恋の病
クラスコンパの二日後、直子の誕生パーティーが開かれた。場所は大学のそばのレストランだった。
直子はその飾らない性格のせいか、可愛らしい顔立ちせいか、クラスの人気者だった。誰かの発案で仲間が集まった。派手な催しではなく、夕食時の軽い会食の集いだった。
望月も節子も参加した。偶然だったのか、節子は長いテーブルを回って、望月の正面に座った。
節子は、襟の立った黒いブラウスを着ていた。V字型の切り込みが胸元の深い所まで届いていた。三角形に縁どられた白い肌の上に、二重に巻かれたネックレスが長く垂れていた。
端正な顔立ちの中に、淡い口紅のピンクとアイシャドウのブルーが際立っていた。望月に見られながら、節子は両手ですくい上げるようにワイングラスを持ち上げた。グラスの縁に伏し目がちに唇を触れ、中身を少し口に含んだ。
アイボリーの色合いの壁面を背景に、節子の上半身は中空に浮き上がって見えた。洋風の店内で、まるでそれは、掛け軸の垂れた和室の床の間に凜として飾られた生け花のようにも見えた。望月は恥ずかしさを感じて、長くは正視していられなかった。
節子は、望月が見つめると視線を避け、視線を外すと望月を一瞥するように感じられた。 仲間たちが談笑して、ときどき誰かの滑稽な話で座が盛り上がった。節子は生来の性格なのか、品性を保とうとするのか、話し手の方に耳を傾けて同調して、顔を輝かすことはしなかった。
望月は、節子に何を話しかけたらいいのか分からなかった。ボトルを傾けて、グラスにワインを注いだ。それを見ている節子に気がつくと、二人の間の沈黙が重荷になって、手元が緊張した。
それでも望月は、帰りがけに機会をみて、初めて節子をお茶に誘った。節子は慎ましやかに視線を向けた。その視線は、前々日に望月が抱き寄せた女の、男をかどわかす小悪魔のような流し目とは似ても似つかなかった。
節子は少しためらったあと、望月についてくることを承知した。
地下街の人混みの中で、節子は女友だちに困った顔つきで何か耳打ちした。女友だちは、傍らに無言で突っ立っている望月の姿を見た。
あの晩に、永山から節子をかばっていた背の高い女子学生だった。すぐに事情を理解し、からかうような表情でにっこりと笑った。首を縦に何度か振って、別れのあいさつの手の平を、節子に示した。
二人は目についた地下街の喫茶店に入った。
前の店と同じように、望月は節子と向かい合った。二人きりになってみると、望月は体を縛りつけていたそれまでの緊張のなわが解けたのを感じた。実は節子を意識する自分の動揺を、他の者たちに見透かされるのを恐れていたことに気づいた。
「あのう、増田さん、何かの理由でおれのこと、気にしてるんじゃない?最近、そんな感じがするんだけど…」
鋭い勘が働いた節子は、望月が遠回しに問いかけたことを素早く理解した。
「えっ、どういうことかしら?わたし、望月君のこと何とも思ってないわよ」
はっきりと間髪を入れずに切り返され、望月のそれまでの幻想は、もろくも崩れ去った。 望月はあの晩の節子の、望月にすり寄ってきた行動の意味するものを知りたかった。ほろ苦い失望感の小さなとげが、心の真ん中に刺さった。その鈍痛が胸の中でじわじわと広がり、わだかまっているのをどうすることもできなかった。
「そうか」
視線をそらし、うつむいて、そう呟いた。窓ガラス越しに、通りを行きかう人々を望月は眺めた。
「じゃあ、おれの錯覚だ」
表面上は納得して、望月はそう言い、二,三度頷いた。自分勝手に解釈し、もはや節子に対して自分の恋愛感情の門戸は開かないと心の中で決めた。一連の謎に結論が出たと自分に言い聞かせ、満足した。
他の話題をさがし、少しの間無言の状態が続いた。気を取り直して、望月は、あの晩に節子が打ち明けた恋愛談の内容について話した。
「あたし、そんなこと言ったの?いやだあ、恥ずかしい」
節子はそう言って、片手で口元をおおった。それは本当のことなのか、都合が悪くて嘘をついているのか、はっきりとは分からなかった。
あの晩の節子は、おびえた小動物が適当な避難所を見つけたかのように、望月にすり寄ってきた。それが今は、望月に対して精神的にも物理的にも一定の距離を保つ、別の女に変わっていた。なりふりかまわずに、望月に苦悩をぶちまけた女くさい節子は去った。社交上の平衡感覚を取り戻した節子が、そこにいた。
「泣いてるからさあ」
「泣き真似してたんじゃない。でも、あたし、どうして望月君の所に行ったんだろう?」
「おれが呼んだんじゃないぜ」
節子はよそを向いて、少し癪な様子を見せた。素直になれないのは望月ばかりでなく、節子も同様らしかった。
「おれはどうも、女なんか構っていられるか、というのがあってね」
「わたし、そういう人、好きよ」
男から好かれることの少ない女ならば口にできないような、自分の魅力を鼻にかけた言葉だった。
「あんまりこっちに深入りしてきて欲しくないの。いつも何かに打ち込んでて欲しいの。わたしもそうしていたいから…」
望月は同胞を得たような喜びを感じた。一方で、自分が交際する相手の女には、そんな人生観を持って欲しくないという抵抗感を覚えた。
「おれには、今まで何度か女性を傷つけたっていう罪悪感があるんだよ。プラトニックなものだけど…」
「わたしは傷つけられたら、必ず仕返しするの」
節子は別れた男の幻を喫茶店の隅に見定めるように、強い口調で言った。望月は、自分も同罪で責められていると感じた。
「はあ、ひどい悪女だね」
望月は、素直な口調でものが言えない節子を少し不快に感じた。
節子は面白くなさそうに目を伏せた。望月は口が滑ったと感じた。男友だちのひとりが節子のことを、あいつは性格が悪いと言っていたのを思い出した。
「傷つくのよねえ、そういうこと言われると…」
不意にしおらしい顔を見せた。節子に今、嫌われたくはないという単純な気づかいが働いた。
「ごめん、悪かった」
今度は、望月がしおらしいところを見せた。節子は半分は得意そうに、半分は驚いたように、ふっと鼻先で笑った。
「そろそろ行かなくちゃ」
節子の言葉で、望月は席を立った。レジの前で節子を制して、コーヒー代をおごった。
「それじゃあ、また講義の時…」
節子は望月を正視せず、体を斜めに向けて品を作った。小さく別れのあいさつをした。節子はハンドバッグから出した定期券を持って、人の流れに乗り、改札口に吸い込まれていった。望月は券売機の前の行列に並び、節子の姿が見えなくなるまで見送った。
ひとりになった望月の心に、失望感が改めてぶり返してきた。それは節子と話をしているときに何度か感じたものだった。体から力が抜けていった。
望月の予感は的中した。わずかの希望を抱いていたが、望月はやはり勝手に思い込み、誤解していた。
節子は、望月のことは何とも思っていないとはっきり言った。それは嘘ではないだろう。自分は、あなたのことを異性として大切な人だとは考えていない。節子はそう言ったと解釈できる。
あの晩の節子との抱擁は、望月にとっては重大な出来事だった。
しかし、節子にとっては、酔った勢いの成り行きだった。望月は、一本の止まり木のようなものだった。翼に傷を負った小鳥が、羽を休めるために一時的に舞い降りた場所だった。
望月は、気まぐれな女心に気持ちを揺さぶられた。本気で恋心を感じ始めた三枚目の青年、脇役を演じている間抜けな道化役者らしかった。
あの晩に隣にすわった節子のぬくもりが、肩先とわき腹と太ももに温かい湿布のように残っていた。回想の中で、節子の女のくぼみは、望月の下半身の欲望を吸い込むように誘惑した。
しかし、望月は予想した。残念ながらそれが、望月の欲望が充足できた節子の性的な魅力のすべてではないのか。それ以上の性的な交わりは望めないのではないか。
望月は、節子を誘惑して便利な愛人にしようとした男の影に嫉妬し、その男を憎んだ。 実態はよく分からなかった。しかし、その男は、望月より節子を引きつける魅力があるように思えた。美男子で相当の資力もあり、女の扱いに手慣れているように思えた。
二人の性的関係がどこまで進んでいたのか想像した。すると、苦い思いをわき上がってきて、いらだった感情を持てあました。耐え難さが心のひだに引っかかったままだった。
仮に友だちとして付き合えば、平穏な人間関係を維持していける。色恋の相手としてではなく、時に父のように見守ることも、時に兄のように接することもできる。実際に、望月はそのような距離感を、節子に対して多少は持っていた。
しかし今、望月の心にあるのは、親子愛でも兄弟愛でもなかった。男女愛は地上全体をおおう陽光ではなく、ひとつの対象に向かう稲妻に似ている。望月は日頃、神のような存在に憧れていた。しかし所詮は、生身の男だった。
そんな悩ましい日々を送っていたある日のことだった。
大学の講義の最中に、節子は教授の目を盗みながら何かしていた。よく見ると、カメラのシャッターの音をさせながら、女友だちの写真を撮っていた。
望月は、戸外の小春日和の陽気につられて、机に肘を突いて、うたた寝をした。目覚めて顔を上げたとき、節子は机の下に素早くカメラを隠した。隣に座る直子のほほえみで、自分の寝顔が撮られていたのだと察しがついた。
節子はすぐに望月から目をそらせて、教授の方に注意を向けた。そんな時の節子は、お茶目で、いたずらっぽい女子学生だった。
望月はその後も、自分の感情を打ち消すことはできなかった。終日節子のことを考え、浮足立った生活が続いた。大学で節子の姿を見ると、緊張して我を忘れることがあった。節子の女性美に魅了され、そのとりこになった。
都心の大学には珍しく、望月の通ったキャンパスには緑が多かった。秋の紅葉の時期を過ぎると、あちこちの木々が寒風にあおられ、葉を落とした。
木々の間を縫って続く歩道は、色鮮やかな枯れ葉でまだら模様に染まった。そのじゅうたんの上を、白い息を吐きながら学生たちが歩いた。
冬を迎えると、女子学生たちは、厚着をしながら多彩な装いで寒い季節を楽しんだ。節子たちのおしゃれな姿を眺めるのが、望月のささやかな楽しみだった。
望月の心は詩人になっていた。行き交う女性たちに混じって、ある時偶然に、ひとりたたずむ節子の姿が目に映った。
夕闇が漂い始めたプラットホームに、節子が背を向けて立っていた。周囲の風景が後退し、節子の輪郭は際立った。流行のブーツをはき、白い毛でおおわれたコートを着ていた。 望月は、そのたたずまいに一種の物悲しさを感じた。節子は望月の姿に気づかず、望月も節子の背中に声はかけなかった。そのうち、節子の姿が電車の乗客の中に隠れた。望月はいつものとおり、その電車と反対巡りの電車に乗った。
目的の駅で電車を降りて、改札口を抜けた。朝歩いてきたのと同じ道を、下宿の方向へたどった。
節子の姿が脳裏に残っていた。恋の病に冒されていた。自分は節子のことが好きなのだと、その時初めてはっきりと意識した。
もうすでに好きになってしまっていて、後戻りはきかない。この一事に関しては、本能は理性の言うことはきかない。
恋心の衝動が、望月の背中を大きな力で無遠慮に押し、次の行動へと誘っていた。望月は節子を愛し、求めていた。
冬期の定期試験の近づいたある日の夕方、望月は下宿の近くの公園の公衆電話のダイヤルを回した。恋心の苦しさから逃れるために救いを求めた。一途な思いを持て余した。頭の中は、節子の面影や素振りでいっぱいだった。
数回の呼び出し音が、耳の中で鳴った。相手が受話器を取った音が聞こえた。
節子のあいさつの言葉は、ひどく冷静なものに聞こえた。緊張して熱を帯びて落ち着かなかった望月とは対照的だった。
「あのう、ええと…、三連休あるでしょ?それで、どこか一緒に行ってくれるといいなあって思ったんだけど…」
他に取り繕う言葉もなく、すぐに用件を述べた。
節子は、「ああ」と呟いた。ためらいの気配が電話の向こうから伝わってきた。
「あいにく、三日間立て込んでるの」
「ああ、そう…。あのう、ううんと、あのねえ。増田さん、分かってるでしょ、おれの気持ち…」
節子は望月の真意を察したらしく、何も答えなかった。
「だから、要するに、傾いてるわけよ。それで、だからどうしろって、言うんじゃないんだけど…」
節子は黙ったきりだった。
「だから、ずっと前からそうだったわけよ。それで、今度クラスが別れちゃうでしょ。だから、いよいよこれは、土壇場に来たなって思ってね」
「うん。でも、クラス別れても、同じ講義とるかもしれないでしょ?」
「うん。それはそうだね」
しばらくして、節子の方から話し始めた。
「だって、わたしは…。この間、望月君と喫茶店でお話ししたときね、厳しいこと言われてしまったし…。それに、わたしみたいな女は、望月君の最も嫌いなタイプの女なんだと思ったし…」
望月は、節子と面と向かって悪女呼ばわりしたことを思い出した。
「ううん。実は、その逆なんだよね」
二人の間で、言葉が途切れた。
「だめなんだよねえ、最近。一日じゅう考えてるんだ」
気弱な、ため息混じりの告白を聞くと、節子はすかさずに言った。
「そんなこと、時間の無駄ですよ。それよりも試験の準備でもした方がいいんじゃないの?」
その話題の転換で、節子は謙遜したようだった。あるいは、望月の期待に沿えないことを婉曲に伝えようとした。
実際に、講義の単位を取りこぼせば、一年余分な留年につながりかねない。学生の身分の二人にとって、今度の試験は直近に控えた共通の関心事だった。
「うん。試験の前でまずいと思ったんだけどね」
「だから、キャンパスで会ったときなんか、軽く話しかけてくれればいいと思ったのよ」
「じゃあ、誘ってもいいかね?」
「私は、クラスの人とはお友だちでいる主義ですから…」
「ああ、お友だちね…。そういう返答が一番きついんだよね」
望月は性急で、白か黒かの決着をつけたがっていた。
「まあ、だめならだめで、いいんだけどさ。おれとしては、はっきりケリをつけたいから…」
望月の口調は、思い上がって脅迫めいていた。
「じゃあ、脈がないと見ていいわけね」
「えっ、でも、わたし、別に望月君のこと嫌いじゃないし…」
「好きでもない」
望月は息をつかせず、追い打ちをかけた。
「そうなんでしょう?]
同意を求める望月の声は、少し大きくなった。
「そうなんじゃないの?」
「ううん。そこまでしか言わないのか」
「私は、今まで人を好きになったことはありませんし、みんなとお友だちでいるつもりですから…」
「そうかあ…」
うつむいてため息をついた。
「やっぱり、おしまいだよ。クラス別れたら…」
「うん。寂しいですね」
「寂しいね」
そう言ったきり、望月は黙り込んだ。
望月の誠実な愛情の告白は、本人の緊張感とは対照的に、あっけない言葉のやり取りのうちに終わった。不誠実な告白ならば、すでに一度、一年前のコンパの時に口に上らせている。
袖にされてみると、節子は高慢で、へその曲がった性悪女に見えた。数々の嘘が、望月を悩ませた。
ある男を好きだったと告白したかと思うと、今までに人を好きになったことはないと言う。自分から寄り添ってきたくせに、酔ったときのことは覚えていないと言う。心理的なお手玉遊びをしているような気分だった。
望月は、友だちでいたいという口実で適当にあしらわれた。おれを本気で好きなら、そんな言葉は出てこないだろう。
いずれにせよ、節子の真意がつかめなかった。二人の関係の先行きが見えてこなかった。まだ本当の決着はついていない気がした。しかし、片思いが報われずに続くのは、納得が行かなかった。
一方で、冷めた気分になってみると、ひとりの娘を相手に頭を悩ましていることに疑問を感じた。青春の貴重な時間を、もっと重要な事柄に費やした方がいいような気がした。今後の生活を、明るく楽しく作り上げていきたかった。
節子とは、今後もキャンパスで顔を合わせていかなければならない。あんな電話のやり取りの後で、沈黙を守り通すことは困難に思われた。それなら、電話での告白は、最初からなかったものにしてもらおうと画策した。そうすることで欲求不満がなくなり、自尊心が救われるような気がした。
告白の二,三日後に、二人とも選択している講義がある教室で行われた。教室の入り口の前で、キャンパスで寛ぐ学生たちを見下ろしながら、望月は節子の現れるのを待った。
節子は、無表情でひとりで歩いていることが多かった。望月は歩み寄り、声をかけた。
「増田さん、この間は悪かったね」
節子は、「ああ…」と呟いて、うつむいた。
「忘れてよ」
望月は、顔をほころばせて快活に言った。心の痛みを覚えながら、小さな決心をしたつもりだった。自分の言葉が、節子を突き放す冷たさを帯びていることを感じ取った。
二人の間に一瞬、沈黙が流れた。
節子は、わずかに戸惑った表情を見せた。目をそらせて、ほほ笑んだ。望月は、小馬鹿にされたような感覚を味わった。
しかし、節子の方から、不快感を交えた非難の声が聞こえてくるようだった。その声は、突然にあんな電話をしてきて、今度はきれいさっぱりと忘れてくれって言うの?あるいは、どうぞご自由に、とでも言っているようだった。
望月は三学年に進級した。
節子はクラスが別れた後も、望月と同じ講義に出席することが多かった。
袖に振った相手と顔を合わす環境は、望月にはつらかった。しかし、以前から予想していたことだった。時には、軽く言葉でもかけようかと迷った。ところがすぐに、振られた屈辱感がぶり返してきた。この女は自分を愛していないと心に言い聞かせて、思いとどまった。恋の告白の前と同様に、キャンパスで言葉を交わさない日々が続いた。
ある日、講義の始まる前に、望月は椅子に座って雑誌を読んでいた。
節子が教室に入ってきて、望月を一瞥した。斜め前の席に背中を向けてすわった。視線は上げずに節子の気配を気にしていると、間もなく立ち上がった。今度はすぐ目の前にすわり、望月はその背中からわざと視線を反らせた。
他の席も空いているのに妙な席にすわるものだと、いぶかしく思った。そのうち節子は、再び立ち上がって、結局、少し離れた女友だちの隣の席に行ってしまった。
望月には、蝶のように好きな所に飛んで行く節子の心を、捕まえることはできなかった。
秋になると、キャンパスの木々の色合いにも、どこか物寂しさが感じられる。
望月は、あのマドンナが男と一緒に歩いている姿を、通りで見かけた。久しぶりの姿だったが、衝撃を受けて胸が痛くなった。恋人なのだろうか。
連れだって歩く男は眼鏡をかけて、地味な印象の人物だった。顔には、事故か何かあったのか、大きなやけどらしいものがあった。それは、傷も染みもないマドンナの美貌とは似つかないものだった。
望月は、自分は美貌の女性を求めていたが、マドンナは美貌の男性は求めていなかったのかもしれないと思った。
マドンナはしっかりと、男に肩を抱かれていた。何か話しながら、喜々として男の顔を見上げていた。
二人は、駅の旅行センターに入っていった。望月は気になって、店内を覗いた。新幹線の切符を買っているようだった。望月は、二人の仲がかなり進んでいるらしいことを知った。
望月は目を背けて、通りを歩き出した。また一つの恋が終わったかと思い、つらくなった。
一方、夏休みが終わったあと、久しぶりに見た節子は、真っ黒に日焼けしていた。若い日々を楽しんでいるようだった。望月も親しくなったクラスメートと、高原の避暑地にテニスの合宿に行ってきた。
ある講義のとき、教室の後ろの方に席を取って、望月は節子の後姿を眺めた。海辺で寝そべる節子の姿を想像しながら、夏服で露わになった肩の辺りに、水着の線を探した。
講義が終わったあと、すれ違いざまに少し大きな声で、節子に「こんにちは」とあいさつした。すると節子は、日頃の無愛想な顔をほころばせて、同じく「こんにちは」と言った。
望月は、久しぶりに言葉を交わしてすがすがしい気分になった。節子も次の言葉を待っているように見えた。しかし、今更何を語ろう、という諦めの気持ちが頭をもたげてきた。
別の講義の時には、女友だちと並んで話す節子の言葉が、切れ切れに耳に入ってきた。
「最近、年下の男の子に興味があるの」
近くにすわる望月に、それが聞こえることは、節子には分かっているように思われた。世間でよくいう、変わりやすい女心に動揺すまいと、望月は警戒した。
「いいのよ。みんなと適当にやってれば…」
教授の入ってくる姿を見ると、節子は最後の締めくくりのようにそう言った。その投げやりの言葉が、望月に小さな苛立ちともどかしさを感じさせ、一方で微かな安心感を与えた。異性との交際に疲れて、休息期間に入ろうとしているのかもしれないと思った。
節子が望月に送ってくる視線の不可解さは、以前と変わらなかった。
その姿がひとたび目に映れば、胸騒ぎがした。いなくなってみると、節子に対する思いが胸の中に広がり、それを持て余した。
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