卒業の足音

 出身地に戻っていた望月は、地元では少し大きな町に用があって出かけた。

 文化会館の前を歩いていた。その場所は広々として、大きな街路樹が何本も植わっていた。人通りはあまりなく、風通しの良い所だった。

 不意に、向こうから見覚えのある人が自転車に乗ってやってきた。互いの距離が縮まってくると、向こうもこちらに気づいたようだった。

「岡本さんかな?」

 望月は相手を見つめて聞いた。

「あっ、望月さん」

 信子は自転車から降りた。二人は笑顔になって、見つめ合った。

「あれ、そうか、ここの生まれだっけ?」

「帰ってきたんですよ」

 望月は、二,三年前に二人で駅で待ち合わせたことを思い出した。文芸部の合宿に出かけた時だった。

 その後のことも、徐々に記憶の底からわき上がってきた。

「あっ、短大卒業して、それから……」

「名古屋に父の転勤で引っ越して、また転勤になって戻ってきたんです」

 少し間を置いてから、信子は勢いよく言った。

「お見合いしたんです。歯医者さんと結婚したんですよ」

「あっ、そうなんだ」

 信子は、自転車のかごに買い物の入った袋をいくつか積んでいた。望月は、信子は今は主婦になったんだなと思った。そう言えば、少し落ち着いたような風情があった。

 望月は信子の顔を見ているうちに思い出した。それは、あの頃の信子の、相手をじっと見つめる自信のなさそうな表情だった。その表情を、自分が恋愛感情の一種と感じたことも思い返した。

 その思い込みが、あの晩の二人の添い寝につながった。山奥の宿泊所の夜の出来事だった。信子は望月に抵抗し、同時に彼を受け入れようとした。

 信子は別れのあいさつを口にして、にこっと笑った。望月は、風を切って自転車をこぐ信子の後ろ姿を眺めた。

 あの添い寝のあと、双方の思惑は別として、二人の間に性的な関係は生じなかった。しかし、信子の女体の熱や感触は、望月の性欲に刺激を与えた。その体験は望月には、道徳にかなっていたような、一方で名残惜しいような思いを、今でも心の中に残していた。

 信子は自分と話している間に、あの晩のことを少しは思い出しただろうか。いや、主婦となって生活に追われる今では、酔った時の戯れくらいにしか考えていないかもしれない。

 信子の後ろ姿に、あの時の性的な若い勢いは影を潜めていた。今はもっと生活感にあふれ、健康的で忙しい印象があった。


 キャンパスでは日を追って、空気の冷たさが肌を刺激し始めた。街路樹の枝ぶりは活気を失い、冬の到来を知らせた。

 望月はその日、開始時刻に遅れてキャンパスに到着した。すでに講義に取り組んでいる教授や学生たちに注目されるのを避けて、教室に入っていくのをためらった。

 受講は見送ったが、出席していた友人の日野に用があった。それも一緒に町に出かけて何かの遊びをする程度の用件だった。講義の終わる頃合いを見計らい、日野を見つけにいった。

 友人に会う前に、教室の入り口の外から節子の様子を窺った。やはり予想していたとおり、節子は教室の中を見回していた。

 いつでも節子は、教室に入ってくると、望月の姿をさがして視線をさまよわせた。望月の顔を見いだすと、安心したように席に着いた。

 望月は、節子に愛されているという自信はなかった。しかし、節子が自分を気にかけていることには確信を持っていた。

 日野とあいさつし合っても、望月は節子の視界の中に、意図して自分の姿を現さなかった。教室のあちこちに目をやるその横顔を見て、いとしくも、いじらしくも思われた。

 魅力的な女性を、自分は今、みすみす取り逃がそうとしているのかもしれない。それも、自分の立ち回りの悪さが原因かもしれない。そう考えると、切羽詰まった、苦々しい思いに捕らわれた。

 日野の声に促されて、望月は節子を見捨てるような気分で、教室を後にした。


 卒業間際になって、学生たちにとってはいつもより少し難しい試験が行われた。どんな資料を使っても良かったが、答案の作成には数時間が必要な問題だった。望月も節子も、その試験を受けた。

 試験を受けた学生たちが、建物の一階のロビーに集まった。雑談しているうち、皆で一緒に食事をすることになった。

 望月が、都会の下宿を引き払うのも一カ月後のことだった。思い出深い四年間の大学生活の幕引を控えていた。新しい時代へと続く廊下を、歩いているような気分だった。

 ソファに座っていた望月の目に、窓ガラスを通して節子の姿が映った。

 同じゼミナールに所属している男が、節子を口説いているように見えた。声は聞こえず、パントマイムのようなやり取りだった。

 男はやせていて、髪を長く伸ばしていた。望月は想像した。あの男も、節子の中の魅惑的な小悪魔によって、恋情に火をつけられたのか。節子は男に対して気が多いというより、男たちが自ずと引きつけられてしまうのかもしれない。

 節子の中のもうひとりの無垢な娘が、うつむいて口を真一文字に結んで見せたようだった。男は諦めたらしく、どこかに姿を消した。節子は気まずそうな様子で、望月たちのいるロビーに入ってきた。

 女友だちと立ち話する節子に、いつか節子のことをファッション・モデルのようだと評した友人の日野が、何やら話しかけたのが、望月の耳に入った。

「節子さん、卒業したら、どうするの?」

「実家に帰って、花嫁修業するの」

 関西の実家に行ってしまうのか? 望月は、節子の父親が、すでに転勤で東北から関西に居を移していることは、うわさで聞いていた。キャリアと呼ばれる国家公務員の一人らしかった。

 そのような家庭環境が、節子に意志の堅そうな表情や、乱れの少ない挙措を与えているように思われた。一方では、その家庭への反発心が、時々偽悪的な態度を生んでいるようにも思われた。

 両親と同居するために、節子自身も卒業と同時に関西に行ってしまうという話は、その意外さで望月を驚かせた。

 望月は、自分たちはいずれ、それぞれの異なる道を歩いていく運命にあると、以前から認識していた。節子は学生時代に続き、マンション暮らしに慣れた都会娘として、住居の地は東京を選ぶ。それに対して、望月は生まれ育った北関東の地元で、適当な所に勤める。

 愛し合うことなく暮らしても、同じ関東の空の下で生活を営む。そのような暗黙の了解に、別れの悲哀にさいなまれる望月のわずかな慰めがあった。愛し合えない精神的な距離なら、仕方なく受け入れるつもりだった。

 しかし、関東と関西という物理的な距離さえ、これからはかかえることになってしまう。新幹線など交通機関は発達しているが、やはり関東から見ると関西は遠い。


 仲間たちの一行は、大学のそばのレストランに入った。望月は節子とは同席しなかった。しかし、節子の視線を食事の間ずっと感じていた。

 これからは、顔を合わせたり、言葉を交わしたりする機会もなくなってしまう。そういう日々が、音を立てて近づいていることを、望月は意識した。

 レストランを出た所で、節子は女友だちと一緒に歩道に立っていた。黙って望月の方を、じっと見つめていた。

 通りには夕暮れが迫っていた。オレンジ色の光が、商店街から漂い出す空中のほこりを、照らし出していた。車の群れは、絶え間なく音を立てて車道を往来した。人々は、家路を急いでいた。それらが、望月の寂しさを深めた。

 望月はその場所を、強く心に刻み込んだ。

 仲間たちの何人かが別れを告げて、駅の方向に歩き始めた。望月も別れを告げて、駅とは反対の方向に足を向けた。何のこだわりもないかのように歩き続けた。望月は大学のそばの下宿に住み、いつも徒歩で通学していた。

 薄暗い住宅街に入った。

 すると、望月を見つめていた節子の姿が、はっきりとした形で、まぶたに蘇ってきた。もしかすると今からでも、節子との仲がうまく行くのかもしれない。心の中に、期待感が頭をもたげてきた。

 すぐさま正反対の思いが、それを打ち消した。自分たちが離れ離れになってしまうことは、間違った選択かもしれない。しかし、その原因は節子の側にあり、自分にはどうすることもできない。それでも、今ここで何かをしないと、一度きりの人生が取り返しのつかないものになってしまうのかもしれない。


仲間たちの多くは、就職活動、卒業論文の作成などに追われていた。それぞれが今後の身の振り方を考えるようになり、顔を合わせる機会は減っていった。

 野口と直子は、燃え上がった恋心に導かれるまま同棲生活を続けていた。ここに来て、学生の身分の終わりを予感し、互いの行く末を考え始めた。

 望月は、恋人たちの相談の聞き役に回ることが多かった。恋人たちはそれぞれ別の時に、自分のことを語った。

 学生食堂で野口を見かけた。頭にバンダナを巻いていた。ジーンズに手を突っ込み、自由を楽しんでいる若者の外観だった。同じテーブルについて顔を合わせ、望月は尋ねた。

「最近、あんまり講義出ないね」

「うん。バイトで忙しくてさ」

「まあ、一緒に住んでるんだから、講義で会わなくても、どうってことないよね。亭主みたいなもんだね」

 望月がそう言うと、野口は眉間に皺を寄せた。

「あいつ、言うんだよ。おれの嫁さんになれるかってさ。答えようがないよな」

「うん。どうして?」

「だって、今、先が見えないじゃん。無理だよ」

 望月は傍観者的な態度だったが、以前から恋人たちの恋の成就を願っていた。恋路の紆余曲折は経ても、恋人たちは最後には結ばれると、自分勝手に信じていた。

 野口は、都会の貸家暮らしをする望月と同じような学生だった。直子に対する男としての責任もあれば、社会における将来の地位や活動に対する野心もあった。それぞれの郷里を持つ二人は、大都会に出てきて浮草のような不安定な日々を続けていた。

 野口は親からの仕送りがあまりなく、生活の必要性から、あるいは臨時の仕事のおもしろさから、学業よりもアルバイトに熱心だった。

 結果的に、学業では満足な成績を残せなかった。地方の出身者が都会の毒に冒されたかのように、留年することが早々と決定した。


 野口のいない仲間たちの会食の席で、直子は深刻な顔をしていた。

 望月は、悠長に一般論で恋愛を語った。直子は、自分の恋愛問題を真剣に見つめていた。

「捨てられてもいいから、赤ちゃんだけは欲しいの」

 野口との関係に、陰りが差しているようだった。

「あいつ、どうしたの、冷たくなったの?」

 直子はうなづいた。

「あーあ、捨てられたらどうしよう」

 望月から目を逸らし、窓の外に焦点の定まらない視線を遊ばせた。目の前の話し相手を、いつも興味深げに見つめる直子にしては、珍しい素振りだった。直子をとらえる苦悩の大きさを、望月は直感した。

 国の内外に、その頃センセーションを巻き起こしていた映画が、仲間たちの話題に上った。愛欲のあまり男の象徴を切り取ってしまう女が描かれていた。

「あたし、あの気持ち良く分かる」

 深刻な眼差しの直子はそう言って、一座を驚かせた。

 直子は野口に一度心を許してしまうと、男女愛の世界にのめり込んだようだった。

 望月は後で、直子の苦悩の直接の原因を知った。男友だちから事情を聞かされた。それは、数週間前に男の仲間だけで楽しんだ、ある女子大学の学生たちとの合同コンパらしかった。

 以前から野口はアルバイト先で知り合う女子学生に、気持ちを奪われることがあった。今回のコンパを企画したのが野口自身であったことが、状況を悪化させた。それを知った直子は嫉妬に駆られ、野口を責め立てた。

 その挙げ句、二人の愛の巣から、野口は返す言葉もなく締め出された。ドアの前で座り込み、うなだれていたが、仕方なく夜の町をさまよった。野口は大衆食堂で、一人寂しく夕食を済ませた。他に宿泊先の当てもなく意気消沈して、けなげにも直子の元に戻ってきた。ドアは堅く閉じられたまま、引いても開かなかった。仕方なく、その夜は廊下に座って、一夜を明かしたという。

 そのコンパには望月も誘われ、好奇心が湧いて出席していた。

 望月は、直子が望月から珍しく目を逸らした素振りを、後ろめたい気持ちで思い出した。望月はいつも懇意にしている直子や他の女友だちには、そのことを一切明かしていなかった。つまり、直子は望月の秘密を知っていた。男の浮ついた心を見透かされたようで、望月は気まずい思いを味わった。

 ところが、後から仲間たちに聞いた話では、直子は直子で、大学の講義が休業期間に入ると、郷里に戻って地元の知り合いの男と会っていたらしい。恋人たちの現実の姿は、望月が幻想を抱いていたほど、純粋でも単純でもなかった。


 望月は、仲間たちの中から生まれたカップルの先行きを懸念して、野口に尋ねた。

「うん。あいつは田舎に帰るだろう。おれは大学に残るよな」

 野口は自分に納得させるように言ったが、口ごもっていて要領を得なかった。

「だから、それでどうするの?」

 野口は自分の頭の中で事柄を確認するように、黙ってうなづいた。

 野口には以前から、励ましてやりたくなるような、叱咤したくなるような、精神的に弱い一面があった。それは、直子のような女性には、紳士的な優しさと映っているようだった。この男はあの女と別れたら自殺でもするのではないか、とロマンチックで苛酷な想像を、望月はしたこともあった。知り合ってから四年間の、望月の知らない感慨や苦悩が、野口の脳裏に去来しているのに違いなかった。

 恋愛の絶頂期には、野口は夜の生活について息巻いて言い放ったものだった。

「おれ、あいつより先に行ったことはないぜ」

 その頃の元気は、すでに影を潜めていた。昼の世界で気づいてみれば、二人の具体的な行く末が、苦悩の種になっていた。

 以前に、直子の親が上京してくることになったとき、二人が愛の住みかのカモフラージュにあわてふためいていたことを、望月は思いだした。苦労はしていたが、その苦労を一緒に楽しんでいる様子が窺われた。

望月は、出身地の異なる直子と野口が、乗り越えなければならない障害の数々を思い描いた。

 直子は地方の開業医師の娘で、両親は娘に相応の夫を迎えたい意向があるだろうと想像された。郷里に戻って、親の用意した条件の良い相手と結婚する道も開けていた。大学の仲間たちの間で、野口との都会での暮らしは、若い日の火遊びか、若気の至りとして処理されてしまうことも考えられた。

 野口は地方の農家の出身で、田舎を毛嫌いしていた。大物になるつもりで上京した、と野口の口から望月は、以前に聞いたことがあった。これからも、刺激の多い華の都会に住み続けるつもりだった。しかし現実には、文学部出身の野口に、必ずしも明るい就職先が待っているわけではなかった。

 郷里の親元に帰っていく直子と、都会で単身生活を続ける野口との間で、結婚が成立するためには、多くの困難が予想された。


 仲間うちの誰からともなく、卒業という言葉が、わびしいため息とともに出始めた。

 卒業も目と鼻の先の出来事になった。四年間の学生生活が、もう少しで終わろうとしていた。

 ある日、夕暮れが迫り、町のあちこちに照明の灯り始めた中を、通行人が家路を急いで歩いていた。望月は直子と男友だちの太田と一緒に、大学のそばの喫茶店に入り、窓際に席を取った。太田は直子、野口のカップルと懇意だった。

「結局、別れるのかい、野口と?」

 望月が唐突に尋ねると、直子は真剣な顔付きで望月を見つめた。瞬きしてから、テーブルの上に視線を落とした。二人の事情を単純に捕らえているらしい太田が、当然のことのように言った。

「結婚するんだろ?直子たち」

 直子は考え込んだ。俯いて小さなうなり声を上げ、話題を別の方向に持って行こうとした。

「この間ね、田舎に帰ったとき、中学校の同窓会があったのね。冗談で、お嫁にもらってやるって言う子がいるわけ。あたし一人じゃなくってね、みんな女の子がよろしくって、周りに集まっちゃってね」

 望月たちは直子の顔を見つめた。

「それからね、すごい子がいてね。前つき合ってた男の子と、今つき合ってる男の子が集まったでしょ。それで、両手に花じゃなくて、男って感じでね。最初、今つき合ってる人と、みんなの見てる前でキスしたのね。それから、前つき合ってた子も、キスしてほしいって言ったのね。そしたら、今度はその子に抱きついてね、キスしちゃってね。すごいでしょ。あとで、その男の子同士で、あの女はあばずれだとか、そうじゃないとか、口げんかしちゃってね」

 望月たちは感嘆の声を挙げて、顔を見合わせて笑った。

直子の話はいよいよ本論に入った。

「確かに、田舎で相手を見つけた方が、土地も家も将来もあるって感じで……。あの人だってあたしと別れたら、他の人を好きになるかもしれないでしょ?」

 男と女の違いなのか、野口の非現実的な生き方に比べて、直子の生き方は現実的に見えた。安全で幸福な道を、自ら選択して行くように思われた。野口との一連の出来事を、若き日の熱い恋の思い出として、片付けてしまう術を身につけているようだった。

 望月は呟くように、恋人たちの学生生活を評した。

「一時流行った同棲時代で、おしまいか」


すると、太田がため息をつきながら言った。

「おれも、そんな感じだなあ」

望月は、太田がかつてクラスの女子学生に熱を上げていたのは知っていた。その恋は進展しなかったらしかった。

 その後、的を変えて、望月が心を傾けた節子もお茶に誘ったことがあると、太田から聞かされた。望月は自分の気持ちは口に出さずに聞いていた。節子が何度かクラスの人とは友だちでいる主義だ、と言った事情が分かるような気がした。

 太田は、節子は頑なで乗ってこないからだめだと、その人間性を否定するようなことを言った。望月には、太田の言っていることが分かるような気がした。節子は男に愛想笑いをしなかったし、愛していない男には無関心らしかった。理想が高いせいかもしれない。少しきれいだから口説こうと思っている男にとっては、取り付く島がなかった。面白くもないし、先の見込みもない女だった。

 かと言って、節子を批判することもできない。似たような女性は他にもいる。好きな男にだけ愛想良くして、それが悪いということはない。批判されるのは、下心を持って近づく男の方かもしれない。

 最近では、その太田の部屋に、ある短大の女子学生がよく通ってくるという噂があった。

「それで、いつごろから始まったんだい」

「そうだなあ、半年ぐらい前からだなあ」

「その時のこと、詳しく聞かせてくれよ。あったわけだろ、関係が……」

 太田本人が言うには、女子学生は太田の郷里まで、長い休暇を使って訪ねてきた。太田は、愛車で女子学生を近くのモーテルまで連れて行き、中の仕組みをいろいろと教えてやった。その後は、することをした。女子学生の方が惚れ込んでいて、太田がそれを暖かく迎え入れている、という関係らしかった。

「それで、どんな感じだったの?あの時は…」

 望月は肝心の点にこだわった。

「うん。結構、疲れるね、あれ……。いや、まあ、手の握力ほど強いものないって言うけど」

 直子は隣にすわる太田の苦笑いを見て、顔をほころばせて笑った。直子は、男友だちとこの種の話を平気ですることができる娘だった。

「最初さあ、なんて言うかな、うまくいかなかったんだよなあ」

「どういう風に?」

「うん、五,六回目でやっと成功してね」

 望月は太田の顔を覗きこんだ。

「どうしてだい、見つからなかったの」

 望月は面白がって追及した。

「いや、違うんだ」

「電気消して、真っ暗闇の中でやったのか」

「いや、彼女がさ、入れようとすると痛いって言うんだよ」

「それで、五回も六回も挑戦したわけ?」

 望月は、バスケットで鍛えたという太田の、ズボンのはち切れそうな腰から太股のあたりを見て、小柄らしい相手の娘が気の毒になった。

「あれ、結構、初めての時って難しいんだぜ」

 笑いながら話を聞いていた直子が、太田の意見に賛同した。

「うん。あたしも、そう思う」

 語尾を省略して断定的に話すのが、直子のいつもの癖だった。

 三人の話題は、異性の存在に敏感な若者らしく、それから猥談に移った。太田も直子も、望月は性体験がないと考えているようだっった。望月はそう思わせておいていいと考えていた。

 直子は開放的な性格で、性体験を隠さずに語った。直子は望月に諭すように言った。

「恋愛小説とか、テレビドラマみたいにロマンチックじゃないの。二人とも汗かいちゃってね」

「はあ、野口も、最初は苦労したわけだ」

 望月は感心するような表情をして、皮肉っぽく言った。

「でも、彼の時は、うまく、すっと行ったから……」

「彼の時は、っていうことは、もう前の彼氏とは高校の時に?」

 その時、望月は思い出した。四年前に一度、直子に尋ねたことがある。それは当時の交際相手との関係に関する質問だった。今、思いとどまった質問の続きが行われていると気づいた。

「何だ、そうか。じゃあ、慣れたもんだ。今度、田舎に戻って結婚すれば、三人目ってことになるのか?」

 直子は照れて、笑うだけだった。直子はやはり性に奔放な娘だった。

「そうか。それじゃあ、彼氏も直子のこと、忘れられないだろう。」

 直子は口を閉じた後、不意に話し出した。

「それがね。この間、昔付き合っていた人だけど、彼、車に乗ってきてね、一緒にドライブ行かないかって誘うの」

 男に持てない女の例を、望月はいくつか知っていた。一方で、受け入れやすい直子の体質もあるのか、男も集まるところにはよく集まるものだと思った。

「よりを戻そうって訳?」

「あたしが今の人を選んだときね、彼、わんわん泣いてたの。しようがないでしょ。彼は浮気だったし。今の人は、君の他には何も要らないよって、言ってくれたんだもん。」

「かわいそうだな。悪女だなあ。これからも、男性遍歴重ねるって感じだな」

「でも、口で言う割に実際には、それほどでもないでしょ?」

「何、言ってんだい。もう二人目、終わろうってとこだろ?」

 太田は直子の話題にちょっかいを入れた。

「でも、しっかり、子ども出来ないようにしてるんだろ?」

「うん。大丈夫だと思うけど」

「あれは、ちょっとね。スキンを着けるタイミングが問題でね。雰囲気が壊れるから。こんな話、していいのかな」

 男友達は語気を弱めて、にやにやしながら周囲の客の顔色を窺った。直子は、うつむきながら小さく言った。

「あれは使ってないの」

「えっ、いつもそのまま?」

「一度使ったら、先に穴が空いちゃって、駄目だったの」

「へえ、安いの買ったんだろ。あいつ、よく、それで大丈夫だな」

「でも、一度も失敗してないよ」

直子は自慢するような素振りを見せ、望月はあどけない顔を改めて、呆れて見つめた。

 望月は、欲望を満たそうとするたびに、苦心している野口の姿を思い浮かべた。快感の頂点で自己制御しているらしい野口の表情は、いつもの独特の衰弱したような顔つきと二重写しになった。その下品な想像を口にしようとして、思いとどまった。

 望月は、仲間たちから取り残されような感覚を味わった。しかし、おれは早々と所帯じみるのを望んでいない。人にはそれぞれの人生があると考え、特別な劣等感は覚えなかった。

 望月は、目の前の直子に、経験者に知恵を授かるような様子を見せて、からかい半分で尋ねた。

「それで、最高は一晩に何回くらいなの?」

「四、五回じゃない?」

「そうだね、それくらいだね。それでも、多いよ」

 太田が同調した。

「疲れるの。腰が痛くて」

望月は、数ヶ月前に、ある喫茶店で隣のボックスに座っていた女性が話していたことを思い出した。女性は結婚したての若妻らしく、声を忍ばせていたが、望月の耳にはそれは聞こえた。

「あたし、結婚してこんなに腰使うと思ってなかったわ」

 相手は未婚の女友だちらしく、平気で愚痴をこぼしていた。そこには、夫婦生活の生臭い現実があるように思われた。望月たちが血気に逸り、童貞を捨てる機会を窺って、夢想する世界とは違っていた。

 直子は結局、口先の冗談で会話をやり過ごした。野口との別れには、話を持っていこうとしなかった。

この時期、学生たちにとって公私ともに生活のすべてが慌ただしい決算期を迎えていた。大学卒業は、学生たちの人生にとって大きな節目のひとつだった。

 大学時代に張り巡らされた人間関係がしかるべき形に収束し、あるいは拡散しようとしていた。卒業を控えた女子学生の中には、既に結婚した者や、婚約者の決まっている者も、数人見られた。

 望月は、光の瞬く夜の町に目をやって、青春時代の多様さを痛感しながら、物思いに捕らわれた。

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