第10章 人を殺すということ

 カナの言葉は真実だった。


 カナに会った翌日、アイシャとバドゥルと一緒に丘の上にあるトゲオアガマの巣穴に行ってきた。この前見つけたやつだ。そして体長六十センチ程の一匹の大トカゲを手に、三人で意気揚々と歩いていた。そうそう捕まえられるものじゃない。今日も暑い日差しが僕たちに降り注いでいる。


 先の方を歩いていたアイシャが慌てて僕の元に駆け戻ってきた。

「車がいる!」

 彼女が指し示す方向には大きなコトカケヤナギがある。僕たちの小屋はその隣にある。そしてその樹の下に、カーキ色のジープが停められていた。僕たちはとっさに近くの廃屋の陰に隠れた。

 僕たちの小屋のドアが開いている。鍵なんてないけど、ちゃんと閉めて出かけたはずだ。誰かが僕たちの小屋の中に入っているんだ。僕の鼓動が早くなった。


 しばらく様子を伺っていると、やがて小屋の中から一人の女性が出てくるのが見えた。それはカナだった。

 思わずアイシャとバドゥルの顔を見た。二人は戸惑った表情で僕を見返した。そんな二人に告げた。

「大丈夫だ。あの人は味方だ」


 この時、僕の心は嬉しさで弾んでいた。カナが僕たちを迎えに来てくれたんだ。彼女の言葉は真実だった。

 大人たちは僕たちから食べ物を横取りする。そして僕たちを殴り、騙す。そんな大人たちを信じることはできなくなっていた。だから僕たちは、三人だけでこの地で生きていけるなら、それでもいいとさえ思っていた。でも僕の不安は日増しに強まっていた。真っ暗な夜が来る度に、心細くてなかなか寝付けなかった。飢えと渇きは、いずれ来る限界を予感させていた。


 トゲオアガマを右手にぶら下げたまま、僕は路地に姿を現した。七月の強い太陽の光が路地の砂の上に僕の影をはっきりと描いている。カナを信じる強い気持ちが、そのまま僕の影に表れているようだ。アイシャはバドゥルと手を繋いで、二人で一緒に僕の横に並んだ。

 カナに声をかけるうまい言葉が思いつかなかったから、ただそこに立ち尽くしていた。でもそれで十分だった。カナはすぐに僕たちを見つけた。


 小屋から出てきたカナは、コトカケヤナギの木陰の下に立っていた。僕のことを真っすぐに見つめていた。風でコトカケヤナギの葉がザワザワと音を立てている。カナを隠す木陰が揺らめいている。

 カナは僕たちにゆっくりと近付いてきた。木陰から出た時、その表情がはっきりと見てとれた。彼女は嬉しそうに僕たちに声をかけた。

「迎えに来たよ」

 その言葉に心から安心した。これで幼い二人が生きていける。肩の力がすっと抜けていくのを感じた。


 その時、二人の男の姿に気が付いた。彼らは僕たちの小屋から出てきた。とっさにアイシャたちを隠すように身構えた。その僕の姿を見て、カナは小屋の方に振り返った。そしてすぐに僕のほうに向き直って言った。

「安心して。みんなで君たちを迎えに来たの」

 アイシャが不安そうに僕を見上げていた。そんな彼女の頭に手を置いて微笑んだ。すると彼女の表情がみるみるうちに和らいでいった。

 やがてカナが僕たちの目の前にやって来た。右手で僕の肩を軽く叩くと、アイシャの前に屈んだ。

 アイシャはバドゥルの後ろに隠れたが、カナはその前に手を差し出した。アイシャは恐る恐るその手に触れた。カナはアイシャの手を軽く握り返して優しく微笑んだ。そんなカナの表情に、アイシャも屈託のない笑顔を見せた。

 一人は老人で、医師のサーリムと名乗った。もう一人は無口な若い兵士で名乗ることはなかった。彼はジープの運転を任されているようだ。

 サーリムは笑顔で僕たちに言った。

「よく生き抜いてきたな。さあ、一緒に行こう」


 僕たちは小屋に入って、急いで荷造りを始めた。僕とバドゥルは僅かな服を麻袋に詰めた。鍋も持った。アイシャは毛布を畳んで両手で抱え、以前イブラヒムにもらった赤い幾何学模様のキリムのカバンを肩からかけた。そのカバンに聖書を入れた。

 持てるだけの荷物を抱えた僕たちを、サーリムはジープへと手招いた。ジープの幌は外されている。麻袋をドサッと投げ入れ、アイシャが抱えてきた毛布も座席に乗せた。

 若い兵士が運転席に、サーリムが助手席に座った。後ろの席にカナと僕たち三人が座ったのだが、荷物もあったのでかなり狭くなっていた。カナはアイシャを抱き上げ、自分の膝の上に座らせた。母親を知らないアイシャは少し恥ずかしそうにしていたけれど、カナに身を任せたその表情はどこか嬉しそうだった。


「ちょっと待って」

 ジープにエンジンがかかったとき、僕はそう言って突然降りた。コトカケヤナギの下に放り投げてあったトゲオアガマを拾い上げ、麻袋の上にドサッと置いた。

「それ、持っていくの?」

 カナがちょっとびっくりしながら言った。

「当たり前だ」

「それ、食べるの?」

 当たり前のことに対しておかしな質問をしてきたカナに僕は少し面食らった。

「食べないでどうするんだ」

 僕たちのやり取りを聞いていたサーリムが大笑いした。

「カナの国ではトカゲは食べないようだな。結構うまいんだぞ。特に尻尾が」


 ジープは僕たちを乗せて、セルジュークの中心に向かって走り出した。

 しばらくしてバドゥルが心配そうな表情で僕に聞いてきた。

「これからどこに行くの?」

「難民キャンプに行くんだよ。そこに行けば安心して暮らせるんだ」

 僕は得意気にそう答えた。そして同意を得るためにカナの顔を見た。しかしカナは、少し困った表情をした。

「難民キャンプにはまだ行けないの」

「え?」

 当てが外れた僕は焦りを隠せなかった。

「じゃあ、どこに行くんだ?」

 カナの代わりにサーリムが助手席から答えた。

「今から収容所に行く」

「そんなの聞いてない。俺たちは難民キャンプに連れて行ってもらうんだ」

 正直言って、収容所が何なのかよくわからなかった。ただ、難民キャンプに行くことが僕の支えだったから、不安な気持ちが急に押し寄せてきた。

「この街の人たちは収容所に集められているんだ」

「街の人と一緒なのは嫌だよ」

 怯えた声でそう呟いたバドゥルにサーリムが聞いた。

「この街の大人たちが嫌いなのか?」

 バドゥルは答えなかったが、サーリムは少し考えた後、もう一度バドゥルに話しかけた。

「では、私の所にいるといい。診療所の仕事を手伝いなさい。カナが住んでいる建物に空き部屋があるから、そこで暮らせるようにしよう」

 サーリムの申し出に対して、すぐに応えたのはカナだった。

「本当ですか? よかった!」

 そして僕のほうに向き直って言った。

「私は君たちのそばにいたいの。いつか安心して暮らせるところに君たちを連れて行くから、それまで私のそばにいて」

 どういうことかわからなかったけれど、カナの真剣な表情が僕を安心させた。バドゥルの肩を抱いて、大丈夫だ、と呟いた。



*          *



 診療所に着いた僕たちを迎えたその男は、やたらと興奮していた。

「会えてよかった!」

 男は僕の両肩を強く抱いて力任せに揺するので、その手を払って後ずさりした。

「嫌われたね」

 隣で見ていたカナが笑って言った。

「ああ、ごめん、ごめん。本当に嬉しくてさ。俺の名前はケイだ。君と同じ日系のイギリス人だ。よろしくな」

 ケイと名乗ったその男は僕に右手を差し出した。拒む理由もないし、カナの仲間のようなのでその手を握り返すことにした。ケイは満面の笑顔だった。

「君のことを最初に知ったのは俺なんだよ」

 ケイは得意気に言った。

「今から八年前、1999年の12月に撮られた写真がある」

 そう言って彼は胸元から一枚の写真を取り出し、僕に見せた。それはこの前カナが僕に見せてくれたのと同じ物だった。ただ一つ、大きな違いがあった。カナが持っていた写真は僕だけを切り取った物だったけど、彼が見せた写真にはもう一人の子供が写っていた。それは確かにバドゥルだった。

 僕はその写真を食い入るように見つめた。


 そうだ、僕とバドゥルはいつも一緒だった。僕がマラカンダ村に連れて来られて三、四ヶ月くらい経った頃、全身の怪我がようやく癒えてきて、松葉杖をつきながらだったけれど、あちこち出歩くようになっていた。小さなバドゥルはなぜか僕になついていて、思うように歩けない僕を先導するようにいつも一緒に歩いていた。

 写真を誰かに撮られたことは覚えてないけれど、写真に写っている小さな子供は確かにバドゥルだ。あの時の小さなバドゥルだ。

「この少年は君。そして隣の小さな子は──」

 そう言ってケイはバドゥルを見やった。

「君だね」

 バドゥルも一緒にその写真を見ていたけど、彼にはそれが自分の姿かどうかわからなかった。だけど、はっきりと彼は言った。

「これ、ターリックだ」

 写真に写っている松葉杖の少年を見て、バドゥルはそれが僕だとすぐにわかった。写真に写っている二人の少年は、間違いなく僕とバドゥルだった。

 いずれにしても、今の僕にとって重要なのは、この大人たちが僕たちのことを探していたということだった。


「今日はもう配給を受け取って、部屋に行きなさい」

 サーリムは僕たちにそう言うと、カナのほうに向き直った。

「カナ、君が面倒を見るといい。部屋も隣が空いてるだろう」

 ケイが横から口をはさんだ。

「この子たちの荷物は俺が部屋に運んでおくよ」

「ありがとう。助かるわ」

 カナは笑顔で答えた。そして僕とバドゥルに診療所の外に出るように促した。アイシャはずっとカナの手にしがみついたままだ。村を焼かれて逃げのびてから、アイシャが甘えることができる女性はいなかった。会ったこともない母親の姿をカナに見ているのかもしれない。僕にできないことを思い知ると同時に、カナの存在に心から感謝した。


 僕が外に出ようとしたとき、体の大きな黒人女性と出会い頭に衝突した。僕は弾かれるように転倒した。

「あら、ごめんね」

 診療所の中に入ってきた体の大きな女性は愉快そうに笑った。

「噂の子たちね。元気そうでよかった。私はヴァレリーよ」

 この女性は昨夜カナと話し込んでいた人だ。

 僕たちはカナの後を追って診療所を出た。外はいつの間にか薄暗くなっていた。肌に心地よい温度の風が吹いている。月が明るい。

 二区画ほど歩くと、多くの兵士たちが集まっている建物があった。カナは僕たちを連れて兵士たちを掻き分けるように建物の中に入った。そこでは食料の配給を行っていた。


 カナは配給係を務めている大柄な男に声をかけた。男はギョロッとした目をこちらに向けた。

「ああ、さっき聞いたよ。サーリム先生んとこで預かるんだってな」

「ええ、この子たちには診療所で手伝いをしてもらうの」

「収容所に連れてけよ」

「この子たちは私と関係があるのよ」

「赤十字だっけ?」

「そう。私がこの子たちの面倒を見るの」

「そんなこと言ったって、あんたもういなくなるんだろ?」

 その時、カナの表情が一瞬翳ったのが視界の片隅に映った。

「いいから、早くこの子たちの分もちょうだい」

 男はフンと軽く鼻を鳴らすと、四人分のパンと缶詰と飲料ボトルをうやうやしい動きをしながらカナと僕に手渡した。

「その小せえガキは一人分もいらなかったかな」

 アイシャを見ながらニヤニヤするこの男の表情と、もったいぶった仕草に嫌悪感を覚えた。そんな僕に男が声をかけた。

「トゲオアガマは俺がもらったからな」

 すっかり忘れていたけど、僕の大トカゲはこの男に取られたらしい。

「ありがとう。明日もよろしくね」

 カナは男に礼を言って、その場を後にした。僕たちは再び兵士たちを掻き分けて建物の外に出た。


 昨夜僕が忍び込んだ建物はすぐそばにあった。カナが寝泊まりしている建物だ。中は電気が点いていなくて薄暗かった。カナは入り口近くに置いてあるランタンを二つ手に取った。中にオイルが十分入っているのを確かめて、一つを僕に渡した。

「君たちの部屋にも必要だからね。マッチも持っていって」

 僕たちはカナの後ろについて廊下を歩き始めた。

「トイレはこの廊下の突き当たりにあるからね」

 カナは僕たちに建物の案内をしながら歩いた。角を曲がった先の中程にカナの部屋がある。カナはその隣の部屋のドアを開けて中を覗いた。

「ああ、ここね。君たちの荷物が置いてあるよ」

 この部屋にはベッドが二つ置いてあった。

「あら、いいわね」

 カナは羨ましそうに笑った。自分の部屋よりも広いからだ。

「鍵はこれね」

 そう言って、ベッドの上に置いてあった鍵を僕に渡した。

「ご飯、食べよっか」

 カナは笑顔で僕たちに話しかけた。そういえば、ご飯はいつも三人だけで食べていたから、他の人が一緒にいるのがとても不思議だった。


 カナはマッチを擦ってランタンに火を灯した。薄暗かった部屋がぼうっと明るくなった。炎を覗き込むアイシャの頬が赤らんで見える。そんなアイシャの表情をカナが微笑みながら見つめる。バドゥルも微笑んでいる。


 食事を食べ終えた頃、廊下から大きい足音が聞こえてきた。

「ヴァレリーね」

 カナの言った通りだった。ドアがコンコンと叩かれたが、こちらの返事を待たずにドアは開けられた。ドアを開けたのはヴァレリーだった。彼女は満面の笑顔だった。その陽気な表情に、部屋がことさら明るくなったように思えた。

 ヴァレリーはバドゥルの横にどっかりと腰を下ろした。そして馴れ馴れしく右手でバドゥルの肩を抱き寄せて、左手でその頬を撫でまわした。バドゥルは少し体をよじらせたが、ヴァレリーの力の前では無力だった。そんな二人の姿がおかしくてたまらなかった。

 バドゥルはようやくヴァレリーの手を振りほどき、近くにあったキリムのカバンを取ると、自分と彼女の間に置いた。

「何? あんたの代わり?」

 ヴァレリーは寂しそうな素振りをしてみせたが、その目は笑っていた。

「綺麗な模様のカバンね」

 古ぼけているけれど、赤い幾何学模様がランタンの灯りを浴びて美しく輝いている。

「キリムでできてるんだ」

 バドゥルが少し得意気に言った。

「キリムって?」

「えっと、そういうやつ」

 説明になっていない答にヴァレリーは笑った。そしてそのカバンをどけようとして持ち上げたとき、中から聖書が滑り出てきた。

「おや、聖書を持ってるんだね」

「俺たちの教科書だ」

「あんたたち、キリスト教を信仰してるの?」

 意外そうな顔をしたヴァレリーに今度は僕が答えた。

「俺たちはイスラームの教えで育った。キリスト教なんて信じちゃいない。その本はアイシャに字を教えるために使ってるだけだ」

「あたし、ちゃんと字の読み書きできるようになったよ」

 得意気に言ったアイシャの言葉にカナが驚いていた。

「へえ、すごいね! 字の読み書きって本当に大事だよ。君が教えてあげてるのね」

 カナはやたらと感心していた。僕たちにとって聖書を読むことは退屈しのぎでしかないのに。

「俺だってアイシャに教えてる」

 バドゥルが割って入って主張した。そうなんだ、とカナは笑いながら言った。


 バドゥルはヴァレリーから聖書を取り返すと、パラパラと捲り始めた。そして、あるページを開き、それをヴァレリーに見せた。

「これってどういうもの?」

 ヴァレリーはそのページを覗き込んだ。

「出エジプト記、第十章か。蝗害の話だ」

「こうがい?」

「バッタの大群を見たことはない?」

「バッタはどこにでもたくさんいるよ」

「そのバッタが、空一面を覆い尽くすほどの群れになって襲ってくるんだ」

「そんなのは見たことない」

 バドゥルだけではなく、それは僕も同じだった。神がもたらしたという「十の災い」の恐ろしさは、僕たちの拙い経験では大して想像できていなかった。

「ここらにいるバッタの体は緑色をしてるだろう? それがある日、黒っぽい色に変わるんだ。そして、一匹があんたの頭に止まる」

 そう言って、ヴァレリーはバドゥルの頭に指を当てた。

「すると、あんた目がけて、次から次へとバッタが飛んでくるんだ」

 ヴァレリーはバドゥルの顔に向かって両手を揺らしながら、今にも襲いかかろうとする素振りを見せた。

「バッタたちはものすごいスピードでどんどん飛んでくる。見渡す限りバッタだらけなんだ。そいつらはあんたの周りをブンブン飛び回り、畑の作物をすべて食べ尽くしてしまう。大切な作物が全滅するんだ。人間は食べる物が無くなり、みんな飢え死にするんだ」

 芝居がかったヴァレリーの語りに、カナが口を挟んだ。

「ちょっと、ヴァレリー、脅かし過ぎよ」

 案の定、バドゥルとアイシャの顔はこわばっている。

「そ、そのバッタの大群って、今度はいつ来るの?」

 焦ったバドゥルの問いかけに、カナが答えた。

「こっちの地域でサバクトビバッタが最後に大発生したのは百年近く前って言われてるね。もうずいぶん昔の話ね。次にいつ起きるかは、ちょっとわかんないな。でも世界のあちこちで時々起きるのよ」

 見たこともない光景に思いを巡らせた。視界の全てを覆うバッタの大群。食べ尽くされる農作物。きっとそれは一つ一つのバッタが織りなす、巨大な化け物の行為なのだろう。それこそ人知を超えた神の仕業。いつの日か、愚かな人間たちに神は罰を下すのだろうか。


 カナは立ち上がって窓のカーテンを開けた。部屋の窓は中庭に面している。中庭は広いけど、ひどく荒れていた。壊れかけたベンチや花壇が見える。だけど荒んだ中庭も、月光を浴びて幻想的な面持ちを見せている。色褪せたこの中庭を夜の帳が優しく包んでいる。

「ねえ、中庭に行こうか」

 振り向いたカナが皆に提案した。


 中庭は涼しく、昼間の火照りを冷ますのにちょうどよかった。ヴァレリーは花壇の縁に腰かけた。

 カナは右手にランタンを持ち、僕の横を歩きながら、僕のほうを見るでもなく、独り言のように言った。

「君のこと、ユウって呼んでいい?」

 カナの言葉に対して、僕はいつも首から下げている革紐を手繰り、IDタグを手に取った。そしてそれをカナに見せた。僕たちは三人ともIDタグを持っている。カナはランタンの灯りを近くに寄せ、それに見入った。そこには「 طارق 」という僕の名前が刻まれている。

「俺はターリックだ」

 自分が誰だろうとも、小さな二人にとって、かけがえのない兄でいたいと思った。


 アイシャがカナの元に駆け寄ってきた。カナはベンチに腰掛け、アイシャはその膝の上に座った。

 カナがヴァレリーに言った。

「何か歌って」

「歌? どんな歌?」

「静かな歌がいいな。ヴァレリーは歌がとっても上手なのよ」

 カナが腕の中のアイシャにそう言うと、アイシャが答えた。

「あたしも聴きたい。歌って」

「ハハ。お姫様の命令じゃ断れないね」

「前に聴かせてくれた歌がいいな。『バグダッド・カフェ』の歌」

 カナがリクエストをした。

「ああ、『コーリング・ユー』か。いつだったか、あんたに歌ってみせたっけね」

「そう、砂漠の街、エデッサの夜にね」

「そして、相変わらずあたしたちは砂漠にいる」


 煌々とした月明かりの下で、静かに滑らかにヴァレリーの歌声が聴こえてきた。囁くような歌声が、七月の透明な夜の大気に波紋を広げていく。

 聴いたことがない歌だけど、それは僕の心に深く深く染み込んでいく。どことなく物憂い、退廃的な旋律に導かれて僕の心は澄んでいく。すべてがスローモーションのように感じる。この瞬間を忘れたくないと思った。このまま時が止まってしまえばいいのに。


 この幸せなひとときを、僕は探し続けていたのかもしれない。



*          *



 翌日から、僕たちは診療所の手伝いを始めた。人手が足りないから雑用はいくらでもあった。僕とバドゥルは物資や水を運び続けた。小さなアイシャも診療所の掃除を任された。働くことで僕たちは居場所を得る。そして食べ物を得ることができる。


 そして、それは三日後のことだった。バドゥルとアイシャは井戸に行き、僕は診療所で作業をしていた。すると、配給係の大柄な男が診療所にやってきた。

「よお、働いてるか?」

 男は薄笑いを浮かべながら僕に話しかけてきた。物資の仕分け作業の手を休めることもなく、男を一瞥した後、ああ、と一言だけ返事をした。

 男は暇を持て余しているようだった。診療所の出入り口の横に置いてある木箱に腰を下ろした。男の重さに木箱がギシッと鳴った。

「難民キャンプに行きたいんだってなあ。あんなとこに行ったってろくなことはねえぞ。キャンプから他の国に逃げて行けるのなんてほんのひと握りだ」

 僕が話を聞いているかどうかなんてあまり関係ないようだった。男は独り言のように話し続けた。

「とはいえ、ここの奴らのように収容所に入れられてもなあ。死ぬまで強制労働させられるんだ。それに引き換え、お前たちは恵まれてるな。俺たちと同じ飯を食ってやがる。でもなあ、そんなことが許されるのは今だけだ。お前たちが頼りにしてる赤十字の奴ら、もうすぐいなくなるんだぜ」

 僕はその言葉に思わず反応した。

「何だって?」

「ふん、やっぱり知らねえようだな。可哀そうに」

 男は僕を蔑んだような笑みを浮かべた。

「あいつらはただの人質なんだ。NATOとの交渉のネタなんだよ。あいつらがいなくなったら、お前らの味方はいなくなるぜ」

 こいつは何を言ってるんだ? カナたちがいなくなるなんて、本当なんだろうか。そしたら僕たちはどうしたらいいんだ?


 押し黙って自問自答を繰り返す僕を憐れんで、男は言った。

「お前たちを捨てていくことを黙ってるなんてひどいよなあ。まあ、収容所に行って死ぬまで働けよ」

 そして最後に付け足すように言った。

「ああ、あの小さい女の子は売ればいいよ。いい金になるぜ」

「何だと?」

 男のひどい言い草に我慢ができず、作業の手を止めて立ち上がり、睨みつけた。

「あ? なんだ、その目は?」

 男は横の机の上にあったファイルを僕に投げつけた。しかしそれを敢えて避けなかったので、僕の顔に勢いよくぶつかった。固いファイルの尖った角が僕の額に当たり、鈍い痛みを覚えた。ファイルはバサッと音を立てて床に落ちた。額の皮膚が切れ、一筋の血が僕の顔を流れ落ちた。ファイルを拾い、男を睨みつけたまま無言で元の机の上に放り投げた。

「てめえ、本当に生意気だな!」

 僕の行動は男の神経を逆撫でしたらしい。男はそのファイルを乱暴につかみ、再び僕の顔を目がけて力任せに投げつけた。ファイルは僕の顔をひっぱたくようにぶつかった。


「──もう十分だ」

 独り言のようにつぶやいた。額から流れてきた血液が、僕の頬を伝わり、顎から床にぽたりと落ちた。

 はっきりと悟った。こいつの言ってることなんて、みんなでたらめだ。僕は男から視線を外さないまま、視界の片隅に見えた角材を手に取った。

「んん? 何だよ、小僧。ガキのくせに腹が立ったのか? 馬鹿が。俺に手を出してみろ。お前たちに食いもん出さねえぞ」

 本当にくだらない男だ。自分が配給係であることを盾に、僕を脅すのか。男は険しい表情で僕を睨みつけている。僕が両手で持った角材を見やり、低い声で恫喝した。

「それで俺を殴るつもりか? できるもんならやってみろ!」

 確かに男は体格がよく、少年に過ぎない僕がこの角材を武器にまともに立ち向かっても勝ち目はないだろう。だけど僕は戦い方を知っている。


 数秒間、男と睨み合っていた。しかし不意に視線を外し、男のすぐ横にある出入り口の方を見て、ハッとしたように目を見開いた。それはほんの僅かな表情の動きだ。しかし男はそれに釣られて振り返った。馬鹿な男だ。

 次の瞬間、僕が両手で持っていた角材が鞭のようにしなり、男の後頭部を捉えた。頭蓋骨に衝突する鈍い感触が僕の手に伝わった。男は突然の衝撃にもんどりうちながら床に倒れ込んだ。

 しかし男は左手で頭を押さえながら立ち上がり、僕に向かって大声を上げた。でもそれは何を言っているかさえわからない狂気の叫びだった。男は僕を激しく罵りながらつかみ掛かろうとするが、僕がすかさず身を翻したため、その手は空をつかむだけだった。

 男の後頭部から血液がどくどくと流れ落ちていく。頭皮の裂傷は大きく、手で抑えたくらいではその流血は止めようがない。角材を手にしたまま、一人荒れ狂う男の惨めな姿を眺めていた。


 俺に手を出したら食いもんやらねえって言っていた。この男が生きていたら僕たちは配給をもらえるか心配しなくちゃいけないけれど、こいつが死んでしまえば、そんな心配をしなくていいってことだ。僕たちが生きていくためには、この男は殺してしまったほうがいい。それが僕の結論だった。後はとどめを刺すだけだ。

 角材を放り投げ、腰のサックに入れているナイフの柄に手を添えた。


 しかし、突然の騒ぎに診療所は騒然となっていた。奥の部屋にいた医師たちが駆けつけ、僕と男の間に割って入ってきた。

「何やってるんだ!」

 誰かが叫んだ。僕の前に立ちふさがった医師の向こうで、男は壁にもたれかかりながら獣のように呻いている。後頭部を押さえる手の隙間から血が止めどなく流れていく。一人の医師が男の怪我の様子を見ようとしたが、興奮した男に激しく突き飛ばされた。男の両目は真っ赤に充血し、怒りに支配されて我を見失っている。

「どけよ」

 行く手を遮る医師に僕は低く呟いた。氷のような僕の目は男を見据えている。

 僕は男に向かって告げた。

「カナは俺を裏切ったりしない」


 その時だった。女の悲鳴が響いた。診療所のドアを開けた女が叫んだのだ。それはカナだった。カナは両手を口に当て、目の前の惨状に愕然としていた。

「てめえか! てめえが連れてきたガキのせいで!」

 血だらけの男がカナに気付いた。都合の悪いことに、僕と男が争ったのは出入り口の前だったので、カナは男と鉢合わせになってしまった。瞬間的に背筋が凍りつく感覚に襲われた。

 男の右手がカナの首をつかんだ。そしてカナは勢いよくドアの横の壁に叩きつけられた。しかし男はカナを離しはしなかった。ぐったりしたカナを再び壁に叩きつけた。カナは後頭部を強く壁にぶつけてしまった。それでも男はカナを離さず、もう一度叩きつけようとした。しかし、僕はそれを許したりはしなかった。


 僕は目の前に立ちふさがっていた医師の腕の下をすり抜け、男の背後に立った。その時、僕の右手には腰のサックから引き抜いたナイフが逆手に握られていた。

 興奮した男の意識はカナに向けられていて、僕の気配には気付かない。背後から男の服の襟を左手でつかみ、右手に持ったナイフを男の右の首筋に突き刺した。僕には何のためらいもなかった。男の体は大きかったが、渾身の力でナイフを引き戻した。男の生命線はあっけなく断ち切られた。

 男の襟をつかんだまま、自分の体重を利用して硬直した男の巨体を引きずり倒した。ナイフに引き裂かれた首筋から大量の血液が噴き出したけれど、床に倒したからこれ以上はひどく飛び散ることもない。僕は冷静に計算していた。


 ただ、気になるものを僕は見ていた。

 倒れていく男から飛び出した血しぶきの向こうで、カナの表情が青ざめていた。その目は確かに怯えていた。どうしてだろう。疑問に思った。

「なんで──」

 立ち尽くしているカナが絞り出すように声を発した。

「なんでこんなことするの!?」

「こいつ、カナの悪口を言ったんだ」

 倒れた男の傍らでカナにそう言った。なぜそう言ったのか、自分でもよくわからない。僕の言葉はどこか言い訳じみていた。

「でも、もう大丈夫だよ」

 そう言ったけれど、カナと僕の心の温度差に気付いてもいた。この男は、カナが僕たちを捨ててどこかに行ってしまうって言ったんだ。僕たちにもう食べ物をくれないって言ったんだ。だからこうするしかなかった。それは当たり前のことだろう?

 それをカナにどう伝えたらいいかわからなくて、ただそこに立ち尽くしていた。


 カナはショックでその場にしゃがみ込み、周りの医師たちは慌ただしく男の手当てを始めた。僕はその場を押しのけられ、よろめくように壁に寄り掛かった。

 男に対する介抱は意味のないものだった。僕の攻撃は的を射ている。こんな男の一人くらい、一瞬で殺すことができるんだ。

 でも僕の心に湧き上がってきたこの大きな不安は何なんだろう。今の僕はカナを直視することができなかった。カナに拒絶されてしまいそうで、それが僕の心をひどく押し潰そうとしていた。


 駆けつけてきたヴァレリーがカナの肩を抱き締めた。彼女はカナを立たせて、その場を立ち去ろうとした。思わずカナに声をかけた。

「カナ! 俺たちを見捨てたりしないよね!?」

 でも僕の声は騒然としている医師たちの声にかき消されてしまって、力なく去っていくカナに届いたかどうかはわからなかった。



*          *



 人を殺すということは、僕にとって生きていく上での選択でしかなかった。大切な人を守るために誰かの命を奪う時、命の重さをちゃんと秤にかけてきた。それは僕の保身のためであってもそうだった。バドゥルやアイシャにとって僕は唯一の拠り所だから、自分を守ることも必要だった。

 でも、血の気が引いたカナの表情は何を物語っていたのだろう。僕たちとカナにとって、あの男は絶対にいらない人間だった。殺してしまえば余計な心配はなくなるはずだった。なのに、どうしてだろう。不安で仕方がないんだ。


 黒光りする鉄格子を力任せに揺すった。

「おい! ここから出せよ!」

 ここはセルジュークの警察の拘置所だ。といっても警察官はいない。反政府軍が反抗的な住民を隔離するために使っている。僕が閉じ込められた牢には他に三人の大人たちが入れられていた。

「静かにしろ!」

 牢の外にいる兵士が銃を僕に向けながら声を荒げた。これ以上騒ぐのは意味がないと、諦めるしかなかった。僕のナイフは取り上げられていた。

 やがて、同じ牢に入れられていた三人の男たちが兵士によって外に出された。男たちの表情はひどくこわばっていた。彼らがこれからどうなるのかは、僕には皆目わからなかった。それより、ここは太陽の光が入らないから、今が昼なのか夜なのかもわからなかった。

 渇きと飢えに喘いでいた。牢に入れられてから、数回だけ僅かなパンと水が与えられた。光のない、悪臭がする密室に横たわり、息だけをしていた。アイシャとバドゥルのことが心配でたまらないけれど、今自分が生きているのかさえもわからないんだ。


 ふと、何か棒のような物が僕の肩をつついているのを感じた。朦朧とした意識の底で、夢なのか現実なのかすぐにはわからなかったけれど、薄く瞼を開けた僕の瞳は、確かに二人の姿を捉えた。

「気が付いたみたいだよ」

「起きて。ねえ、起きて」

 無邪気に僕を呼ぶ声が聞こえる。棒で僕をつついていたのはバドゥルだった。目を開けた僕を見て、アイシャは満面の笑顔になっていた。

「ターリック、逃げようよ」

 ようやく事態を理解した。閉じ込められた僕を二人が助けに来たんだ。体に力を込めて起き上がった。

「これ、どうすれば開けられるの?」

「あの机の上に鍵がある。取ってこれるか?」

 僕はバドゥルの問いに答えたが、思った以上に僕の声はかすれていた。牢には弱った僕しかいないからか、監視の兵士はいないようだった。だからこの二人はうまい具合に入ってこられたのか。

 バドゥルが鍵を持ってきて、錠前を外そうとしているが、固くてなかなか開かないようだ。しばらく格闘した後、ようやく鍵が開いた。僕は何とか牢から出ることができた。取り上げられていた僕のナイフをバドゥルは持ってきていた。バドゥルは本当によく気が利く。

 建物の外は漆黒の闇だった。二人はこの闇に紛れて僕を助けに来た。この壊れかけた警察の建物の周辺には人気がない。涼しい夜の風が僕たちを後押しした。


「カナに会いに行こう。今すぐ難民キャンプに連れて行ってもらうんだ」

 僕にはもうそれしかなかった。ここにはいられない。今すぐに連れて行ってもらえないなら、僕たちはこのセルジュークを出て、砂漠のどこかで生きていくしかない。

「だけど、カナの様子がおかしいんだよ」

 バドゥルが心配そうに言った。

「どんなふうに?」

「俺たちを避けてるみたいなんだ」

 不意にあの時のカナの表情を思い出した。大男の首から飛び散る血しぶきの向こうで、カナの眼は凍りついていた。あの時に何かが変わってしまったのか。僕の不安はそこにあった。

「とにかく、会いに行こう」


 今夜は、月も星もその姿を隠している。夜空までもよそよそしい。しんと静まり返った瓦礫の街は、夜にそびえ立つ不気味な城郭のようだ。路地を歩く僕たちの上に、今にも建物がのしかかってきそうな気がする。

 僕は途中の水飲み場でようやく渇きを癒した。まだ深夜とは言えない時間らしく、あちらこちらの建物の窓に灯りが点いている。時折り道を歩く兵士たちの姿を見かける。僕たちはその度に姿を隠した。集会所の窓から中を覗きこんだ。壁の時計は夜の11時を指している。

 広場の方から騒々しい音が聞こえていた。たくさんの車の音がする。こんな時間にどうしたんだろうと思ったが、僕には関係ない。カナの元へと急いだ。


 やがて僕たちは建物に着いた。僕たちがあてがわれた部屋の隣がカナの部屋だ。薄暗い廊下を抜け、カナの部屋の前に来た。この前の事を思い出して少しためらったが、それよりも僕にはカナの助けがいる。閉ざされたドアをノックした。

 しかし何の応答もなかった。少しの間を置き、再びノックした。

「留守かな?」

 不安気なバドゥルの言葉をよそに、ドア越しに声をかけた。

「カナ、いないのか?」

 それでも応答はなかった。ドアノブに手をかけ、ドアを開けてみた。鍵はかかっていなかった。


 部屋はもぬけの殻だった。ベッドが綺麗に整えられている。まるで誰もここにはいなかったかのようだ。ここにはカナのバッグが置いてあったはずだけど、それもなかった。どういうことだ?

「カナを最後に見たのはいつだ?」

 僕の問いにバドゥルが答えた。

「今日も見たよ。診療所にいたよ」

「じゃあ、どこに行ったんだ?」

 背後からアイシャの慌てた声が聞こえた。

「ねえ! あたしたちの部屋のドアに手紙が挟んであったよ!」

 アイシャが僕たちの部屋から慌てて戻ってきた。

「カナからか?」

「たぶん!」

 カナはよほど急いでいたのか、手近にあった紙に走り書きを残したようだ。


 手紙には短く、こう書いてあった。

『ごめんなさい。君たちを連れていけない』


「どういうことだよ!」

 あまりの事に思わず叫んだ。それはカナに対する怒りだった。

「俺たちを置いていくのかよ!」

 僕に殺されたあの大男が言ったことは本当だった。カナは僕を裏切ったんだ。こんな思いをするくらいなら、カナのことなんて信じたりしなければよかった。結局カナも他の大人たちと一緒なんだ。僕たちを騙したんだ。


「カナ、どこかに行っちゃったの?」

 アイシャが心配そうに聞いてきた。なんて答えたらいいかわからなかった。

「ねえ、カナを探そうよ」

「いいよ、もう」

 僕は投げやりに答えた。

「カナに会いたいよ」

 僕を見上げるアイシャの両目から涙が溢れそうになっていた。僕は戸惑った。

「もしかしたら」

 バドゥルが思いついたように口をはさんだ。

「広場に車がたくさん集まってたよね。これからどこかに行きそうな感じだったよ。そこにカナもいるんじゃないかな」

 確かにここに来る途中、広場は騒然としていた。こんな夜更けにいつもとは違う雰囲気だった。

「わかった。行ってみよう」

 二人は大きく頷いた。


 僕にはカナの気持ちがわからなかった。ただ一つ言えることは、カナが僕を裏切ったということだけだ。決してそれを許すことはできない。


 広場には十台くらいの車がいた。そのどれもがエンジンをかけていて、今にも出発しそうな雰囲気だった。そのうちの一台はリアガラスが壊れた白い車だった。その車体には、黒文字で作られた円の中に赤い十文字が描かれたマークがある。他の車のヘッドライトの灯りが赤十字を鮮やかに映し出している。

 月も星もない夜の底で、僕が救いを求めたその白い車は今にもどこかに行ってしまいそうだった。


 そして僕はカナを見つけた。


 白い車の閉じられた窓ガラスの奥に、カナの横顔を見つけた。暗くて見にくかったけれど、それは確かにカナだった。

 アイシャもカナを見つけた。アイシャは制止するバドゥルの手を振り切って、白い車に駆け寄った。そして、そのドアを叩きながら叫んだ。

「カナ! カナ!」

 だけどアイシャは小さくて、この大きい車のドアの下にしか届かない。車内にいるカナからは見えるはずもない。それでもアイシャはカナを呼び続け、車を叩いた。

「カナ! 置いてかないで!」


 その時、身震いしていたはずのエンジン音が一瞬消えたような気がした。車の後部座席の窓ガラスが下がり、驚いた表情のカナが窓から身を乗り出した。

「アイシャ!」

 カナの声は震えていた。

「カナ、どこ行くの?」

 それはアイシャの精一杯の問いかけだった。

「ごめんね」

「あたしたちを置いてっちゃうの!?」

 アイシャの必死の問いかけにカナは言葉を失くした。うろたえて目を泳がせたカナの視線が僕を見つけた。僕はじっとカナを見つめていた。僕の目の色に、カナはきっとこの感情を見てとったに違いない。僕の心に渦巻くもの、それは裏切りに対する怒りと諦め、そして心からの軽蔑だった。


 カナは振り絞るように僕に向かって叫んだ。

「ごめんね! 私、君たちを連れていけない」

 今の僕にとって、そんなことはもうどうでもよかった。何も期待しない。それより、カナを信じてしまった自分が情けなく、馬鹿馬鹿しかった。

「私、なんとかしてルトバ・キャンプに行くから! 必ず行くから! だから君たちもルトバを目指して!」

 しかし、カナの叫びは車たちの咆哮にかき消された。車列が動き出し、やがてカナが乗っている白い車も前の車に続いていった。カナの叫びは夜の中に消えて行った。その声はもう聞こえない。彼女の言葉はもう届かない。


 その場にうずくまって泣きじゃくるアイシャの肩をバドゥルが抱きかかえた。僕は車列が走り去っていった闇をただ見つめていた。


 不意に右隣に人の気配を感じた。それはサーリムだった。老医師は僕に並んで立ち、同じように暗い闇を眺めていた。彼は静かに僕に語りかけてきた。

「カナたちは人質なんだ。しかしようやく解放される」

 サーリムのほうを振り向くこともなく、僕は黙って彼の言葉を聞いていた。

「彼女たちがどこに連れて行かれるのかはわからない。拉致されて人質になった身だから、解放された後は普通なら自分の国に帰るだろう。だが、カナは国には帰らないらしい。何としても元々の目的地だったルトバ・キャンプに行くと言っている。それがどういうことかわかるか?」

 サーリムは僕の心を見透かすように言葉を続けた。

「お前は裏切られたんじゃない」

 そう言って僕のことをじっと見つめた。

「ルトバを目指せ。カナがお前たちを待っている」


 僕はサーリムの言葉を黙って聞いていた。でもその言葉を受け入れたわけじゃない。去っていくカナに対する怒りが僕の心を支配している。僕たちを置き去りにしたカナは大嘘つきだ。信じた僕が馬鹿だった。


 でも、抑えきれない感情が滲み出てきているのも感じていた。カナを追えば、僕が生まれた国にいつか帰ることができるかもしれない。この二人を連れて、僕は帰りたい。記憶なんてないけど、心を焦がす郷愁が僕のことを呼んでいるんだ。


 老人の大きな手が僕の肩を抱いた。僕は拳を強く握り締めた。

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