失恋の衝撃
秋になると、望月は改まった気持ちで二人の再出発を提案した。
田舎の礼子の住所あてに手紙を書いて送った。手紙のやり取りは、知り合った最初の頃は何度かあったが、今回は久しぶりだった。
望月の下宿の電話番号を初めて記し、礼子のそれを教えてくれるように頼んだ。
手紙の内容は、望月なりに覚悟したものだった。手紙を投函したあとで、これから二人の新しい交際の歴史が始まるのだと楽天的に考えていた。
その舞台は、今までの田舎ではなく、都会という新しい場所だった。そこは、近代的な建物の林立する谷間だったり、華やかできらびやかな街路だった。二人が連れ添って歩く時間が、これから展開するのだと夢見た。
望月には、礼子の言うように「捨てる」勇気はなかった。ここまで積み上げてきたものをなし崩しにする気持ちはなかった。礼子は、自分次第でどうにかなる、いつでも呼び出せると高をくくっていた。
望月の心の中には、機会があれば男の肉体的な欲望を利用してやろうという企みがあった。一度抱いてやれば、不平を言っていた女も満足して黙るだろう。いざとなれば、結婚というような形式で責任をとればいい。
しかし、誠実な心は、本心から礼子を求めてはいなかった。愛情の証拠と錯覚していたものを相手に提示しようとしていた。意思で女を抱くことはできても、愛することはできない。それを相手から思い知らされる成り行きも想像できた。
思いがけず予期しない出来事が起こった。いつもと変わらない、昼と夜の境の夕暮れ時だった。
望月は下宿の階下の大家から、電話が入っていると声をかけられた。何気なしに受話器を取った望月に、礼子は耳を疑りたくなるようなことを言った。
「あのう、お手紙いただいたんですけど…。また会いたいってことなんですが…。あたしはもう、お会いしないつもりです」
かつて想像し得なかった言葉に、面食らった。きっぱりとした口調には、開いた口がふさがらなかった。しばらくの沈黙のあとで、望月は言った。
「そう。そういう風に決めたわけ?」
望月は何とか平静を装って、その場を取り繕った。それ以上、余計な言葉は継がなかった。
かつて、望月が初めて礼子にあててラブレターを書いたときも、礼子は返事を電話でよこした。呆然とする頭の片隅で、四年前のその時よりも、礼子の話す内容や話し振りが大人びていることに気づいた。
「もう会わない」という言葉は言わば、この世の最後の別れを意味することは双方とも十分に承知していた。
「このままずるずると、お付き合いをしていっても…。前にも言いましたけど、あたしはもう、セーラー服を着た高校生じゃありませんから…。みんな、大人になっていくでしょう?それに、同じ組織で会いたかったって、あたしも思うんです」
「おれは、やり直しのつもりで、あの手紙書いたんだけど…」
不意の重大な事態に直面して、望月はどうしていいかわからず、焦っていた。
「でも、会うと、さよならを言えなくなりますから…」
その言葉で、礼子がずっと以前から、別れの言葉を心の隅に隠し持っていたことが分かった。
礼子の思いの中からは、二人がこれまでの歩みをやり直したり、男女関係を深めたりする可能性は、すでに失われていた。
「電話で、声だけで告げます。ありがとうございました。また、機会がありましたら…」
「ああ、さようなら」
言ってはならないと感じながら、その言葉は望月の口から滑り出ていった。礼子を引きとめてもむだだと直感した。自分も、その言葉を長らく心の片隅に暖めていたことに気づいた。
「さようなら。さようなら」
礼子は、自分に言い聞かすように、ゆっくりと二度繰り返した。
大切なものが失われていくのが分かった。人生には繰り返すものと、もう二度と繰り返さないものがある。今自分が直面しているのは、繰り返すことのないものだ。
望月の手は、どうしようもなく機械的に、受話器を戻した。
高校時代から続いていた四年間の交際が、ほんの一,二分のやり取りで、木っ端みじんに崩れ去った。
突然の出来事にどう対処してよいか、分からなかった。
何が悪くて、自分たちの破滅はやってきたのか、すぐにはその問題の解答は出せなかった。というより、破滅の事実を受け入れることを心が拒んでいた。
さまざまな収拾のつかない想念が、頭の中を駆け巡った。
その晩の望月は、別れの言葉にショックを受けて、ひとりでは時を過ごせなかった。下宿の友人に、まるでさんげをするように、事のてん末を話して相談した。
意気消沈する望月の話に、友人は親身になって耳を傾けてくれた。しかし、元より良策は得られず、また望月自身も欲していなかった。
沈痛の面持ちで自室に戻った。スイッチを入れた照明が明る過ぎて、今の自分には似合わないと思った。自分が今、人生のひとつの岐路に立っていると思った。闇の中で、目を閉じることが出来なかった。悩んで落ち込んで、満足に眠れなかった。
「ありがとうございました」
礼子の最後の言葉が耳に残った。それは、丁寧で礼儀正しい言葉だった。年上であることと、学校の成績が良かったことで、礼子はいつも望月に対して尊敬の眼差しを向けてくれていた。
それはまた、正直な感謝の言葉にも取れた。詰襟の学生服の青年は、セーラー服の娘の胸の中に、恋心か、それに似たものを植え付けた。危険な香りはあったが、実際には無邪気な逢引きの楽しみを教えた。
それはまた、皮肉な言葉とも解釈できた。望月の不甲斐なさに対する当てつけのようにも聞こえた。礼子は好みの青年を相手に、胸ときめく恋の花を咲かせようとしていた。それなのに望月は、礼子に指一本触れず、とうとう本気で愛することはできなかった。乙女の青春を台無しにしてしまうところだった。礼子のこれまでの苦悩と悲哀を思った。礼子の心を悩ませ、苦しめたと罪悪感を抱いた。
それはまた、芝居がかった言葉にも聞こえた。恋を夢見る若い娘にありがちな心境に思えた。平凡な日常を、悲劇のヒロインとして劇的に生きようとしているように感じられた。実際に、二人の明るい前途を阻む具体的な障害は、何も現れていないように見えた。
一方で、望月の中にはやがて、礼子には他に適当な男が現れたのかという疑念が生まれた。煮え切らない腐れ縁の男から、他の男に矛先を転じる好機に運良く恵まれたのかと勘ぐった。それは、望月への恋情の変化だったのか、そもそも最初から恋情などなかったのか。あるいは、望月は恋情の相手ではないと判断したのか。
他の男と礼子が肉体的に結ばれる光景を想像すると、耐えがたかった。その男が、望月のためらっていた行動を起こすのは、自然なことに思われた。
理性的な気取りや純粋な愛情など、どこかに消えてしまった。望月の性欲は、自由になる女体をみすみす失って、不平を言っていた。その姿は哀れで、役立たずのでくの棒に見えた。
自分は、礼子を愛してはいなかったのかもしれない。それなら、今の苦しみの原因は、愛している者を失うからではない。今まで手元にあった重宝なものを失うのが怖いからだ。それに懸命にしがみつこうとしているだけだ。
本当は礼子を愛していたと、今になって気づいたとする。それなら、自分は失ってならないものを失った。ここには、不幸にも身をよじらせて、哀れにもがいている青年がひとりいる。
これまでは、半年も会わずに暮らして平気だった。それが、もはや会うことはないと宣告されてみると、会わずに過ごす半年間など耐えられい。もしかすると、一生会えなくなる。そんなことは、想像できない。
改めて、二人の仲を続けるべきか。きっと別れたほうがいいのだろう。今更、硬化した礼子の態度を和らげ、固まった決意を翻らせるのは不可能に思える。しかし、礼子は実は、自分の考えと態度を試しているのかもしれない。
翌朝、望月はいつもより二時間も早く起きた。一晩悩んだ挙句、礼子の実家に電話することにした。
下宿を出て、近くの公衆電話の方向に向かった。
妙に空気の澄んだ朝で、外の風景は白黒写真のように見えた。睡眠不足のせいなのか、振られたショックのせいなのか、分からなかった。頭が呆然としていて、自分が今までと別世界に生きているような気分だった。
望月は改めて町の風景を眺めた。礼子の存在していない世界が目の前に広がっていた。
礼子の田舎の住所が、望月の知っている唯一の連絡先だった。礼子が電話をよこしたのは、別れを告げるためだった。手紙で教えてほしいと頼んだアパートの電話番号は、当然のことながら口にしなかった。
電話に出た礼子の母親に、望月はすがるような気持ちで頼んだ。
「礼子さんのアパートの電話番号を教えていだだきたいんですが…」
賢明な母親は勘が働いて、何か悟ったらしかった。
「娘はそれを、教えなかったんですか?」
望月は、声を落としながら答えた。
「そうなんです」
「そうですか。それでしたら、本人の教えていないものを、申し上げる訳には行きません。それは、納得していただけると思います」
元教員らしく、きっぱりとした口調だった。本人ばかりか、母親にまで拒絶されたことで、ひとつの踏ん切りがついた気がした。一,二度しか顔を合わせていない母親に対して、望月の頼みごとはぶしつけだった。
「なにぶんにも、大人になりかけた子どものすることですから…」
望月は自分も子供扱いされているような気がして、気まずくなった。
「娘が手紙を受け取って、きちんと返事しなくちゃ、と言ってたんですよ」
望月は諦めた。涙が出そうな思いで、本心から告げた。
「そうですか。長い間、どうもすみませんでした」
きのうの礼子に続いて、きょうの自分の言葉も芝居めいているように感じた。
望月は部屋に戻った。鏡に映った自分の顔を、しげしげと眺めた。感情の高ぶりと睡眠不足で、目の周りが赤く腫れていた。そこに映った青年が赤の他人だったらいいのにと思った。
その晩、まどろみの中でひとりでいる自分の姿を見た。
今まで立っていた場所が崩れ落ちた。何かにしがみつこうとあがいた。しかし、周りに手でつかめるものは何もなかった。悲しみを表現するすべがなかった。ストンと体が落ちていった。
そんな夢にうなされて目が覚めた。
苦悩の日々が始まった。
礼子が、別れを決断した瞬間の緊張感を思った。礼子は、自分を「捨てる」勇気もなく、結論を引き伸ばす望月に愛想を尽かした。友だちの関係をずるずると続けるより、縁を断ち切ったほうが得策だと考えた。別れの言葉は、望月が言えないのなら自分から言う。
別れの言葉は、望月には薄情な仕打ちに映った。交際相手がいるという今までのぬるま湯のような安心感から、一瞬にして望月を放り出された。
しかし、礼子が決断したときの、別れに耐える人間としての強さに驚いた。そこには、勝ち誇って背を向けて立ち去っていく礼子の姿が見えた。
そのことで、望月は自分の逆境に耐える勇気を得た。
見方を変えれば、物事は別の風に見えてきそうだった。災い転じて福となす、ともいう。
望月は二人の今後について、ためらって結論を出せずにもがいていた。礼子は、望月をその膠着状態から解放した。堂々めぐりの袋小路から、望月を救い上げた。二人の直面する宙ぶらりんの状況を打開した。
これまで二人は、やり直しのきかない人生という道を、つかの間、手を携えて歩いて
きた。しかし、今まであった心のよりどころは、もはやない。これからは、二人別々に、孤独で不安な道を歩いて行く。あるいは、新しい相手をさがしてさまよっていく。
この世には、失恋して自殺する者や、訳あって結ばれずに心中する男女もいる。
恋愛とは、若い娘の夢見る戯れと見ることもできる。手練手管に長けた若者の暇つぶしの遊びと見ることもできる。しかし時に、思い合った男女が命をかける闘いともなる。人間同士の全身全霊を傾けた一つの勝負にもなる。
それが、望月にはやっと分かってきた。
大学に通う日々の風景は、元のままだった。望月はかろうじて、それにしがみついた。
それでも、別離の悲しみが心を占領していた。ほとんど毎日、礼子のことしか考えていなかった。気を確かに持っているつもりが、自分が何をしているのか、分からなくなることが多かった。することなすことが、望月の注意を引かずに忘れられた。
今日が何月何日なのか、季節はいつなのか、世情はどうなっているのか、そうしたさまざまな事柄は、関心の的から外された。
そのうち、積もりに積もった精神的な圧迫感が、望月の中で炭火のように熱を蓄えた。すきあらば炸裂しようとしていた。
居ても立ってもいられない時があった。礼子の所へすぐさま飛んでいき、足元に土下座したかった。
「どうか、お願いだから、おれを捨てないでほしい」
哀願したい衝動が、夜中に突然沸き起こった。それが決して許されないという諦めが、望月を絶望の底に突き落とした。
失って惜しいのは、礼子という女性ばかりでなかった。礼子とともに過ごした時間であり、礼子の色に染まった思い出だった。礼子のために棒に振った自分の青春を返してくれ、と心の中で要求した。すぐに、悪いのは自分だと自責の念にかられた。
望月は、礼子の件について一生報われず、絶対的に不幸と思われた。礼子との別離は、望月の幸福を決して認めなかった。
半月が経ち、一ヶ月が経った。諦めの気持ちが働いて、礼子の面影は、徐々に記憶の中で希薄になり始めた。
望月は苦境を脱するために、何と戦っていいのか、敵の正体がつかみきれなかった。失ったものが戻らないことを重々承知していた。それでもなお、生きていかなければならない運命が、手を広げて望月を握りつぶそうとした。
望月はひとり暮らしで時間のありあまる学生生活を送っていた。結果的にひとつのことを、終始思いつめることになった。満足な睡眠がとれなかった。それでも、体に良くないと思い、横になった。翌朝まで眠れずに過ごすことを恐れた。
大学の学生食堂で、友人に失恋話を打ち明けた。前夜の睡眠不足がたたって、目が赤く腫れているのを、友人が気づかった。望月はありがたくて、胸に熱いものが込み上げてきた。
口に含んだ物を飲みこめず、隣の友人を気づかいながら、皿の上に吐き出した。心配事があると、食べ物が喉を通らないという経験は初めてだった。体重は明らかに、四,五キロ減った。
望月は、人間とは精神と肉体の精緻な結合体であることを納得した。精神の混乱と不安定が原因で、健全な肉体が変調を来すことを恐れた。
真夜中に寝付かれない床から起きだした。体を動かして、取りついている重苦しい思いを振り払おうとした。
急に外に出て、下宿の周辺の住宅街を走ってきた。失恋のショックで、肉体が衰弱していないことを確かめた。激しくなった呼吸と心臓の鼓動に、生きていることを実感した。
夜も遅いのに、かつての下宿仲間の部屋を訪れた。そこで出来る限りの告白をして、近くにいてもらった。
ひとりの女との関わり合いが、自分にこれほどの影響を及ぼすのか、と望月は驚いた。自分の生きていく力がいかに弱いものであるか、つくづく分かった。
昼の明るい時間のことだった。
表面は努めて平静を装っていた。しかし、人ごみの中を歩いていて、不意に失恋の体験を思い出して涙ぐんだ。慌てて人に見られまいと、目頭を押さえた。
人々の楽しげな表情を見ると、かえって悲しみが強く感じられた。
悲しみは、もっと静かで穏やかな感情と、かつて考えていた。しかし、それは、物語や歌曲の中で表現されたものだった。強烈な感情は、生にとって危険でさえあった。別れを告げた礼子が多感で誠実であったように、別れを告げられた望月も若くて感受性が強かった。
ある時、自分を取り巻く世界が別の様相を呈した。
慣れ親しんできた生の有様に、変化が起こった。見ること、聞くこと、雰囲気を感じ取ること、そうした生きている感じが、今までのようではなくなった。
このままでは自分は気が狂ってしまう、自分が自分でなくなってしまう。そう考えて、恐ろしい気持ちになった。
なぜそうなったのか、よく分からなかった。
生来の感受性が強かったのか、あるいは出会った出来事がそれほど重大だったのか。極端な悲しみと運命への嘆きが、心を壊そうとした。今までに経験したことのない、自分というものの消滅の予感だった。
ひとりで迎える夜は、今や恐怖の時間となった。複雑に錯綜した思いが、胸のうちに凝り固まって、何かの拍子に破裂してしまいそうだった。
それは、睡眠でもなく死でもなく、目覚めたままに意識を失ってしまうようなものだった。不幸を忘れ去るために、不幸を感じ取る意識そのものを自ら拒もうとしているかのようだった。
ある晩、自分が狂人になった夢を見た。
息を絶え絶えさせ、目をかっと開き、全身を振るわせていた。顔の筋肉を引きつらせ、動物のような声で吠えていた。精神の働きが極端に低下して、アメーバのような単純な生き様しか呈していなかった。その代わり、廃人のようにあらゆる苦悩から解放されていた。突然その夢にうなされて、大声で叫んで体を起こした。肩を落としてため息をついた。
目の前の危険な状況から逃げ出そうとして、体をゆすり目をつぶった。
しかし、強い情念は、無視すればするほど心内にたまった。号泣したいのをこらえればこらえるほど、それは爆発しそうになった。
苦悩を忘れるために憂さ晴らしを考えた。
酒を飲んだり、何かの遊びをして、気を紛らすことを考えた。しかし、その応急手当の振るまいの先に、正常な自分を再び見出す自信がなかった。憂さを晴らそうとして、その憂さに飲み込まれてしまい、それで自分が終わってしまうのがこわかった。狂おうとしている精神と対座して、じっとこらえて戦いつづけるしかなかった。
自分には、どこからも救いの手は伸びてこない。
ひとりでこの問題と対決するしかない。礼子のことを事実として忘れることはできない。しかし、諦めてしまうことはできそうだった。
精神錯乱を起こす前に、何か手を打とうとした。現状を打開するために、他の物事に心を移そうと思った。自分の注意を否応なく惹きつける何かを、身の周りに捜した。自分を引っ張り込んで、自分の心を占領してしまう事柄を追い求めた。失恋の痛手や被害妄想などにとりつかれている余裕などなくなってしまうことを願った。
これまでと異なる生活を模索した。進んで街に出て、人々に交わろうとした。外部からの刺激や関与を求めた。厄介な問題やいざこざさえ欲した。色恋からほど遠い無味乾燥なものが良かった。むしろ、人々が何かの理由で、望月を攻撃することを求めた。
日が沈んで、町は夕闇に包まれた。店内は、夕食の材料を買いに来た主婦たちでごった返していた。
望月は、失恋の穴倉から這い出るために、大学のアルバイトのあっせん所で仕事を選び取った。下町のスーパーマーケットに夕方から出勤して、忙しく立ち働いた。汚れた作業服を着て、こまねずみのようにひたすら働いた。
棚に並べられた商品は、客が手に取っていくたびに、前列からひとつずつなくなっていく。閉店後、店員たちはなくなった分を補充した。望月も慣れない手つきで、この作業を手伝った。
店長は一流大学を出ていたが、倉庫で野菜の漬物の詰め合わせを作るのが主な仕事だった。望月はこの作業も手伝った。
店長にはときどき仕事が遅いと怒鳴られた。ごみ箱の中に生ごみを、足で踏んで詰め込んだ。塩漬けの白菜を、冬の冷気で凍えた手でビニールパックに詰めた。
店長は自宅の台所で、家族と一緒の夕食を望月に提供した。安い賃金で雇ったアルバイトの学生を、思い通りに使えるのを重宝がっているようだった。
副店長は店長の弟だった。脱サラして小売店の経営に加わっていた。以前のデスクワークへの未練を捨てきれないようだった。
「詰まらない仕事だよ」
副店長は仕事をしながら、よく学生の望月に愚痴をこぼした。
店員たちは、懸命に働いていた。
入口でレジスターを打つ女子店員、長靴をはいて生鮮食品を元気な声で売っている古老の男、ごみの収集で走り回る角刈りの中年男。店員たちは、若い学生の望月を、最初は胡散臭く見ていた。やがて、時には冗談を投げかけ、時には命令して追い立てた。
買い物の主婦は、真剣な目つきで商品を選んでいた。連れられてきた子どもは、作業している望月の隣で、母親に欲しい物をねだった。
人々は、望月の苦悩など知らなかった。望月を襲った失恋の嵐など思いもよらなかった。
副店長の言う詰まらない仕事だからこそ、望月にはありがたかった。馬車馬のように動き回る肉体労働だったから、望月は救われた。周囲の物や人がすべて新鮮に見えた。それらは、望月を狂気に至る道から引きずり出そうとしていた。
あのことを諦めよう、考えるのをやめよう。望月は心に言い聞かせた。
体がくたくたに疲れれば、気力も思考力もなくなり、余計なことは考えなくなる。夜中の一一時過ぎにアパートにたどり着けば、もはやあの就寝前の恐怖の時間は訪れない。そのまま眠りにつくことができる。
時には、友人たちを相手に徹夜でマージャンをやった。あれこれと懇意の友人と長話を繰り返した。
人の忘却能力は、ある時は人を落胆させ、別の時には人を救済する。
望月は何とか、生涯の大きな危機のひとつを脱した。思い出すことを避けようと努めてきた事柄は、頭の片隅に追いやられた。
発狂の発作との闘いは、望月の精神を鍛えた。
すでに男女関係にある愛する女を、他の男に取られる不幸もある。何かの事故で妻子を一挙に失ってしまう不幸もある。さらには、不治の病に冒される不幸が、先に待っていないとも限らない。
ひとりの女性との生き別れなど、取るに足りないと思える余裕が望月には出てきた。もはや、今あるものしか望まなかった。毎日、大空を仰いで、ただ生きているだけで十分だった。
礼子から決定的な宣告を受けてから、三ヶ月も経とうとしていた。
望月の精神生活は、毎日が暗いトンネルの中を走り抜けているようなものだった。それまでのどんな日々よりも、心の暗い奥底に近づいた気がした。しかしまた、以前のような平凡だが、平穏な生活が戻ってこようとしていた。
その日は、アルバイトの最終日だった。
大学の講義も、年末年始で休業期間に入った。何度目かの帰郷の日を迎えていた。周囲には、すぐに帰郷してしまう学生も多かった。
望月は年の瀬の都会に残り、客足のあわただしい商店街でアルバイトを続けた。しばらくの間は、自分自身と孤独に闘い続けた。
店長からもらった給料は、重労働のわりには微々たるものだった。
「マージャンでもやったら、すぐになくなっちまうだろう?」
「そうですね」
店長が笑い、望月も笑い返した。顔を見て笑い合ったのは、これが最初で最後だった。
通い慣れた高架線の下の暗い夜道を、駅に向かって歩いた。
望月は安心感に浸った。久しぶりに田舎に帰れる。穏やかな町の風景を眺められる。コタツに入って、家族と一緒にのんびりした暖かい正月を過ごせる。
自分は今、青春と呼ばれる時代のまっただ中にいる。人を愛することや生を生きることを、頭では分かった振りをしていた。しかし、実は何ほども分かっていない。夜空を見上げながら、漠然と思った。
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