第13章 地球の真ん中で

 赤い幾何学模様のキリムで作られたカバンには、僅かな乾燥デーツと、古ぼけた聖書が入っている。そして僕のズボンのポケットには、薄汚れた一枚のIDタグが入っている。そこには「بدر」という文字が彫り込まれている。バドゥルの名前だ。バドゥルの死から数時間が経った。あの後も執拗に戦闘機が飛来してきた。街は焼き尽くされ、その空に煙が立ち昇っている。

 僕はカバンをたすき掛けにしてアイシャを背負い、西の街道をひたすら逃げ続けていた。アイシャは疲れ果てて、僕の背中で眠っている。すでにセルジュークの街並みは遠く、僕の背後で陽炎の向こうにゆらゆらと見えるだけだ。


 僕は致命的なミスを犯していた。

 燃え盛る街を必死に抜け出し、夢中で街道を歩き始めてしまった。しかし、街の外は砂埃にまみれた荒野が続く。容赦のない太陽が照りつける過酷な大地だ。砂漠を行くことの危険性は十分知っていたはずだ。なのに、なぜアイシャを連れて歩き続けているんだ?

 機銃掃射の中を逃げ惑ったときに、ほとんどの荷物を失くしてしまった。今さら探しに行くわけにもいかない。何の装備もしていない。持っているのはこのキリムのカバンだけだ。この状態は絶対にまずい。僕たちが生きて歩き続けることは不可能に近い。そんなことくらい、普段の僕ならちゃんとわかっていたはずだ。何が僕の判断を誤らせたのか。

 唇を噛みしめながら、悶々と後悔を繰り返していたけれど、それより優先するべきなのは、こうなった以上、どうやって生き抜くかだ。


 同じように街道を歩く人たちがいる。収容所から逃げ出した住民たちだろう。だが、誰も僕たちを気にする者はいなかった。果てしなく続く空襲の中、命からがら逃げてきた人ばかりだ。誰もがルトバ・キャンプを目指しているのだろう。荷物を持っている人は少なかった。

 目の前には砂漠と山しかない。ギラギラした太陽は高い位置にある。この日差しの中、これ以上動くのは危険だ。どこか休むところを探さなくてはならない。

 歩き続ける僕に、太陽が熱く照りつけてくる。喉が渇く。そういえば、空襲が始まってから何も飲んでいない。それはアイシャも同じだ。このままでは二人とも脱水症状になってしまう。

 歩きながら、僕の意識は時々虚ろになっていた。ルトバに行くどころか、このまま行き倒れてしまいそうだった。


「暑い──」

 ルトバまでは三百キロの距離があると聞いていた。歩いたらどのくらいかかるんだろう。何度もそれを頭の中で繰り返し考えていたけれど、暑さで頭が働かない。喉が渇いた。こんな状態で、僕たちは後どのくらい歩けるんだろう。


 街道脇で、二人の年配の男女が座っていた。女性は具合が悪そうだ。二人は荷物を持っていた。期待した僕は吸い寄せられるように二人に近付いた。

「あの、何か飲み物持っていませんか? 何も飲んでいないんです」

 男が僕のほうを振り向いた。

「持ってねえよ」

 男はぶっきらぼうに答えた。

「持ってたら、こいつに飲ませてる」

 誰もが苦しいのだと知った。それでも歩き続けるしかない。再び力を振り絞り、アイシャを背に歩き始めた。


 やがて、朽ち果てたトラックを遠くに見つけた。それは砂と錆にまみれ、荒野の風景に溶け込んでいた。タイヤは潰れ、窓ガラスもなく、長い年月がそこに沈殿しているようだった。

 そのトラックの日陰で休もうと思った。ところが、そこに人影を見つけた。誰かがその日陰にいる。

 それは一人の中年の大柄な男だった。つばのある帽子を目深に被っている。兵士ではないようだ。収容所を逃れてきたのだろうか。その男はトラックの裂けたタイヤに寄り掛かっていた。そして布製のカバンを傍らに置き、革製の水筒の蓋を開けていた。僕はそれを見逃さなかった。

 男は一口だけ水筒の中身を飲んだ。水だろうか。そのとき、男は僕の存在に気付いた。男は水筒をさっと懐に隠した。

 だけど、もう我慢ができなかった。せめてアイシャに水を飲ませなければならないと思った。

 背中からアイシャを下ろした。

「アイシャ、大丈夫か? 起きれるか?」

 アイシャはうっすらと目を開けた。

「うん──」

「人がいたから、水を飲ませてもらおう」


 アイシャを抱き上げて腕に抱き、男の元に近づいた。男は警戒するように僕をジロリと睨みつけた。

「すみません。俺たちにも少し飲ませてもらえませんか?」

 男にそう懇願した。しかし、男は無言で立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。慌てて男のカバンをつかんだ。カバンが男の手から落ちた。

「何しやがるんだ!」

 男は激しい声で怒鳴った。その直後、男は正面から僕のことを勢いよく蹴とばした。僕はアイシャを抱きかかえていたから、男の大きな足はアイシャの背中を思い切り捉えていた。僕たち二人は地面に倒れ込んだ。

「アイシャ!」

 あまりのことに気が動転した。背中を力任せに蹴られたアイシャは息をすることができず、苦悶の表情を浮かべている。アイシャをどうしたらいいかわからず、背中をさすりながら何度も名前を呼んだ。アイシャまで失ってしまったら、もう生きている意味がない。


 やがてアイシャは、ひどい咳とともに息を吹き返した。ゼッゼッと乾いた音をさせながら、息をし出した。張りつめた僕の緊張がすっと紐解かれたのを感じた。

 すぐに男に目を向けた。男は自分が幼い少女を蹴とばしてしまったことに、少なからず動揺していたようで、その場に立ち尽くしていた。しかし、アイシャが呼吸を取り戻したことで我に返り、足元にひざまずいている僕に向かって攻撃的な視線を向けた。男は再び大きな声を発した。

「お前が!」

 そのタイミングを見逃さなかった。大声とともに男の息が吐き出された瞬間、右手で腰のサックからナイフを抜き取り、その柄でみぞおちを強く突いた。男の体内で横隔膜が止まり、呼吸困難に陥った。男はあまりの苦しさにみぞおちを押さえたままうずくまった。その頭から帽子が落ちた。苦痛に歪んだ顔に脂汗がにじみ始めた。僕は立ち上がり、ナイフを男の首の左側にあてがった。


 しかし、どうしたことだろう。僕の右手は動きを止めていた。ためらっているのか? 自分の心の変化を感じていた。

 この男はアイシャを苦しめた。だから僕に殺されて当然のはずだ。それにこの男の荷物を奪えば、僕たちは生き延びることができる。何をためらう必要がある? 今ここでこの男を殺さなかったら、追われて復讐されるかもしれない。答は簡単なはずだ。


 けれど、僕の脳裏にあの時の光景が浮かんでいた。

 診療所で大きな兵士の頸動脈を切り裂いたとき、その血しぶきの向こう側でカナが怯えていた。カナは飛び散る血液に怯えていたんじゃない。容易く人を殺す残忍な僕に怯えていたんだ。それに気付いたから慌ててカナに言い訳をした。あの時、カナの心が遠ざかってしまうのが、何よりも怖かった。


 立ち尽くしていた僕の左側にアイシャが寄り添い、左手をぎゅっと握った。

「アイシャ──」

 男の首にあてがっていたナイフを翻し、その柄で男の右のこめかみを強く突いた。男は脳震とうを起こして気を失い、そのままドサッと倒れた。


 男が持っていた水筒の蓋を開け、中身を確かめるために手のひらに少しだけ出し、それを舐めた。間違いなく水だ。すぐにアイシャの顔を見た。

「ほんの少しだけ口に含んで、ゆっくりと飲むんだ。そうしないとむせるからな」

 そう言ってアイシャに口を開けさせ、水筒から少しの水を口に含ませた。アイシャは言われたとおりに、ゆっくりと飲んだ。そして、嬉しそうに笑った。

 男が持っていた布製のカバンには、一枚の上着、そしてさほど大きくはないが肉の燻製が四つ入っていた。肉の燻製を三つ、僕たちのキリムのカバンに移した。上着と水筒をアイシャに渡した。残りの肉は男のカバンに残しておいた。

 男の襟と腕をつかみ、トラックの日陰に体が完全に入るように引っ張った。そして男のカバンをその傍らに置いた。僕がこの男にしてやれることはここまでだ。男が落とした帽子を拾い上げ、砂埃をはたき、自分の頭に被せた。

 肉の燻製を少しだけ千切り、アイシャに渡した。この肉を大切に少しずつ食べていけば、何日かは持ちこたえられるだろう。

「ゆっくり噛んで食べな」

 そして僕も少しの肉を口に含んだ。キリムのカバンをたすき掛けにして、水筒をその中に隠した。

「さあ、行こうか」

「うん!」

 アイシャは僕の前を歩き始めた。男から奪った上着を頭から被っている。それが彼女を灼熱の太陽から守ってくれる。地面からの暑い照り返しと砂埃が少女を包んでいる。空は青く、果てしなく広がっている。

 僕は生きるために人の物を奪った。荷物を奪われた男は気の毒だが、これで少し希望が持てる。まだアイシャを守ることができる。

 ただ、人の命を奪わなかったことに、僕は自分で驚いていた。


 その後も、僕とアイシャは歩き続けた。いつしか日は傾き、西の空が赤く染まっている。灼熱の日中を超えたことを実感した。

 街道の周辺に少しずつ草の姿が見えだした。遠くに見えていた山も近付いてきた。これからあの山を越えなくてはならない。暑さにやられないように、夕方から夜にかけて移動する方がいいのだが、今日はもうあまりに疲れてしまった。いろんなことがあり過ぎた。

 深夜に空襲が始まり、爆弾と弾丸が降り注ぐ中、必死になって逃げ、爆発で吹き飛ばされ、バドゥルの命を絶ち、アイシャを連れてここまでやってきた。もうこれ以上歩けなかった。ひどい睡魔が襲ってきた。どうしようもなく眠い。


 僕は岩場を見つけた。夜の風を避けて、岩の隙間でアイシャと眠ることにした。一枚きりの上着を二人の体に乗せ、体を丸めて抱き合った。そうしているうちにいつしか眠ってしまった。夜空に煌めく星も月も、僕は見ていない。大地に包まれるようにして眠りについた。



*          *



 空が白み始めたころ、僕は目を覚ました。隣でアイシャが寝息を立てている。彼女を起こさないようにそっと抜け出し、岩の隙間から外に出た。早朝の涼しい大気が心地いい。両手を空に向かって上げ、背伸びをした。

 セルジュークのずっと向こうに山並みが見える。その世界の果てから眩しい太陽が昇ってくる。荒れた大地で健気に命を繋ぐ僅かな草地が光を浴び始める。広大な砂漠が赤紫に染まっていく。冷たく澄み切った大気に少しずつ熱気が含まれていく。世界は静寂に包まれている。

「きれー」

 目を覚ましたアイシャが隣にやってきて言った。

「ああ、そうだな」

 アイシャの小さな肩に手を置き、しばらく二人で朝日を眺めていた。


 僕たちは再び歩き始めた。一時間ほど歩いた頃には、街道は徐々に登り坂になってきた。いよいよ山道に入った。

 僕の心配は水のことだった。昨日奪った水筒にはまだ十分に水が残っているけど、どこかで水を補給しないと、いずれ無くなってしまう。

 歩きながら山の様子を見ていた。今いる場所は道も砂利ばかりで山肌も土がむき出しの荒れた地面だけど、ずっと先のほうには緑が見える。つまりそこまで行けば、水があるんじゃないかと思えた。


 さらに延々と歩き続けると、街道はやがてクネクネとしたカーブを描きだした。道の片側は崖になっている。辺りは岩盤に覆われている。岩の隙間に入り込むように灌木が根を伸ばしている。

 しばらく行くと、そこら中の岩にうっすらと苔が生えているのに気付いた。

「少し湿気が出てきたな」

 僕は確かに湿度が上がってきているのを感じていた。それは植物の色にも表れている。枯れて朽ちかけた色じゃない。青々とした生命力を感じさせる色をしている。どこかに水源があるのかもしれない。


 ずっと歩き続けてきて、僕たちは相当疲れていた。足が思うように動かない。ここは日差しも少し和らいでいる。ここでしばらく休むことにした。僕たちは街道を逸れた所にある日陰に座り、岩に寄り掛かった。湿った苔の匂いがする。ここは命の息吹を感じる。僕は深呼吸をするように目を閉じた。



*          *



「あっ、蝶だ!」

 アイシャが叫んだ。

「蝶がいるよ!」

 その声に振り向くと、岩にこびりついた苔の上で、大きな蝶がヒラヒラと舞っていた。

「キアゲハだ」

 それは僕たちが育ったマラカンダ村でもよく見かけたアゲハ蝶だ。アイシャはその蝶を追いかけ始めた。太陽の光を浴びたその羽は神秘的な輝きを放っていた。その輝きに大気が霞んでいるように思えた。

 霞んだ大気はやがて霧になった。霧の中をアゲハ蝶が舞っている。その美しい姿をアイシャが追いかけ始めた。

「おい、遠くに行くなよ」

 アイシャに声をかけたけど、僕の声を聞いていなかった。アゲハ蝶につられてどんどん先に行ってしまう。蝶は草むらの奥へと飛んで行った。アイシャは慌てて岩を乗り越えて、草むらの中へ飛び、夢中になって蝶に手を伸ばした。その手をヒラリとかわして、蝶はアイシャの目の前を飛び続けた。

「アイシャ、あんまり奥に行っちゃだめだよ。戻ってこい」

 僕たちはいつの間にか、街道からずいぶん離れてしまった。


 霧はますます濃くなってきた。先を行くアイシャの姿を見失ってしまいそうだ。僕は次第に焦ってきた。アイシャを何度も呼ぶのだが、僕の声は届かない。アゲハ蝶がアイシャを霧の奥へ奥へと誘っている。

 ふと、気が付いた。この霧は水の匂いがしない。それはまるで砂煙のように乾いている。どうしてだろう。


 僕のその疑問はすぐに晴れることになる。

 アイシャを追いかける僕の後ろから、小さな何かがヒュウッと飛んできて、僕の頭に止まった。驚いてそれを振り落した。そうしたら、僕に向かって黒い小さな塊がまた飛んできた。それは僕の頬の横を一瞬で通り過ぎた。その素早さに身動きさえできなかった。

 それはヒュッヒュッと次から次へと飛んできた。何だろうと思っていたら、そのうちの一つが近くの木の枝に止まった。僕はそれに近付いてみた。そうしたら、それは黒っぽい色をしたバッタだった。サバクトビバッタの群れが飛んできたんだ。

 バッタの大群が僕を追い越していく。羽ばたく無数の羽が砂を巻き上げ、辺り一面に砂埃を巻き上げている。それが乾いた霧の正体だった。僕は慌てて走り出した。バッタはどんどん増えてくる。急いでアイシャに追いつかなくては。

 走る僕の足元には苔がびっしりと敷き詰められている。危うく滑りそうになる。僕はアイシャの姿を霧の中に見つけた。ようやく追いつき、アイシャの肩に手をかけた。

 振り向いたアイシャの手のひらに、アゲハ蝶が止まっていた。


 アイシャの頭上をバッタの大群が通り過ぎていく。

「何これ?」

「サバクトビバッタの群れだよ」

「ふうん」

 アイシャは不思議そうに見上げた。僕は少し頭をかがめて、飛びゆくバッタから身を隠した。

「あのね、この先に泉があるって」

「え?」

「行こ!」

 アイシャは走り出した。その前をアゲハ蝶が飛んでいく。その蝶が彼女をどこかに導いているかのようだ。バッタがぶつからないように両手で頭を隠し、少し頭を下げたまま、アイシャの後を追った。足元の苔はさらに濃い色になっていく。霧もますます濃くなってきた。


 やがてサバクトビバッタの大群は上空へと昇り始めた。それは黒い帯になって空を流れていく。太陽の日差しが遮られ、僕たちの周囲は薄暗くなった。それでも黒い帯の隙間から時折り光が差し込んで、辺り一面の苔を斑模様に照らしている。苔は光を帯びて、つやつやと妖しく輝いている。アゲハ蝶は揺らめきながら先を行く。アイシャは光る苔を踏みしめながらその後についていった。

 やがて辺りは林になり、いつしか深い森に変わった。アゲハ蝶は僕たちを誘いながら奥へと進んでいく。気が付くと、バッタの大群は姿を消していた。

 森は鬱蒼と茂っている。大きな樹に蔦が絡まっている。ここはまるでマラカンダ村のようだ。村はこんな森に囲まれた場所にあった。これはどこか見たような景色だった。懐かしい、もう帰ることができない故郷を思い出す。ノスタルジーが僕の心を締め付ける。僕はもしかして帰ってきた?


 アゲハ蝶は大きな茂みの前で先に進むのをやめた。そこは長い蔦が幾重にも覆いかぶさった場所だった。蝶はアイシャの肩に止まった。アイシャはその蔦を両手で掻き分け、中へと吸い込まれるように入って行った。

 この時、鮮明な既視感に襲われた。その蔦の向こうに何かがいなかったっけ? マラカンダ村が焼け落ちたあの日、蔦の向こうに何か恐ろしいものを見たはずだ。けれど、僕の記憶は閉ざされていて、それが呼び覚まされることはなかった。

 アイシャの後を慌ててついていった。蔦は緑のトンネルを織り成し、奥深くまで続いていた。


 そして、僕たちは見つけた。


 碧い森の奥深くにその泉はあった。そこは閉ざされた場所だった。大きな岩と木々に囲まれ、誰も立ち入ることができない神聖な場所のように思えた。木々の隙間を縫って降り注ぐ陽光が幾重にも交わり、それは丹念に紡がれた絨毯のようだった。この世のものとは思えない、極彩色の美しい光景だった。


 僕たちを誘ったアゲハ蝶は泉の上に飛んで行った。そこには数えきれないほどアゲハ蝶がいた。木々の隙間から差し込んでくる光の中で、蝶たちはヒラヒラと舞っている。

 透き通った泉の底から、水が湧き出してくるのが見える。水草がその流れに身を委ねている。泉は岩の隙間に流れ、地下へと吸い込まれていく。

 アイシャは泉の淵にしゃがみ、両手で水をすくって口に運んだ。

「おいしい!」

 僕もアイシャの隣で屈み、水を飲んだ。体の隅々まで水が染み込んでいくのを感じた。どれだけ渇いていたのだろうか。夢中になって水をすくって飲んだ。カバンから水筒を取り出し、泉に浸からせて水筒を水で一杯にした。


 その時だった。泉を取り囲む木々が激しくざわめいた。バサバサッという大きな音とともに、空から黒い帯が勢いよく降り注いできた。それはサバクトビバッタの大群だった。

 それは唸るように泉の上でとぐろを巻きながら飛び回った。辺り一面がどす黒く覆われた。ヒラヒラと舞っていたアゲハ蝶たちはバッタの大群に吹き飛ばされた。そして、羽をもがれて無残に泉の上に落ちて行った。

 バッタの大群は狂ったように僕たちにも襲いかかってきた。その姿に言い得ぬ恐怖を覚えた。それは生々しい記憶だ。長く恐ろしい空襲から、僕たちは未だに逃げ切れないでいるのか。

 アイシャの手を取り、慌てて走り出した。そして泉が流れ落ちていく岩の隙間に近づいた。


 それは一瞬の出来事だった。僕たちは濡れた苔に足を取られて、岩の隙間に落ちてしまった。そこは深い深い奈落で、僕たちは真っ暗な底へと吸い込まれていった。


 ──僕はハッとして身を起こした。


 状況がつかめず、辺りを見回した。アイシャが隣で僕を見ている。ここはどこだろう。バッタの大群はどこに行った? 蝶は? 泉は?

 とっさにカバンの中をまさぐって水筒を出した。手に持ってすぐにわかった。重さは変わっていない。水筒の中の水はまだ十分に残っているけれど、一杯にはなっていない。泉で水を入れたはずなのに。

「どうしたの?」

 僕のおかしな行動にアイシャが不審に思って聞いてきた。

「いや、何でもないよ」

 僕は苦笑いしながら、そう答えた。



*          *



 うだる暑さの中、僕たちは再び山道を歩き始めた。

 二時間ほど歩くと山道は徐々に細くなり、トラックや車では通れないくらいに険しくなっていた。いつしか道は下り坂になり、僕たちはどんどん山を下りていった。

 この時、僕は漠然とした不安を感じていた。どこかで道を間違えたかもしれない。ルトバ・キャンプには車で行くことになっていたから、車が通れる道のはずだ。僕は歩きながら、引き返すべきか考えあぐねていた。

 行き過ぎた場所で二股に分かれていた所はなかっただろうか? そういえば今日は他の人を誰も見かけない。

「ずいぶん道が狭いね」

 アイシャは屈託なくそう言うけど、僕はうまく答えられなかった。

 僕は空を見上げた。太陽の高さと位置を確認する。ルトバ・キャンプがあるはずの方角だけは見失わないように考えていた。僕は決して道に迷うことはない。それは違う道を進んでいても、方角がわかるからだ。昼でも夜でも、太陽と月、そして星々の煌めきが僕たちを導いてくれる。


 思いがけずいい事があった。

「アイシャ、あれを見てみな」

 僕は見つけた喜びを押し隠しながら、指を差した。指先のずっと向こう、長い坂を下りた先に、ポツンと立ち尽くす樹木があった。それは荒れた土地に生きるイチジクの樹だった。

「あ! もしかしてイチジク!?」

「ああ。実がなってるといいな」

 アイシャは喜び勇んで坂を下りて行った。崖の下の日射の強い場所にその野生のイチジクの樹はあった。

「やった! 実がある!」

 アイシャの声を聞いて本当に心から安堵した。これでまた少し生きていける。ルトバへの道をどこかで間違えてしまったようだが、おかげで誰にも手を付けられていないこの樹を見つけることができた。

「食べていい?」

「いいよ。一緒に食おう」

 僕たちはイチジクの実を採り、夢中になって食べた。その木陰に座って、幾つもの実をほおばった。日なたの砂が太陽に熱く焼かれている。焦げ付いた砂を感じながら食べるそれはとても瑞々しく、口いっぱいに清涼感が広がった。

 太陽は今一番高いところにいる。暑さはこれからがピークになる。この炎天下で先に進むのは危険だ。僕たちは夕方までこの木陰で休むことにした。


「そろそろ行こうか」

 夕方になり、僕たちは先に進むことにした。

 熟したイチジクの実は、もいだ後一日か二日くらいしかもたないけど、カバンに入るだけ詰め込んだ。赤い幾何学模様のキリムのカバンには、肉の燻製、水筒、聖書、布製の財布、そしてほんの少しのデーツが入っていて、イチジクは十二個入れるのが精一杯だった。聖書を捨てようかと思ったが、啓典を捨てるのは忍びなかったのでそのまま持っていることにした。聖書には、カナの置手紙を挟んである。水筒も隠しておきたいからカバンから出せない。


 空には雲一つない。僕たちは依然として細い山道を歩いていた。ごつごつした岩肌が続いている。

 アイシャがスタスタと前を歩いていく。今日は僕に背負われることもなく、元気に歩いている。バドゥルを失った今、アイシャが元気でいてくれれば、それでいいと思える。


 下り坂が緩やかになってきた。

 やがて見晴らしのいい場所に出た。僕たちが目指す南西の方角が見渡せる。ルトバは遥か地平線の彼方にある。今歩いている細い道が、先のほうで街道に交わっているのが見えた。知らず知らずのうちに、小高い山を迂回せずに少し近道をしていたんだ。

「人が歩いてるよ」

 街道を行く人の姿が遠くに見える。ルトバ・キャンプを目指す人たちだろう。同じ道を行く人が他にもいて、勇気づけられる。僕たちもまたあの街道を歩いて行こう。

 山を下りた僕たちは街道に出た。何人かの人が歩いている。皆、この山を迂回してきたのか。街道はいよいよ過酷な砂地に入る。ここから先はまさに死と隣り合わせになる。


「ロバだ」

 ずっと先のほうにそのロバはいた。男と女がロバと一緒に歩いていた。ロバの背中には荷物が乗っている。数本の長い棒や、大きな布もその背に乗せられている。あれはテントだ。砂漠の暑い日中をテントの中で過ごし、涼しい時間帯に移動するためだ。大きな男がロバの手綱を引いている。男の背には黒光りするライフルが担がれている。そしてその腰には長い剣が下げられている。黒いニカーブで全身を覆っている女性はロバの横を黙々と歩いている。その女性も肩からライフルを下げている。

 その二人と僕たちは付かず離れずの距離を保ったまま、街道を歩いていた。


 見渡す限り、果てしない砂地が広がっている。土で舗装された街道は地平線に向かって延々と続いている。先は見えない。

 夕方とはいえ、ひどい暑さが続いている。日よけのために上着を頭から被っているアイシャの表情は見えないけど、相当疲れているに違いない。砂漠に吹く風の音に紛れながらも、アイシャの苦しそうな呼吸が時折り聞こえる。

 立ち止まり、赤い幾何学模様のキリムのカバンから水筒を取り出した。

「少し飲んでおくんだ」

 アイシャは両手で水筒を持ち、水を喉に流し込んだ。暑さでその顔が火照っている。

「アイシャ、おぶってやるよ」

 彼女はその言葉を待っていたようだった。屈んだ僕の背中に両手を広げて抱きついた。その目は虚ろだった。アイシャは苦しいのをずっと我慢して歩き続けていたんだ。もっと早くそうしてやればよかった。


 アイシャを背負い、カバンをたすき掛けにした状態で歩き続けた。荷物を詰め込んだキリムのカバンがずっしりと重く肩にのしかかる。喉が渇く。

 僕の足取りもどんどん重くなってきた。足がまるで棒のようだ。背中のアイシャを支える手が痺れてきた。腰が痛い。休んだほうがいいだろうか。悶々と悩みながら歩いていた。

 視線の先で、ロバを連れた二人の姿をずっと見続けていた。しばらくして、砂地にわずかに生えている草をロバが食べ始めた。二人は歩くのをやめ、ロバが草をひとしきり食べ終わるのを待っていた。これは願ってもないチャンスだと思った。一縷の望みをかけて二人に追いつくことにした。


 二人まで数十メートルの距離だろうか。男が振り返って僕たちを見た。男は何かを察知したように、ロバの手綱をグイッと引いた。ロバは草を食べるのをやめ、再び歩き始めた。女も僕たちのほうを振り向いたが、すぐに前を向いて歩き出してしまった。

 近付く僕たちを明らかに拒否していた。でも諦めるわけにはいかなかった。

「待って!」

 大きな声で呼びかけたが、思っている以上に疲れているのか、あるいはひどい喉の渇きのせいなのか、全然声が出なかった。必死になって二人を追いかけた。


 ようやく追いついた僕の事を、男も女もいぶかしげな目で見ていた。この二人の言いたいことはわかってる。自分たちが生きるだけで精一杯な時に物乞いされても困るのだろう。

 二人の前に先回りし、背中のアイシャを片手で支えながら、もう片方の手でカバンからイチジクの実を一つ取り出した。そして、それを二人に差し出して、僅かな唾をのみ込んで言葉を絞り出した。

「この子を──、ロバに乗せてください」

 男は少し意外そうな顔をした。それは差し出されたイチジクの効果だった。男は僕からイチジクの実を受け取り、その状態を確かめた。男は女のほうをちらりと見た。そして僕に言った。

「俺たちは二人だ」

 その言葉にすぐに反応した。カバンからイチジクの実をもう一つ取り出し、男に渡した。男はそれを女に渡した。そして男はロバのほうを顎で指した。僕は急いでアイシャをロバの背中に乗せた。ロバの両側にぶら下がるように荷物がかけられているので、背中にアイシャをうまく乗せることができた。

 その様子を見届けると、男はすぐに手綱を引いた。ロバは再び歩き出した。その動きでアイシャはグラッとしたが、何とか落ちずに済んだ。僕はほっと胸を撫で下ろし、ロバの横について歩いた。


「お前、名前は?」

 男は歩きながらイチジクを皮ごと食べ始めた。

「ターリック」

「どこから来た」

「セルジュークから」

「俺たちはシリアから来た。ISIから逃れてな」

 その言葉を聞いて、胸が締め付けられる思いがした。僕の大切な村は今、イラク・イスラーム国(ISI)の駐留地になっている。

「お前、どこに行くんだ?」

「ルトバ」

「そうだろうな。俺たちもそこを目指してる」

 僕はそれを聞いてほっとした。

「子供たちだけでこの砂漠を越えるつもりだったのか?」

「ああ」

 喉がカラカラでなかなか喋れない。

「水は持ってるのか?」

「ああ」

「ルトバまで、ここから何日かかるか知ってるのか?」

「知らない」

「知らないで歩いてるのか!?」

 男は驚いていた。無謀なのは僕もわかってる。だけど、仕方なかったんだ。

「ここからだと一週間はかかるぞ」

 一週間? それを聞いて背筋が凍る思いがした。この灼熱の砂漠で、今持っている水だけを頼りに二人が生き抜くことは不可能だ。返す言葉がなかった。

 街道を歩いていたはずの他の人たちの姿がいつの間にかすっかり見えなくなっていた。砂漠を前にして先に行くのを諦めたのか、それとも行き倒れてしまったのか。

「この先はずっとこんな景色だ。この道も、遥か先は砂に埋もれている」

 小さな子を連れてカバン一つで歩く少年を、男は憐れんだ目で見下ろした。

「食いもんは何持ってんだ?」

「イチジクと、肉の燻製」

 アイシャがずっと大切に取っておいた乾燥デーツも少しだけあるけど、何となくそれは言わなかった。

「イチジクって、もしかしてお前、生のままか?」

「ああ」

「そんなのすぐにダメになるだろうが」

 浅はかかもしれないけれど、自分でもわかってることを指摘されて悔しかった。でも何も言い返せなかった。僕は無言でロバの隣を歩き続けた。


 空の果てに太陽が沈み始めた。僕たちが目指す南西の空はすでに赤みがかっている。どこを見ても地平線で、地球の真ん中にいるような気がした。

 いつだったか、サーリムが地球について僕に教えてくれた。確か、地平線のもっと向こうはぐるっと丸くなっていて、そこには全然違う世界があると言っていたような気がする。僕はマラカンダ村とセルジュークしか知らない。外国とか、地平線の向こうとか、想像がつかない。

 ああ、そうだった。僕自身、本当ははるか遠い日本という国から来たらしい。あの地平線をぐるっと裏側に回ると、僕が生まれた国があるんだろうか。


 ロバが急に止まり、ぼんやりと考え事をしていた僕はハッとなった。

「少し休むぞ」

 男は街道を外れたところに、僅かな草の茂みを見つけていた。そこには幾つかの灌木も生えている。荒涼とした大地の上で、強く営まれている命がある。

 僕たちはその茂みの横に腰を下ろした。ロバは草を食べ始めた。アイシャをロバから降ろし、僕の隣に座らせた。ただ、アイシャはあまり元気がなくて、それが気がかりだった。


「イチジクの実は何個あるんだ?」

「あと十個」

「出せ」

「え? なんで?」

「この暑さの中で、生のイチジクがどれだけもつと思ってるんだ。ダメになる前に食べたほうがいい」

「これは俺たちの食べ物だ」

「お前馬鹿か? 一緒に行動するなら全員で分かち合うんだ。お前と違って、俺たちは十分な装備と食糧を持ってるんだ」

 僕にはその言葉が意外だった。今のままではこの砂漠を越えられないと思っていたけど、この大人たちと一緒にいれば、砂漠の向こうにあるルトバまで行けるかもしれない。ひどく警戒していた自分がおかしくなった。固かった自分の表情が和らいだのを感じた。

「わかった」

 そう言うと、赤い幾何学模様のキリムのカバンからイチジクの実を全部出した。そしてそれを四人で分け合って食べた。でも、アイシャは食欲がないようで、一つを食べるのが精一杯だった。

 夕日が地平線に沈んでいく。空が紫色から漆黒に移ろっていく。砂漠に風が吹く。世界は夜のベールに包まれた。


 月明かりの下、僕たちは再び歩き始めた。

 アイシャはロバの上で突っ伏してしまっている。どうしたんだろう。僕は気が気じゃなかった。少しでも早くルトバ・キャンプに行って、アイシャの具合をカナに診てもらいたい。カナはどうしているんだろう。本当に僕たちを待ってくれているんだろうか。


 一晩中歩き続け、空が少しずつ白み始めてきた。夜中に何度か休憩をとったが、その度に座ったまま眠りこけていた。朝が来ても僕たちは歩き続けた。やがて日が高くなり、のぼせるほどの熱気が僕たちを苦しめ始めた。

 男はロバを止めた。

「テントを張るぞ」

 アイシャをロバから降ろし、男がテントを張るのを手伝った。テントを張り終わると、男は僕に肉の燻製を出すように要求した。僕はためらったが、従うしかなかった。肉の燻製は三つあったが、これで残りは二つになった。

 テントはあまり大きくなかったが、食べ終わった四人は身を寄せ合ってその陰に入った。疲れ切っていた僕はすぐに昼の眠りについたが、男と女は用心深く交互に見張りを行っていた。

 夕方になり、暑さが少し和らいできた頃、僕たちはテントを畳み、再び歩き始めた。


「この道は千年前にできたらしい」

 真夜中の砂漠を歩きながら男が言った。

「はるか彼方にある聖地エルサレムに続く道だ」

 永遠に広がる砂の世界の中で、この街道は僕たちを地平線へと誘っている。この国で生きる人々の命を繋ぐ道だ。土で固められたこの道は、古の砂漠の民が作ったという。東の国と西の国を商人たちが行き交い、文明を育んできた。この道を幾千もの旅人が歩き、幾千もの夜が過ぎていった。

 しかし、長い戦争によって国は廃れ、ここは戦禍を逃れた人々が命懸けで歩く過酷な道になった。それでも太陽は地平線に沈み、やがて月と星が目を覚ます。月明かりに照らされた砂漠の道を、今僕は歩き続ける。

 砂丘の上に白いトカゲがいるのが見えた。じっと遠くを見ている。この夜空に浮かぶ満天の星々を見ているのだろうか。トカゲの姿をした神の使者は何も言わず、この夜を見ている。この世界のすべてを見つめている。

 なんて美しい夜だろう。穢れのない、澄み切った世界がここにある。


 少しずつ東の空が明るくなってきた。星が霞んでいく。今夜も一晩中歩き続けた。ロバの上のアイシャの息遣いが荒い。すごく具合が悪そうで、僕は焦っていた。少しでも早くカナの元に行きたい。アイシャを助けてほしい。だけど僕の疲労は極限まで来ていた。

「いったん休むぞ。少し寝ておけ」

 男はそう言うと、ロバを止めた。


 アイシャと並んで横になった。その体は小刻みに震えている。僕はそっと抱き寄せた。何とかその震えが止まらないかと思いながらも、優しく抱き締めることしかできなかった。

 アイシャのことを気にしつつも、眠くて眠くて仕方なかった。ただ、眠ってしまう直前に僕は見ていた。

 女がアイシャの額に手を当て、顔を覗き込んでいた。そのあと男に何かを告げていた。それが何かわからなかったけれど、瞼を開けていられなかった。

 セルジュークを後にしてから四日目の朝が間もなく明ける。風が心地いい。ルトバに向かう大人たちに巡り合えて本当に良かった。安心したまま眠りについた。



*          *



 僕が目を覚ました時、ここには僕とアイシャしかいなかった。太陽は高く、僕とアイシャを容赦なく照らしている。遮る物なんて何もない。僕のカバンも水筒もない。

 どこを見回しても人の姿はない。そこには地平線しかない。青い空の下、果てしなく砂漠が広がっている。

 灼熱の日差しの中、アイシャが隣で苦しそうにしている。もう汗さえ出ない。アイシャの顔に手を当てたら、ものすごく熱くなっていた。


 僕とアイシャは地球の真ん中に二人きりで取り残されていた。

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