恋心の揺らめき

 年の瀬になって、望月のクラスの面々が集まり、何度目かのコンパが行われた。

 歓楽街のパブの中は、若者向けのインテリアで飾られていた。四方を壁に囲まれた窮屈な空間だった。淡い照明を浴びて薄暗い中に、多くの客がすわっていた。

 望月には、スピーカーから流れるポップスの音響が、度を越してやかましいとまで感じられた。酔いが回って、頬がほてってきて、軽い頭痛を覚えた。

 望月は、それまで話していた女子学生との会話を中断した。ときどき横目で様子を窺っていた別の女子学生の方に足を運び、その正面にすわった。

 増田節子は望月を一瞥してから、緩やかに視線を反らせた。その思わせぶりな態度は、娘らしい本能的な羞恥心のせいなのか、経験で身につけた意図的な素振りなのか、望月には分からなかった。

 節子とは今まで改まって会話を交わしたことはなかった。比較的顔立ちが可愛らしいという印象は持っていた。当たり障りのない話題を尋ねた。

「ねえ、両親は東北にいるの?」

「そう」

 軽く気のなさそうに答えた。すると、なぜか逃げるように、望月の傍らを通り過ぎた。盛んに口を開いて話し合っている仲間の一団の方に行ってしまった。望月は肩透かしを食らったようで、軽い失望を覚えた。節子は望月の目に、男に容易に気を許さないタイプの女に映った。

 望月はしばらく、ほろ酔い気分で、うつむいていた。すると頭の上に、励ますような、からかうような声が降ってきた。

「どうしたの?もう酔っ払っちゃったの?」

 その声は、あどけなささえ残した、甘くて軽やかなものだった。空中にそっと置かれて頭の周りに漂った。顔を上げると、節子が横顔を見せながら、正面のソファにすわっていた。

 望月は、そのぞんざいな口調であっけにとられた。酔いの回った両目を見開き、珍しいものでも見つけたかのように、節子の顔を凝視した。よそに向いていた節子の眼球がかすかに動き、店内の照明を小さく反射した。

「最近、いいコート、着てるじゃない」

 それは、冬が来る前に望月が奮発して買ったものだった。町行く伊達男たちの真似をしているつもりだった。

「彼女にプレゼントしてもらったの?」

 会話の最初から、若者が関心のある話題に直接に切り込んできた。

「いや、プレゼントしてくれる人が欲しくてさ、それで着てるんだよ」

 気を利かせたつもりで、言葉を混ぜ返した。

「わたしはね、昔は悪い子だったのよ」

 尋ねもしないのに自嘲的な態度で、節子はそう言った。

「たばこは、小学生のときから吸ってるの」

 意外な言動に興味を感じ、望月は耳をそばだてた。純情な小娘に過ぎないと思っていた節子が、急に遊び慣れた女に見えてきた。


 望月は、アルコールで奔放に動く頭の回転に任せて、話題を変えた。

「恋愛経験、ありそうじゃない?」

 節子は吸い始めたばかりのたばこの火を、灰皿の中でもみ消した。

「そういうことは、男から先に話すものよ」

 クラスの他の女子学生は、そんな軽快で気の利いた受け答えはしなかった。

「おれの恋愛体験か。男には、女にはない、やらなくちゃならない仕事があるんだよな。だから、その辺がうまく行かなくてな」

「やらなくちゃならない仕事?女だってあるわよ」

 節子は異論を唱えてみせたが、それ以上の説明はしなかった。望月も尋ねようとしなかった。

 取り出したたばこをくわえると、今度は節子がライターを差し出した。

 ライターの火は揺れ動いて、たばこの先に静止しなかった。望月は酔いが回って気が大きくなっていた。手を伸ばして、断りなしに節子の手をしっかり握った。その手の感触を味わいながら点火を終えた。節子は驚いたのか平静でいるのか、黙っていた。

 望月は、普段は若い女性の手を急に握ることなどできなかった。性に奥手の青年の純情の現れだったかしれない。この時、望月は節子という女を軽視していた。


「今度は君の番だぜ」

「わたしは、中学校の頃から憧れている彼がいるの」

 それを聞くと、望月の心の中で失望感が広がり始めた。

 しかし、望月は節子の隣にずうずうしくすわり込んだ。節子の可愛らしい顔立ちに、酔った心が動かされた。店内に流れる曲は、巨大な動物のうなり声のように響き渡っていた。節子の小さな声が聞き取りにくかった。

「不倫の恋なの。彼には奥さんがいるの。同棲してるの。わたしは、不倫の恋なの」

 ひとり思いつめる風を見せて、節子はそう言った。不倫も同棲も、当時の若者の間では流行り言葉だった。

 二〇歳前後の望月の目には、若者たちの姿は一団の動物の群れのように見えた。彼らは性的な世界に競って、時には焦って分け入っていくようだった。興味本位と商業主義に乗った現代の性文化に、本能を煽動されていた。未経験の者たちは、機会があれば性愛の領域に飛び込んでいこうとしていた。

「わたしは女じゃないの。女の子なの」

 望月の言葉も、節子の影響で取り留めがなくなった。

「女と女の子って、どう違うの?」

「知ってるんでしょう?」

 節子は、間髪を入れずに言葉を返してきた。悪事を見通すような目で望月を見た。望月は目をそらし、小さなうなり声を上げた。一瞬、なんと答えていいのか迷った。

「知らないよ」

「本当?」

「本当だよ。そうだ、それじゃあ教えてよ。ねえ、教えてよ」

 ソファから尻を浮かせ、節子の方に体を寄せた。節子は一瞬ひるんだ。節子は逃げようとして、望月の動きに続いて体をずらせた。

 その表情から、それまでの気取りを含んだ余裕の色が消え、狼狽の様子が窺えた。節子は少しの間、思案した。

 望月は肩を抱こうとして、ゆっくりと節子の背後に腕を回した。指先をソファの背もたれの上に這って行かせた。肩先に触れると、節子は体を引いた。

「いやっ」

 節子が小さく叫び、望月は手を放した。

 望月がオードブルを取ろうと腰を上げた。節子は身の危険を感じたらしく、望月の背後を通って席を変えた。

「いいおべべ、着てんじゃん」

 反対側にすわった節子に、望月は話題に窮してそう言った。その頃、若い娘の間で流行っていたゆるめのワンピースだった。

「いいでしょ。最近、おなかが出てきたから…」

 節子はそう言ったあとで、わざと視線を宙に反らした。意味ありげに小さな笑い声を上げた。

 望月は、節子の意味するところを理解し、すぐにほほ笑み返した。よく見れば、その洋服はマタニティドレスに似ていた。

 望月は、霧に包まれている節子の男性経験に興味を覚えた。

「いやだぜ、おい。休みあけに、こんな格好してきちゃあ」

 望月は、妊婦の突き出した腹の形を、両腕で宙に描いて見せた。

 望月は、その頃よく聞いていたうわさを思い出した。男子学生たちの間で、あることがまことしやかにささやかれていた。それは新しく女子学生になった周囲の女性たちの話題だった。

 彼女たちの一部は、特に夏休みなどに、化粧やおしゃれで自分を飾り始める。身なりを大人らしく見せ、衣類で隠した体も同じように、少女時代から脱皮させようとする。それまで暖めてきた処女を背伸びして、男の性欲の前にさらして失ってしまうのだ。


 節子は、望月の冗談に目を細めて上品に笑った。

「ねえ、男ってなに?」

 望月は図に乗って、話題の切り返しのつもりでそう尋ねた。

「知らないの。純情だもん」

「知らないの?本当?」

「本当よ。教えてくれる?」

 節子が甘えるような表情で、冗談で口にした頼みは、男の心を刺激した。

「教えてあげる」

 教えられるかどうかの資格の有無は度外視して、会話の成り行きのまま、節子の頼みを承諾した。節子は大学の講義に出ているときには、物静かで慎ましかった。それが、内面にうっ積していた欲望を、開いて見せてくれたように感じた。

「教えてあげるってばあ」

 望月は盛りのついた雄のように、節子に体を近づけた。節子は怖がって身を引いた。

 二人の様子を、近くで話し込みながら窺っていた周囲の仲間は、望月に邪気のない批判を浴びせた。

「やめなさいよ。こわがってるじゃない」

 その声の主は、大学にはいるのに二年間浪人している、姉さん肌の坂本だった。

「握手しよう」

 望月は節子の体に触れたくて、手をさし伸ばした。そのこわばった手を取った。指先をつまんで、無理やり手の平を開かせ、握手を強要した。握った手を上下に何度か揺すった。しかし、節子は人形のように身を固くして動かなかった。

「ねえ、教えてよ。増田さん」

 節子を上から見下ろして、耳元でささやくように言った。店内の薄暗い照明の中で、節子の横になった姿が、望月の欲望をそそった。望月は体が伸び上がり、おおい被さるような格好になっていた。

 節子はソファの中で首を縮めて、前を見つめて黙っていた。少しの間ためらったあと、周囲の仲間に気づかれないように、節子に顔を近づけて言った。

「ぼくは前から、増田さんのこと好きだったんだよ」

 節子はすぐに反応して小さく笑い、少し低い声でたしなめた。

「どさくさに紛れて、変なこと言わないで」

 望月の言葉を本気には受け取らず、酔っ払いのたわごとのひとつと考えているようだった。

「こっちへおいで、あぶないよ。あいつの目、らんらんと輝いてるよ」

 節子はとうとう、そう忠告した日野の方に行ってしまった。


 やがて、クラスの一行は、二次会を楽しむため別の飲食店に向かった。

 望月はひとりで先を歩いて行き、横断歩道の赤信号で立ち止まって下を向いた。覗き込むようにして、節子は声をかけた。

「どうしたの?」

「酔った」

 望月はため息をつきながらそう言い、傍らの節子の小さな肩に手を回した。節子はそっぽを向き、望月の腕の中からすっと体を抜いた。望月はこりずに、節子の肩を今度は少し力を入れて抱き寄せた。

「やめて、わたしはそんなに安っぽくないの」

 大きな声でそう言い、肩にかかった望月の手をつかんで、後ろに跳ね上げた。完全に向こうを向いて離れていった。

「ちぇっ」

 望月は自分の傲慢さを反省もせずに、むくれた表情で舌打ちした。節子の体と性に興味があり、酒の席の冗談を実行に移そうとしていた。尻軽女に見られたと思った節子は腹を立てた。


 クラスの一行は、女子学生が多かったせいで、酔い冷ましのため地下の喫茶店に腰を落ち着けた。

 望月は性こりもなく節子を呼び、同じボックスのソファで向かい合った。望月の隣には、前の店で望月が節子にからむ様子を、冷ややかな目で観察していた男子学生がすわった。男子学生も、多少節子に気があるらしかった。街路で節子が望月の腕を振りほどいたあと、ずっと望月と一緒に並んで歩いていた。

「さっき、望月さんのこと口説いてたようだけど、結果はどうなったの?」

 男子学生は面白がって、そう尋ねた。望月は言葉に詰まって、わずかに身を引いた。

「増田さん、おれみたいな男、嫌いだもんな?」

「望月君は、女なら誰でもいいって聞いてるから。だからって、わたしのこと好きにならないでね」

 その口調は相変わらず落ち着いていて、態度は冷静だった。

 望月は、気取ってたばこを吸う節子に見とれた。その時、目元や口元の愛苦しさに、改めて女性的な美を見いだした。この夜をはさんで節子の魅力に目覚め、その輝きに敏感になった。

「いやなのよねえ、クラスの人とつき合うと、外野がうるさいから…。みんなとお友だちでいたいのよねえ」

 望月は、また先ほどの話の続きを思い出した。

「不倫の恋かあ。よくいるんだよなあ、中年男に憧れる若い娘が…」

「わたしはね、二号さんでもいいの。一週間に一度会いに来て、わたしを愛してくれればいいの。囲われ女でいいの。そのうち必ず、その人を奪うの」

 節子の話は、想像に基づく希望的観測なのか、現在進行中の事実なのか、はっきりと分からなかった。しかし、その恋愛観は周囲の女子学生のものとは違っているように思われた。


 ある程度の時間が経つと、誰からともなく席を立つ気配がした。

繁華街には眩しい照明と喧噪が満ちていた。深夜の闇を街路から締め出すような勢いだった。若かった学生たちは、ネオンのきらめく歓楽街に繰り出した。喧噪の渦巻くディスコの中に入った。

 学生たちの中には、最終電車に乗るため家路につく者もいた。望月を含めた何人かは、体力の続く限り夜を忘れて踊りまくった。原色の光線が薄闇に瞬いていた。学生たちは、過激な音響が作り出す店内の幻惑的な雰囲気に身を任せた。

 午前四時頃、ディスコが閉店になった。学生たちは終夜営業の喫茶店のソファに陣取った。何人かは、つかの間の仮眠を取った。

 そのうち、夜の闇が白みかけた。

 一行は駅前の繁華街から歩いて、建ち並ぶ高層ビルの谷間に向かった。そこだけ緑地を形成する公園に足を伸ばした。

 都会の建物群はまだ、静寂の中で眠りをむさぼっていた。人々がダウン・ジャケットやコートを羽織る季節だった。望月は仲間のひとりと公園の枯れ枝を集めて、戯れにたき火をした。


 その後、大学では、望月と節子の間には和やかな交流はなかった。教室やキャンパスで顔を合わせても、望月は節子に軽いあいさつの声もかけなかった。

 その理由のひとつは、コンパで言い寄って、冷たくあしらわれたせいだった。感情の面で尾を引いていた。もうひとつは、クラスの者たちの視線を気にしていたせいだった。しかし時には、二人は無言のまま見つめ合った。

 ある冬の日、望月は講義の行われる教室へ歩いていった。その途中で、視野の中に節子の後ろ姿が現れた。周囲には、学生の姿はまばらだった。校舎内に入って廊下を歩きながら、節子の姿を注意深い視線で追い続けた。節子は同じ教室の方向へと、傘を差して戸外を歩いていた。

 霧雨が降っていた。キャンパスは、ひととき霧雨のヴェールにおおわれた。

 節子はミニの黒いワンピースを着ていた。太ももをさらして、望月の視線を惹きつけた。

細長い首にやはり黒いリボンを締めていた。ストッキングもハイヒールも、装いは上から下まで黒一色で統一していた。その姿は柳腰の美人だった。

 アスファルトの路面には、水たまりができていた。芝生には水滴が浮かび上がっていた。

 淡い陽光が、雨雲の透き間から漏れてきた。その光で、節子のワンピースの裾の透かし模様が浮かび上がった。水たまりや水滴が、陽光を浴びて反射した。銀色のきらめきのひとつひとつが、細かなリズムで踊っていた。ピアノの鍵盤を叩く度に弾き出される音のようにも思えた。

 望月は二〇歳前後のクラスメートの節子の中に、別の人格を見たように感じた。節子の姿は、遠い国からやってきた魅惑的な天使のように見えた。あるいは、男を惑わす黒い小悪魔のようにも思えた。日常の中に隠れていた魔性を見いだしたような気がした。

 望月は、節子の妖艶な魅力に幻惑される自分の特別な心理状態に気づいた。その姿に視線を釘づけにされた。魔性に対する小さな恐れを感じ取り、胸騒ぎを覚えた。自分の緊張を節子に知られるのを恐れた。

 教室の入り口にたどり着いたとき、節子と出くわすのを避けた。思わず、廊下の陰に隠れた。傘をすぼめて水を切る節子の動きを見つめた。

 日が経つうちに望月は、自分たちが互いの心中を探り合っているかのように感じ始めた。同時に、節子とひと言も口を利かずに、時間を過ごすことに耐えられなくなっていた。ふと節子のことを考えて、胸が苦しくなった。自分はあの女を好きなのか、と何度か自問した。しかし、その気持ちに確信が持てなかった。


年末になって、望月は酒を飲む機会が増えた。遅くまで友人と下宿の部屋で話し込むこともあった。

 睡眠不足がたたってあるとき、妙な時刻に寝についた。

 つかの間の夢に、交際中の礼子の幻が現れた。

 礼子はめそめそ泣いて、望月のつれなさをなじった。望月は袋小路に追い詰められて、そこで身動きが取れなかった。別れることも愛することもできなかった。

 夢は消えて、やがてまた妙な時刻に目が覚めた。

 窓の外で、街灯に照らされて雨に濡れた路面が光っていた。夜が明けるには、まだ間があった。人々は眠りの中に落ちているようだった。

 望月は、思考のおもむくままにぼんやりと思った。

 いつか礼子は、望月といっしょにいるとき、つぶやいたことがあった。

「やっぱり女は、結婚する相手によって決まりますから…」

 ひっそりと家庭に収まり、妻となり母となって、短い生をおごそかに生きていく。礼子は、そんな古風な女になりたがっているように思えた。けなげな女の一生を思うと、感傷的な気分になった。それを左右する男のひとりとして、自分が生れついたことを申し訳なく感じ、ふと涙を誘われた。


 望月は、年末年始の休みになって田舎に戻った。届いた知り合いからの年賀状を見てみた。礼子から来ていないことが分かり、ふと悲しくなった。

 望月は、礼子の勉強の邪魔をするまいと気づかった。しかし、正直に言うとそれよりも、二人の交際への気苦労から逃げていた。

 そうこうするうちに、時は確実に過ぎていった。二人は会おうとすれば会えるのに、一年以上会わない若い男女になった。二人の心情は、本人たちの自覚はともかく、必然的に離れてその実質的なつながりを失った。

 望月は、悲観的に気分に襲われた。

 自分たちの運命の進むべき方向は、おのずと暗い闇へと定まっているのかもしれない、と感じた。

 一方では、もっと楽天的に事態を見つめ直した。

 望月は、平穏無事に大学生活を送っていた。礼子も、元気で暮らしながら受験勉強を続けているに違いなかった。自分たちの前途には明るい光明が見えた。


 一学年の末、例によって望月のクラスではコンパが開かれた。

 店の中は極彩色の照明が満ちて、人の声で騒々しかった。

「うああ」

 それは、望月のクラスメートの野口の声だった。

 野口は恋心のうっ憤を紛らすため、グラスに入ったウイスキーを一気に飲み干した。満たされない思いに耐え切れず、次の一杯も飲み干した。アルコールの許容量はやがて限界に達した。トイレに駆け込んで、胃の中のものを戻してきた。

 野口はしかし、酔っても顔に赤みは差さなかった。年中、日焼けしていたせいか、顔は普段から赤黒かった。細身だったが、体の各部分は筋肉質だった。スキーや水泳に余念がないスポーツマンだった。

 望月には、野口がその晩、最初からひとりで打ち沈んだ目付きをしているのが分かっていた。

 望月は、ウイスキーの水割りで上気した直子の顔を見つめた。

 直子は極端な童顔で、小柄な体つきは少女期のまま成長していないように見えた。直子に対する恋愛感情が、自分の中に生じる恐れはない。望月は以前からそう予想していた。中学生程度の年格好に見え、幼さをまだ残している直子を、軽くからかってみたい心境だった。

 望月は無作法な口調で、単刀直入に尋ねた。

「恋人、いるか?」

 直子は、臆する様子もなく素直に首を縦に振った。あごを引いて上目使いに相手を見つめ、持ち前の可憐さを示した。これまでほとんど言葉を交わしていない望月に体を密着させた。触れ合うばかりに顔を近づけてきた。

 ほろ酔い気分の望月は、遠慮なく矢継ぎ早に質問を浴びせた。

「手、握ったか?キス、したか?」

 予期に反して直子は、望月の質問の早さに遅れずについてきた。

「うん、うん」

 素直に的確に返答した。望月は直子の返答に、一瞬とまどった。

 気取りがなく、親しみやすいのか、同年代の男子学生を相手にして心を許すのか、性格はよく分からなかった。他の女子学生に比べて、丁寧語や女性言葉を省略する点が、その話振りの特徴だった。

 見かけによらず性愛の分野では早熟らしかった。それ以上深い男女の交わりについては、追求する余裕を失った。

 その頃、望月は様々な機会に見て知っていた。どんな男が良いかと尋ねられた若い娘は異口同音に、優しい人が良いと答えていた。そのことが念頭にあって、歯が浮くような質問をした。

「それで、彼氏、優しいかい?」

 直子は黙って、首を横に振った。相手の言葉に、言葉より表情で反応するところも直子の特徴だった。

「優しくないのか?」

 望月は念を押した。

「冷たいの」

 直子は、まるで空中に手で置くかのようにその言葉を口にした。

「浮気なんだな?」

 少し間を置いてから、薄ら笑いを顔に浮かべて探りを入れた。

「そう」

 直子は素直に答えた。

 あの野口が駆け込んできて、「うああ」と叫んだのはその時だった。

 二人の向かいの席に、なだれ込むようにやって来て、腰を下ろした。自分の体と心を支え切れずに、すがる思いで直子の目の前にやって来たようだった。空席のソファにだらしなく身を横たえた。駄々をこねる子供のように、そこに寝そべった。酔っ払いがよく出すうめき声を上げた。同情を引くかのように、醜態を曝した。

 泡でも吹きそうなほど飲んだくれて、口はだらしなく開いていた。今にも「好きだあ」のひと言が、絞り出されてくる気配だった。

 銀縁のメガネの中で、野口の細い目は憂愁に満ち、静かな優しさを湛えていた。あることを望んで、それがかなわずにもがいている、心の中に重い荷物を抱え込んだ人間の目と見えた。感情を爆発させたくても、それができない悲しさをかかえているようだった。

 大好きな女と席をともにして、酔った意識の中で照れて緊張しているようだった。心の高まりを懸命に押さえようと努力していた。

 野口を介抱していた日野は、直子に頼んだ。日野は面倒見がいい性格らしかった。

「直子さあ、こいつに優しくしてやってくれよ。飲んだくれちまって、だめだよ」

 涙のあふれそうな野口の目を、望月と同様、直子も見つめていた。直子の目には、野口以外映っていないようにさえ思われた。野口の心の叫びに無言で問いかけ、答えようとしているかのようだった。そして、現在の恋人との関係は、必ずしも円滑に進んでいないようだった。


 一行は誰かの声に促されて、次の店に移った。

 望月が気が付いてみると、意外な光景が目に映った。近くのテーブルで、野口が直子の肩を抱き寄せ、二人で幸福そうな様子をしていた。

 野口は、念願が叶ったあまりに言葉を失っているようだった。直子の小さな肩をしっかりと抱いていた。その額に自分の顔を押し付け、その香りを鼻先に感じていた。

 野口の顔に、望月はかつて訪れた湯治場の客の表情を思い出した。客は山中を歩きつめて、やっとたどり着いた安心感のぬるま湯に浸かっていた。まどろみながら湯の中に漂っていた。

 直子は、望月の腕の中に身も心もそっくり預けているように見えた。その表情には、逆らいの色は全くなかった。女心は、野口の熱意にほだされたようだった。

 すかさず直子の傍らに立ったのは、あの節子だった。

 直子と節子は仲良しで、よく並んでキャンパスを歩いていた。節子は、何かに取りつかれたように一点を見つめていた直子に言った。

「だめよ、○○君に怒られちゃうわよ」

 直子の恋人のものらしい名前を口にした。しかし、直子は上目づかいに見ただけだった。その目は何となく、男がこんなに自分のことを好きだって言ってくれているのに、受け入れないわけにはいかないでしょ、と言っているかのようだった。

 すでに密着している二人の体は、容易に離れそうになかった。


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