交際の土壇場

 望月は大学の二年目に進級した。

 春の日の夕方、望月が出身地の実家で過ごしていると、礼子の方から久しぶりに電話がかかってきた。明るい声だった。

「母親がステーキ屋を始めたんです。良かったら、食べに来ませんか?」

 夜の時間帯の誘いは、高校時代の二人なら考えられないことだった。以前に、望月が酒に酔って電話したこともそうだった。

 礼子は、一年の浪人生活を経て、大学に合格していた。望月と同じ大学生になれた自分の身の上を、一緒に祝いたい気持ちがあるようだった。

 望月は、礼子の合格した大学が少し気になった。そこは世間的には、望月の大学よりも入るのが難しいとされる大学だった。

 かつて望月は、一流大学や医学部を受ける、と礼子に言っていた。礼子は、自分は短大になるかもしれないと言って、望月との不釣り合いを気にしているようだった。しかし、結果的には、ある意味で二人の立場は逆転してしまった。


 望月は、町中に新しく開店した店に車で向かった。

 礼子の母親は、望月を笑顔で迎えた。父親も少しの間、店に顔を出した。

 礼子は母親に勧められて、望月のために、流行の歌謡曲をマイクを持って歌った。声も歌い方も申し分ない、と望月は思った。

 しかし、なぜかそれは、北国の冬の海峡を歌った暗い演歌だった。男に捨てられた女が故郷にひとりで帰っていく切なさを表現していた。

 礼子は望月に、浪人中の新しい出会いを語った。ロックバンドの若い面々と交流していたらしかった。若者たちは、ステーキ屋のあるビルの一室で、ステージを持って活動していた。

 一方、望月は忙しい都会の学生生活を語った。勉強、娯楽に興じる日々、仲間たちとの愉快な付き合いを礼子に話した。

 望月は、二人は明らかに、別々の環境と人間関係の中で暮らしていると感じた。離れている期間が、すでに長すぎたのかもしれないと思った。

 久しぶりに礼子に話しながら、そのショートカットの髪形が似合わないと感じた。

 そのうち、礼子は、カウンターにすわる酔っ払いのひとりら名前を呼ばれた。礼子は、望月との会話を中断した。

 アルバイトだと言って、夜の営業を手伝っていた。望月は、水割りのウイスキイを作っている礼子の姿に奇異の念を覚えた。

「こういう仕事、好き?」

 望月は、自分の席に戻ってきた礼子に尋ねた。

「酔っ払いの相手なんて、適当にやってれば済むでしょう?」

 さらりと、そう言ってのけた。高校時代の娘々した礼子には見られなかった大人びた口調だった。


 望月はそのうち別れのあいさつをして、店を出た。

 自家用車を発進させて、バックミラーに映った礼子の姿を見つめた。店の入り口で、望月の車をいつまでも見送っていた。

 沿道の闇の中に、派手なネオンサインの看板が姿を現した。西洋の城を真似た連れ込みホテルの建物だった。

 自分は純情な初恋をしてしまった、と思った。大学では、野口たちのように性愛に開放的な仲間たちを何人か見ていた。彼らに比べて自分たちのつき合いは、生真面目で理性的で、慎重だった。

 望月は、二人の付き合いをきれいなものにしておこうとした。

 礼子を遠くから黙って見守り、幸せを祈ってやりたかった。世間によくある恋愛沙汰のようなものにはしたくなかった。いっしょにいて愛撫してやったり、かいがいしく世話を焼くような関係は考えていなかった。

 なぜなら、関係を深めれば、その先には責任問題が待っている。

 望月は自由でいたかった。ある意味で、自由を守るために礼子を愛すまいと努力してきた。あるいは、そこまでの愛情を礼子に感じなかった。

 そのようにして、男女愛の欲望を我慢しているうちに、男の手を伸ばすことを忘れてしまった。目の前には新しい女性たちが、あちこちにその姿を現した。

 今や双方が大学生となり、同じ都会に住むことになった。住む場所の遠さは、もうなくなった。二人はもはや、高校生の清く正しい男女交際では窮屈な大人の男と女になっているように思えた。

 望月は、都会の生活の中に現れる想像上の礼子を思い出した。

 それは、望月との関係を思い詰めて悩む哀れな女に思えた。しかし、現実の礼子は、望月ひとりに愛されなくても生きていける芯の強い女、というのが実相のようだった。


 望月がステーキ屋を訪れてから、またもや半年が経った。望月は大学に入ってから二度目の夏休みを迎えて、礼子を呼び出した。

 今では、双方とも同じ都会に住んでいた。しかし、望月が礼子と会う場所は、出身地の町の駅前の喫茶店だった。

 望月は、都会の人間関係と出身地の人間関係を切り離していた。

 都会では、礼子とは無縁の男友だちと女友だちに囲まれて暮らしていた。田舎に住む礼子はこれまでずっと、すぐには顔を合わせることのできない相手だった。毎日のように繰り返す都会の交流の輪に、礼子が加わってくることはなかった。もしそうなったとしても、それを煩わしく感じたに違いなかった。礼子の存在は、周囲の仲間たちには隠しておきたい個人的な秘密だった。

 その夏は、大学の友人と関西の観光地に旅行してきた。目に付いた娘たちに声をかけ、楽しい時間を過ごしてきた。楽天的で浮かれ気分だった。礼子とは、その気になればいつでも会えると信じ込んでいた。


 しかしその日は、それまでとは違って、初めから女の質問は核心に迫っていた。

「あたしのこと、どう思ってるんですか?」

 男は、前々からの自分の主張を通すしかなかった。

「友だちでしょ?」

素っ気ない返事に、女は追い討ちをかけた。

「ときどき呼び出されて、あたしは、ふらふらと約束の場所に出かけていって、このままいつまでも友だちでいるんですか?」

 男は返事を失って、うつむいて少しうなった。

「だって、嫌いなわけないじゃない?」

 その言葉だけ聞けば、男は決してうそは突いていなかった。

「でも、好きだったら、その人を独占したいと思いませんか?いつでも、一緒にいたいと思いませんか?」

 男は心の中で、女のひと言ひと言をかみしめながら、もっともだとうなづいていた。

「あたしたちの付き合いって、きれい過ぎると思いませんか?。あたし、恋愛って、もっとどろどろしたものだと思うんです。あたしは、男の人にもっと強引さを求めてるんですね。今まで悪いと思ってたことも、今は悪いと思わないんです。」

 男は面食らって、返答に窮した。

 同時に男は、女の身に起こった生活の変化を想像した。女はすでに都会の学生たちの奔放な男女関係の中に身を投じている。若者たちの性風俗や世の中の風潮に影響を受けているのか。

「しかし、なんて言うか…」

 これはもはや恋する男女の会話ではない、と男は感じた。

「おれは、礼子さんの両親のこと知ってるし、男には責任があるからなあ…」

 女は、間髪を入れずに答えた。

「あたし、本当に好きになったら、親なんか構いません」

 その言葉に男は、あるいは女の両親は、自分たちの交際を快く思っていないのかもしれないと疑った。

 一方で男は、疑問に思った。自分を見失うような情熱的な恋愛など、この人に果たしてできるのだろうか。礼子は、深窓の娘として親の保護のもとで育った女に見えた。男から強引さを奪っていたのは、そんな女の持つそんな純粋さと潔癖さだった。

「そんな風だと、女に逃げられちゃいますよ」

 少し鼻にかけて、もったいつけた言い方に、男は嫌悪を覚えた。

 女は男のつれなさと優柔不断に、不平を漏らしていた。

 よく見ると、女の顔は夏太りして、両腕は日焼けしていた。男は急に幻滅を感じた。女の表情を正視しているのがたまらなくなった。

「でも、望月さんの優しさが怖いですね」

 女は思い直したようにつぶやき、男はその言葉を詩的だと感じた。

 男には、自分の愛情が十分なのか不十分なのか、分からなかった。

「礼子さんて、イメージがぼやけてるんだよね。呼び出さないと会えないし…。同じ組織で会いたかったって思うなあ」

 頭の中では、大学のキャンパスを歩いていれば、どこかから現れてくる都会の女友だちと比べていた。

しかし、問題は出会いの形ではなく、気持ちの変化にあるのかもしれないと思った。

「大学に好きな人、いるんですか?」

女は肝心の問題で、探りを入れたようだった。

「どうにかなりそうなのは、いるけど……」

 男はそう言ったあとで、自分は今、冷たく不実な言葉を不用意に口にした、ととっさに思った。

「やっぱり、あたしにとって、望月さんは青春の一ページに過ぎなかったんだと思います」

 男は、その夢見心地の考え方に、少し反発した。愚かにもからかいの言葉を投げかけた。

「何もなくて、通り過ぎた男?」

 女も、男に負けじと意を決したように言った。

「あたしのこと捨ててください。捨てられますか?」

 女の非難めいた目は、正面から男をまじまじと見つめた。以前ならば魅力を感じた、大きくて二重まぶたの目だった。交際相手の男に正確な焦点を結ぶ両目だった。

男は女の心と体を弄んだことはない。女と今後会うことを拒んでも、「捨てた」ことにはならない。しかし、女にとって問題なのは、心と心の結びつきだった。

「きっと望月さんは、大人のクールな付き合いを考えているんですね。あたしはもう、セーラー服を着ていた高校生じゃありませんから…」

沈黙の時間が流れた。

「それほど悩むべきことかね?」

 男は、その言葉が実は、自分自身にも向けられていることを意識した。


 女と別れてから、男は自分たちの付き合いが、いよいよ土壇場に来ていることを思い知った。自分が何らかの結論を出すべき立場にあることを実感した。

 女は好きな男の腕の中で安堵感を得ることを欲している。がむしゃらな恋の渦中に飛び込む用意ができている。

 もはや見守るだけの関係は許されない。年頃の娘が、決心のつかない青年をいつまでも相手にしてはいられないだろう。

 今や二人の活動する舞台は、親元から離れた都会になっている。親密な交際は、始めようとすればすぐにできそうに思われた。相手がいて、状況も整っている。

 しかし、具体的にはどんな生活が予想できるか。男は学生で、まだ職を持たない。どこかの学生仲間のように、同棲でも始めて所帯じみていくのか。

 生活の問題でなく、気持ちの問題かもしれない。女は親密な結びつきを求めている。その点でもやはり、男にはこだわりがある。

 今でも特定の恋人を持たずに、さまざまな異性と幅広く気軽に付き合える自由に固執している。過去に無数の男女が繰り返してきた恋人関係や夫婦関係を、今、自分に強いる気になれない。やはり女にゴーサインを出す勇気が出ない。

 それでも、礼子は自分と結ばれなければ他の男と結ばれる。そのどちらかであって、他にはありえないと思いつめた。


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