった。部員の女子学生たちは、おしゃれや外見には、あまり興味はないようだった。髪の手入れもせず、いつも同じTシャツとジーパンを着ていた。

 そこでは、本来の文芸の活動はわきに置かれているようだった。部員たちは、同じ趣味の仲間を欲しがっているようだった。仲間同士で話をしたり、ときにはすることもなく時間を過ごしていた。部室は単なるサロンの観を呈していた。

 そんな雰囲気は、真剣な自己研さんの場を求めていた部員たちには、物足りなかった。望月や、彼と仲の良かった豊岡、阿部などは不満を感じ始めた。


 活動の一端として、部員の書いた作品を互いに批評する合評会が、定期的に開かれた。 そこで繰り返される学生たちの文学議論は、我田引水の意見が多く、独創的なものはあまり聞かれなかった。中には、その場で何かの本の一節を読み上げる者さえいた。

 冬のある日の合評会で、ある女子学生の書いた短編小説が、文学に真剣に向き合う先輩の男子学生によって酷評された。女子学生はおどおどした目つきで、一方的な非難の声を聞いていた。

 望月は不快感を催し、腹が立ってきて言い捨てた。

「こんな意見交換は、醜悪ですよ」

 その場の仲間たちが一斉に、望月に目を向けた。望月は口を尖らせていた。

 その日の飲み会で、先輩のひとりは尋ねた。

「どうしてあんなことを言ったんだ?」

望月はふて腐れて、真面目に説明する気にはならず、ひと言言った。

「何だかみんな、創作の技術という点で厳しいことを言う人が多くて、仲間のいいところをほめて、才能を伸ばそうなんて考える声は聞かれないですよね?」

 相手の先輩は黙っていた。

 このことが直接の原因となって、望月はやがて文芸部を去った。間接的な原因は、深雪のことだった。深い関係になった深雪は、女の気まぐれなのかアメリカに行ってしまう。深雪と別れて以来、文芸部に在籍することに意味を感じなくなっていた。

 結局、仲の良かった部員は、豊岡、望月、阿部の順で退部していった。


 望月の大学一年の年も、風の冷たさの中に秋の深まりが感じられるようになった。

 その日の授業を終えた矢野教授は、ほっとした表情だった。伏せていた目を上げると、教室の中に目を泳がせた。望月の予想通り、室内に残っている何人かの男子学生の顔を見つめた。少し恥ずかしそうに、小声で言った。

「ビールでも飲みに行きましょうか?」

 主だった男子学生たちに異論はなかった。教授の酒の誘いは、それまで何度か受けていた。

 学生たちは教授と約束した時刻まで、駅の改札の前でたむろしていた。通行人をやり過ごし、大学の正門から出てくるクラスの女子学生に、ひとりずつ声をかけた。そのほとんどは、都合が悪いからと言って、改札の向こうに消えていった。中には、無言で強く首を横に振る女子学生もいた。佐々木幸子ともうひとりの女子学生だけが承知した。

 一,二度、皆で行ったことのある居酒屋で飲み始めると、文学部の学生仲間によくあることで文学論が始まった。

 そのうち、秀才の趣のある永山は酔いが回ってきて、真面目そうで、色白で可愛らしい顔をした幸子に言い寄り始めた。永山は半ば正気で、羞恥心を持っていたが、握った幸子の手を離そうとしなかった。幸子は半分は恥ずかしそうにしていたが、警戒して他の男子学生たちに救援を求めた。

 男子学生たちは、永山を強く非難するわけにはいかず、遠慮がちに罵声を浴びせ、忠告を与えた。

 一行が居酒屋を出ると、矢野教授は永山の腕を引っ張った。

「永山は、ぼくと行くぞ」

 教授は、悪酔いして女子学生に下心を出した永山を、引き受けるつもりらしかった。永山はすでに他の学生とは別格扱いされていた。

 二人と別れた学生たちは喫茶店に入り、コーヒーを飲んで酔いを醒ました。

 幸子は永山に無理に飲まされたせいで、店を出た所の歩道のわきで、一度口に入れたものを急に吐いた。この頃の学生仲間は皆、アルコールの味を覚え始めた年齢だった。

望月はその姿を見て驚き、反射的に幸子に近寄り、肩を抱いて体を支えた。

「吐いちゃった方がいいよ」

 片恋に悩んでいるらしい野口が、わきから声をかけた。その種の経験は豊からしかった。

 望月がその背中をさすると、幸子はまた少し吐いた。少女のような細い背中に、同情心がわいた。望月は幸子の肩を抱いたまま、恋人に接するようにずっと連れ添った。

 改札の前で、望月は尋ねた。

「もう吐き気しない?」

 幸子は小さくうなずいた。

 プラットホームに出ても、幸子の体はふらついていた。

「椅子にすわる?」

 望月は、顔色を覗き込んで声をかけた。

「ううん、もう大丈夫」

 幸子は、そう言ったが、やせ我慢しているように見えた。

 男子学生たちに見苦しい姿を見せてしまった恥ずかしさがあるようだった。ベンチの前まで来ると、言葉と裏腹に望月の導きに応じて腰を下ろした。

 野口がまた言った。

「帰る方向が同じだから、送ってやるよ」

 他の男子学生たちは、体が思い通りにならなくなっている幸子の様子を見た。不謹慎なことは何もしないという誓いを守らせるため、ひとりひとり笑いながら、野口と指切りをした。

「怪しいなあ」

「ちゃんと送り届けろよ」

「変な考え起こすなよ」

 望月は、野口にはよこしまな考えはないだろうと思っていた。思い詰めた末に振られてしまった直子のことで、野口の頭はいっぱいだろう。

 次の日、幸子は望月を見ると、前日の醜態を思い出して恥ずかしそうな顔をした。すぐそのあとで、面倒を見てくれた礼を言った。野口に聞いたところでは、幸子は送られた途上で、また戻したらしかった。


 望月は西洋文学を学び始めて、ある宗教に出会った。文学ばかりでなく、それはあらゆる精神活動、文化に通底していた。

 あるとき、文学部の教授のひとりが、独り言のように言った。

「文学というのは、人に教えられる代物ではないですね」

 望月はすぐに、教授を非難したくなった。あることを他人に教えられないと分かっていながら、どうしてそれを教える仕事に就いているのか。教育者でありながら、教育をある点で否定している。その点で自己矛盾を来している。

 しかし一方で、すぐにその通りだと思って共感した。それが、その教授が文学という複雑で怪奇な代物と格闘した上での実感なのだろう。学生と教授では、知識も経験も違うが、その点では共通認識に立っていると感じた。

 そして、文芸と同じように宗教も、抽象的で深奥なものだ。自らその価値を見い出し、入り込んでいく世界なのだろう。


幸子は望月のクラスの中で、そんな宗教に感化された者のひとりだった。

 ある機会に、望月は幸子に尋ねた。

「どうして信者になったの?」

「教会に行ってみたの。そこでよく考えて、入ることにしたの」

「矢野先生も確かそうだったよね」

「ああ、そうみたいねえ……」

 幸子は宙に目を泳がせた。

「それはどんな気持ちで、そう決めたわけ?」

「神はすべての物を造って、動かしてるわけでしょう。すべてを愛して、限りない慈愛を施すのよ」

「そういう…、自分よりもはるかに大きな存在を考えたことはあるけど、それが神であるかどうかは、よく分からないな」

「一度、あなたは今、幸福ですか、悩みはありませんか、現在の生活に満足していますかって聞かれたのよ。神を信じることで、その悩みは和らぎます。この地球上に、不安をいだいている人が数え切れないほどいます。神と共に生きることによって、あなたは孤独な辛い束縛から解放されますって…。夜、ひとりになって考えてみると、人間って、すごく不安でしょう。ひとりじゃ何もできないし、事故からも病気からも逃げられないし、明日はどうなるか分からない、本当に弱い存在だと思うの。何か支えがないと生きていけないって思ったの」

「神というのは、人間が頭の中で創り上げた虚構じゃないの?」

「そうかもしれないけど、そうやって創り上げた神が心の中で育って、ただ一つの真実になることもあるでしょう?」

「要は、信じるということか?」

「信じるところから始まるのよ。でも、信じるか信じないかが問題じゃなくて、神はそれを通り越して、私たちを見守って愛し続けるのよ」

「でも、神は万能じゃないよね?重い病気の人は、ただただ苦しんでるよね」

「でも、祈ることで心の安らぎが得られるでしょう?」

「神は、やっぱりいると思うわけ?」

「あたしは、いると信じてる。神って、固い殻に閉じこもって拒むような種類のものじゃないのよ。寛大な心で暖かく迎え入れてくれるのよ」

 幸子は狂信者でも理屈屋でもなく、日常は穏やかな明るい性格の女性だった。幸子が宗教に傾倒した理由は、その真面目な性格ばかりではないだろう、と望月は想像した。

 地方の親元を離れ、東京でひとりで暮らす女子学生は、時には孤独に包まれる。恋人のいないらしい幸子には、その寂しさとともに、ホームシックの孤独が覆いかぶさっているようだった。

 望月も自分で感じていたとおり、都会の人混みの中で、感受性の強い年代を生きることの困難さもあるような気がした。


 学部の友人の長谷川は向学心の旺盛で、仲間内では孤立していた。長谷川は個人主義的で、決まった友人を作ることがなく、ひとりで行動することが多かった。

 望月は仲間たちと文学部の研究室で、象徴派の詩を原文で読んでいたことがあった。そこに長谷川がやってきて、聞いた。

「なに、しているの?」

 誰かが夭折した有名な詩人の名を答えた。

「ああ、いいよ、いいよ」

 長谷川はそう言って、仲間たちの方に近寄ってきた。長谷川は、よくその詩人の名を挙げて、駆け抜けていった激動の青春を熱い口調で語っていた。

 そこで、日頃から長谷川の鼻持ちならない性格に反発を抱いていた男子学生が、すかさず混ぜ返した。

「いいよって、なにが?」

 男子学生は、わざと相手の意味するところが分からない振りをして、聞き返した。

 長谷川が「いいよ」と言ったのは、「君たちに、その詩の意味を教えてやってもいいよ」という意味だった。頼まれもしないのに、同じ学生の身分でありながら、ものを教えてやると、自分からわざわざ言ったのだった。

 仲間たちの中には、状況を理解して、苦笑する者もいた。


 長谷川は文学に感動し、拘泥する若者のひとりだった。周囲は本人が思うほど評価していなかったが、自分の知識や思考力に自信があるようだった。

長谷川は負けず嫌いの性格で、一時期、学部の中では秀才の趣がある永山の知性に目を見張り、対抗しようとした。年上の永山を君付けで呼び、仲間たちのいる前で文学議論を仕掛けた。

 永山と議論して、言葉の端々に傲慢なところを見せた。相手を見下したり、傷つけたり、口論を仕掛けるようなことはなかった。しかし、その意見をこともなげに否定したり、自分の優位を示すような言葉を、急に言ったりした。

 永山は日頃の幅広い読書で裏付けされた、奥行きのある的確な言葉で、議論の対象を表現した。しかし、要所要所で謙遜の風を見せた。

 結局、長谷川は永山にはかなわないと、傍目にも見受けられた。本人も気づいているようだった。しかしついに、長谷川の口から永山を尊敬する言葉は出なかった。

 長谷川は意欲的な態度で、将来は知識人のはしくれになろうと志しているようだった。しかし所詮、スノッブの域を出ないように望月には思われた。

 長谷川は様々な分野で、若者らしく積極的に活動していた。寺の住職の息子で、関西の総本山に修行に行ったときには、頭を丸めて帰ってきた。スポーツマンで、ボクシングジムに通っていた。

 その一方で、付き合いの進んだ望月や他の友人に自慢げに告白したこともあった。顔を赤らめて笑った。

「ときどき叔父さんに、風俗営業の浴場に連れて行ってもらっているんだよ。気分がさっぱりするよ」

 タレントや俳優のスキャンダルにも明るく、興味のある裏話をやゆしたり、茶化したりして見せた。鼻持ちならない学友という感が強かった。


 しかし、望月は長谷川の心の強さには興味を抱いていた。一度尋ねられたことがあった。

「望月は、何か人生の目標はあるかい?」

「目標は、今のところはっきりしたものはない。ただ物事に感動はしていきたい」

「おれも具体的な目標は模索中だ。でも、情熱的に生きたいね。未来に向かって、いつでも前進していきたいね」

長谷川は実体験を語り出した。

「おれのお袋は、腸捻転だったんだけど…。腸が勝手に動き回る病気だよ。おれ、病院のベットのわきで看病してたんだ。お袋、痛くてもがき苦しんで、夜中におれの髪の毛を夢中で引っ張るんだよ」

 長谷川は興奮した様子で手を伸ばし、望月の髪の毛に触ろうとした。

「それで、死んじゃったんだよ。あの時、おれは思ったんだよ。人生は、戦いだって…。生きているのって当たり前のことじゃなくて、本当にありがたいことなんだって……。生半可な気持ちでだらだら生きていちゃだめだって」

 母親の死を引き合いに出して、自分の人生観を語った長谷川の真剣な目つきを、望月は後日何度も思い出した。


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