第14章 幸せの意味
昨夜、私はろくに眠ることができなかった。
あの子たちは空襲の中を生き延びただろうか。そして、このキャンプに向かい始めただろうか。三人のことが心配でたまらなかった。
朝になり、身支度をして部屋を出た。食堂でパンを受け取り、宿舎の出口に向かった。するとそこでケイとヴァレリーが私を待ち構えていた。
「じゃ、行こうか」
ケイはそう言いながら、車のキーを指でくるくると回してみせた。私たちが反政府軍に拉致されたときに割られたランドクルーザーのリアガラスは修理されたが、車体には幾つもの銃創が残っている。
「あたしたちも同じ気持ちだよ」
ヴァレリーが笑顔で私に言った。
宿舎から診療所までは歩くと十五分かかるが、車ならものの数分だ。車を診療所の横に停めると、ヴァレリーは診察の準備に向かい、私とケイは診療所の近くの国連平和維持軍(PKF)のテントに向かった。そのテントはとても大きく頑丈なものだ。
ケイが入口に立つ兵士に声をかけた。彼は国際連合(UN)の青いヘルメットを頭に被っている。
「おはよう。フランソン少尉はいる?」
「ええ、後ろに」
彼はそう言うと、ケイの肩越しに視線をやった。私たちが振り向くと、資材の上に腰を掛けた女性将校がいた。スウェーデン軍の軍服を着ているその女性は、手にマグカップを持っている。きちんと髪を束ね、UNの青いベレー帽を被っている。
「おはよう、早いわね」
クリスティーナ・フランソンは日焼けした顔に柔和な笑みを浮かべていた。彼女はこの難民キャンプができた頃からこの土地にいる。この国での活動歴は長い。目尻の皺が優しげな面持ちを与えている。
「セルジュークのことを聞きたいんでしょ?」
「ええ、そうです」
「一昨日空襲を受けたセルジュークから、どのくらいの難民がここにやってくるか、予測を立てておきたいのね。でも、それだけじゃなさそうね」
彼女はそう言うと、ケイの目をじっと見返した。
「あなたたちはこの前まで人質としてセルジュークにいた。そのときに関わった人たちの消息を知りたいのかしら?」
「クリス、あなたは何でもお見通しですね」
ケイは軽く肩をすくめてみせた。彼女の察しの良さは、女性ならではの細やかさによるものだろうか。優れた洞察力の持ち主だ。
「ついてきて」
クリスティーナはそう言うと、マグカップを手に持ったまま、テントの中に私たちを招き入れた。そして自分の椅子に座り、私たちには近くの椅子を勧めた。彼女は机に置いてある資料に目をやりながら、話し始めた。
「偵察機は出てるけど、あまりセルジュークには近寄れてはいない。だから正確なことは言えないの。この部隊にも無人偵察機が導入されれば、もっと詳しいことがすぐにわかるんだけどね」
クリスティーナは私たちの方に向き直って話を続けた。
「ただ、セルジュークがほぼ壊滅しているのは間違いなさそうね。ミサイル基地だけじゃなく、街全体がね。反政府軍の要塞になったセルジュークを徹底的に叩くことで、北の国境から南下してきたISIの侵攻を食い止めようというのが政府軍の考えのようね」
そして、机の端にあった資料を手元に寄せた。
「難民の動向だけど、今のところ、移動している車両は確認されていないわ。もちろん、偵察できた範囲での話よ。反政府軍とNATOとの交渉で、収容されている市民を徐々にこのキャンプに送ってもらうことになっていた。その第一陣が一昨日だった。しかし、その車両がセルジュークを出た形跡はない」
クリスティーナは淡々と事実を伝えた。うろたえながら彼女に問いかけた。
「あ、あの、歩いて街を出た人は?」
「そこまではわからないわ」
少し困った表情でそう答えた。
「ただ、空襲があったのが、NATOとの合意に基づく一般市民の移送の日だったことも事実。私たちは明日から本格的な捜索活動を始める」
「え!? 本当ですか? よかった」
それは私にとって、大きなチャンスだった。
「私も同行させてください」
「申し訳ないけど、戦闘地域には連れていけないわ」
「そこをなんとか。お願いします」
「カナ、無理を言うな」
懇願する私をケイがたしなめた。
「あなた、誰かを探してるの?」
「はい、三人の子供を探しています」
「子供? その子たちは誰かに保護されてる?」
「セルジュークの診療所で面倒を見ていました」
「じゃあ、その診療所の人たちに期待するしかないわね。とにかく、軍人ではないあなたを最前線に連れて行くことはできない。ただ──」
クリスティーナは真剣な表情の私を見て言った。
「後方支援をお願いするわ。避難民が発見された場合、緊急的な治療が必要になる可能性がある。最前線での医療活動は私たちの軍医官のチームが行う。あなたたちICRCは後方支援の医療チームとして、私たちに同行して。ピストン輸送を行う可能性もあるから、あなたたちの車両は二台必要ね。人員は四名。救援者は一応百人くらいを目途にして。日程は最長七日間。砂漠地帯での宿営を想定しておいて。偵察機からの次の情報を待つように本部から指令が出ているから、出発は明日になる。明朝八時にここに来て」
クリスティーナはまるで私に命令するかのような口調だった。でもそれは私の気持ちを慮ってのことだと感じた。PKFが行う避難民の捜索活動に、医療従事者である私たちを連れて行く必要があると、合理的に考えてくれたのだ。
「はい!」
私は即答した。嬉々とした私を諭すようにクリスティーナは言った。
「言っておくけど、私たちの任務はその子供たちだけのためじゃない。すべての人民のためにあるんだ」
私たちは診療所に戻った。明日からの診療はICRCと国境なき医師団で編成した医療チームで分担してもらい、私、ケイ、ヴァレリー、そしてイラク赤新月社のハサン・カルマンの四人がPKFの捜索隊に同行することになった。
私たちが診察の引き継ぎ作業を行っている間、治療センターの看護師長リリアナ・ベネショフを中心に、ICRCのスタッフたちがランドクルーザーに緊急の医薬品や医療機材を詰め込み始めていた。そして、トラックにはプランピー・ナッツをはじめとする治療食や、宿営に必要なテントなどの資材を積んでいた。
「さあ、あなたは今日の診察の準備に行って」
打ち合わせが終わった私を見るなり、リリアナが急かすように手を叩いた。
「ありがとう、リリアナ」
リリアナはいつもてきぱきと仕事をこなす。
PKFの装甲車が二台、ジープが二台、トラックが三台、そしてICRCのランドクルーザーが一台、トラックが一台、合計で九台の車両が集まった。いずれも白い車体だ。それらはPKFのテントの前で、明日の出発の時が来るのを待っていた。私の本心は、すぐにでも出発させてほしいと思っていた。けれど今は待つしかない。
夜が明け、いよいよ出発の時刻が近付いてきた。空襲から四日目の朝だ。私たちは再びPKFのテントにやってきた。
クリスティーナが私たちを見るなり言った。
「偵察機からの情報によると、セルジュークの東に政府の陸軍が展開しているようね。我々は街の西二十キロの地点に駐留して様子を見る。あなたたちには中間地点で待機してもらう。昨日のうちにICRCのSUVとトラックに我々のGPSとEPLRSを積んでおいた。セルジュークまでの街道は、砂丘地帯に入ると砂に埋もれている場所が多くなる。迷わないように常にGPSで確認して。EPLRSの操作はわかるわね?」
全地球測位システム(GPS)や強化型位置評定報告システム(EPLRS)は軍事用の機械なので、軍隊経験のない私とハサンに扱える代物ではなかった。しかし、ケイとヴァレリーはどちらも軍での訓練を積んでいたため、二人はしっかり理解しているらしく、クリスティーナの問いかけに頷いていた。そこで私も同じように頷いておいた。
「最初は私が運転する。あんたはよくわかっていないようだから、早めに機械の操作方法を覚えて。難しいだろうけどね」
ヴァレリーは笑いながら私にそう言い、ランドクルーザーの左のドアを開け、運転席に乗り込んだ。クリスティーナの説明を不安そうな表情で聞いていた私に気付いていたようだ。
「ありがとう。そうさせてもらう」
助手席に乗り、GPSとEPLRSのマニュアルを手に取った。トラックにはケイとハサンが乗った。私たちの準備は整った。
PKFの装甲車を先頭に、車列が動き始めた。トラックの荷台から敬礼する兵士に対して、答礼して見送るクリスティーナの姿が見えた。土で舗装された街道を、私たちは北東に向かって砂煙をあげながら車を走らせた。乾いた砂のかけらが青い空に舞い上がった。
あの子たちを必ず救い出す。私は心に誓った。
* *
僕は愕然とした。あの二人に置き去りにされたことを、すぐに理解することはできなかった。そう思いたくなかっただけかもしれない。でも、見渡す限りの砂漠の中で、荷物を奪われ、食料も水もないということが事実だった。一枚きりだった上着もない。僕の帽子もない。
アイシャの肌が異様に熱い。小さく、苦しそうに息をしている。太陽がアイシャを容赦なく照らしている。
何でこんなことに──。僕の心の中は後悔で一杯だった。
着ていたシャツを脱いだ。そしてアイシャを抱き上げ、彼女に直射日光が当たらないようにそのシャツを顔に被せた。アイシャを抱えたまま、街道を歩き始めた。絶望が僕を打ちのめす。けれど、諦めるわけにはいかないんだ!
むき出しの僕の頭と上半身が、砂漠の太陽に焼かれている。空は残酷なまでに青い。
それでも歩き続けた。腕の感覚がない。足がちゃんと動いているのかもよくわからない。真昼の砂漠は光が反射して、視界が白くなってくる。何も動かない。風の音だけが僕たちの前を通り過ぎていく。
気が付いたら、街道が見えなくなっていた。土で固められた古の道はいつの間にか砂で埋もれていた。僕の足元にあるのは果てしなく続く砂だけだ。慌てて周囲を見回したけれど、道はどこにもない。自分がどこを歩いているのかわからなくなった。太陽は真上にある。西はどっちだ? めまいがして太陽の正確な位置がわからない。砂漠の真ん中で道に迷ってしまった。
途方に暮れた僕の目に何かが映った。白い視界の中でおぼろげに揺れて見える。でもそれは確かにキラキラと輝いていて、吸い寄せられるようにそこへ向かった。
「オアシスだ」
声にならない声を出した。オアシスを目指して歩き出した。けれど、一生懸命そこに向かっているのに、なかなか辿り着けない。足が砂に埋もれる。砂が足にまとわりつく。熱く焼けた砂が僕の足首を焦がす。
頭が熱せられて、頭蓋骨の中で脳が膨張している感覚がする。腫れた脳がだらりと溶けて、目や耳から流れ出てきそうだ。
確かにオアシスが見えてるんだ。もう少し頑張ればそこに着く。日陰があるはずだ。きっと水もある。もしかしたらあそこがルトバかもしれない。それともこの古の街道の遥か先にあるという聖地エルサレムだろうか。
「もう少しだ」
自分にそう言い聞かせながら歩いた。
それからいったいどれだけ歩いただろう。
息が苦しい。息を吸いだすと止まらなくて、余計に苦しくなる。目の前が白っぽくて、見えてたはずのオアシスが見当たらないんだ。
どっちが前で、どっちが後ろかわからなくなってきた。膝から崩れ落ちた。アイシャを抱えたまま、砂の上に倒れ込んだ。僕の足の感覚は全く無くなっていた。どんなに動かそうとしても、足はピクリとも動かない。
アイシャと並ぶように寝転んだ。そうしたら、何だか少し楽になってきた。相変わらず白くて熱い太陽が照りつけてるけれど、空の青さが見えてきた。
アイシャに声をかけた。
「アイシャ、空が青いよ」
赤く火照ったアイシャの顔を見たら、その瞼が微かに開いた。
「──うん、青いね」
アイシャは小さく答えた。でもその目は虚ろで、本当に見えているのかわからない。
「苦しいか?」
「うん」
「ごめんな」
「どうしたの?」
「俺、もう歩けないんだ」
「もう十分だよ」
「十分なもんか」
「ターリックのおかげで生きてこれた」
「なんだよ、まだ生きるんだよ」
「ううん、もういいの」
「俺、ちょっと休めばまた歩けるから」
僕のその言葉に彼女は答えなかった。
「カナの所に一緒に行くんだ」
少しの間を置いて、彼女は言った。
「あたしね、バドゥルと同じ気持ち」
そして、震える小さな声で続けた。
「三人で一緒にいられて、本当に幸せだった──」
それは風の音に消え入りそうな、とても微かな声だった。
アイシャはそう言うと、静かに瞼を閉じた。それきり彼女が動くことはなかった。たった六年の短い命は、風にさらわれるように消えていった。砂漠の風が彼女の頬を撫でていく。彼女の髪が微かに揺れた。
幸せと不幸せは紙一重で、アイシャが幸せだと言ってくれたその瞬間、僕は本当の幸せを知った。
渇ききった僕の体から一粒の涙が零れ落ちた。何よりも大切な弟と妹を守れなかった不甲斐ない僕は、声を上げて泣いた。誰も見ていないから、泣いてしまってもいいと思った。
二人の前では大人でいたかったけど、今は子供に返って、心のままに泣いた。ポケットからバドゥルのIDタグを出し、力なく握りしめた。
やがて泣き疲れて、アイシャの隣で横になったまま空を見上げた。視界一杯に空が広がっている。
「ああ、本当に青いな」
だんだんと意識が遠くなってきた。心も体もふわりと浮くように軽くなってきた。このまま宙に浮かべば、空に帰れる気がする。アイシャの手を強く握った。決して離れることがないように。
僕はもう疲れた。このまま永遠に眠ってしまおう。たとえ二度と目が覚めなくても、もう十分に生きてきた。
* *
私たちの車列は丘陵地帯を抜け、果てしない砂漠をひたすら走り続けていた。辺り一面、緩やかな砂丘が続いている。街道は荒れ果て、ほとんどが砂に埋もれている。途中で何度かトラックが砂にスタックしてしまったために、予定よりも時間がかかっていた。ルトバから百二十キロ進んだ地点に着いた頃、時計の針は正午を指していた。
車から降りた私たちの元にPKFの部隊長がやってきた。
「ここを中継地点にする」
周囲を見回したが、何もない、砂だけの世界だ。ここで何日も過ごすのか。
「埋もれているが、ここは街道の上だ。道がわかる者ならば、ここを通る」
呆然としている私に向かって、この地で育ったハサン・カルマンが笑いながら言った。
「私はわかりますよ」
「三十分休憩した後、我々はまた出発する。救援が必要な者を見かけたら収容し、順次ここに送り届ける」
「わかりました。ここからキャンプへは私たちが連れて行きます」
ケイが頷きながら答えた。
休憩が終わり、PKFの車両は再び砂漠の中を走り出した。私たちはテントを組み立て、宿営の準備を始めていた。炎天下での作業は過酷だった。
ケイがテントの中で機材の設置をしているときだった。その無線が私たちを呼んでいた。作業に追われながら、ケイが無線で何かを話しているのを遠くで見ていた。話し終えたケイが私たちの元に来て、無線でのやり取りを教えてくれた。
「ここから五キロ北東で、難民二人を発見したそうだ。テントを張って暑さをしのいでいたらしい」
「え!?」
この道を辿っていて初めての遭遇に驚いた。
「三十代と思われる男女で、ロバを連れている。装備は十分にある。距離が近いから、すぐにテントを畳んで自力でここに向かってくるとのことだ。ハサン、彼らがここに着いたらトラックでキャンプまで連れて行ってくれ」
「了解」
私は何も言わなかったが、ユウたちではなかったことに落胆していた。ヴァレリーはそんな私の肩に軽く手をかけた。
それからしばらく経った頃、ケイが叫んだ。
「来たぞ!」
ケイは双眼鏡で砂丘を見ていた。その視線の先に、ロバと歩く二人の姿が見えた。やがて、彼らは私たちの元に辿り着いた。かなりの疲れはあるものの、体調に問題はなさそうだった。すぐにキャンプまで連れて行くことになった。
ハサンはトラックの荷台に幌をかけた。そして荷台に板を渡し、ロバを荷台に引き上げた。ロバの背に乗せていた荷物もトラックに乗せ、男と女も荷台に上がった。
「じゃあ、行ってきます」
ハサンはそう言って、運転席に乗り込み、エンジンをかけた。しかし、私は急に運転席の窓ガラスを叩いた。
「ちょっと待って。あの二人に聞きたいことがある」
荷台に回って、二人に声をかけた。
「ここに来るまでに、三人連れの子供たちを見かけませんでしたか?」
男と女は互いに顔を見合わせた。男が私のほうを向いて答えた。
「三人連れか。知らないな」
「──そうですか」
仕方ない、と思った。何でもいいからあの子たちの情報が欲しかった。左側にある運転席の窓が開いて、ハサンが身を乗り出して私のほうを見ていた。私は左手を上げて合図した。ハサンも左手を上げて応えた。トラックは私の目の前で動き出した。
その時だった。見覚えのあるカバンが私の目に映った。それは、赤い幾何学模様が織り込まれた、美しいキリムのカバンだった。
私は自分の目を疑った。しかし、走り出したトラックの荷台に、確かにそれはあった。
「待って!」
去りゆくトラックを懸命に追った。けれど砂に足を取られて全然進まない。前のめりに無様に転んだ。それでも両手を大きく振って、走り去ろうとするトラックを呼び続けた。
ハサンはサイドミラー越しにそんな私を見つけた。トラックは急ブレーキをかけ、砂の中で止まった。私は起き上がり、トラックの元へと必死に走った。私の異様な姿に驚いたケイとヴァレリーも追いかけてきた。
「どうしたんだ?」
運転席からハサンが降りてきて、私に声をかけた。息を切らした私はその問いかけに答えず、荷台によじ登った。
「これは!?」
キリムのカバンを手に取り、大声で荷台の二人に問いかけた。
「これはどうしたの!?」
二人は顔を見合わせたが、何も答えない。その態度に苛立ち、男の襟首をつかんだ。
「これはどうしたのって聞いてるの!!」
ヒステリックに怒鳴った。ケイが慌てて荷台に登り、私の体を押さえた。
「おい、落ち着け!」
「これはあなたたちの物じゃないでしょ!!」
男は明らかに動揺していた。しかし、何も答えようとはしなかった。
「カナ、そのカバンは確か──」
「そう! これはあの子たちの物。あの子たちをどうしたの!?」
そう叫ぶと、カバンの中を探った。そこには肉の燻製と小さな布製の財布、そして聖書が入っていた。
「この聖書、あの子たちの大切な物よ!!」
聖書を手に取り、二人にそれを見せつけた。その時、聖書の中から一枚の紙が舞い落ちた。私はそれを拾った。それは私があの子たちの部屋に残した置手紙だった。『君たちを連れていけない』と綴った手紙だ。
この手紙はどれほどあの子たちを傷つけただろう。最後に私を見送ったときのユウの軽蔑の眼差しが忘れられない。私はあの子たちを裏切ったんだ!
その手紙を握り締め、膝から崩れ落ちた。感情を抑え切れず、声を上げて泣き出してしまった。
私は男女から引き離され、テントの中で待たされていた。赤い幾何学模様のキリムのカバンを胸に抱きかかえていた。しばらくして、ケイとヴァレリーが私の元にやってきた。
「今すぐ出発するぞ」
「え?」
「あの子たちを見つけられるかもしれない」
「本当!?」
飛び上るほどの喜びを感じた。本当に嬉しかった。
「ヴァレリーとハサンがここに残る。カナ、一緒に探しに行くぞ!」
ケイを追いかけるようにランドクルーザーの助手席に飛び乗った。ランドクルーザーは唸りを上げて砂を巻き上げ、砂漠を走り出した。
「ユウとアイシャが砂漠に置き去りにされた」
「そんな!」
「今日の明け方に二人を残して出発したらしい。すでに半日以上、この炎天下にいるはずだ。しかも、飲み物も食料も一切ない。あいつらが全部奪ってきた」
「酷い──」
「アイシャは昨日から高熱を出していたらしい。じきに死ぬだろうと思って見捨ててきたようだ」
あまりの事に言葉を失った。
「それから、バドゥルはいなかったようだ」
「え?」
それは何を意味するのか。ますます言葉を失くした。
「おそらくここから二、三十キロ行った辺りに子供たちがいると思う。だが、先に行った軍からは何の情報も来ていないから、街道を大きく逸れてしまっているのだろう。きっと砂漠のど真ん中にいる。くまなく探さないといけない」
辺り一面に広がる砂丘には風紋が描かれ、まるで美しい琥珀色をした海のようだ。それはゆらゆらと波打っているようにさえ思える。この海で漂流している子供たちを見つけ出すことができるのだろうか。
果てしなく広がる空は、海を映したようなコバルトブルーに染まっている。真上には灼熱の太陽が輝き、空も大地も見境なく焼き尽くそうとしている。
ランドクルーザーはスピードを上げていた。ハンドルを握っているケイはサングラス越しに前を見つめている。私は必死に双眼鏡で周囲を見続けていた。
──それは一瞬の違和感だった。砂漠の風紋の中に、何かを見つけた。
「停まって!」
慌てて叫んだ。ケイは急ブレーキをかけた。
「どうした?」
「何かいる」
私は双眼鏡を手に車から降りた。そしてバンパーによじ登り、遥か南の砂丘を双眼鏡で見つめた。
「ああ!」
思わず大声を上げた。自分が見たものを信じることができなかった。
「見つけたのか!?」
自分の膝がガクガク震えるのを感じた。ケイが私の双眼鏡を奪って、私が見ていた先を見つめた。
「誰かいるぞ!」
ランドクルーザーは大きく右にハンドルを切り、砂丘の中を南へと突き進んだ。幾つもの砂の波を越えて、ついに辿り着いた。とうとうユウを、いいえ、ターリックを見つけたんだ。
少年は、幼い少女を守るように横たわっていた。その手は少女の手をしっかりと握っていた。二人に砂がかかり、このままでいたら埋まってしまいそうだった。
「ターリック! アイシャ!」
慌てて二人に駆け寄った。
しかし、アイシャの頬はこわばっていた。彼女の首に指を当ててみたが、脈を感じることはできなかった。心臓が握り潰されるような痛みを感じた。
「嫌! アイシャ! お願い、起きて!」
嗚咽しながら、アイシャを抱き締めた。
そして片手でターリックの肩をつかみ、強く揺すった。
「ターリック! 起きて! しっかりして!」
ケイが彼の首に手を当てて、脈を確認した。
「カナ! 生きてるぞ!」
その時の私の声は、叫びに近かったかもしれない。なんて叫んだかも覚えてない。悲しみと嬉しさがごちゃ混ぜになり、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。
──君と初めて出会ったあの月の夜を、私は決して忘れない。
満月に照らされて立ち尽くしていた君。まっすぐに私を見つめていた。きっと私は君と出会うために、遥かなこの国にやってきたんだ。そして、私は君と出会った。
* *
誰かが僕の肩を揺すっている。深い眠りから覚めるように、そっと目を開けた。そして僕はカナを見つけた。ついに会えたんだ。
「カナ?」
そう言ったけれど、言葉にはなっていないようだった。
カナが僕を抱き締めた。彼女は泣いている。
「今まで本当によく頑張ったね」
そして優しく僕に語りかけた。
「もういいんだよ。一緒に帰ろう──」
カナの向こうに空が見える。
見上げた空は果てしなく青い。この空は、僕がどんなに苦しくても悲しくても、そして心から嬉しくても楽しくても、ずっと変わらずに僕を見下ろしていた。飛行機と共にこの地に墜ちてきた僕のことを、ずっと見守ってくれていた。僕はこの空からやってきた。
僕たちはこの空の下で、ずっと三人で寄り添って生きてきた。他に何もいらなかった。けれど僕は、何よりも大切な二人を失ってしまった。今気が付いた。三人で過ごしてきた日々こそが、この世界のすべてだったんだ。
ねえ、カナ、僕は二人を守りきれなかった。二人は僕の目の前で、苦しんで死んでいった。それなのに、幸せだったって言ってくれたんだ。二人がそう言ってくれたから、僕は世界中の誰よりも幸せだよ。
そして、僕は再び目を閉じた。瞼越しの光の中で僕の心は解き放たれた。砂風が僕の頬を撫でていく。静寂が僕を包んでいる。
ただ、僕を呼ぶカナの声だけが、この青い空の彼方から聞こえていた。
了
この世界のすべて 月生 @Tsukio
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