別れの季節

 望月は四学年に進級した。間もなく卒業する時期を迎えていた。

 キャンパスを歩いているときに、ふと顔見知りの女子学生を見かけた。かつてのクラスメートの幸子だった。幸子は進級していく課程で、いつの間にか大学に姿を見せなくなっていた。

 望月は以前から幸子には、出身地が同じせいもあって親近感を持っていた。幸子もその点では同じ気持ちでいるようだった。そこで、幸子を喫茶店に誘った。

 望月は幸子にほほえみかけて、近況を話し合った。

「しばらく見なかったよね」

 向かいにすわった幸子もほほえんで、視線を落とした。

「二年も留年しちゃったから…」

「何かわけでもあったの?」

「ちょっと恋愛問題で、勉強を続ける気持ちがなくなって…。暗い絶望の中って感じで…」

「ああ、そうかあ」

 望月は幸子を、遠い眼差しで見た。

「退学も考えたの。でも最近、親の説得で卒業だけはしておこうって考え直したの」

「そんなことがあったんだ…」

 望月は同情するように二,三度うなずいた。

「望月さんは?」

「うん、何とか型どおりに卒業できそう」

 望月は笑いかけた。

 望月は喫茶店の窓から、見慣れた通りの風景を眺めた。この町とももうすぐ、別れることになる。最近は、卒業間際の慌ただしさに追われる中で、学生時代の終わりに一抹の寂しさを覚えている。

 二人の話題は、恋愛や結婚の問題が中心だった。

 幸子は、友人の女子学生のことを話した。

「わたしの友だちが男の人と付き合っていて、妊娠しちゃったの。どうするか迷って、その子の友だちに相談したのね。それで、教えてもらった、どこかの路地裏の病院に行ったのね。そしたら、女子高校生が平気な顔をして、中絶して帰っていくんだって…。何人か相手がいて、どの人が父親なのか分からないって言うの」

 望月はあっけにとられた。

「わたしの友だちは、大学に入ってから一人暮らしを始めたの。親と離れて、自由に羽を伸ばしたみたい。でも、毎日一人だと、特に夜が寂しいし…。それで少し遊んじゃったみたい。飲み屋さんで知り合った行きずりの男とか、童貞を捨てたがっている男子学生とか、受け入れちゃったのね」

「佐々木さんの友だちってすごいんだね」

 幸子は苦笑いした。

「友だちの初体験は、高校時代だったのよ。その相手がそのうち、しつこくなって、友だちは愛想を尽かして別れたみたい。今では、セックスは遊びよって言い切ってるんだもん」

 望月は話題の矛先を変えた。

「佐々木さんは、さっき恋愛問題って言ったけど、どんな風に苦労したの?話したくなければいいけど…」

 幸子は下を向いた。

 近頃、望月の周りは色恋沙汰で悩み、大騒ぎをしている仲間があちこちで見られた。それで、男と女の話には正直なところ辟易していた。それでも、やはり好奇心がわいた。

「お付き合いしていた人がいて、その人と他の人を比べるでしょう。話してみたりして…。そうすると、ああ、やっぱりこの人が一番いいって思うの」

「好きだったわけね」

「あたしはねえ、結婚できないって分かってたんだけど…、結局、あげちゃったの」

 望月は耳を疑った。

「ああ、そう」

 幸子は以前、身持ちの堅い女子学生の一人に見えた。望月のつき合う女友だちの中には、そういう女性が多かった。それなのに、知らない間に色々な経験があったらしかった。

 どうやら、実る見込みの薄い恋が、幸子の苦悩の原因らしかった。

「それで、堕ろしたの」

「えっ、そう。そんな経験をしたの…」

 幸子はだだをこねるように、下を向いた。

「だって、結婚できないんだもん」

 幸子は小太りだったが、透き通るような白い肌をしていた。その気品が、話している内容と調和していなかった。幸子の顔が大人びて見えてきた。

「相手は学生?どこかで知り合った人?」

「望月さんも良く知っている人。だって、先生だもん」

「先生って、大学の先生?」

 幸子は首を縦に振った。

「一年生の時の担任の先生よ」

 望月は身を乗り出した。眉間に皺を寄せた。

「えっ、あの矢野教授?」

 幸子は下を向いて黙っていた。望月は窓の外に目をそらせて、しばし呆然とした。

「あの先生、そんなことをするの?」

「宗教のお話をしていて、夜遅くまで話すようになって…」

「信じられないよ」

 望月は言葉に詰まった。

「一概に悪いことではないかもしれないけど…。でも、みんな、周りの人は知らないんでしょ?なんで、おれにそんな話をするの?」

「何となく…。もう望月君は卒業で、お別れだし…」

 幸子はかすかに笑った。目を伏せたその顔を、望月は改めて眺めた。この人があの教授と性関係にあったのか。

 外はもう、日が暮れていた。人の往来が激しくなった。日々の移り変わりは、人々の出会いと別れとは無関係に思われた。

 幸子と別れてから、望月は人通りの少ない通りに入った。矢野教授との付き合いを思い出した。皮肉だが知的な言葉の数々、はしご酒の晩に肩を組み合って聞いた東京大空襲の屍の山の話……。

 かつて大学教員と教え子の不倫の恋の話をしたのは、文芸部の阿部だった。望月はそれを他人事のように聞いていた。それが、そのスキャンダルがこんな身近にあったのだと気づいて驚いた。

 しばらく顔を合わせていない教授の面影が脳裏をよぎった。額は少しはげて、四角い顔をしている。黒縁の眼鏡をかけて、地味な中年男に見える。しかし、知的で優しい目をしていた。


 望月の学生生活は、卒業論文の作成や就職のための活動であわただしくなった。

 講義に出席する回数も減り、節子の姿も一週間に一,二度しか見られなくなった。

 最終学年を迎えて、学生たちは将来のあるべき姿を模索し始めた。望月は出身地に戻るつもりだった。一方、節子は都会に残り続けるだろうと、望月は考えていた。二人の別れを、遠からず訪れる避けられない運命と覚悟した。大学時代の去っていく足取りを、息を潜めて見守った。

 大学側で催した就職の説明会には、節子も姿を見せた。就職しなくても、その気になれば、嫁ぎ先は苦労せずに見つけられそうに、望月には思われた。

 ある時、大学の講堂で、世界的な反響を呼んだ演劇が外国人の俳優によって上演された。

 不条理劇と呼ばれる、人物の描写や物語の展開といった従来の性質を著しく失った演劇だった。殺風景な舞台の上で、無意味な言葉が連綿と続いた。平凡な思考様式に慣れている学生たちは、前衛と呼ばれる、欧米を中心とした文化的運動を、どう理解してよいか途方に暮れた。

 幕が引けたあと、望月は気の合った男友だちと、駅の方向に向けて歩き出した。キツネにつままれたような顔つきで、今見てきたばかりの演劇の感想を話し合った。この世界や人生の絶望的な状況を表現した芸術の極致だ、とある者は評した。鑑賞されるという運命をみずから放棄した、意味のない作り物だという意見もあった。

 望月たちは、改札口の前の広場で立ち止まった。気分転換にこれからどうしようかと話し合った。酒でも飲もうかという提案が、誰かの口に上った。

 その時不意に、節子がリーゼントの髪形のハンサムな男と一緒に、大学の正門を出て望月たちの方向に歩いてきた。

 望月はその光景に衝撃を受けた。一瞬、身動きできなくなった。どうやら、不条理劇のせいで、意識が混乱していた。

 実存主義文学のある作品のモチーフを思い出した。昆虫のように小さくなって、どこかに身を隠してしまいたくなった。そうでなければ、目の前の現実を壊してしまいたい衝動を覚えた。

 節子は男の顔を見上げて、何かひと言話しかけた。男の方が盛んに話しかけている雰囲気だった。男の年若い外見は、節子の最近の男性への興味の変化を示しているように思えた。

 望月は、近くの喫茶店か酒場にでも行くらしい二人の後ろ姿を見送った。節子は他の通行人の間を通り抜けながら、望月に気づかない様子だった。

 自分にデートを許してくれなかった女が、他の男と街のどこかに姿を消した。その事実が、望月の心に重くのしかかった。

 店に入った友人たちは、手軽に飲めるビールを注文した。望月は、食事も十分に喉を通らなかった。アルコール類を飲むと、自制心が効かなくなりそうだった。内部にうっ積している感情が吹き出してきそうだった。

 耐えがたい光景が、想像の中に出てきた。一緒に並んで歩いていた二人の男女の体が結びついた。嫉妬の感情が生まれるのを、望月の自尊心がかろうじて妨げた。

 望月は、節子に対する感情が、強い衝動に発展してしまっていることを悟った。節子は今や、望月にとってはひとりの支配者だった。節子の一挙手一投足が、望月の気分を左右した。一方、自分の熱い心情と、節子の冷めた心情を比較して、ため息が出た。


 望月の大学時代は、終盤に近づいた。

 ある秋の日、望月は、よく行く古本屋の多く建ち並ぶ街を歩いていた。通りで、かつてのクラスメートの坂本と偶然に出会った。気楽な気分で誘いの言葉をかけ、喫茶店に入って一緒にコーヒーを飲んだ。

 二人は最初、互いの共通の関心事である卒業後の進路の話をした。望月は、夏から始めた会社巡りで、出身地の就職口がすでに内定していた。海辺の高級住宅地に住んでいた坂本は当面は就職せず、その必要もないようだった。

 それから、現在取り組んでいる、好きな作家の卒業論文について語り合った。望月は、夜遅くまで哲学書や文学書に読みふけり、論文をどのように組み立てるか、思案を練っていた。坂本はかつて、いわゆる文学少女で、好きな作家の翻訳はできるだけ読みたいと言った。

 二人の話題は、クラスメートの噂に移った。

「望月君て、どんな女性が好きなの?」

 望月は、適当な言葉を選んで答えた。同じ質問を、自分がかつて節子に投げかけたことを思い出した。

 思い返せば坂本は、三年前のクラスのコンパの席で、節子に言い寄った望月に、「戦術変えないと嫌われちゃうわよ」と忠告した女性だった。その声には、望月を応援しながら、同時にたしなめるような響きがあった。

 坂本は店を出て駅までの道すがら、今までとは話題を一転した。

「増田さんのこと知ってる?最近、彼氏のこと、だめになったの」

 坂本は、節子のことが今も望月の大きな関心事であると思い込んでいるようだった。

「ああ、聞いたけど…」

 彼氏というのは、確か二年前のコンパの晩に、望月とのつかの間の抱擁の中で、節子が自ら話した相手のことらしかった。第三者の口から、交際相手の存在をはっきりと聞かされて、望月は改めて動揺した。

 他の通行人と同じ歩調で歩きながら、傍らの坂本の声に耳を傾けた。

「そしたら、すごいの。あたし、びっくりしちゃった。わたしが、もう会わないってことを教えてあげたのって、言うのよ。うまく行ってると思ったのにねえ」

 どんな風にうまく行っていたのか、尋ねてみたかった。しかし、節子への関心を自分から暴露してしまうのを恐れた。彼氏との深い関係などあったとしても、それは聞きたくなかった。

 仲たがいの原因は、彼氏が節子を都合のよい愛人にしようとしたことにあるらしかった。

 二人に破局が訪れていなければ、今頃節子は、彼氏に身も心も任せていたかも知れない、と望月は想像した。


 駅の周辺の人混みに近づくにつれて、望月たちの視界に夜の都会の街並みが入ってきた。 ネオンサインの派手なきらめきが、黒くて大きな建物の輪郭を際立たせていた。アスファルトと鉄筋コンクリートで覆われた、殺伐とした空間が広がっていた。さながら、夜の闇の大海を隊列をなして移動する船団のようにも見えた。

 高架鉄道を疾駆する列車が、轟音と共にすれ違った。無数の車が通行人を追い越して、次から次へと走り去った。家路を急ぐ人々と、夜の繁華街に繰り出す人々が、路上で交差した。一度地上に舞い降りたほこりを、街の活動が四方八方にまき散らした。大都市は、生産と消費で生じた熱を、空中に発散していた。 

 夕闇に包まれる町の光景に、望月はそこはかとない郷愁を覚えた。

自分を含めた若者たちは、追い立てられるように大学生活を送ってきた。生活の舞台は、人と物が流動する大都会だった。生活の時代は、疾風に見舞われる青春時代だった。

 その中に恋愛の渦が生まれ、若者たちを飲み込んで、望まない方向に押し流した。

 節子は、相手の態度で男を信じることに失望した。望月は、マドンナや深雪に去られ、礼子の別れの言葉に衝撃を受けた。さらに、節子の気持ちをとらえきれずに右往左往した。

 今や、節子との関係は、何事もなかったかのように終局に向かっている。


 望月は休みを利用して実家に戻ると、北陸にスキーに出かけた。

 この前の夏、北陸の大学に進んだ高校時代の友人の青山を訪ねた。冬になったらスキーに来てくれと誘われていた。何度か連絡を取り合った。青山は真面目な性格で、人当たりも良かった。

半年が経ち、鉄道の沿線はすっかり雪国の情景に変わっていた。背の高い樹木が、横殴りの雪をかぶっていた。駅の改札の前で、青山に出迎えられた。

 近くの小さな食堂で夕食をとった。店には、色白のきれいな娘がひとり働いていて、望月はその姿が気になった。

 人家のそばを通ると、軒先から傘ほどの長さのつららが垂れ下がっていた。望月が驚いていると、青山が言った。

「頭の上に、それが落ちて、けがをする人もいるんだよ」

 雪国の人々は、足にはいている物が、革靴の望月とは違っていた。おしゃれな洋服を着た若い女性も、長靴を履いているのが当たり前だった。やはり青山は、苦笑しながら言った。

「道路で足を滑らして、運悪く頭を打って死ぬ者もいるんだよ」

 住民にとって、雪は生活の一部となっていた。都会からスキーをしに来る人々と異なり、その危険性も熟知しているようだった。

 雪が積もって固まった道路を、踏みしめるようにして歩いた。青山の学生寮に辿り着き、部屋に荷物を置いた。

 寮の住人たちは、国立大学の学生たちだった。クラシック音楽を愛好している者が多かった。望月の都会の下宿と同じように、仲間同士で夜遅くまで話し込んで過ごすのが常らしかった。望月は彼らの中に混じり、それぞれの生活のことなどを話し合った。

 深夜一時か二時頃、床に就いた。雪が降り続く静かな雰囲気の中で眠り込んだ。時々、どこかで雪の固まりが、突然、屋根から落ちる音がした。人々は、冬の間中、雪に閉じこめられて生きているように思われた。


 翌朝、望月を目覚めさせたのは、甲高い鶏の鳴き声ではなく、周囲に鳴り響く轟音だった。通りを走る車のために、朝一番で除雪車が稼働していた。

 日曜日でスキー場は混むと、望月は聞いた。その地方では賑やかな海岸の町に行くことにした。

 寮を出て駅に行く途中、望月は奇妙なものを見た。近くの主婦が、二階のドアを開けて外に出てきた。前日の到着が夕方の薄闇の中だっただけに、そのことに気がつかなかった。主婦は、ベランダに出たのではなく、戸外に出たのだった。

後で聞いてみると、青山は言った。

「冬は、雪で一階が埋まっちゃうから、最初から玄関が二階に造ってあるんだよ」

各駅列車に乗り、目的の駅に着いた。日本海が見たくて、観光バスに乗った。気ままな旅だったから、海辺の近くの停留所で降りた。坂道を上って下ると、広大な海が眼前に開けた。滑らないように注意して、雪や氷の悪路を踏みしめて歩いた。同じ距離でも、いつもより足が疲れた。

 そのうち、視界のほとんどが、雄大な海の光景で埋め尽くされた。無数の白い波が、せわしなく動いて、層をなしていた。はるか彼方まで青黒い山脈が出来ていた。巨大な水の固まりに飲み込まれそうな脅威を感じた。

 海を見ることは、これまであまりなかった。気持ちが高ぶり、爽快感を体全体に覚えた。自然の雄大さと人間の矮小さを、身をもって感じた。大学時代に出会った人々や出来事を懐かしく思い出した。

 地平線は水平ではなく、かすかに弧を描いているのが分かった。大型帆船が、その上をゆっくりと動いていた。誰かにそっと置かれたような印象だった。

雪のちらつく冬の季節に、周囲に人影はなく、たったひとりで防波堤の上に立ちすくんだ。そのうち心細くなって、バス停の方に歩き出した。気まぐれを起こして、走り始めた。ひとりで悦に入って、競争でもしているように、人家の方へと続く道を、息を弾ませてずっと走った。

その晩も、青山の部屋に泊まった。雪国は、昼間もそうだったが、夜は特に冷え込んだ。望月は寒がりで、何枚も厚い服を着込んで、コタツにはいったきりだった。青山は、冬には二度三度、風邪にやられるらしかった。タンスの上に、錠剤の風邪薬のはいったビンがいくつか並んでいた。

 寮の仲間たちの間で、駅のそばの食堂の娘の話が出た。望月が気にかけた娘だった。どうやら付近では、学生仲間には話題の看板娘らしかった。

 次の日は、地元でならしている青山にスキーを教わり、翌日帰ることに決めた。

 

 青山に案内されて、町の目抜き通りに出た。

 交差点の角に、市街地の中にひときわ目立つ、大きな白い山ができていた。かき集められた雪が、積み上げられたものだった。春先まで溶けないらしかった。通りの中央線からは、氷を溶かすための水道水が、絶えずほとばしり出ていた。

 乾いた雪が降り続いた。青山は自分の大学のキャンパスに、望月を連れて行った。大学は、国立という点では格式があり、授業料も安かった。しかし、外観は、近隣の小中学校の校舎と変わらない、小さくて古いものだった。望月も一年前までは、どこかの国立大学に、合格すれば飛んでゆくつもりでいた。結局、今では私立大学に通っている。しかし、都会の大学生活は便利で、町並みは華やかで、満足感を覚えていた。両者を比べてみると、複雑な思いがした。

 夕食をとるためにレストランに入った。青山は、やはり高校の同級生で、同じ大学に在籍している前島という男に、望月を会わせた。

 望月は、久しぶりに見る顔に驚いた。北関東の高校の同級生と偶然に、何年か経って、北陸の町で出くわして、奇妙な感じがした。あまり付き合いのない相手だったが、懐かしい話に花を咲かせた。

前島は、先に帰った。青山は望月に、前島が語ったという悲恋の体験談を、多少の誇張を交えて話した。


 前島は高校時代に、ひとりの女子高校生と彼女の高校の学園祭で知り合った。

 彼女は占いのコーナーに座っていた。来場した学生たちの手相を見ていた。他人の運命を推量し、自らの運命など知る由もなかった。

 前島は、おずおずと手のひらを差し出した。それを見つめる彼女の顔に、自分の好みの美しさを見いだした。無邪気で朗らかな出会いだった。一組の高校生の男女交際が始まった。

 気持ちの優しい前島の出現に、彼女の女心はぐらついた。前島に会ってから、自分の女の弱さに気づいた。

病院のひとり娘として生まれた彼女は、早くから女医になることを求められていた。疑問を抱きながらも、親の期待に沿って勉強を続けていた。努力が実を結んで、学業の成績は優秀だった。

しかし、前島を思う日が続いたことも原因したのか、彼女の成績は下がった。結局は、志望していた医学部にはいれなくて浪人した。

 両親は、娘が医者になれなくても、どこかの若い医師を婿にとる考えだった。医者になる予定のない前島との交際には、あまり好意的ではなかった。

 やがて、二人の交際は、当初の希望にあふれた心楽しいものから、苦悩の混じった暗いものに変わった。彼女は感受性が強く、物事を考え込む性格だった。

 その日、二人は久しぶりに会った。

 浪人中の勉強の邪魔をすまいと気使って、前島は彼女に連絡しないでいた。しばらく見ないうちに、彼女に宿った暗い影が彼を驚かせた。しかし、そこには元気な時と別の美しさがあった。

 公園の木々は風に微かに揺れ、幼児を連れた主婦がブランコの所に立っていた。前日の雨で出来た水溜りが、夕陽でかすかに朱色に染まっていた。彼女は言った。

「医学部受験をやめようかと思っているの。女がてらに医者になどなろうとしないで、どこか適当な大学を選んでいればよかった。平凡な人生が送りたいの。父親の連れて来るお婚さんなんていや。きのうも、親とけんかしたの」

 前島は、彼女を見つめてから言った。

「僕は、安サラリーマンになるしかないから…」

「最近、友だちとも、あまりつき合わないの。親ともしっくり行かないし…。いつも、部屋の中で考え込んでいるの」

 彼女は嘆きながら、心の内をうち明けた。

 ため息をつく彼女を見て、前島はこの人には自分が必要なのかもしれないと思った。彼女の両親の意向を考えて、今までに何度か気持ちがくじけた。大学に入ってからは、時には彼女とのことを忘れようと、キャンパスで出会った女子学生と気楽につき合った。

 それでも、夕焼けを反射する彼女の横顔に、何か欠け替えのない魅力を見たように思った。心の中に決心したものがあったが、すぐには言葉を返せなかった。

 ブランコに乗っていた幼児が小石を拾い、水溜りにほうり投げた。その音で、それまでの沈黙が破れた。茶色の汚水がはねて、周りに散った。幼児の得意顔を、彼女は見つめた。

 彼女は不意にベンチから立ち上がり、驚いた前島の見守る中で口走った。

「あたし、赤ちゃんが欲しい」

 前島は開いた口が塞がらず、胸が高鳴った。彼女は、しばらく立ちすくんでいた。その凍りついたような姿が、前島の次の行動を待っているのか、それとも余計な干渉を拒んでいるのか分からなかった。

 夕日に染まった彼女の顔の中で、大きな両目が涙をたたえて光っているのが分かった。彼女は心の底から、何か訴えているようだった。

 彼女が言った。

「ごめんなさい」

 前島は胸を打たれ、そしてその胸は痛んだ。

 そのまま彼女は、靴音を残して走り去った。

 前島はひとり残されて、自分は何かしなければならないと痛感した。彼女をこのまま苦しませておく訳には行かない。何らかの結論を出さなければならない。しかし、劇的な告白を受けた後で、すぐにはその要求に応えられなかった。考える余裕が欲しかった。前島はつい最近二〇歳になり、大学生活は始まったばかりだった。

 数日後、前島の耳に思いがけない知らせが飛び込んできた。

 前島は、彼女が身投げをした現場まで、無我夢中で走っていった。道行く人々の姿がいつもと変わらないはずなのに、どこか感じが違っていた。周囲の世界の見え方が普通ではなかった。たどり着いてみれば、そこは何の変哲もないただの鉄道沿線だった。

身を投げた恋人の幻を見た時、その場の風景は恐ろしいものに変わった。前島を奈落の底に突き落とした。耐え切れなくなって目をつぶり、頭をかかえてその場にくずおれた。

 葬式の当日、厳粛な儀式の進行を、前島の二つの目が遠くから見守っていた。その目は、何も死ぬことはなかったのだと訴え、この世に神はいないと確信していた。

 皮肉にも、からりと晴れた日で、小鳥さえさえずっていた。うなだれて立っている両親を恨めしく思った。遺書か片身か、彼女の匂いのする物がほしいと思った。ずっと以前に旅行先から送ってくれた小さなアクセサリーだけが手元に残った。

 死は、息づく人間たちの間にあった親和感を奪った。間い掛けても、彼女は決して返答しなかった。死はすべてを無に帰して、神秘さえ呼び起こした。夜の狐独の中で、彼は彼女の幻に何度も話しかけた。赤ちゃんが欲しい、という最後の魂の叫びだけが、前島の心の中にしみついた。彼女と合体するためには死ぬしかなかった。人生は地獄だと思った。


 その晩、望月は青山の話を聞き終えてから、思い出した光景があった。

 高校の修学旅行に出発するとき、列車の客室の中で、仲間たちがひとりの男を冷やかしていた。それは照れた顔つきの前島だった。仲間の指し示す方向を見ると、ひとりの娘が前島の方に向けて手を振っていた。彼女は、一週間の旅行に出かける恋人を見送りに来たのだった。

 そう言えば、彼女はその姿に派手さはなく、弱々しい感じさえする娘だった。

 昼間会った前島も、言葉は少ないが、柔和な性格の青年だった。人から何か頼まれても、なかなか断れない感じの優しい顔立ちの男だった。

 北陸の町に滞在する最後の日、昼食は青山と共に、あの駅のそばの食堂でとった。

 娘はやはり働いていて、整った顔立ちの娘と目を合わせた望月は、少し緊張した。食事を終えて、店の戸を閉めて戸外に出た。

 背中を娘に見られているように感じた。もはや会うことはないなと、思い切るような感情を持てあまし、名残惜しさを覚えた。前島の恋人と、その面影が重なるような気がした。


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