高層ビルの下

友野茂隆

教授の原風景

 街燈に近づくと、矢野教授はこう口走った。

「ぼくのねえ、心象風景として、戦災の時の死体のごろごろした場所を歩いていた自分の姿が、原風景としてあるんですよ」

 望月は、思わず地面から足を浮かせた。教授と肩を組んで闇の中を歩きながら、死体のひとつに足をぶつけて、つまづくような感覚を覚えた。

「母親に手を引かれて、首を縮めて無我夢中で走ってね」

 教授は、終戦間近の東京大空襲の時の思い出を話した。廃墟と化した大都市に累々と群がる死体の山のことを短く語った。

「そういう時代だったんだ」

 望月は戦争を知らない世代だったから、何も言えなかった。ただ脳天を貫かれたような思いがあった。「死体のごろごろした場所」を、目前の光景のようにありありと思い描いた。

 その心象風景は心の奥底に印象深く残った。これがこの教授の正体の一つなのか。


 時代は昭和五〇年代、今から四〇年近くさかのぼる。その頃、望月が大学に入学して二年が終わろうとしていた。

 矢野教授はその晩、アルコールがかなり体内に入っていた。いつもの鋭い知性の働きが鈍くなり、無礼講を楽しんでいるようだった。

 教授は酒盛りのあとの腹ごしらえに、評判の手打ちラーメンの店に、望月たち学生を案内した。それに続いて、一行はアルコールの匂いにつられるようにして馴染みのパブに入った。望月たちはボックス席に案内された。豪華なソファに座らされて、学生たちは少し驚いたが、雰囲気に慣れるとそのうち満足顔になった。

 教授は店の女主人をママと呼んだ。

「ママ、ボトル入れるから…」

 望月たちは、風俗営業の店の側から見れば、珍しく若い客だった。教授は酒の席の座興で、職業を医師と偽った。大学教授という肩書きでも、十分に世間に通りの良い職業と思われた。教授は、相手に分かりやすい印象を与えたかったようだった。

「みんな、ぼくの医学部の教え子たちなんだよ」

 教授は、学生たちを店の女性たちに見せびらかそうとしていた。中年男性の客に慣れている女性たちに新鮮な体験をさせ、動揺して色めきだつ反応を楽しもうとしているようだった。

しかし教授は、文学部の大学教授という自分の堅苦しいレッテルには、普段から少し嫌悪を感じているらしかった。そんな本心を、これまでに何度か望月たちに漏らしていた。

 もともと平凡なサラリーマンになるのがいやで選んだ職業らしかった。しかし内心では、象牙の塔にこもって、実社会の生存競争に参加していないことに引け目を感じていた。今も、学生時代の延長線上にいる自分を意識していた。

 ボックス席にはママとホステス二人が着いて、場を盛りあげた。そのうち、当たり障りのない性的な話題が会話に上った。

「先生に、太い注射してもらいなさいよ」

 ママが店の若いホステスに、品のない冗談をけしかけて、席を離れていった。

「お店終わったら、旅館に行きましょう」

 教授は調子に乗って、そう口にした。内心、はにかんでいるように見えた。

 望月たちは、「ホテル」と言わずに「旅館」と言った、教授の古風な言葉づかいに笑いをこらえた。望月たちは、厚化粧で東北訛りのホステスの返答を、おもしろおかしく待った。ホステスは教授を正面から見つめて、正直そうな様子で、済まなそうに言い放った。

「だって、お父さんみたいなんだもん」

 教授は目を丸くし、おどけて、しょげて見せた。望月たちに同意を求めた。

「こうなんですよ」

 望月たちは一斉に吹き出した。

席に戻ってきたママは、往年のスポーツウーマンらしく体格が良かった。雑談の最中の何かの弾みで、望月の股間を軽く手のひらで叩いて言った。

「元気なんでしょ?ここ」


教授は学生たちを引き連れて、今度は風俗店の種類を変えてバーに入った。

 そこの女主人のことは、今度はマダムと呼んだ。マダムは良妻賢母の雰囲気だった。酒の席の戯言で何かの拍子に、隣にすわる望月に体を持たせかけてきた。

「可愛がってほしい」

 マダムは母親ほどの年恰好で、望月はとまどった。

 教授はパブでもバーでも、店を出る際には、どさくさ紛れを利用して女主人に突然しがみついた。

 体を密着させて、社交ダンスの真似事をした。望月たちに見せるためではなかった。目の前の女盛りの体に対して、自分の欲望を満足させるためらしかった。パブのママと、バーのマダムは対照的だった。それが、教授と体を寄り添わせてフロアで優雅に踊り出すと、同じ一人の女に変貌してしまった。


 教授は、学生たちに声をかけてバーを出た。学生たちは隣にすわったホステスに夢中で、教授のあとに従ったのは望月だけだった。

 教授は懲りずに、赤ちょうちんの下がる居酒屋に向かった。はしご酒は五軒目になった。

 カウンター席にすわりながら、教授は前の店に残った学生たちの態度に不平を言った。

「彼らは、けしからんな」

 望月も同調した。

「同じ行動をとらないのは良くないですよね?」

 すると、教授は語気を荒げた。

「いや、付き合いの仕方ではなくて、ぼくの付けで彼らが楽しんでいるのがけしからんと言ってるんだ」

 望月は声を立てずに笑った。自分も、ただ酒を飲んでいるのかと思うと恥ずかしくなった。


のれんをくぐった教授はよろけながら、望月をさらに誘った。

「もう一軒行こう」

「もういいですよ、先生」

 望月は、はしご酒の好きな教授の腕を引っ張った。二人は、その弾みで互いに肩を抱き合った。酔いしれた教授は、素面のときのインテリの気取りをどこかに捨ててしまった。町を歩いている普通の飲んだくれた親父だった。傍若無人に生あくびをして、しゃっくりのあとでげっぷを出した。

 歩いていくうちに、やがて歓楽街もうしろに遠ざかった。望月たちは、住宅街のありふれた夜の道を歩いた。深夜の闇の中は、突っ走る車も急ぎ足の人影もなかった。街灯が、寂しげに一人ぼっちで突っ立っていた。

 望月は父親のような教授の重みのある体を支え、自らの体も教授に預けた。

 たばことアルコールの入り混じったにおいを、鼻先に感じた。望月の口臭もひどかったが、教授の飲酒と喫煙は年季が入っているように感じられた。

 望月は自分が子どもだった頃の父親のことを思い出した。教授の口臭は、望月を抱えた父親が口元から発散させていた匂いに似ていた。

「ぼくは、先生、本当を言いますとねえ」

 酒場でやった文学論や人生論を締めくくるようにして、望月はうなるように言った。

「人生って空しいなって、思ったことがあるんですよ」

 すると、教授は急に酔いが覚めたような語調で、切り返した。

「そういうことは、ぼくは聞かないことにしてるんです」

 望月は、冷水をかけられたような気分だった。黙って頷き、まずいことを自分は言ったと感じた。解決のできない問題を、他人に提示しても仕方がない。

 教授の大空襲の戦争体験を聞いたのは、そのあとだった。


 その晩は、望月は酔った勢いで誘われるまま、教授の家に泊まった。

「君は下宿暮らしだよね。遅いから泊まっていったら……」

 教授の妻は、不意の客に面食らったようだった。しかし、教え子だと分かると、望月を愛想良く迎えて丁重にもてなした。

「真理子のベッドが空いているだろう」

 教授は、望月が今夜寝る場所として娘の部屋を選んだ。その部屋は、今は都合で空いているようだった。

「そうねえ」

 妻は急いで部屋の支度を始めた。

「すいません」

 望月は頭を下げて礼を言った。

「散らかってますけど、ごめんなさいね」

 妻は夫に似て理知的だったが、同時に家庭的だった。窮屈な知識人の生活の中で、教授に安堵と平和を与える役割を担っているように見えた。

 望月は、教授の書斎に通された。書斎の本棚に並ぶ古今東西の書物を眺めた。教授は、それを背中いっぱいに背負っているように見えた。

「大学教授って大変じゃないですか?」

「そうでもないですよ」

 まだ若い教え子から、ねぎらいの言葉をかけてもらうほど、自分の苦労は多くないと謙遜しているようだった。

「それなりにやっていれば、結構、何とかやっていけますか?」

 望月が軽々しい見方を口にした。すると今度は、気に障ったような顔つきをした。

 そのうち、台所に立っている妻が教授に向かって、小さい子どものことで何かこぼすように声をかけた。書斎の中は音が良く響き、望月の耳にそれが入った。それまで開いていた口を遠慮して閉じた。

 運動会か体育の授業のときに、娘が誰かにずるをされて、何か貧乏くじを引かされた。それで、泣いて走って帰ってきたのだという。妻が口にした相手の名に、望月は覚えがあった。

 教授はのちのちの便宜も考えたのか、自分の娘を勤務先の大学の付属小学校に通わせていた。ずるをしたのは、娘と同級になっている大学の理事長の娘らしかった。

 教授は望月の様子に気付いたのか、返答に窮して、あいまいに言葉を濁した。

「しようがないなあ、まったく」

 教授は以前、人生には無用の用がある、と諦めたような表情で口にした。このときも、無用の用をまた一つ見つけたようだった。本来の用と取り違えそうになり、心の中に生まれた不快感を押し殺したように見えた。

 望月は成り行き上、教授の娘のベッドに入った。

 それは、教授の娘がかつて温めていた布団らしかった。娘も望月の大学に在学していた。その姿は何度か見たことがあった。髪の長い、目鼻立ちのはっきりした女性だった。望月は特に異性として意識したことはなかった。意識の対象は、他に何人もいた。

 しかし、特別な感情はなかったが、布団の中で性的な感覚を覚えた。ぬくもりの中で、間接的に娘と交わっているような気がした。おそらく、女性が使っている布団に潜るのは初めての経験だった。

 後日、友人にこの体験を話した。友人はにやにやと笑った。


 翌朝、望月はいつもより早く目が覚めた。教授は、昨夜とは違う冷めた口調で聞いた。

「君、ご飯は食べていくかい?」

 望月は朝になって、昨夜の酔いから冷めて冷静になった。大学教授の家に一泊して、その上朝食までご馳走になる気はなかった。

「いいえ、これでお邪魔します」

 夫婦は揃って、望月を玄関まで出てきて見送った。望月は頭を下げて、居心地の悪い場所から退散するように、住宅街の通りに出た。

 周囲を見回すと、通りから超高層ビルが見えた。昨夜は闇に紛れて、よく見えなかった。 ビルは、都心の大きな駅がある方向に建っていた。六〇階以上で、数年前に建てられた有名な建造物だった。

 ビルは遠くから眺めると、どこかの国にある宗教建築の白い塔のように見える。背が高くて、周囲の建物から頭を突き出している。上空に向けて伸びている。

 望月はふと、教授が昨夜話した戦争体験の内容を思い出した。

 人間は、自分たちに手に負えない力を手に入れてしまったように思えた。科学文明、物質文明は、破壊に向けて建設を繰り返す。人が繁栄し、物が増大し、都市が造られ、やがて戦争や災害で壊される。

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