第12章 願い

 これほど待ち遠しかった今日はない。


 私は遠い地平線を見ていた。朝焼けが荒野を紫色に染めている。何をするでもなく、遥かな道を眺めていた。昨日、収容者の一部がセルジュークを車で出発したはずだ。


 セルジュークから西に続く街道はまず最初に小高い山を迂回する。そこから先は砂漠となる。砂漠を南西の方向に二百キロ走破すると、やがて丘陵地帯に入る。山をいくつか越えるとルトバが見えてくる。ルトバまでは三百キロの道のりだ。

 ユーフラテス川流域からセルジュークとルトバを経由して遥かエルサレムに続くこの道を、千年もの永きに渡って無数の旅人が歩んできた。セルジュークは、千年前にこの地で栄華を誇っていたセルジューク王朝の末裔が最期の時を過ごした街だと言われている。

 しかし、近代に入ってバグダードからルトバへの街道が主要な幹線道路として整備され、さらにはイラク北部からシリアとの国境の街アル・カイム付近を通ってルトバへ続く街道も整備された後は、セルジュークからルトバへの街道を通る者はあまりいなくなった。街道は廃れ、やがてそのほとんどは砂に埋もれてしまった。

 近代の歴史の片隅で、いつしかセルジュークは山と砂漠に囲まれた孤立した街となった。その反面、東以外からの陸上からは攻められにくく、東の街道は肥沃なユーフラテス川地域を経由してファルージャやバグダードへ進軍するのに適した天然の要塞でもあったことから、軍事上の重要拠点として様々な勢力がその支配を奪い合ってきた。

 セルジュークの住民が戦禍を逃れてイラク国外に脱出するには、西の砂漠を越えるしかない。南は山に塞がれていて、北はイラク・イスラーム国(ISI)に支配され、東のユーフラテス川に向かっても国外には行けない。今や西に行くことだけが命を繋ぐ方法だった。


 セルジュークからルトバまでは車で行けば半日の行程だ。だが、今回彼らは寄り道をするので到着予定は今日の昼だ。

 反政府軍としても収容者を難民キャンプに送り届けるために砂漠を往復するのは割に合わない。実はセルジュークからルトバへの行程の途中に、二つの閉鎖された空軍基地がある。砂漠の真ん中にあるのがH‐1空軍基地で、ルトバまで五十キロの高台にあるのがH‐2空軍基地だ。彼らはルトバとの往復の際にこの二箇所に立ち寄って調査をすることを目的にしているようだ。

 それらは今から十六年前、1991年の湾岸戦争時に、イラクがイスラエルに対して四十三基ものスカッドミサイルを発射するために使った基地だ。しかし今は閉鎖され、廃墟となっている。反政府軍はこの二つの施設を整備してイラク全土を照準に収めようとしているのか。


 早朝に目が覚めてしまった私は待ちきれず、街道の入り口にやってきて、地平線を見ていた。

「カナ!」

 ジープに乗った青年が迎えに来た。彼はハサン・カルマンという名前のイラク人の青年だ。イラク赤新月社のメンバーだ。赤十字のマークは創設者アンリー・デュナンの祖国であるスイスの国旗の色を逆にしたデザインになっているが、十字がキリスト教を連想させるとしてイスラーム教圏では月をモチーフとした赤新月が用いられている。

「到着予定は今日の昼ですよ」

 彼は運転席から身を乗り出して、笑いながら言った。

「まあ、そうだけど」

「戻りましょうか」

「そうね。わかったわ」

 私はそう言って助手席に乗り込んだ。


 ルトバはイラク政府軍の支配下にあり、アメリカ軍も駐留している。二年前の2005年1月26日未明に、ここでアメリカ軍の輸送ヘリが墜落し、海兵隊員三十一名が死亡する事故が起きた。それが単なる事故なのか、それとも反政府軍による攻撃だったのかは不明だ。ここではいつ武力衝突が起きるかわからない。

 ルトバ・キャンプはルトバの市街地の北の外れにある。難民の人口はすでに一万人を超えている。赤十字国際委員会(ICRC)だけでなく、国境なき医師団等、いくつかの国際ボランティア団体から人材が送り込まれ、生活支援や医療活動を行っている。それでも食料も医薬品も足りないし、生活のためのインフラも全く追いついていない。衛生管理も行き届いてはおらず、感染症の広がりを抑え切れずにいる。

 ここからさらに西へ百三十キロ進むとヨルダンとの国境に辿り着けるが、戦闘の影響で今は国境が封鎖されている。その間隙を縫って難民をヨルダンに入れるのは無理だ。イラクとヨルダンの国境にはノーマンズ・ランドと呼ばれる緩衝地帯があり、そこには八百人ほどのイラン系クルド人が居住する難民キャンプ「トリビル」があるが、長期間に渡って孤立状態にある。

 ルトバの先から北西に伸びるシリアへの街道もあるが、今はシリアを目指すのは危険だ。シリアではISIが支配地域を着実に広めている。シリアに流入した難民たちがISIの恐怖から逃れるように、再びイラクに戻るという悪循環が起きている。


 やがてジープは大きなテントの前で停まった。そのテントには、黒文字で作られた円の中に赤い十文字が描かれたマークがある。ここが私たちICRCの拠点だ。

 テントの中に入り、自分の椅子に座った。デスクの上にはたくさんの資料が積まれている。看護師としてやるべきことは診療だけでなく、数多くの書類との格闘もしなくてはならない。


 ケイ・ブレナンが私の分のコーヒーを持ってきた。礼を言いながらカップを受け取った。

「カナ、日本から情報が届いたぞ」

「日本から?」

「ユウ・フェアフィールドを最初に発見した従軍カメラマンが日本に血縁者がいることを突き止めていただろう? その続報だ」

「血縁者と連絡が取れたの?」

「そうだ。駐日大使館の調査員が血縁者と電話で接触を持った。ユウの母親であるナオコ・アガリエのいとこだ。沖縄に住んでいる」

「よかった!」

「ユウの国籍の確認も取れた」

 ケイは自分の言葉に満足そうな表情をしてみせ、さらに続けた。

「明日にはセルジュークからの難民が到着する。その中にユウたち三人がいるはずだ」

 それは嬉しいことだった。ただ、私には大きな心配があった。それはバドゥルとアイシャのことだった。

 日本の国籍を持っていて、さらに血縁者もいるユウは日本に連れて行くことができるだろう。でも、バドゥルとアイシャはどうだろうか。2007年現在、日本ではまだ第三国定住制度が取り入れられていない。数年中に実施されるだろうが、その間口はとても狭いだろう。対象に入れてもらうにはどうしたらいいのか。恐らく、あの子たちはこのキャンプで孤児として生きていくことになる。

 ユウがそんな二人をここに置いて日本に行くとは思えない。彼は「ユウ」として一人で日本に帰ることよりも、「ターリック」として幼い二人と共にここで生きていくことを選ぶだろう。

 嬉しさの反面、先のことに思い悩んで悶々としていた。


「ただ、気になる問題もある」

「問題?」

「いとことはいえ、かなり疎遠だったようで、ユウのことは知らないらしい。それに子供を引き取るのは難しいと言っているそうだ」

「そんな!」

「家庭にはそれぞれ事情もあるだろうしな」

 ケイはそう言うと、顎に手をやった。

「それに、もっと重大な問題がある」

「それって」

「ああ、わかってるだろう? ユウは人格に問題がある」

 私も十分にわかっている。ユウが日本で生きていくことはあまりにも危険過ぎる。

 配給係の兵士をユウがいとも簡単に殺した光景が脳裏にこびりついている。飛び散る血しぶきの向こうで、少年は冷たい目をしていた。私は尋常ではない光景に目を疑った。背筋がゾクッと凍りついて、気を失いそうになった。正直なところ、ユウのことを恐ろしいと思ったのも事実だ。

 自分たちを虐げる人間は殺してしまえばいい、それがユウの考えだった。幼いころから戦闘訓練を受けてきたユウにとって、それは容易いことなのだろう。

 それでも彼は、本当はただの少年に過ぎなくて、街はずれの壊れかけた小屋での暮らしはどんなにか心細かったことだろう。

「ユウが日本の社会に適応できると思うか?」

 ケイの問いかけに返す言葉がなかった。



*          *



 やがて、診察時間がやってきた。私の職場はルトバ・キャンプに設置された唯一の診療所だ。重症患者は十キロ先にあるルトバ中心部の病院に移送するが、誰でも行ける訳ではない。病院側の受け入れには余裕がないし、患者側には経済的な問題もある。

 診療所はいつも患者でごった返している。あまりの数に途方に暮れてしまう。どう考えても、これだけの人数の患者に十分な医療を提供することはできない。もどかしいけれど、それでも私はケイやヴァレリーと共に懸命に働いている。


 私が患者の手当てをしていると、国連平和維持軍(PKF)のジープとトラックが何台かやってきたのが窓越しに見えた。たくさんの兵士たちが慌ただしく降りてくる。普段の様子とは明らかに違う。どうしたんだろう。何か嫌な予感がした。

「軍がこんなに集まってくるなんて珍しいわね」

 カルテに診察内容を書きながらヴァレリーが言った。彼女も窓の外の様子が気になったようだ。

「近くで戦闘が起きたのかな?」

 心配が頭をもたげてくる。心がザワザワとして落ち着かない。今、セルジュークからユウたちを乗せた車が向かってきているはずだ。その車列に何事もなければいいのだけれど。喉がひどく渇く。不穏な雰囲気が私の体を緊張させる。


 PKFの兵士たちは、時間の経過とともに続々とキャンプにやってきた。装甲車の姿も見える。それに気付いた患者たちも不安そうにしている。

 痩せた幼児を抱いた若い母親が私に言った。

「ここも戦争に巻き込まれるの?」

「いいえ。ここは中立の場所。誰もここを襲ったりしないわ」

 彼女は集落の仲間とともに戦禍を逃れて、ついさっき、このキャンプに辿り着いた。飢えと渇きに喘ぎながら命を懸けて歩いてきた。私の気休めの言葉はそんな彼女の耳に留まることはなかった。彼女は怯えた目をしていた。


 母親に抱かれた幼児の栄養状態を見るために、上腕周囲径測定帯で腕の太さを測った。91ミリしかない。明らかに重い栄養失調の状態だ。このままでは命にもかかわる。

「どう? ヴァレリー」

 聴診器を耳から外したヴァレリーに尋ねた。

「すぐに治療が必要だね。センターに連れて行って」

 ヴァレリーはそう言うと、カルテを私に差し出した。

「わかった」


 若い母親を促して、診療所を出た。一区画離れたところに大きなテントがある。ここは栄養失調で緊急的な処置が必要な患者たちを集めた治療センターだ。私は看護師長に声をかけた。

「リリアナ」

「新しい子ね。その子もマラスムスのようね」

 リリアナ・ベネショフはチェコからやってきたベテランの看護師だ。ここで働く看護師たちのリーダーだ。国境なき医師団に所属している。彼女は手を休めることなく、母親に抱かれた幼児を一目見た後、眼鏡越しに私に言った。

 マラスムスは栄養やエネルギーの摂取不足によって発症し、極端な体重減少や発育障害をもたらす。この子の場合は明らかに皮下脂肪の消失と筋萎縮が進行しているのが見てとれる。

「ええ。それから血糖値も低いの。グルコースの投与の指示が出てるわ」

 そう答えるとカルテを渡した。リリアナはカルテにさっと目を通した。

「わかった。この子も預かる」

 リリアナはテントの中を見渡した。すでにここは痩せ細った子供たちで溢れかえっている。彼女は少し困った表情を見せたが、すぐに棚からファイルを取り出し、私のほうに振り向いた。

「補充したい品物のリストよ。倉庫の机の上にも追加のファイルがあるから取っていってくれる?」

「ええ、わかったわ」

「この前の輸送でプランピー・ナッツは十分な量を確保できた。あの栄養治療食を食べれば、この子もきっと元気になるよ」

 リリアナはそう言って、この痩せた幼児の頭を撫でた。不安そうだった若い母親の表情が少し和らいだように見えた。


 この親子をテントに残し、隣にある倉庫用のテントに入った。ここは四方を覆われた頑丈な造りのテントだ。倉庫の机に置いてあったファイルを手に取った。倉庫内を見るとプランピー・ナッツの段ボールが幾つも積んであった。確かにこのくらいあれば、しばらくは安心だ。緊急用の飲料ボトルもある。

 セルジュークに残してきた三人の子供たちは、ちゃんと栄養を摂れているだろうか。さっきの痩せた幼児とアイシャの姿を思い浮かべた。

 そういえば、初めてアイシャに出会ったとき、あの子は決して痩せてはいなかった。それはつまり、ユウが幼い子供たちを立派に育ててきたことを意味する。


 不意に、街はずれの小屋の前で三人を目にしたときの光景を思い出した。あの時、ユウは大きなトカゲを手にぶら下げていた。そしてその隣には彼の大切な弟と妹がいた。私がそのトカゲを食べるのか聞いたら、逆に、食べないでどうするんだ?って真顔で私に聞いてきた。それを思い出して自然に笑みがこぼれた。

 アイシャとバドゥルの健康な笑顔はユウによって守られてきた。そして、古ぼけたたった一冊の聖書で文字の読み書きを教えていた。ユウは何よりも大切な、生きる力を持っている。なんて逞しい少年だろう。

 だけど、彼はやっと十四歳になったばかりの子供だ。その背に負った運命は重過ぎる。この三人の子供たちを過酷な戦場から救い出したいと、心から思った。


 倉庫を出て、再び診療所に足を向けた。PKFの兵士がさらに増えた気がする。一体何が起きたのだろう。私の不安は募る一方だった。



*          *



 やがて昼になった。しかし、セルジュークから車がやってくる気配がない。休憩時間になり、私は書類の片付けをしていた。何をしていても落ち着かなかった。あれほど待ち遠しかったのに、PKFの動きが気になって仕方がない。何事もなければいいのだけれど。

「カナ」

 私の元にケイとヴァレリーがやってきた。ちょうど良いタイミングで来たと思った。

「ああ、私、そろそろキャンプの入り口に行って到着を待ってみようと思うんだけど、いいかな?」

 しかし、ケイは私のその言葉には答えなかった。そして深刻な顔で私に話しかけた。

「PKFから情報が入った」

 すかさずヴァレリーが言葉を添えた。

「カナ、落ち着いて聞いてね」

 私はその言葉にドキッとした。二人は今から私に何を言うんだろう。彼らの真剣な表情に嫌悪感を覚えて、耳を塞ぎたくなった。

「何? 何かあったの!?」

「セルジュークが大規模な空襲を受けた」

 ケイの言葉に自分の耳を疑った。それは悪夢としか思えなかった。思わず唾を飲み込んだ。

「セルジュークからスカッドミサイルが発射されるという情報を得て、政府軍が空襲を行ったようだ。空襲の中、反政府軍のスカッドが二基発射されたようだが、いずれもバグダードの郊外に墜落したらしい」

 言葉を失くしている私に対して、彼はさらに続けた。

「反政府軍は収容所にいる市民を人間の盾として利用しているようだが、空襲はNATOの制止を無視して決行された。要塞になったセルジュークに、政府軍は徹底した攻撃を加えた」

「い、いつ? 空襲っていつ!?」

「一昨日の夜から昨日にかけてのようだ」

「ちょっと待ってよ! あの子たちを乗せた車は昨日出発するんじゃなかったの!?」

 ケイは私の悲痛な声に、返す言葉を失っていた。

「あの子たちはどうなったの!?」

 私の声はひどく上ずっていた。恐ろしい緊張が私の背筋を凍りつかせた。

「民間人は攻撃されたりしないよね!?」

 いつの間にか立ち上がって、ケイにつかみかかりそうになっていた。ケイはヒステリックな私の上腕を両手でつかみ、言った。

「わかっているのはここまでなんだ」

 激しく動揺し、私の体は小刻みに震えていた。

「ねえ、セルジュークに行くことはできる?」

 嗚咽をこらえながら聞いた。

「軍に確認しないと判断できないな」

 ケイはそう言ったが、PKFもすぐにセルジュークの現状を把握できるわけではない。それは私もわかっている。つまり、セルジュークは今、世界で最も危険な決して立ち入ることが許されない場所になっているのだ。

「じゃあどうしたらいいの?」

「待つしかない。もしかしたら、ユウたちを乗せた車は空襲の前にセルジュークを出たかもしれない」

「嘘! そんなこと思ってないでしょ!」

 ケイの腕をつかみ、彼をなじった。


 八つ当たりだってことは自分でもわかってて、わかってるから余計に情けなくて、私はケイの腕にすがりついたまま泣き出してしまった。



*          *



 結局、セルジュークから車は一台も来なかった。


 宿舎の前に置いてある資材に腰を掛けて夜空を見ていた。月が明るく私を照らしている。砂漠の夜の底でずっと考えていた。

 手に持っていた手帳を開き、大切にしまっている二枚の写真を取り出した。一枚はセルジュークに置き去りにしたユウの写真、そしてもう一枚は日本にいる亜矢の写真だ。


 私が亜矢と過ごしたのは、四年前のたった一日に過ぎない。

 八歳だった亜矢はハサミで私の左肩を刺した。それが偶然の出来事だとは思えない。

 子供だった頃、八歳の少女を死に追いやったことがある。私が見殺しにしたその少女もアヤという名前だった。

 亜矢が私を刺したのは、生まれ変わったアヤの復讐だろうか。私の左肩の傷跡は、私が犯した罪の代償かもしれない。私は昔のことを思い返した。


 それは私が十一歳になったばかりの頃のことだ。

 房総半島の太平洋側に、全長が約六十六キロにも及ぶ九十九里浜がある。私はそこから内陸に十キロほど行った所にある茂原という大きな街で生まれ育った。


 私はその日、37度5分の熱を出して、学校を休んでいた。

「アヤ、どこ?」

 父と母が出かけているのをいいことに、アヤという少女と隠れんぼをして遊んでいた。敷地から出なければ大丈夫だと思った。八歳になったばかりのアヤは身が軽く、思いがけない場所に隠れてしまうから、なかなか見つけられないでいる。アヤを探し始めてからもう二十分ほど経っていた。

「礼拝堂かな?」

 残すところ、もうそこしかないと思った。

「もうすぐお母さん帰ってくるから早く見つけなきゃ」

 ここはキリスト教の一教派である聖公会の茂原聖パウロ教会といって、私の父親が司祭を務めている。

 この教会は1933年に建てられた古い木造の洋風の建物だ。私が日本赤十字看護大学の四年生だった時に、国の登録有形文化財に指定された。東京のアパートから久し振りに帰省したらそんな事になっていてひどく驚いたものだ。子供の頃はずっと私の遊び場だったのに。


 一週間前から、アヤは母親と二人で私の家に居候していた。

 彼女の母親はフィリピン人で、アヤの父親である日本人の男を頼って半年前に日本にやってきた。母親は全く身寄りがなく、家族は誰もいないと言っていた。しかし、親子がこの街に着いて間も無く、男は黙って姿を消した。認知をしてもらえなかったアヤは、日本の国籍を得ることができなかった。

 母親は天然ガスの配管を作る小さな町工場に雇われていたが、彼女はやがて不法滞在の状態になった。町工場の社長はやむなく彼女を解雇した。親子は社員寮にいることができなくなった。


 アヤは通い始めていた小学校に来なくなった。同級生の男の子が知った風な口ぶりで「キョウセイソウカンされたんだよ」と言っているのを耳にした。不法滞在の罪で警察が親子を捕まえに来ると大人たちが噂しているのも聞いた。私はそれを聞く度に怖くなった。


 社員寮を出た数日後、町工場の社長に連れられて親子は教会を訪れた。そしてしばらくの間、私の家で暮らすことになった。

 姿を消した男を探してもどうしても見つからないのであれば、入国管理局の千葉出張所に出頭させるしかないと父は言っていた。実のところ、タイムリミットはとうの昔に過ぎていた。親子は日本にいることができない存在だった。

 アヤの母親は毎晩のようにヒステリックに泣きわめき、アヤはいつもその隣で立ち尽くしていた。無表情なアヤを見ているのが居たたまれなくて、言葉をかける代わりに、買ってもらったばかりのクマのぬいぐるみをアヤにあげた。


 私は礼拝堂の重い木の扉を開いた。扉はギイっと軋んだ音を立てた。

 その中はしんと静まり返っている。両側にはアーチ型の窓が連なっている。正面の一番奥には十字架が掲げられていて、その上には鮮やかなステンドグラスがはめ込まれている。12月の穏やかな日差しが窓越しに降り注ぎ、礼拝堂の中で柔らかい光の筋を描いている。

 その光は正面にある講壇を照らしていた。講壇は裏側の足元が空洞になっている。子供一人なら十分に隠れることができるサイズだ。あそこだ、と確信した。

 足音を忍ばせながら講壇に近づいて行った。けれど礼拝堂があまりに静かだったから、足音がいやに響いてしまった。きっとここでは猫の足音だって聞こえてしまうだろう。

 講壇の裏側に足を踏み出した。

「アヤ?」

 しかし、アヤはそこにはいなかった。

「あれ? 絶対にここだと思ったんだけどなあ」

 私の独り言が礼拝堂に響く。警察が捕まえに来るという噂のせいだろうか、見つからないアヤの姿に急に不安な気持ちになった。脳裏に映し出されたのは、アヤが誰かに連れ去られ、私の前から忽然と姿を消してしまう光景だった。


 その時、入り口の方から声が聞こえた。

「カナ?」

 それはアヤの声だった。振り向くと、整然と並んだ何列もの長椅子のちょうど真ん中あたりに、身を起こしたアヤの姿があった。

「アヤ!」

 思わず大きな声を上げた。慌てて駆け寄り、アヤの手を握りしめた。

「何?」

 アヤの言葉に思わず溜め息をついた。アヤは眠そうな声をしていた。礼拝堂の長椅子に寝転んだまま、眠ってしまっていたようだ。それを知って深い安堵を覚えた。

「なんだ、ここにいたのね」

「寝ていた。隠れんぼ」

 覚束ない日本語でアヤがそう言って笑うから、焦ってしまった自分がおかしくてつられて笑ってしまった。


 不意に、礼拝堂の外から男の大きな声が聞こえた。アヤにその場にいるよう目配せをして、入り口の扉に近寄った。

「アンナ・ガルシアだね。いることはわかってるんだ。出てきなさい」

 恐る恐る扉を開いて外の様子を伺った。礼拝堂のそばにある私の家の玄関に三人の男が立っていた。一人の男が玄関のドアを乱暴に叩きながら家の中に向かって声を張り上げた。

「事情を聞くだけだ。悪いようにはしないから。日本語わかる?」

 よれたグレーのスーツを着た男の口調はだいぶ苛ついていた。その後ろに立っている二人の男たちは制服を着た警官だった。

 玄関の横の曇りガラスに女性の姿がゆらりと映った。アヤの母親だ。その姿はすぐに消えた。今は私の父も母も出かけていてここにはいない。でも母はもうすぐ帰ってくるはずだ。只事ではない状況を目の当たりにして、早く帰ってきてと願った。

 アヤたちを捕まえに来たんだ。そう確信した。どうしよう。振り向き、礼拝堂の奥に行くようにアヤに向けて手を振った。


 突然、視界の片隅に人の気配を感じた。ハッとしてそちらを見ると、薄く開けた扉の隙間に男の細い目があった。ゾクっとするような冷たい目だった。

 それはさっきのスーツの男だった。男は扉の向こうでしゃがむと薄く微笑んで、扉の隙間から私に話しかけた。

「こんにちは。君、アヤちゃん?」

「え?」

「アヤちゃんだよね?」

「違うよ。私、カナ」

「ああ、カナちゃんか。この教会の子だね。アヤちゃんはどこ?」

「な、なんで?」

「アヤちゃんのお父さんがね」

「お父さん?」

「そう、お父さんがね」

 そう言って、男は後ろを振り返った。

「アヤを迎えに来たの?」

 思いがけない事に驚いた。ドアの隙間から男の視線の先を見ようと背伸びをした。

「アヤちゃんはどこ?」

 アヤたちを捕まえに来たのかと思ったけど、そうじゃなかった。アヤのお父さんが見つかったんだ。これでアヤは助かる、そう直感した。腕に力を入れて扉を押し開いた。


 そう思ったから──私は指を差した。


 礼拝堂に降り注ぐ冬の日差しが、奥に掲げられた十字架の下に冷たい陰を作っている。その陰に隠れるようにアヤは立っていた。アヤはまっすぐ私を見ていた。

 愚かな私の左手の人差し指は暗がりに潜むアヤを指し示していた。

「そこか」

 中に入ってきた男は私の細い左肩に軽く手を置いた。

「残念だけど、あの子のお父さんはもういないんだよ」

 男は私にそう言い、礼拝堂の中を歩き始めた。

「え?」

 私は混乱した。目の前を通り過ぎた男が少し上げていた口角に、体が地面にめり込むような重力を感じた。

 アヤを指し示した左手を下ろすことができない。男の革靴がコツコツと音を立てる。私の体は石のように固まっている。どういうこと? 何か間違ったことをした? とてつもない不安が私を襲った。私の目は見開かれたまま、何も見えなくなった。


 その時だった。突然、地面が強い力で突き上げられた。直後に今度はドンと下に落ちた気がした。そしてすぐに横に激しく揺れだした。私は無様に転び、揺れる礼拝堂の中で立ち上がることができなくなった。

「地震だ!」

 スーツの男が叫んだ。礼拝堂の窓ガラスが割れ、倒れた私の周りに輝く破片が降り注いだ。


 1987年12月17日、午前11時8分、九十九里浜のすぐ沖合を震源とするマグニチュード6.7の「千葉県東方沖地震」が発生した。死者2人、負傷者135人、被害家屋は数万軒に上った。火災や土砂崩れも発生した。千葉の各地で震度5が記録されたが、当時まだ計測器がなかった地域では、被害状況から震度6相当だったと推測されている。


 揺れが収まるや否や、警官たちは慌てて教会を後にした。彼らが乗り込んだパトカーはサイレンを鳴らしながらあっという間に去っていった。私の家の屋根からたくさんの瓦が落ち、向かいの家のブロック塀は崩れていた。

 アヤと母親は危ういところで警官たちから逃れることができた。しかし、私の父と母が帰ってくる前に親子はこの家から姿を消した。私は泣きながらアヤを探した。


 その夜、スーツの男が警官と一緒に再びやってきて、玄関で父と話をしていた。私は階段の陰で話をこっそり聞いていた。

「アンナ・ガルシアに殺人及び死体遺棄の容疑がかかっています。子供も保護しなければなりませんし、もしお宅に連絡が来たら必ず通報してください」

「殺人!? アンナが誰かを殺したって言うんですか?」

 父の驚きは相当なものだった。スーツの男は冷静な声で答えた。

「彼女と内縁関係にあった男の遺体が発見されましてね。死後半年ほど経っています。恐らく男女関係のもつれでしょうな」


 翌朝、遠浅の白子海岸の波打ち際で、紐で体を繋いだ親子の水死体が発見された。それはアヤと母親だった。二人は決して離れ離れにならないように、腕と腕が紐で固く結ばれていたという。


 そのニュースを見た私は居ても立ってもいられなくなり、母に頼んで白子海岸に連れて行ってもらった。現場検証のために警察が来ていた。私は砂浜に立ち尽くした。

 赤ちゃんの頃からこの海に来ている。視界一杯の太平洋は果てしなく広く、いつもこの砂浜で遠い水平線に目を凝らしながら「アメリカ見えた!」と言って笑い合ったものだ。そしてこの海の楽しさと同時に、その恐ろしさも知っている。

 日本人になることができなかったアヤは、思い詰めた母に連れられて夕闇が迫る冬の海に入っていった。目撃者によると、途中で二人は慌てて引き返そうとしたらしい。だが、強い潮の流れに飲まれ、溺れながらあっという間に沖に流されていった。その潮は九十九里の海に起きる離岸流だ。二人は強い離岸流に魅入られて、冷たい海にさらわれた。

 少し離れた波打ち際で、流れ着いたクマのぬいぐるみを見つけた。それは私がアヤにあげたぬいぐるみだった。でも子供だった私は怖くなり、そのぬいぐるみを置き去りにしてきた。それ以来、白子海岸には二度と行かなくなった。


 四年前、聖エリザベト・チルドレンズ・ホームに引き取られてきた亜矢に初めて会った時、彼女は腕がちぎれかけたクマのぬいぐるみを抱えていた。そのぬいぐるみはミオという名前を亜矢から与えられていた。その名前を聞いた時、背筋が凍るほどの恐怖を感じたのを覚えている。それはただの偶然だろうか。私はミオの正体を知っていた。


 幼いアヤを冬の海に引きずり込んだ罪深い離岸流を、昔から九十九里の人々は畏敬の念を込めて水脈「みお」と呼んでいる。


 あの時、なぜアヤを指差してしまったのだろう。それは私を騙した大人のせい? 37度5分の熱が私を惑わせた? それはきっと浅はかな私のせい。アヤは私に裏切られたと思ったはずだ。きっとアヤは憎んでる。だから生まれ変わって、亜矢として私の前に現われたのか。


 どうして私はいつも誰かを裏切ってしまうの? ぐるぐる回る思いを持て余しながら、手の中の二枚の写真を見比べた。

 二人に共通する「アガリエ」という珍しい名字、もしかしたら血が繁っているのだろうか。私の勝手な思い込みかもしれないけど、何か因縁がある気がする。すれ違ってきた私たちの運命が、交差する日は来るのだろうか。


 ふと、人の気配がして振り向いた。ヴァレリーが近付いてきていた。

「そっと近寄って驚かそうとしたんだけど、もうばれちゃったね」

 ヴァレリーはそう言って笑いかけてきた。

「地響きがしたからすぐわかった」

 私は彼女の巨体を皮肉った。

「そんなに響かないわよ」

 そう言うと、私が座っている資材に彼女はドンと勢いをつけて座った。その衝撃で私の体は飛ばされそうになった。私のその姿を見てヴァレリーは大笑いをした。私もつられて思わず笑ってしまった。

 隣に座ったヴァレリーに尋ねた。

「セルジュークからここまで、歩いたら何日かかるかな?」

「一週間くらいかしら。いや、あんたが聞きたいのは、子供の足ならってことね?」

「うん、そう。子供の足でなら──」

「十日くらいじゃないかな」

「きっと、あの子たちは空襲を生き抜いて、ここを目指してくる」


 私は救いを求めてきたユウの手を振りほどいてしまった。去っていく私を見ていた時の彼の目が忘れられない。裏切りに対する怒りと軽蔑の眼差しが今も私を後悔させる。三人の子供たちをむごい戦場に置き去りにしてしまった。今、あの子たちはどうしているのだろう。空襲の中、どれほど怖い思いをしているだろう。


 九月の月が明るく私を照らしている。セルジュークからもきっと同じ月が見えているはずだ。私を照らすのと同じように、あの子たちのことも照らしていてと、月に願った。

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