第11章 殺戮の果てに
診療所の医師や看護師たちは、牢を抜け出した僕を咎めたりしなかった。これまでと同じように僕たち三人は診療所で働いて、日々の糧を得た。ただ、僕の大切なナイフはサーリムに取り上げられた。預かるだけだと彼は笑って言った。
カナのいない毎日はあっという間に過ぎ去り、いつの間にか暦は九月になっていた。カナが僕たちの前から姿を消して、もうすぐ一ヶ月半になる。
最近、軍の車両整備小隊が診療所の向かいの建物に作業所を作った。そこにはいつも軍用バイクが何台か停められていて、整備や修理の順番が来るのを待っていた。僕は診療所の手が空くと、よくこの作業所に来ていた。今日は二台のバイクが置いてあった。
「かっこいいだろ?」
僕に声をかけてきたのは、サイードという名前の若いイラク人だ。彼の親はアル=カイムでバイク店を営んでいて、彼自身も整備士として働いていたらしい。反政府軍に入ってからも軍用バイクの整備を担当している。
彼は古びたオフロードバイクのハンドルに手を置いていた。カーキ色に塗られたバイクだ。
「1987年式のホンダXLR250Rだ。俺と同じ二十歳だ」
「うん、かっこいいね」
「こいつは日本製だ。日本ってお前の国なんだろ?」
僕は返事に困って黙り込んだ。
「みんな噂してるぜ。なんで日本のガキがこんなとこにいるんだってな」
うつむいた僕にかまわず、サイードは続けた。
「俺の親父によるとな、世界で走ってるバイクの半分は日本のメーカーのバイクだってよ」
「へー」
「お前はバイクに混じって日本から輸出されてきたのかもな」
「輸出?」
サイードが言った冗談の意味がわからなかった。真っすぐに見つめ返してきた僕にサイードは両手を上げた。
「ああ、まあいいや。だけどお前、どうやって日本から来たんだよ」
「空から墜落してきたんだって」
「ああ、なるほどね」
「……」
「は?」
僕の答は突拍子がないものだったようだ。サイードはしばらく空を見上げながら頭の中を整理しようとしていた。彼は徐に右手の人差し指を空に向けた。
「よ、よく生きてたな」
「うん、まあね」
「ま、とにかくお前はこのバイクと同じだ。こいつはな、日本のクマモトってとこにある工場で作られたんだ」
「そんな事までわかるの?」
「バイクには一台一台ちゃんとコード番号が付けられてる。それをコード表と見比べれば、いつどこの工場で作られたかわかるんだ」
「へー」
「お前、遺伝子って知ってるか?」
「イデンシ? 知らない」
「人間の体内にはな、遺伝子っていうコード番号が書いてあるんだってよ。それを見れば、お前がいつどこで生まれたかわかるんだぜ。バイクと同じにな」
「どうすればイデンシ見れる?」
「えーと、そうだな――。そんなの俺にわかるかよ。診療所の先生に聞けよ」
カナは僕が日本の沖縄という場所で生まれたと言っていた。サイードが言うように、その記憶は僕の体内に刻み込まれているのだろうか。
サイードはホンダXLR250Rに跨がり、スロットルを回す真似をした。
「だいぶ古いけど、まだまだ現役だ。砂漠にはこいつが一番合ってる」
「そうなんだ」
「空冷4ストローク、単気筒エンジンのバイクだ」
「4ストロークって?」
「エンジンの中にシリンダーっていう筒がある。そこにピストンが入っててな、気体になった燃料を吸い込んでピストンが下がる。これが1ストローク。そのピストンが上に上がってその気体を圧縮する。これが2ストローク。点火プラグに火花が散って、圧縮された気体を爆発させて、ピストンが下がる。これが3ストローク。で、また上に上がって、燃えた気体を排気ガスとして外に出す。これが4ストローク。このピストンの上下でクランク軸が二回転する。この繰り返しでバイクは走るんだ。この仕組みは燃焼効率が良くて、燃費がいいんだ」
サイードは身振り手振りを交えて、僕に説明した。
「さらにこいつのボア・ストローク比は低中速トルク重視になってる。つまり、エンジンの回転数が低いときでも力を出せるから、タイヤが砂にとられやすい砂漠でもへっちゃらなんだ」
バイクのことになると相手が聞いていようといまいと彼は熱っぽく語り続ける。その点、僕はバイクや車にとても興味があるから、彼も話し甲斐があるに違いない。
「へー」
「この広い世界のどこまでだって行けるんだぜ」
「ルトバまで行ける?」
「当たり前だ。確かここから三百キロだろ? こいつなら途中で給油する必要もないだろうな」
「すごいね」
「戦争が終わったら、俺はまた親父のバイク屋で働くんだ。俺が整備したバイクがありゃ、この国の皆がどこにでも行けるようになる。そんな日が来たらいいよな」
「うん、俺もそう思う」
サイードの目は輝いていた。この国の人たちの幸せが彼の夢なんだ。誰もが行きたい場所に行けるようになる。そんな未来をサイードは夢見ている。そんなサイードに、僕は死んでしまったカラフの姿を重ね合わせていた。僕は車の整備をするカラフの姿に憧れていた。そして今、サイードの夢に憧れている。いつかこの砂漠の国のどこかで、サイードは人々のためにバイクを直し続けているに違いない。
「しかしまあ、差し当たっての問題はこいつだ。今はエンジンがかからないんだよ。いろいろ調べたら、圧縮圧力が不足してるようなんで、シリンダーヘッドを分解してみるつもりなんだ。でも今日は他のバイクを仕上げなきゃいけないんで、こいつの修理は明日だな」
僕がサイードと話し込んでいたら、診療所の前にジープが停まった。それにはトーヒッド中尉が乗っていた。彼は診療所に入っていったが、すぐに出てきた。そして目の前の作業所にいる僕を見て手招きした。
診療所に戻った僕を横目で見ながら、トーヒッドはサーリムに話しかけた。
「収容者の一部を難民キャンプに送ることになった」
「そうか。それを待っていたよ」
「第一陣は、労力にならない者たち三十名ほどが対象だ」
セルジュークに残っていた住民は、ここを占領した反政府軍によって強制労働に就かされていたが、働くことができない病人、子供、老人たちはいる意味がない。軍にとって、そういう者たちをここに置いておくのは無駄でしかない。
「この子たちもか?」
「ああ、そうだ」
サーリムは僕に目をやった。その表情はほころんでいた。最初それをどう受け止めたらいいかわからなかったけど、サーリムの笑顔が僕に意味を教えてくれた。
「キャンプって、ルトバ・キャンプ?」
僕はトーヒッドに問いかけた。
「そうだ」
「そこに俺たちを連れて行ってくれるのか?」
「そういうことだ」
僕は自分の心がざわめくのを感じた。それは期待なのか不安なのかわからないけれど、ついにその日が来たんだ。
「私としてはお前をここに残したい。お前は十分働ける。しかもお前は兵士としての訓練を受けてきたようだしな。私の部隊に置いておけば役に立つかもしれん」
それは、自分の部下をいとも簡単に殺してみせた僕に対する皮肉なのか。しかし僕にとってそんなことはどうでもよかった。彼の言葉を無視して続けた。
「いつ? いつ出発するんだ?」
「明日の昼だ」
トーヒッドの答に、サーリムが少し驚いて言った。
「ずいぶん急だな」
「移送は二回に分けて行う。ラマダーンの前にすべての移送を終わらせたい」
「そうか、今年のラマダーンは9月13日からだったな」
「軍事行動をしている我々は赦されているが、収容者たちにとってラマダーンは重要だ。その時期に重なるのは面倒だ」
「その通りだ」
「我々としては収容所から追い出すだけで済ませたいのだが、難民キャンプに連れて行くことがNATOとの交換条件の一つになっている」
トーヒッドは面倒臭そうに眉を寄せた。
僕は診療所を出て井戸に向かった。アイシャとバドゥルが井戸にいるはずだ。すぐに迎えに行って荷物をまとめよう。はやる心が僕を急かしていた。
井戸は広場を越えた先にある。広場に足を踏み入れ、ふと見ると、そこには巨大な長いトラックが停まっていた。それはトラックというには違和感があるほどの大きさだった。これは自走ミサイル発射機だ。
その重厚な佇まいに、冷たい戦慄を覚えた。これから何が起きるのか、恐怖が僕の想像を押しとどめた。考えてはいけない。僕はこの街から出ていくんだ。
広場にはたくさんの兵士がいた。一人の兵士が僕を見つけて話しかけてきた。この兵士は怪我をした手の治療のために診療所に通っているから、僕とは顔馴染みだった。
「よお、ここを出ていくんだってな」
耳の早い男だ。
「うん、ルトバ・キャンプに行くんだ」
「よかったな。ここは子供がいるべき場所じゃない」
その兵士は僕に笑いかけた。僕はその言葉に小さく相槌を打った。兵士は続けた。
「お前、これが何だか知ってるか?」
得意気にそう言いながら、目の前にある巨大なトラックを見上げた。
「ミサイルだろ?」
「よく知ってるな」
「村で習ったんだ」
「そうか。お前、ゲリラの村で育ったらしいな」
「これ、どんなミサイル?」
黒光りするそれを見上げながら問いかけた。
「スカッドだ。旧ソ連の遺物だよ」
それを聞いても実感はなかった。スカッドがどういう物か、あまりよく知らない。遠くまで飛ぶミサイルだということくらいしか知らないんだ。それは何を意味するのだろうか。
彼は僕と同じように見上げながら言った。
「バグダードが射程に入る」
彼はそう言った後、急に慌て始めた。僕の両肩をつかみ、真剣な表情で言った。
「おい、俺が今言ったこと、誰にも言うなよ。子供だと思って油断したが、お前、ルトバに行くんだったな」
「わかったよ。誰にも言わないよ。それにバグダードがどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
僕の言葉は本心だった。僕にとって大切なことは、アイシャとバドゥルを守ることだけであって、それ以外のことには何の興味もない。誰が生きようと誰が死のうと、僕には関係ない。
彼は少し安心したようだ。身をかがめて、僕に耳打ちをした。
「今から俺は街の外れの発射基地にこいつを持っていく。偵察衛星の目をごまかすためにダミーの車両が何台もあるけどな、こいつは違うぜ。本物だ。基地で弾頭を付けて、こいつは飛んでいくんだ。基地ではすでにミサイルの配備が始まっていて、今すぐにでも発射できる状態なんだ。こいつもそのうち空を飛ぶんだぜ」
そう言いながら右手で緩い放物線を描いてみせた。
「そしてバグダードは壊滅する」
その言葉とともに、彼の右手が弾かれるように開かれた。その光景を思い浮かべているのだろうか、彼は恍惚とした表情をしていた。反政府軍とはいえ、自分の国の首都を破壊することにためらいはないのだろうか。その表情に違和感を覚えながらも、これ以上無駄話をする必要はないと思った。
「うまくいくといいね。俺、もう行くよ」
* *
「鍋はどうする?」
バドゥルが鍋を持ち上げて僕に聞いた。
「キャンプに何があるのか知らないし、持っていけるものは持っていこう」
僕たち三人はいそいそと荷物をまとめていた。それはワクワクするような、期待に満ち溢れた時間だった。僕の肩にのしかかっていた重荷が、いつの間にか消えかかっているような気がした。
ふと、アイシャの様子を見ると、乾燥デーツを大事そうにキリムのカバンにしまっていた。
「それ、いつから持ってるんだ?」
「食べ物が足りなくなったら困るでしょ?」
子供のくせに堅実なところもあるんだなと、思わず笑ってしまった。僕の表情を見てアイシャは少し不満そうな顔をしたけれど、その成長が嬉しかった。
「これも持っていっていい?」
そう言って、アイシャはカナが残していった置手紙を僕に見せた。『君たちを連れていけない』と走り書きしてある手紙だ。
「まだ持ってたのか。捨てちゃえよ」
「これ、カナに会ったら返したいの」
「ああ、そうか。じゃあ、カナに返したら破ってもらいな」
アイシャは僕の返事を聞くと、その手紙を聖書の中に挟み、赤い幾何学模様のキリムのカバンに入れた。
夜になった頃、部屋のドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けるとそこにはサーリムがいた。
「お前たちがここで過ごすのも今夜が最後だ。渡したい物がある。ちょっと中庭に行こうか」
サーリムは笑顔で僕たちに話しかけてきた。僕たちは一緒に中庭に行くことにした。
今夜も月が明るく中庭を照らしている。
壊れかけたベンチにサーリムが座り、その右隣にアイシャとバドゥルが座った。僕はベンチの向かいの花壇に腰を掛けた。中庭から見上げる夜空は四角く切り取られていて、夜の怖さから僕たちを守ってくれているように思える。
サーリムは静かに話し始めた。
「ルトバ・キャンプには学校がある。お前たちは学校に行って、しっかり勉強するんだ。勉強して知識を身に付ければ、お前たちは何にでもなれる。サイードのような整備士になってもいい。私やカナのように医者や看護師になってもいい。皆においしい物を食べさせる料理人になってもいい。学校でたくさんのことを学べば、お前たちの可能性は大きく広がる」
月明かりの下で語りかけるサーリムの言葉を、僕たちは黙って聞いていた。
「それから、キャンプには仕事もある。できる仕事があったらやってみるんだ。そして金を貯めなさい。いつかきっと役に立つ」
そう言うと、彼は懐から小さな布製の財布を取り出した。
「これをお前たちにやろう」
そして隣に座っているアイシャに手渡した。アイシャはそれを受け取ると、サーリムの顔を見上げた。
「開けてみなさい」
財布を開くと、そこには何枚もの紙幣が入っていた。
「あ、お金だ」
アイシャは驚いた。隣にいるバドゥルも驚いていた。僕はそれを黙って見ていた。
「くれるの?」
「ああ、そうだ。困ったときがあったら使うといい。それまでは大切に取っておくんだ。ただ、誰かに取られるといけないから、キャンプに行ったらカナに預かってもらいなさい。カナ宛の手紙を書いておいた」
サーリムは一枚の紙をアイシャに渡した。
「えっと、『カナ、預か……』?」
「お前はまだ字が読めなかったか」
「そんなことないよ! だけどサーリムの字が汚くて、なんて書いてあるかわかんないよ」
思いがけないアイシャの言葉にサーリムは笑った。
「そうか、そうか。それは悪かったな。お前たちの金を預かっててやってくれと書いたんだ。その手紙を財布に入れておきなさい。キャンプに着いたら財布ごとカナに渡すんだ」
アイシャはその言葉に大きく頷いた。僕はその様子を見ながらサーリムに問いかけた。
「何で俺たちに金をくれるんだ?」
「私はイスラームの教えに従って生きている。これは五行の一つ、サダカだ。私はムスリムとして当然のことをしているだけだ。だからお前たちは何の遠慮をすることもなく、受け取っていいんだ」
サダカとは持てる者が持てない者に富を分け与える自由喜捨のことだ。敬虔なイスラーム教徒にとって、この行為はごく自然なことだ。しかし、サーリムがそう言ってくれることで気が楽になった。たとえ彼の心に僕たちへの憐みがあったとしても、彼の言葉が僕を素直にさせてくれた。その配慮に心から感謝した。
立ち上がりかけたサーリムに僕は尋ねた。
「俺のイデンシ、どうすれば見れる?」
「イデンシ? ああ、遺伝子か。ずいぶん難しい言葉を知ってるんだな」
「サイードに教えてもらった」
「そうか」
「それ見れば、俺がいつどこで生まれたかわかるんだろ?」
サーリムはそれを否定することなく笑顔を返した。
「私は年寄りで目が悪いから見られないが、お前の遺伝子、カナが見たことあるって言ってたな。自分の遺伝子にそっくりだったらしいぞ」
「ホントかよ」
明らかに冗談ぽく笑ったサーリムに、僕もつられて笑顔になった。
サーリムは両手を膝に当て、立ち上がった。
「戦争はいつか終わる。イスラームが目指すのは平和な世の中だ。それは戦争で勝ち取る平和なのか、戦争を起こさない平和なのか。戦争の惨さを知っているお前たちなら、その答がわかる大人になるだろう」
そう言って、彼は去って行った。
夜が明けたらこの街を出ていく。苦しかった毎日がこの夜と共に深く沈んでいく。けれど、なかなか寝付けなかった。寝てしまえば、次に目を覚ました時に僕の願いが叶う。だから早く眠ってしまいたいのに、どうしても眠れない。それでも、隣で寝息を立てている小さな二人を見ていると、心から満足に思えた。こんなに待ち遠しい朝は記憶にない。
──しかし、僕が待ち焦がれた朝が訪れることはなかった。
真夜中に、唸るようなサイレンが街中に鳴り響いた。飛び起きて窓の外を見た。月に照らされた雲の合間をすり抜けていく無数の影が見えた。
それは、長く果てしない空襲の始まりだった。
* *
黒く淀んだ夜が街を覆っていた。
僕はアイシャとバドゥルを連れて、慌てて診療所にやってきた。部屋に三人でいるより、ここに来たほうがいいと判断したからだ。そこにはすでにサーリムたちが集まっていた。敵機に見つからないように診療所の灯りは消したままだったから、目を凝らして壁の時計を見つめた。時計の針は午前二時を指している。その針はまるで動くのをやめてしまったかのように思えた。
僕たち三人は窓辺に近寄り、外の様子を伺った。至る所で大気を揺らす低い音が鳴り渡り、それは窓ガラスをビリビリと激しく振動させた。夜空を何機もの爆撃機が飛んでいる。そこから無数の榴弾が街に落ちてくる。それは激しく爆発し、石造りの建物を破壊し続けている。家々の屋根や壁が吹き飛ばされていく。
気が付くと、僕たちの後ろにサーリムが立っていた。彼も僕と同じ空を見ていた。
そのときだった。地面から空に向かって光の線が伸びていくのが見えた。それは夜空を切り裂いて彼方へと消えて行った。その直後、大気を震わす地響きが鳴り、窓ガラスが割れんばかりにミシッと軋んだ。
「撃ちおったか」
サーリムが苦々しく呟いた。彼を見上げると、その表情は苦悶に満ちていた。
「何を?」
サーリムに問いかけた。彼は僕たちを見下ろした後、すぐに窓の外に視線を戻した。そして静かに言った。
「スカッドを発射したんだ」
僕にはそれがどれほどのことかよく理解できなかったけれど、サーリムの口調が事の重大さを僕に教えていた。
再び光の線が夜空を切り裂いていった。二基目のスカッドミサイルが発射されたらしい。それは飛び交う敵機をあざ笑うかのように遠くへと飛び去って行った。
「持っておけ」
ミサイルの軌跡を見つめながら、サーリムが僕にサックに入ったナイフを渡した。それは僕から取り上げていたナイフだ。これから先、自分たちの身はお前が守れということか。彼は見上げた夜空に、どんな未来を見たのか。
突然、地面が落ちるような衝撃が僕たちを襲った。至近距離で砲撃があったようだ。僕は慌てて窓の外を見回した。大地を踏み鳴らすキャタピラーの激しい音とともに、診療所の前の道を一台の戦車が右の方からこちらに向かって走ってきていた。サーリムも僕の頭越しにそれを見ていた。
その直後、再び激しい衝撃が襲ってきた。走行しながら戦車の主砲が火を噴いたのだ。砲弾は空に向かって撃たれた。その先には何機もの攻撃ヘリがいた。攻撃ヘリは左右に分かれ、戦車の攻撃をかわした。
戦車が診療所の前に差し掛かったときだった。舞い戻ってきた一機の攻撃ヘリが戦車に向けて機関砲を立て続けに撃った。
それは一瞬の出来事だった。放たれた砲弾は戦車を貫通し、診療所までも撃ち抜いた。壁は吹き飛び、建物が軋みながら崩れ落ちてきた。
圧迫された空気が岩のようにのしかかってくる。それと同時に僕たち三人にサーリムが覆いかぶさってきた。石造りの建物の一部が崩れ、僕たちはその下敷きになった。砕け散ったガラス片が辺り一面に飛び散っていくのが見えた。それはキラキラと輝いて見えた。音は何も聞こえなかった。突然の圧力に僕の鼓膜は麻痺していた。静寂の世界の中で巨大な重力に押し潰された。
診療所の奥まで届いた砲弾が、強烈な摩擦によって高熱を発した。その熱は光のように拡散し、僕たちの体を貫いた。
砂埃の中、僅かに空いた空間に僕たち三人はいた。崩れてきた壁を抑えていたのはサーリムの体だった。彼は頭から血を流し、左のももには大きな木片が突き刺さっていた。
「──劣化ウラン弾だ」
険しい表情のサーリムが低く呟いた。以前、サーリムが僕に教えてくれたことがある。劣化ウランは自然界で最も重い物質で、それを弾頭に使った砲弾は戦車の装甲をも貫くほどの凄まじい破壊力を持つ。そして放出される放射能で、狙われた敵だけでなく兵器を扱う兵士までも被爆するという。
「こんな危険な物、使いおって」
サーリムの体が小刻みに震えている。
「お前たち、早くここから出ろ」
僕たちは顔を見合わせ、急いで隙間から抜け出た。三人とも埃にまみれ、至るところ傷だらけだった。
診療所の外に出たら、建物の半分が崩れ落ちていた。僕たちがいた場所にはかろうじて空間があったが、それを支えていたサーリムの体は瓦礫に挟まれていた。彼が僕たちを庇わなかったら、瓦礫に挟まれたのは僕たちに違いなった。
僕はサーリムに向かって叫んだ。
「サーリム!」
近くに駆け寄った僕たちに、彼は震える声で言った。
「西の街道を行け」
サーリムは最後の力を振り絞って、僕たちに語りかけた。
「ルトバを目指すんだ。きっとカナが待っている」
それが彼の最期の言葉だった。
その直後、診療所の建物は大きな音を立てて崩れ落ちた。重たい暗黒の夜が彼を無残に押し潰した。
サーリムは誰よりも敬虔で心優しいムスリムだった。僕は軽く目を伏せ、そして腰にナイフを付けた。
* *
僕は決心した。もう誰にも頼らない。僕がこの二人をルトバ・キャンプに連れて行く。誰かに連れて行ってもらおうなんて、もう思わない。僕がやるんだ。
荷物を持って、この街を出よう。サーリムが言う通りに西の街道を行けば、きっと辿り着ける。きっとそこで、カナが僕たちを待ってくれているはずだ。
二人を促し、診療所を後にした。その時、視界がやけに明るくなった。一瞬夜明けかと思ったけど、それが間違いであることに気付くのに、大して時間はかからなかった。痛いほどの熱波が僕たちを襲った。
「焼夷弾だ!」
自分の口を突いて出たその言葉にぞっとした。おびただしい数の焼夷弾が落ちてくる。それはまばゆい閃光を放ちながら、数千度の炎で辺り一面を焼き尽くす。網膜を溶かすほどの光と、髪も肌も焼き尽くすこの熱に、全身が震えた。
榴弾によってむき出しになっていた家々が、焼夷弾によってあっという間に炎に包まれていく。地面に落ちた焼夷弾が激しく燃え盛っている。その烈火に、この世界が溶けてしまいそうだ。
闇に輝く炎が舞い上がり、夜空が真っ赤に染まっている。それはまるで黒ずんだビロードの布に血液が染み込んでいくように思えた。どんなに拭ってもその血の跡は消えないだろう。
火災による上昇気流のために真横から風が吹き付けてくる。そして大地で燃える焼夷弾の炎が風をまとい、狂ったようにこの地を燃やし続けた。
光の中で夜は夜でなくなり、闇は消える。次々と投下される爆弾が空中で炸裂して無数の火の玉が生まれ、夜空から降り注いでくる。その残酷な輝きは、この世のものとは思えない美しさだった。
誰かが僕に教えてくれたっけ。それは高級なホテルの天井に吊るされているというシャンデリア? それとも夜空に丸い花を咲かせるという打ち上げ花火? どれも見たことがないけれど、こういうものだろうか。熱波に冒された僕の脳裏に、恍惚とした妄想がよぎっていた。
「ターリック!」
僕はバドゥルの叫びで我に返った。僕は二人を見つめ返した。
「行こう!」
僕たちは路地を抜けて部屋に戻った。キリムのカバンをアイシャの肩にたすき掛けにして、僕とバドゥルは麻袋を持った。
外に出た時、突然、上空で轟音が鳴り響いた。戦闘機だ。僕が気付いたときには機関銃の激しい音が鳴り響いていた。僕たちはとっさに物陰に隠れた。
戦闘機は路上の兵士たちを無慈悲に撃ち殺していく。逃げ惑う兵士たちの足や腹や顔を撃ち抜き、瞬く間にそれは空の彼方に去ってく。
そのとき、大きな爆発音が聞こえた。振り返ると、軍用バイクの作業所が火に包まれていた。入口に血まみれのサイードが倒れていた。慌ててサイードの元に走った。
「大丈夫!?」
「ああ、お前か」
彼の目は虚ろだった。
「ダメだよ、死ぬな!」
その体を抱え、叫んだ。
「戦争終わったらバイク屋やるんだろ!?」
僕がそう励ましたら、サイードは軽く笑って、両手を僕に見せて言った。
「ちょっと無理かな」
サイードの両手は、ほとんどの指が吹き飛んでいた。
「お前、ルトバに行きたかったんだよな。俺が昨日のうちにバイク直しておきゃ、お前たち、バイクで行けたのにな。俺、まだ直してないんだよ。バイク、動かないんだ」
「いいよ、そんなの!」
「でもお前、バイクの乗り方、わかんねえか」
「サイード!」
「ここは危ない。子供たちを連れて早く逃げろ」
「サイードも一緒に行こうよ!」
「皆がどこにでも行けるようにしたかったな」
サイードはかすれそうな小さな声で呟いた。
「でも、バイク、動かないんだ──」
僕に夢を語っていたサイードは、そう言って悲しそうに微笑み、静かに目を閉じた。
戦闘機は立て続けに何機もやってきた。兵士たちは機関銃を手に応戦していたが、一瞬で飛び去る戦闘機に太刀打ちすることもできず、無残に殺され続けていった。
飛び散る血と肉片が、ボタボタと大地に落ちていく。僕たちは建物の陰で、呆然とその光景を見ていた。しかし、次の瞬間、僕たちが隠れていた建物の壁が吹き飛んだ。僕たちは激しく地面に叩きつけられた。でも急いで立ち上がり、二人を抱き起こした。散らばってしまった荷物をあきらめ、僕たちは機銃掃射の中を走り出した。赤い幾何学模様のキリムのカバンだけがアイシャの肩にかかっている。
アイシャを背負い、バドゥルを励ましながら走り続けた。戦闘機は僕たちに気付いているのだろうか? すぐ近くで弾丸が線を描くように破裂していく。僕たちは降り注ぐ銃弾の中を走り続けた。
ふと、この世界のすべてがスローモーションのようにゆっくりと動いていることに気付いた。
必死に走っているはずなのに、なかなか進まない。機関銃の弾丸が地面で弾けて、僕のすぐ横で大きな砂煙を巻き上げている。僕のいる世界は色を失くし、古ぼけたモノクロームの写真の中に入り込んでしまったような気がした。
僕たちの命が終わるかもしれないこのときに、僕の脳裏には、いつかヴァレリーが歌ってくれた退廃的な気怠い歌が流れていた。
* *
どこをどう走ったのかもわからなかった。
いつしか機銃掃射は止んでいた。この機会を逃すわけにはいかなかった。
「空襲は終わったみたいだ。今からルトバに向かうぞ」
「歩いて?」
アイシャが不安そうに聞いた。
「いや、車で行く。車を手に入れる」
「運転できるの?」
「当たり前だ。村にいたときにカラフに教わったからな」
そう言ったものの、本当はあまり自信がなかった。遊びで運転を教わった程度だった。でも、なんとかなると思った。
アイシャの顔は砂埃まみれだった。額から流れ落ちた汗の筋と、両目から流れた涙の筋が付いていた。そんなアイシャの頬を指で拭った。
セルジュークの街は異様な空気に包まれていた。激しい空襲によって、おびただしい数の死傷者が路上に散乱していた。しかし、診療所は壊滅し、サーリム医師も死んでしまった。
血まみれのまま放置された兵士があちこちに横たわっている。苦しそうに身をよじらせながらうずくまっている者もいる。地面に落ちた焼夷弾の多くはまだ燃え続けている。これは地獄だと思った。恐ろしくて、膝の震えを抑えられなかった。
僕は急いで車を探し始めた。しかし、僕の当ては外れていた。戦闘機が狙ったのは兵士だけではなかった。移動のための車がことごとく破壊されていた。機関銃で激しく撃ち抜かれ、多くの車が火災を起こしていた。
この要塞の街から誰も逃げ出すことはできない。燃え盛る車を見て、ようやくその絶望に気が付いた。魔人のように暴れ回る煙の渦は、僕たちの背後まで近付いてきていた。
僕たちは呆然としたまま歩き、やがて見知らぬ広場にやってきた。広場の端に防空壕の入り口が見えた。だがその入り口は爆撃によって、入ってすぐの場所で崩壊している。
ここにはトラックが一台停められていたが、機銃掃射のターゲットとなり、無残な姿をさらしていた。近くに寄ってみると燃えてはいないようだったが、エンジンが撃ち抜かれていて動きそうになかった。アイシャは心配そうに僕の隣に来た。
車はもう手に入らない。歩いていくしかない。幼い二人の体力が心配だけど、ここにいるわけにはいかない。
小さなアイシャの目を見た。僕は何も言わなかったけれど、彼女は力強く頷いた。そしてその小さな手で、僕の左手をぎゅっと握った。
僕がトラックから離れようとしたときだった。突然、バドゥルが叫んだ。
「また来た!」
何機もの爆撃機が、月の下に姿を現した。その腹から、無数の爆弾が落ちてくるのが見えた。
それは流れるように、まるで何かの種を撒くかのように、綺麗に並んで僕たちの頭上目がけて落ちてきた。
もうこれ以上逃げられない。足がすくんでしまった。空襲はまだ終わっていなかった。長く果てしない恐怖が僕たちをどこまでも追い詰める。一歩も動くことができない。広場には何人も兵士たちがいた。誰もが息を飲み、降り注ぐ爆弾の雨を呆然と見つめていた。
爆弾の大群が空を埋め尽くし、次々に舞い降りてくる。ああ、そうか、ヴァレリーが教えてくれたっけ。これはサバクトビバッタの大群だ。これこそ神が人間に下す罰。災いがついに現実になったんだ。いつか来るその日、それが今日だったんだ。
そういえば、夜空を切り裂いて飛んで行ったスカッドミサイルはどうなったんだろう。バグダードまで飛んでいくって言ってたけど、果たして届いたんだろうか? 首都は壊滅したんだろうか? これがそのミサイルの見返りなんだろうか。なんて重い代償だろう。
そのとき、一人の兵士が叫んだ。
「クラスターだ!」
その声で我に返った。クラスター爆弾、それは残虐な無差別殺人兵器だ。爆弾が空中で炸裂し、その中に仕込まれた数百もの小型爆弾が辺り一面に勢いよく放たれる。そして、あらゆるものを皆殺しにする。
「バドゥル! 戻れ!」
一人離れた場所にいたバドゥルを大声で呼んだ。バドゥルは何も遮る物がない場所で立ち尽くしている。僕はアイシャを抱きかかえて、広場の端に見つけた防空壕に走った。防空壕は崩れて中には入れないけれど、入り口の壁に隠れた。
「バドゥル!」
バドゥルが僕のほうを向いた。でもその表情はこわばり、足が震えているのがわかる。それでも少しずつ僕がいるほうへ歩き出した。少しずつ早足になってきた。
「バドゥル、早く来い!」
一瞬、視界が真っ白になったような気がした。上空でまばゆい閃光が輝いた直後、無数の激しい爆発音が大地を揺るがした。その瞬間、僕の体は防空壕の壁ごと吹き飛んでいた。
* *
やがて僕は目を覚ました。
立ち込める砂埃の中、一人で地面に横たわっていた。体中がジンジンと痛む。ハッとして身を起こした。
「バドゥル! アイシャ!」
狂ったように叫んだ。爆発の時、アイシャを抱いていたはずなのに、なんで腕の中にいないんだ。痛む足を引きずりながら、一面に広がる瓦礫の中で二人を探した。
「アイシャ!」
アイシャは少し離れたところで横たわっていた。彼女がたすき掛けにしている美しいキリムのカバンが砂埃で汚れていた。
「大丈夫か!?」
僕の呼び掛けに、彼女は静かに瞼を上げた。それを見てほっと胸を撫で下ろした。
アイシャの頭から血が流れている。左腕の袖を引きちぎり、彼女の傷口に当てがい、手で押さえさせた。アイシャが僕に尋ねた。
「バドゥルは?」
「一緒に探そう」
辺りでは何人もの兵士たちが血を流しながら呻いている。生きている人はまだましだ。ほとんどの人は一瞬で命を落としたようだ。バラバラになった遺体があちこちに転がっている。僕たちはなかなかバドゥルを見つけられず、気ばかりが焦っていた。
「いた! バドゥルだ!」
アイシャの叫びにハッとした。すぐにアイシャが指差す方向に向かった。バドゥルの元に駆け寄り、そして、愕然とした。
バドゥルの体の上に、大きな瓦礫がのしかかっていた。バドゥルの下半身は瓦礫に潰され、もはや原形を留めていなかった。しかし、大きな瓦礫がバドゥルの体を圧迫して血の流れを止めているせいか、彼はかろうじて失血死を免れている。砂埃まみれのその顔に冷や汗が浮かんでいる。出血性ショックを起こしている。
「バドゥル!」
アイシャの悲痛な叫びに、バドゥルは静かに目を開けた。
「どうしよう! バドゥルが!」
アイシャがバドゥルの顔に両手をあてがい、少しでも温めようとしている。彼の口は血だらけで、前歯が全部折れている。
「苦しいよ──」
バドゥルの声はとても小さかった。
「バドゥル! バドゥル!」
アイシャは大きな声で彼の名を呼び続けた。
「今助けるからな!」
必死になってバドゥルを励ました。彼の息が今にも止まってしまいそうで気が気じゃなかった。彼の下半身を押し潰している大きな瓦礫を力任せにどけようとしたが、それはビクともしなかった。
「バドゥル、待ってろよ! 絶対助けてやるからな!」
僕の心臓の鼓動は異常なほどに早く、痛いほどに強まっていた。それはバドゥルを襲ったこの壮絶な惨状に、とてつもない恐怖を感じていたからだ。僕の足は震えていた。
「ターリック! バドゥルが死んじゃうよ!」
アイシャの悲痛な叫びが僕を追い詰める。どうしたらいいかわからず、やみくもに瓦礫を押し続けるしかなかった。
「くそっ! 全然動かねえ!」
僕は激しく動揺していた。この大きな瓦礫をどけてやらなくちゃいけない。でもバドゥルの下半身は潰れているんだ。どんなに痛いことだろう。何とかして助けたい。助けなくちゃいけない。
でも、本当は気付いていた。たとえこの瓦礫をどけたとしても、体が潰れたバドゥルが何の治療も受けられないこの戦場で命を長らえることはできない。それはわかっている。だけどバドゥルを守りたい。いったい今まで何のために生きてきたのか!
咳き込んだバドゥルの喉がヒューヒューと音を立てる。隻眼のバドゥルの残された目から涙がこぼれた。その涙は一筋の光となって地面に落ちた。
「ターリ──」
バドゥルが何かを言おうとした。僕を呼んでいる。慌てて彼の顔の近くにしゃがみ込んだ。
「バドゥル!」
バドゥルは必死に何かを言おうとしている。薄く開けた目で僕を見つめている。不意にバドゥルが左手で僕の腕をつかんだ。
「もういいよ」
「よくない! 大丈夫だ、必ず助けるから!」
「いい」
「バドゥル!」
「俺──」
バドゥルは小さく微笑んだ。
「三人で生きてこれて、幸せだったよ──」
それはバドゥルの精一杯の言葉だった。
僕はバドゥルにいったい何をしてあげられただろう?
僕はいつも怖がってばかりいた。二人を守ってやれる自信がなくて、数えきれないほどの眠れぬ夜を過ごしてきた。そんな不甲斐ない僕のそばで、ろくなものも食べられず、苦しい思いばかりしてきたはずだ。
それなのに、幸せだったって言うのか?
力なく閉じたバドゥルの瞼が、一粒の涙を押し流した。短い人生の中で、今が一番苦しいのだろう。その涙が僕に懇願する。この苦しみを早く終わらせてほしいと。
僕は決心した。体を起こし、残っていた右の袖を引きちぎり、四角く畳んだ。そして腰のサックからナイフを取り出し、それをそっとバドゥルの左の首筋に添えた。
アイシャはもう何も言わず、苦しそうに呻くバドゥルの頬に手を当てている。アイシャはいつの間にか強い心を持っていた。まだ小さな子供なのに、生と死をまっすぐに見つめている。
畳んだ布きれをナイフにあてがった。布きれの下でナイフは音もなく首筋を滑った。潰されて行き場を失くしていた血液が頸動脈から噴き出す。布きれは一瞬で真っ赤に染まったけれど、血液がバドゥルの顔にかかることはなかった。
バドゥルの顔から血の気が引いてきた。それを見て、僕は静かに声をかけた。
「だんだん楽になってきただろう?」
苦痛にゆがんでいた表情が、みるみるうちに和らいできた。指の感覚、腕の感覚と、体の末端からその存在が消えていく。やがて何も感じなくなる。心地よい、ふんわりとした気分の中で、静かに、永遠の眠りにつくんだ。
「ごめんな、バドゥル」
バドゥルは微かな笑みを浮かべていた。アイシャはその頬からそっと手を離した。僕はバドゥルが首から下げている革紐を手繰り、IDタグを一枚引きちぎった。バドゥルは僕たちにとって、誇り高い戦士だった。
いつの間にか夜が明けていた。長く果てしない空襲は街を地獄に変え、人を殺し尽くした。
そしてその殺戮の果てに、僕は何よりも大切な弟を、この手で殺した。
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