大学での出会い

 二年前に望月が大学に入学したとき、桜は満開だった。

 桜の木が、掲示板の後ろから鳥が羽根を広げるように枝を伸ばしていた。人々を見下ろして、眩しいほどに輝いていた。花びらは枝の先から離れ、日の光に鮮やかに発色して、空中を軽やかに舞っていた。

 上級学校への進学なら、小学、中学、高校とこれまで何度も繰り返してきた。

 しかし、入試の合格を祝福するような、晴れやかな桜吹雪の光景を見るのは、これが初めてだった。

 望月は都心の駅で電車を降り、改札を抜けて広場に出た。大学の正門は目の前にあった。

 構内に入ると、入学試験の合格者を発表する掲示板が、受験生の目には誇らしげに立っていた。望月は受験番号の列を、期待と不安の入り混じった目で追いかけた。

 幸運にも自分の番号にたどりついた。胸の中に喜びと安堵感が広がるのを覚えた。人生の航路の一つがここで開けたと感じた。

 掲示板の周りには、合格の決まった新入生とその父兄が集まっていた。一方で、彼らを取り囲んでいたのが、クラブ活動の勧誘に来た在学生たちだった。

 望月は勧誘の声には、適当にあいさつを返した。キャンパスの中を歩き出し、いくつかの部室を覗き見した。剣道部の部室を探して、ある部室の前に立った。中学生の時は、剣道部に所属していた。

「あっ、いらっしゃい」

 若い女性の華やいだ声が聞こえた。二,三人の女子学生が、部室の隅の椅子から立ち上がって、望月に手を伸ばした。うれしそうな表情だった。

 二言、三言、言葉を交わした。望月は面食らい、慌てて部室を退散した。間違えてゴルフ部の部室に入ってしまったことに気がついた。

 ふとした勘違いだったが、女子学生たちの姿はのちのちまで記憶に残った。

 釣り合いのとれた体を、流行の服装と派手な化粧で飾っている。地方出身の青年の望月には、言葉も身体の動きも軽やかで、都会娘の典型のように思われる。年上で、どこか誘惑の雰囲気を漂わせている。健康的な色気を匂わせている。開花した花のようにこちらに向かって明るい光を投げかけていた。

 望月は、これから大学で魅力的な女性に出会えるかもしれないと期待感を抱いた。しかし結局、ゴルフ部にも剣道部にも入らなかった。選んだのは、運動部ではなく文化部だった。


 望月は大学の講義に出るため、キャンパスを行き来するようになった。

 そこは雑多な建物の林立する都心にありながら、緑の多い学園だった。周囲を城塞のような壁で取り囲まれていた。鉄筋コンクリートの校舎の間に、走るように植えられた何本もの樹木が、敷地の奥へと伸びていた。

 その先にうっ蒼とした森が待ち受けていた。森の中には、昔、武将が血染めの刀を洗ったという、自然のままに保存された丸池もあった。

 キャンパスでは、ある学生たちは青春時代を面白おかしく送っていた。

 遊び好きの男子学生と、おしゃれ好きな女子学生の姿が目だった。モラトリアムという言葉は、すでに流行り言葉として寿命を終え、常識となりつつあった。学生たちが実社会に身を投じて社会人としての活動を始めるまでには、まだ間があった。

 そこには、全体的に開放的で、健康的で、明るい雰囲気が漂っていた。しかし、享楽的で軽薄にも感じられた。

 別の学生たちは、おとなしく大学に四年間通って、卒業証書を手に入れようとしていた。履歴書に、世間に通りの良い大学卒業の学歴を加えることが、結婚や就職に役立つと考えているようだった。健全で、品行方正な学生生活を送っていた。しかし、安直で無気力に思えた。

 法学系の学生たちは、図書館にこもって、机の上に専門書をうずたかく積んでいた。国家試験を目指して、勉強に励んでいた。

 理科系の学生たちは、授業もさぼりがちな文科系の学生たちに比べ、いつも白衣を着て忙しそうで、実験に追われているようだった。


 大学は、いつ行っても女子学生の数が多かった。

 望月は、学内で器量の良い女子学生を見かけると、できれば仲良くなりたいと何度も思った。しかし、ためらって行動に出られなかった。

 ある時、新入生向けのオリエンテーションが行われた。望月は、大教室で女子学生の面々を見回し、その中の一人の女性に心を奪われた。

 その後、その女性をキャンパスで何度か見かけた。俗に卵に目鼻というが、品のある顔立ちで、連れの女友だちには穏やかな笑顔を見せていた。立ち姿にも女らしさが感じられた。

 望月は、その女性を心の中で大学生活のマドンナにすることに決めた。

 その姿を見かけると心がときめいて、恥ずかしさを感じた。男子学生と立ち話しているのを見ると動揺した。しかし、名前も住所も分からなかった。


「飲みに行きませんか?」

 矢野教授は初めて、授業の終わったあと男子学生たちを誘った。学生たちが入学して間もない時期だった。望月のクラスを担当していたのが矢野教授だった。

 教授の連れていった先は和風の居酒屋で、内装が地味で、照明が薄暗かった。

「それでは乾杯」

 入学当初のコンパのときに、すでに自己紹介は終わっていた。学生たちは自分はどういう人間であるか、文学とどのように出会い、なぜそれを学ぼうと決めたのか、少しずつ語り始めた。たちまち文学論のやりとりで、場は盛り上がった。

 望月は、自分と同じ趣向を持つ同年代の者たちと出会えたことに、喜びを覚えた。入試に合格してから入学までの無為の期間に、興味のある外国の作家の価値を認め直したばかりだった。

 文学を職業にする大学教授の人格も教養も、望月には魅力だった。すでに教授は、翻訳や評論でいくつかの著作を発表していた。

 しかし、星雲の志に燃える若者たちに、教授は冷ややかな眼差しを向けた。熱を冷ますような言葉を、議論や雑談の端々に入れた。

「結局、いろいろ勉強して、何かを分かろうとしても、何も分かりませんよ」

 若い学生たちを、教授は珍しいものでも眺めるような目つきで見た。

「君たちは大したものだ。就職に不利な学部を、わざわざ自分で選んできたんだから……。役に立たない外国文学を、一生懸命にやっている」

 望月は、教授が口にする皮肉の混じった一言一言に耳を傾け、その裏に隠れた真意を見極めようとした。

「ぼくなんか、もうそろそろ初老にさしかかってますから…。月々の給料で家族を養っているわけですよ。社会の現実を経験して知っているんですよ。君たちもだんだん年を取って、社会に出ていろいろと苦労すると、分かってくることもあるわけで…」

 望月は奇妙なことを尋ねた。

「先生、感動的なことをですね、この人生で不可欠なことだけに関わって、生きていきたいと思いませんか?無駄な、煩わしいものはすべて除いてしまって…」

 すると、教授は一言呟いた。

「いやあ、無用の用というのはありますからね」

 教授は、望月のタバコの箱から無遠慮に一本抜き出して、大事そうにいじくり回した。

「どうぞ」

 隣にすわっていた学生が、すばやくライターの火を差し出した。

 教授は一見すれば、特色のない普通の中年男だった。しかし、時々気になる言葉を口にし、知識人の片鱗を見せた。

「この間、実はねえ、自殺の方法を書いた若い頃のノートが、押入れにしまってあったんだけど、息子に見つかっちゃってねえ」

 教授は苦笑いして、自己を卑下する表情を見せた。学生たちはあっけにとられて、言葉を継がなかった。


 しばらくして、教授は学生の希望に応じて、酒のつまみに焼き鳥を注文した。

 すると、一ダース注文した串付きの焼き鳥を、若い従業員は一二皿の焼き鳥と判断して、二皿、三皿と運んできた。これを見て目を吊り上げた教授は、その従業員を呼び止めた。

「君、一ダースっていくつですか?」

 従業員は、とまどいながら答えた。

「一二皿ですけど」

 教授は上目づかいで、驚きと軽蔑の表情を表した。

「そうですか、もういいです」

 教授は畳の上で腰を落ち着け、下を向いて諦めといらだちの感情の底に沈んでしまった。こういう場合は、沈黙が最も効果的であると考えたらしかった。相手と押し問答を交わすこと自体が、面倒に感じられたらしい。

 従業員は、狐につままれた格好だった。さまざまな客の相手をして、従業員は忙しそうだった。中年の客が横柄な態度で、いったい何を言っているのか、とけげんに感じたらしかった。

 従業員は、その次の皿を持ってくるべきかどうか、その場で立ったまま迷っている様子だった。そのうち、その表情には、自分の判断を馬鹿にされたという意識が徐々に上ってきた。

 白けた沈黙を取り繕おうとして、永山という学生が気を利かせた。

「もう、この三皿で結構ですから…」

 教授は酒を飲むと、普段の自制心が失われて、大胆になる種類の人間だった。大学教授という職業柄、他人に対する優越感は、もともと持っていたかもしれない。


 学生たちの議論はその後も続き、主題は恋愛論、女性論に移った。

 学生たちは将来に向けて夢見るように、それぞれの理想を語った。女性への夢を多少とも、まだ持ち合わせていた。学生たちの関心は、教授の選んだ妻の話題へと向かった。

「あれは、何かの身体検査のときに、ぼくの落とした上着のボタンを、彼女が拾ってくれたんですね。それが二人の馴れ初めですよ。特に大きな情熱も、運命的な直感もありませんでしたよ」

 そのうち、こうも言った。

「男は抽象ですね。ロマンチストですよ。それに対して女は自然です。自分の体から子どもを産み落として、育てるなんて芸当は、到底、男のぼくにはできないですよ」

 太田という学生が、仲間たちにしみじみと言った。

「おれ、憧れていた女性がいたんだよ。その頃は、理想の女性に近かったんだよ。偶像崇拝って言うか。それが、思い詰めて、思い切って告白したら、振られちゃってさあ。初めてだったよ。きついよなあ、失恋て言うのは……」

 望月は太田をじっと見つめた。すると、太田は尋ねた。

「失恋したことある?」

「ない」

 望月は答えた。

「おれはあるよ」

 他の男子学生が、苦笑いしながら答えた。

「ショックだよなあ、そうだろう?」

「分かる分かる。その通りだよ。一時期、立ち直れなくなるよ。先の希望というか、なくなるもんな」

 望月は合点がいかなかった。しかし、やがて遠からず、その痛みを味わうことになった。

「プラトニックラブは素晴らしいよ」

 太田は付け加えた。

「なに、プラトニックラブって、プラトンはホモだったんだよ。もともと女性を精神的にしか愛せなかったんだよ」

 他の学生に比べて過激な女性論を口にしたのが、永山だった。永山はアルコールが入ると興奮する性癖の持ち主だった。他の学生たちは言葉に詰まった。

 永山は、他の学生たちの語る夢のような女性論に反対した。

「そんな、女性は理想じゃなくて、現実なんだよ」

 太田は、永山に言い返した。他の学生と違って、年上の永山に近い年齢だった。

「だって永山君、理想がなかったら、恋心なんて生まれないよ」

 他の男子学生も同調したようだった。

「それじゃあ、君たちに聞くが、女を知っているか?おれは知っているんだ」

 永山はそう豪語したが、すぐに取りなした。

「あっ、いや。原体験は出すべきじゃなかった。失敬、失敬」

 学生たちは一瞬、沈黙した。その場の様子では、二〇歳前後の学生たちの中に、性交の経験のある者はほとんどいないようだった。

 永山は、その場では一番の年長だった。他の学生たちを君呼ばわりし、矢野教授に対する尊敬の態度とは明らかに違っていた。永山はこの頃からすでに、教授たちの機嫌をとる心づかいをしていた。大学での研究、教育に、将来の自分の進むべき道を意識しているようだった。

 そのうちにまた、永山は原体験を引き合いに出した。その頃、すでに学生運動は下火になっていたが、永山は高校時代に早くも学園紛争を経験していた。

「思想なんて、机の上で考えるものじゃない。現実なんだよ。教頭の頭をこん棒でなぐったときは、あれは思想を越えたものだったよ」

 他の学生は地方出身者が多く、そのような大都市にまつわる話題を実感できなかった。永山は、難解な言葉や突飛な表現を、誰に対しても使った。そのせいで、クラスの女子学生などは、次第に永山を敬遠するようになっていた。


 矢野教授も、女性論に関して性的な体験談を語りだした。一〇数年前、文学部の研究室の先輩が、見下した表情で教授に尋ねたらしかった。

「お前はまだ、童貞か?」

 教授は礼儀正しく答えた。

「はい、そうです」

 先輩は「それじゃあ」と言って、親切にも教授を色欲の解放された場所へ連れて行った。教授はそこで、女性と交わる歓喜と幻滅を同時に味わったらしい。赤線のあった時代の青年には、よくある話だった。

「ぼくは不良なんですよ」

 教授はそのことを、あとでひどく後悔した。学生たちは、にやにやしながら教授の話を聞いていた。

 その体験のあとで、当時の行き付けの飲み屋の太った女将が、若かった教授の冒険譚を耳にした。女将は感嘆の声をあげたらしい。

「あら、もったいない。あたしんとこへ来れば、いくらでも面倒見てやったのに…」

 学生たちの爆笑を聞きながら、教授は苦笑した。初めての女の体を思い浮かべ、一瞬の快感に身を委ねた自分の野性的な姿を、冷静に見詰めなおしているようだった。

 その表情は、まるで自分の人生はすべて失敗だった、とでも言いたげだった。その不機嫌な顔付きを見たとき、望月は教授の心中を見透かすように言った。

「先生は家に帰ってから、ひとりで泣いてるんですね?」

 望月の皮肉への返答は、さらに皮肉なものだった。

「いや、そんなこと、ありませんよ。ぼくはね、家に帰ると布団に入って、真っ暗闇の部屋の中で目を輝かせて、くっくっくって笑うんです」

 途端に、恩師の会話の持ち味に慣れている連中は吹き出した。


 望月はそのうち、周囲の学生仲間に感化されて、アルバイトを始めた。

 配送所の作業の帰りに、和書だけでなく洋書も扱う大型の書店に立ち寄った。文字のない時間を過ごしたあとは、その反動で書物に気持ちが向かうことが多かった。肉体労働の続いたあとは、精神労働が気分転換になった。

 そこで、クラスメートの永山と偶然に会った。

 永山は、望月の知らないような文学者や文学書を知っていた。知識をひけらかすと言うより、普段吸収している知識が自然にわき出てくるように、あれこれと文学にまつわる話をした。

 二人は、夕食をとることになった。

 永山は、書店を出て地下街に入ると、近くのカレーショップに望月を誘った。自動販売機で食券を買い、狭いカウンターの椅子に座った。都会的で、理知的な雰囲気の永山にしては意外な選択だと、望月は思った。

 永山は望月には分かってもらえると思ったのか、言い訳するようにいった。

「食費を切りつめても、本だけは買いたいと思わないか?」


 永山は頭脳も明晰で、論理の展開も他の者と比べて抜き出ていた。

 最初の授業の自己紹介で、自分の好きな外国の有名な画家の名をあげた。それについての短い意見を加え、クラスの者たちを煙に巻いた。気障だったが、ユーモアも解する、いかにも賢そうな風貌の持ち主だった。

 永山は他の学生に比べると、風変わりな経歴の持ち主だった。

 一流大学に多くの学生を送り出すことで定評のある、都内の私立高校の出身だった。そこでの成績はいつも上位だった。望月は、どうして日本で最高の大学に進まなかったのかと尋ねた。

「数学の成績が良くなかったからさ」

 永山は苦笑しながら、そう答えた。

 永山は一度は、外国語専門の名の知れた大学に進んだ。やがて、外国文学を本格的に学びたいと思い始め、その大学を退学した。その後、希望する分野では著名な研究者の多い、今の大学に入ってきた。

 望月は、永山はやがて日本の学問の世界、知的な世界を牽引していく人物になるのではないかと、考え始めた。日本文学か外国文学の分野、あるいはもっと広く人文系の思想に関した世界で、とにかく学術的な仕事に花を咲かせる予感がした。

 望月は、人に自慢できるほど豊かではなかったが、ある程度の読書経験や見聞した知識があった。文学や思想の世界で、永山のような知性がどのような位置を占めるのか、自分なりに想像できた。

 個性の強い人物で、永山とは最後までうち解けることはできなかった。しかし、自分がそういう人物と知り合えたことが、幸運に思えた。

望月の予想通り、この時から二〇年も経つと、永山は文学の研究者として頭角を現し、

マスコミが取り上げ、いくつもの著作を著すことになった。


 一方、学部の中には、永山とは別の意味で個性的な長谷川という学生がいた。長谷川も永山と同様に、向学心は旺盛だった。

 望月は、長谷川ともうひとりの仲の良い友人と意気投合して、有名な外国の小説を、自主的に原文で読んだ。それは、外国語を習い始めたばかりの勤勉な学生の小さな勉強会だった。

 勉強が進むうち、原文に読解できない部分がいくつか出てきた。長谷川は、永山と同じように、大学の教員と積極的に交流する学生だった。自分のお気に入りの若い講師に、課外授業で教えてもらおうと提案した。講師は望月たちの大学に非常勤で、他の大学から来ていた。

 三人は、その講師の研究室を訪ねた。

 話をしているうちに、その抜粋で読んでいる小説が、実は二〇世紀のフランス文学、というより世界文学の頂点をなす作品のひとつであることを教えられた。

 その断章の中には、現在の感覚によって、忘却されていた過去の出来事を思い起こす場面が描かれていた。その表現の方法は、それまで現実を鏡に映すように描いていた作家たちの方法に比べて、画期的な世界や人生のとらえ方らしかった。また、その作品は、一般的な長編小説に比べても長大だった。

 のちに望月は、ある教授がその作品に言い及ぶのを聞いた。

「久しぶりに手をつけて、読了するのになんと一週間かかりました。それも翻訳だったんですよ」

 苦笑しながら、その教授は述懐した。

 三人は、自分たちが途方もない代物に手をつけてしまったことに驚いた。望月たちは、大学の文学部の扉を開けたばかりで、駆け出しの学生だった。

 しかし、この小説の意義を感じ取り、教材に選定したのは、長谷川の慧眼だった。


 大学に入って数ヶ月が経った頃、望月はまた夜の居酒屋の中にいた。その味を覚えて間もない酒を、男子学生二人と一緒に飲んだ。

 二人は、文芸部で知り合った同じ新入生の仲間だった。望月は、運動部の過激な活動は、中学や高校でもう十分だと考え、文化系のクラブに入った。

 二人は望月と同じ文学部だった。一方の豊岡は、東京の出身で史学科に在籍していた。上品そうな顔立ちだったが、少し太めの身体だった。他方の阿部は、北海道の出身で哲学科に在籍していた。色白で、背が高く、細身だった。望月は、北関東の出身で外国文学科に在籍していた。中肉中背で、元気な顔付きだった。

 クラブ活動としては、それぞれが歴史小説、SF小説、現代小説を好んで書いた。


 座敷には何組かの客がすわって、酒を酌み交わしていた。望月は寛いだ居酒屋の席で、豊岡に話の矛先を向けた。

「おれはちょっと、最近気になっている女性がいるんだけど。もしかして史学科かな?」

 その日、意中のマドンナをキャンパスで見かけた。ミニスカートをはいている姿に、少なからず心を揺り動かされた。

 豊岡は、宙に目をやって考え込んだ。

「それは、もしかすると夏木さんかもしれませんね」

 豊岡は実名を出して、評判の美人のことを話し始めた。

 すると豊岡が話している最中に、急に後ろから、誰かがひと言言った。背中を向けて座るサラリーマンの客のひとりだった。

「ああ、夏木ひろみか、あれは、おれが教えてやったんだよ」

 ついで仲間のサラリーマンの小さな笑い声が起こった。

 望月たちは、なんのことを言っているのか、最初は分からずに驚いた。男の言うことを真に受けそうになった。

 目の前の男が、あの憧れのマドンナの処女を奪ったというのか。ふと、苦痛と悲哀が心をとらえた。

 一方豊岡は、素早くその意味に勘づいた。いつも使っている丁寧な口調で、すぐに望月に耳打ちした。

「座興ですよ」

 赤の他人が、若い学生の恋愛話を、背中越しに盗み聞きしていたらしかった。

 望月は意味が分かって腹が立ったが、その怒りを抑えた。酔っぱらっているとはいえ、他人の話にわざわざ口をはさみ、余計をことを言う連中だと思った。自分がもっと年上で、気の短い人間だったら、感情的になって手を出しているかもしれない。世の中には、たちの悪い冗談を言う、迷惑で下らない、ろくでもない人間もいるものだ。

 しかし実際にはあとになって、マドンナは史学科ではなく心理学科で、名前も夏木ではないことが分かった。

そのうち、サラリーマンの一行は座敷から出て行った。


 望月たちは、いつもの通り文学に関する真面目な議論を始めた。時々、冗談を飛ばして気分を良くした。

 豊岡は、はっきりとした口調で言った。

「ぼくは、歴史というのは、人間という存在の総体をとらえるために、最も適した学問だと思うんですよ。だって、人間のやってきたことは、どれもこれも歴史の中に記録されているでしょう。ひとりひとりの人間が歩いてきた足跡の全体が歴史なんですから…。歴史さえ学んでいれば、世の中のこと、世界のことがほとんど分かると思うんですよ」

 望月は、少しためらって言った。

「なんとなく分かる気はするけど、すべてが分かるというのは、どうも変だなあ。それは、人によって、違う観点に立つと、そういうことにはならないんじゃないかな」

 阿部は、疑い深そうな目で言った。

「それは、この世界の表面的なことが分かるということじゃないかな。だって、ぼくは、哲学によってこの世界の真理に迫ろうと思って、哲学科に入ったんだから。目に見えているのは表面的なことで、実はその根底にある、隠れている大きなものによって、この世界は動かされていると思うんだ」

 望月は、口をはさんだ。

「おれはねえ、世の中や世界を分析して解明するというより、文学によって感動を味わいたかったんだ。心を動かされる体験を、人生でひとつでも多くしたいと思ったわけ。生きているうちに、この生をできるだけ充実したものにしたかったんだな。そのひとつの方法が、文学だったんだ」

 阿部は、混ぜ返した。

「文学は、娯楽だと思うね。生活に追われている人間は、文学なんかやっている暇はないよ。でも確かに、たかが娯楽と片付けられないものが、文学にはあるね」

 望月は話を続けた。

「おれはねえ、大学に入って、何となく周囲のみんながだらだらして、緊張感がないと感じたわけ。自由なんだけど暇なんだよ。金はあまりないけど時間はありあまっている。やっぱり生活に締まりがないと、人間は堕落するよ。世間では、よく学びよく遊べっていうよね。おれは、ただ遊ぶだけじゃなくて、学生として学びの分野も遊びの分野も、平衡感覚を心がけながら、好きなだけしようと思っているんだ」

「どんなことを、やりたいと考えているの?」

「下宿の仲間と、この間話していてね。卒業後の就職についてなんだ。このままずっと学生のままでいたいなあ。平凡なサラリーマンになりたくないなあ。それで二人とも、教養を積むために好んで読書をする点が共通していてね。本を読んでいて、給料をくれる会社はないかなとなったわけ」

 阿部は笑った。

「そんなの、あるわけないよ」

「そう。それで、おれとしては今のうちに、この学生生活のありあまる時間を利用しようと思うんだ。学びと遊びで、学びの分野では、文学書や哲学書を読むことに専念する。それも、人生や世界の奥深さを求めて、感動を味わいながら、というわけだ。 遊びの分野では、若い仲間たちとの交流の中で、ひとつでも多く生の充実感を求めていこうというわけだ」

 阿部は、薄ら笑いを隠さない。

「そんな簡単には行かないような気がするな。順風満帆な人生なんてないもん。人生って不可解だよね。世の中は、うかうかしていると、いつだってどんでん返しが起こる。何かが起こると、人はあたふたとその対応に追われる。でも実は、僕らが見ているのは物事の表面だ。表面の変化は、底の変化が原因で起こると思うんだ。本質が現象を変える。ぼくは、この世界を支配する根底の核のようなものが知りたいんだよ」

 一方、豊岡は望月に同意したような口調だった。

「そういう二人の真面目な姿勢は、大切だと思いますよ。確かに僕も、このまま大学の暇そうな、やる気のない風潮に流されたくはないですよ。だいたい、おとなしく大学に四年間通って、卒業証書を手に入れようとしているように見える人が多いですよ。履歴書に、世間に通りの良い大学卒業の学歴を加えることが、結婚や就職に役立つ。多くは望まないが、必要な物は手に入れる。そんな風に考えているみたいなんですよ。近頃流行のモラトリアムっていうんですかね」

 三人の若者の希望と苦悩に満ちた議論は尽きなかった。


 望月は大学に入って初めての夏休みを迎えた。陽気に誘われ、男のクラスメートの一人と京都に旅行に出かけた。

 友人の日野は望月と同じように、京都の町の純粋に日本的で、落ち着いた雰囲気と豊かな歴史に魅了されていた。

 望月は一年浪人したあと、数ヶ月前に京都の有名な国立大学を受験し、落ちたばかりだった。

 歴史の古い町の通りを歩いた。今頃、東京でなく京都で学生生活を送っていたかもしれない、と考えると感慨があった。

 二人は、カップルの多い広い河原を歩いていた。

 日野は、地元の人らしい若くてきれいな女性を見つけた。関東弁で道を尋ねて、関西弁で返事をもらったが、素っ気なかった。

「京都は昔の首都だろう?おれは今の首都で生まれて育っているんだよ」

 ふざけて強がって見せた。


 二人は、名所旧跡を昼間のうちに歩き回った。旅館に戻ってから、望月は京都に住む高校の同級生に連絡を取った。

 秋山という同級生は、望月が浪人して入れなかった大学に、すでに一年前に現役で入学していた。会いに行くことになり、日野も同行した。

 秋山は町中のバーで、二人を出迎えた。秋山は高校時代と比べると、雰囲気が変わっていた。

 かつては剣道部で活躍し、汗くさい印象があった。スポーツマンで、態度は鷹揚だった。性格は真面目で、勤勉で照れ屋だった。高校で行われたマラソン大会のときに、黙々と着実に走っていた姿が今でも思い出された。

 それがいつの間にか、大人の雰囲気を漂わせる男になっていた。ウイスキーのグラスを傾ける姿に、不自然さがなかった。話を聴くと、日頃は勉強だけでなく、学生運動にも積極的に参加しているようだった。

 秋山の住居は大学の寮だった。

 建物は老朽化していて、廊下を歩くと、かすかにきしむ音が聞こえた。それでも、一人一人にあてがわれた部屋は、十分な広さがあった。

 望月たちは、広い座敷にあぐらをかいてすわった。

 すると、関西の人間らしい同じ寮の仲間が、顔を出して二人の客にあいさつした。望月たちが東京から来たと聞くと、珍しそうな顔つきで少し話し込んでいった。

 秋山はほろ酔い気分で、最初はギターを弾いて仲間たちに聞かせた。ギターの音色を聴きながら、望月は自分が今、時間に自由で社会の雑事から離れた学生時代にいるのだなと感じた。

 しかし、関西の仲間がいなくなると、秋山はうろ覚えの関西弁を使うのは止めた。


 若い男が旧友と再会して、腹を割って話し始める。そんな時には、話題は自然に、心を傾けた女性についての告白に行き着くものらしい。

 秋山は同じクラスのきれいな女に、思い詰めて愛情を告白した。その結果、見事に振られた。

「あとで、もう男とセックスしていることがわかったんだよ。夢も希望もなくなったよ。その晩はもう頭に来て、つらくって、浴びるほど、酒飲んだね。暴れ回ったよ。部屋の中、滅茶苦茶にしたよ。次の朝起きたら、着ているものはヘドロだらけだったよ」

 秋山の口調は、話の内容とは裏腹に落ち着いていた。

 話を聞いていた望月と友人は、心を揺さぶられた。二人とも黙っていた。

 望月は二〇歳前後の若者として、秋山が処女を憧憬し、特別視する気持ちは理解できた。それで、やはり秋山の昔の真面目で、一直線な気質は、今も変わっていないと納得した。

 望月たちはその晩、広い寮の部屋で秋山と雑魚寝するようにして眠った。翌朝早く旅館に戻った。わざわざ予約したが泊まれなかった旅館の部屋で、身支度を調え、帰りの電車に乗った。

 それから数年後、秋山の消息を風の便りで望月は知った。秋山は一流大学の卒業生として、中央官庁のキャリアの職に収まっていた。

 青春時代とは対照的な順風の日々を送っているようだった。恋愛や学生運動で逆風に煽られた時代を、過去の遺産にして生きているようだった。

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