第9章 ランタンの炎が揺れている
僕は満月のあまりの明るさが気になっていた。
最近、ろくに食べていない。食料は残り少なく、僕たちが住んでいる地域をどんなに探しても食べ物がないんだ。でも今は空腹のことよりも、月の明るさが気になる。
軍隊がこの街に入ってきてからもうすぐ一週間くらいになる。僕は白い車を探そうと思っていた。白い車は赤十字の物で、その車が難民キャンプに行くはずだ。なんとかその車を見つけ出して、僕たち三人を乗せてもらおうと思っていた。
老人イブラヒムは教えてくれた。そこに行けば僕たち三人は救われる。それがどこにあるかは知らないけれど、僕の拙い知恵はそこを目指せと言っている。そこが何であろうとも、僕たちにとって救いの地なんだ。
月は東に出ている。建物の陰を選びながら足早に歩いていた。人の姿はない。兵士たちの姿も見えない。昼間と違って空気はひんやりとしている。暑い大気の中を舞っていたはずの砂のかけらも、夜の空気の冷たさに凍えて地面に落ちている。
アイシャとバドゥルを小屋に残して、僕は軍隊がいる広場に向かっていた。軍隊がセルジュークにやってきた日、あの広場に確かに白い車が来ていた。僕は白い車に描かれた赤十字を知っていた。望みはあの車にある。
夜空を見上げると雲の白さまでわかる。満月に照らされた雲は、夜の闇に隠れることさえできない。道は広場までずっと続いている。
やがて、セルジュークの中心街を囲む街道に出た。そこには作りかけのバリケードがあった。慎重に左右を見回した。軍隊はこの街をバリケードで囲ってしまうつもりなんだろうか。ほんの数日前にスークの方から逃げてきたときはこんな物はなかった。じきに中心部に入れなくなりそうだ。僕はバリケードの隙間をするりと抜けた。
しばらく行くと数台のジープが建物の前に停まっているのを見つけた。そこを避けて路地に入った。こんなに月が明るくなかったら、その建物に近づいて何か情報を仕入れたかったけど、さすがにこの明るさでは僕の姿を見られてしまうかもしれない。だから余計なことはしないで先に進むことにした。身を隠しながら、路地を影のように伝っていった。
広場に近付くにつれ、人の声が聞こえるようになってきた。道を何人もの兵士たちが歩いていく。緊張で顔がこわばってきているのを感じていた。もしも見つかったりしたらどうなるんだろう。捕まってしまうんだろうか。殺されてしまうんだろうか。
夜の空気に僕の感覚が研ぎ澄まされていく。目に映るもの、聞こえるもの、すべてに敏感になり、いつしか見えないものまで見えてくる。僕の視線は石の壁をすり抜けて、人の気配を察知する。
ようやく広場が見えてきた。でも、そこはあまりに危険に思えた。軍の車両が整然と並んでいる。この前見たときよりも軍隊は肥大化しているように見える。
広場を見渡すために、そこに面した建物の一つに忍び込むことにした。空襲で崩れかけている建物だ。静かにその建物に近付いた。
吹き飛んでしまったのか、建物の入り口の扉はなくなっていた。だから中に入るのは容易いことだった。一階の部屋の中は砂まみれだ。奥に二階へと続く階段があった。
二階に上ると、その天井は崩れ落ちてしまっていた。瓦礫が床に散乱し、床の一部は抜け落ちて一階まで繋がってしまっている。屋根が無くなっているから、見上げた僕の目には、天井ではなく夜空が映る。この建物の屋根を支えていた壁だけが、夜空に向かって切り立っている。尖った壁が艶やかな月に照らされている。
壁に窓枠が残されている。ガラスはない。石壁にしがみついたまま、木の枠だけが時の流れに取り残されている。僕はそっとその窓に近付いた。窓からは広場がよく見えた。街灯に灯りは全然点いていないけれど、広場全体がよく見渡せた。満月が僕に見せてくれた。
僕の目は白い車を探していた。ここに来ればきっと見つけられると思っていた。だけど、広場に白い車は見えなかった。夜だからというわけじゃない。満月はとても明るい。確かに白い車はなかった。
早々に建物を後にした。広場を中心に探して回るしかないと思った。幸いにも夜はこれからだし、夜が更けるにつれて、兵士たちの姿も減っていくだろう。
そして、広場から一本路地に入った所にそれはあった。
激しい空襲にさらされた割には、その建物の被害は少なかったようだ。辺りの建物に比べて原形をかなり留めている。古い石造りのしっかりした建物だ。その一階の窓には灯りが点いている。その建物の前にその車は停まっていた。
白い車体には、黒文字で作られた円の中に赤い十文字が描かれたマークがあった。このマークこそ、イブラヒムが見せてくれた新聞に載っていた写真と同じやつだ。嬉しくなった反面、身震いするほどの緊張感にも襲われていた。僕は探していた白い車を見つけたんだ。
その車は図体が大きい四輪駆動車だった。戦闘に巻き込まれたのか、車体に無数の銃痕がある。後ろのガラスは割れてしまったようで、シートが張り付けられている。
僕は慎重に辺りの気配を探った。壁際を伝って、その車に少しずつ近づいた。夜の闇がしんとしていて、僕の服の擦れる音がやたらと響いてしまう。
でもそれより、満月があまりに明るいのが気になっていた。壁から離れた僕を月が照らし、僕の影を作ってしまうんだ。もう一人の僕が黒い姿を現す。そいつが僕の意に反して道を歩いてしまうから、誰かに見つかってしまわないかと気が気じゃなかった。
やがてその白い車の元にやってきた。そして、さっと車の陰に身を隠した。車には誰も乗っていない。この時、ようやく気が付いた。白い車を見つけたけど、この後はどうしたらいいんだろう? 自分の浅はかさに戸惑うしかなかった。白い車じゃなくて、この車を持ってる人を探さないといけなかった。この車に僕たちを乗せてくれるように頼まないといけない。
僕は車の陰に身を潜めながら、この前見た光景を思い出していた。白い車の近くで、白い服を着た人たちが集められていた。彼らの服にも赤十字のマークが入っていた。だから、その人たちを探せばいいんだ。
でも見るからに彼らは捕虜だったように思える。ということは、彼らは牢屋に閉じ込められているかもしれない。それを僕が助けることができるのだろうか。それは自信がない。自問自答を繰り返しているうちに頭が混乱してきた。
僕は静かな夜の底で思案を繰り返していた。まずは白い服の彼らのことを調べる必要がある。この車の中に何か手掛かりはないだろうか。腰を上げ、車の中を覗いてみた。この車はタイヤが大きいし、車体も大きいので、少し背伸びをしなくてはならなかった。
車内は雑然としていた。何かが入っていたような小さなケースがたくさん落ちている。布やロープも散乱している。その他に地図や書類がシートに無造作に置かれている。その書類は赤十字の物だろうか。それを見てみたい。この車のドアは開くだろうか。そっとドアのノブに手をかけた。
その時、やっと気が付いた。なんでこんな夜に車の中がよく見えるんだろう。それは満月が明るいからだ。そんなのわかってる。だから僕は、この満月のあまりの明るさが気になってたんじゃないか。
そして次の瞬間、僕の心臓は凍りついた。
──夜の月は、確かにその女性を照らしていた。
女性が僕を見ている。愚かな僕の目は、はっきりと一人の女性の姿を捉えた。女性は白い服を着ている。月明かりがその白さを神々しく引き立てている。馴染みのない薄い顔つきだ。外国人だろうか。満月がその女性を照らしているように、きっと僕の姿も照らしていることだろう。
呼吸さえもできなくなっていた。見つかってしまった。僕は見つかってしまったんだ。なのに金縛りにあったかのように身動きできない。この瞬間、時計の秒針も止まっていることだろう。今夜の月に見つめられたら、時間さえも息を潜めてしまうだろう。
心臓がチクンと痛くなるのを感じた。心の底で激しい後悔が湧き上がってくる。なんて迂闊だったんだろう。僕が二人の元に帰れなかったらどうしよう。
その時、女性の手が動いた。僕のほうに手を伸ばした。それをきっかけに、僕の体が動いた。即座に身を翻して走り出した。その女性から逃げているのだろうか。それとも僕を照らし出す月の明かりから逃げているのだろうか。
やがて僕の息が切れ、闇の中で立ち止まった。恐る恐る後ろを振り返ってみたけれど、追いかけてくる人はいなかった。
いつの間にか夜空に薄雲が広がっていて、月さえも僕を追いかけてくることはなかった。
* *
あの女性は誰だったんだろう。
見つかってしまったことに焦って逃げ出してしまったけれど、あの女性は決して攻撃的な雰囲気ではなかった。そしてはっきりと覚えている。彼女は白い服を着ていた。その白い服には赤十字が描かれていた。もしかして、白い車の持ち主だったのだろうか? 何か僕に言おうとしてた? 逃げ出さないほうがよかったのだろうか?
そんなことをぐるぐる考えながら、木の枝を右手に持って、壊れかけた竈で燃えている火を弄んでいた。鍋の中の水はもうすぐ沸騰しそうだ。
バドゥルが僕に話しかけてきた。
「井戸の水は十分あったよ」
「使う人がいないからな」
「でも何だか濁ってたんで、上澄みだけを持ってきたんだ」
何で濁ってるんだろう。僕の不安がまた一つ増えてしまった。黙ってしまった僕にバドゥルは言った。
「明日、他の井戸も見に行ってみるよ」
顔色を見られたことに気が付いて思わず苦笑した。バドゥルは人のことをよく見ている。バドゥルは続けた。
「枯れ木はいくらでもあるよ」
竈で枯れ木がパチパチと音を立てて燃えている。沸騰したお湯にヨモギの束を入れた。お湯はぐらぐらと揺れながら、ヨモギを艶やかな色に染めていく。程良い頃を見極めて、鍋の中にヘビの皮を投げ入れた。これで多少の塩気が出る。僕たちはお互いを見ることもなく、鍋をじっと見つめたまま喋っていた。
「今まで行かなかった場所に、ヨモギがたくさん生えてたよ」
「ヨモギなんてよく知ってたな」
「村で教わったことがあるからね。探してみたんだ」
僕たちが育ったマラカンダ村のことを思い出した。流浪の民、クルドの大人たちは生き抜く知恵をたくさん持っていて、それを惜しげもなく教えてくれた。だから僕たちは食べられる草がどこに行けば見つかるかを知っている。砂漠地帯でも水場の近くを探せばヨモギを見つけることができる。
「いつまで煮ればいいんだ?」
「えっと、それはよくわからないけど──」
バドゥルの困った声に再び苦笑した。熱湯の中で踊るヨモギに狙いを定めて、右手でさっと取り上げた。
「あちっ」
ちょっと不用意だったが、ヨモギを一本取り出した。それを口に放り込んだ。なんだか煮過ぎてしまったようだ。こんなに煮てはいけなかったかもしれない。それに苦い。灰汁の味がする。
「まあ、こんなもんだな」
そう言って竈から鍋を下した。そして竈で燃えている枝の半分ほどを外に掻き出した。縁が欠けたお椀で鍋からお湯をすくい、掻き出した枝にかけた。ジャッと音がして火が消えた。このまま乾燥させて消し炭を作る。それが僕たちの次の火種になる。
「アイシャを起こしてやってくれ」
アイシャは僕が帰ってくるのを待ちきれず、夕食を取らないまま毛布にくるまって眠っていた。僕が広場まで行ってたから、僕たちの夕食はこんな真夜中になってしまった。
竈で燃える枯れ木の炎を灯り代わりにして、僕たちは三人で寄り添って煮過ぎたヨモギを食べた。ただの草の味だったけど、食べるには十分だった。
次の日の午後、僕たちはセルジュークの外の山に繋がる小高い丘でトゲオアガマを探していた。砂漠地帯では、食用にするのにちょうどいい大トカゲだ。貴重なタンパク源になる。この大トカゲのおかげで僕たちは何とか栄養のバランスを保てている。
トゲオアガマの巣穴を見つけたので、中から追い立てようと思ったときだった。アイシャが遠くを指差して、僕とバドゥルを呼んでいた。アイシャは丘の麓に広がる街並みのずっと先を指差していた。彼女の指先の遥か遠い街なかで何度も煙が上がるのが見えた。街の西にある大きなモスクの辺りだろうか。
あれは戦闘によるものだと、すぐにわかった。この街にやってきた軍隊が誰かと戦っているのだと思った。
僕たち三人は呆然と立ち尽くしたまま、その光景を見ていた。
* *
次の日の夜、僕は再び広場の近くにやってきた。
あの女性を探し出して話をしてみようと思った。あの夜、彼女は外にいたってことは捕虜じゃないのかもしれない。赤十字の服を着ていたし、頼めば僕たちを白い車に乗せてくれるかもしれない。
今夜の月は薄雲に隠されてぼんやりとしている。闇に紛れてあの夜の建物の近くに辿り着いた。道を隔てた向かいの建物の陰に隠れて様子を伺った。あの時あった白い車は今夜はなかった。その代わり、カーキ色や迷彩色の車やトラックが何台も停められていた。建物に近い一台のジープの陰に走り込んだ。しかし、そこを隠れ場所に選んだことを僕はすぐに後悔することになる。
その建物の一階には灯りが点いていて、たくさんの人影が見えた。やがて二人の男が建物から出てきた。一人は軍人で、もう一人は白衣を着た老人だった。老人は医師のようだ。
彼らは僕が隠れているジープの前に来た。軍人がポケットから煙草を取り出して口にくわえた。右手に持ったオイルライターを着火させ、煙草に火を付けた。
ジープの反対側で身を隠していることはかなり危険だ。建物の灯りがジープに遮られているので僕は照らされてはいないが、慎重に気配を消さなくてはいけない。
肝心なのは脈拍を落とすことだ。極限の緊張の中で自分をコントロールする。小さく深呼吸しながら薄く目を閉じた。そっと息を潜める。そして闇に同化する。
男たちの話し声が聞こえた。
「人質交渉に応じるってのは本当かね?」
しわがれた老人の声だ。
「ああ、始めから決まっていたことだ」
「彼らは本当によくやってくれている。診療所作りもそうだが、昨日も彼らなくしては我々の手には負えなかった。それは君もわかるだろう、トーヒッド中尉」
「そうだな。特に昨日ベッドの調達に行っていなかったら、負傷した住民を床に寝かせるしかなかったな。工兵の責任者である自分としては立場的に助かった」
「私としては彼らにまだいてほしいが、彼らが望んでここに来たわけじゃないからな。私は諦めなくてはならないな」
「上の話では、人質交渉はICRCとの問題だけではなく、NATOの動きを牽制する意味もあるようだ」
「この内戦は我々の国の問題だからな。それは私も同感だ。内政干渉は受け入れ難い。ところで、アタウッラー・モスクの住民たちはどうなったのかね?」
「三百人近くもいて我々の施設には収容しきれない。今はモスクと数か所の建物で軟禁している。早めに収容所を増設して、軍の労役に就かせることになるだろうな」
「他にも住民は見つかりそうか?」
「歩兵中隊からの報告では、今のところ住民は見つかっていないが、西部地区だけでもあれだけの数の住民がいたからな。他にもいる可能性は高いだろう」
住民? 思わず耳を疑った。空襲の後、みんなこの街を捨ててどこかに行ってしまったのだと思っていた。確かにそれは間違いではないと思うけど、この街に残っていた住民もたくさんいたのか。僕の行動半径だけで言う分には、セルジュークは確かに無人の街だった。アタウッラー・モスクって言ってたけど、あのモスクがあるのは僕があまり行かない西の地域だ。そこにはたくさんの住民が残っていたのか。じゃあ、他の地域にもいるのだろう。
ちょっとの安心を覚えるのと同時に、無人だと思って自由に街を闊歩していたことの危うさを自戒した。
「ISIから医薬品を都合してほしいと要請があった。これがリストだ」
紙を捲る音が聞こえた。しばらくして老医師がため息交じりに言った。
「これは困るな。我々だって医薬品は不足しているんだ。ISIのために何でここまでしなくてはならんのだ。私は反対だ」
「そうは言ってもな。ISIと組むと上が決めたんだ。我々はそれに従うだけだ」
「ISIはもう近くまで来ているのか?」
「この街の北八キロにある山に来ている」
「森があるあの山か」
「ああ。そこにはマラカンダという小規模なクルド人武装組織の拠点があったんだがな、一年半ほど前に政府軍によって焼き払われて壊滅したんだ。だが、我々はセルジュークの占領と同時にその村も政府軍から奪った。で、二週間前にそこへISIの先鋭隊を迎え入れた」
マラカンダという言葉を聞いて、急に鼓動が激しくなった。僕の村だ。僕の大切な村は奪われて、もう帰ることができない。
「マラカンダか、聞いたことがある。確かジャッシム師というイスラーム法学者が率いていたゲリラ部隊だったな。彼らは極端な原理主義で好戦的だったから、私は全く賛同できなかったがな。それでも、残虐なISIよりはましだった」
ジャッシムは僕に名前を与えてくれた父だ。僕の名前には、幾つもの朝を迎えられるよう願いが込められている。僕は思わず唇を噛んだ。
「サーリム、あまり危険なことを言うな。我々はあなたを尊敬しているから、何を言ってもそれを咎めたりはしないが、ISIの耳に入ったら、そうもいかなくなる。どうか気を付けてくれ」
「ふむ。戦争をしている以上、我々もISIと何ら変わりない」
男たちはやがて建物に戻っていった。戻りながら老医師が「ミサイルは──」と話を続けていたが、それ以上は聞こえなかった。
建物の中を見てみたい。僕はそう思って、辺りの様子を慎重に伺いながら、車の陰を離れた。そして建物に近付いて窓の下の壁に屈んで張りついた。
僕はゆっくりと体を上げていき、窓からそっと中を覗いた。部屋の中には幾つものベッドが所狭しに置かれ、どのベッドの上にも包帯でぐるぐる巻きにされた患者たちがいた。どうやらここは診療所のようだ。
そして、僕は見つけた。
数人の看護師が患者たちの世話をしている。その中の一人、それは確かに僕が出会ったあの女性だ。この前の白い上着は着ていないけれど、彼女の顔をはっきり覚えている。彼女はきっとこの国の人じゃない。だって顔つきが全然違う。何と言うか、薄くて白い顔なんだ。
そう考えた僕の心はひどくざわついた。僕はいつも人種が違うって言われてきた。クルド人に比べて僕の顔は彫りが深くないし、肌の色が薄い。
彼女はそんな僕に近いんじゃないかと思えた。彼女の顔をもっと近くで見てみたい。慌てて自分の顔を思い出そうとしてみた。でもこんな時に限って、自分の記憶の中の自分の顔があやふやになる。
彼女は一体誰なんだろう。その正体を知りたい。
彼女に近付く方法はないだろうか。いろいろ思案したが、何も思いつかない。ただ、この窓にいつまでもへばりついていてはいけないことだけはわかっていた。いったん向かいの建物の陰に移ることにした。そしてこの建物への出入りを見張って、彼女が一人になるタイミングを待とうと思った。
幸運なことに、僕の見張りは一時間程度で終わることになった。建物のドアが開いてあの女性が出てきた。今度はこの前見た白い上着を着ている。赤十字のマークが左胸に付いている。間違いない。
彼女はドアの所でいったん立ち止まり、建物の中に向かって何か喋り始めた。そのとき彼女の背中が見えたが、その背にも大きな赤十字が描かれていた。
彼女が話しかけていたのは体の大きな女性だった。その女性は肌の色が黒い。クルド人やイラク人とは全然違う色だ。きっと黒人なんだと思うけど、僕は本物の黒人を見たことがなかった。話に聞いたことがあるだけだが、きっとそうなんだろう。この二人はどちらも外国人のようだ。
ひとしきり話した後、彼女は夜道を歩き始めた。見つからないように彼女の後をつけることにした。話しかけるタイミングを探っていた。今夜は月が薄雲に隠されているから、闇に紛れることができる。少し冷えた風が路地を吹き抜けていく。
しかし、彼女はほんの一区画歩いただけだった。砲撃で穴だらけになっている二階建ての建物の前で立ち止まった。彼女はここを住処にしているのだろうか。彼女はドアを開け、中に入っていった。
すかさず建物の裏に回り、侵入口を探した。裏側に小さなドアがあった。ドアに手をかけると、うまいことに鍵はかかっていなかった。というより、ドア自体、空襲の衝撃で歪んでしまって、きちんと閉まらなくなっているようだ。思いがけず容易く侵入することができた。
建物の中は薄暗かった。僕が侵入したこの建物は元々小さな宿だったようだ。狭い廊下に部屋が幾つか並んでいる。向こうの方から足音が聞こえる。彼女の足音だ。廊下の曲がり角に潜み、様子を伺った。
彼女は中ほどの部屋の前で立ち止まり、ポケットの中から鍵を出した。部屋ごとに鍵がかかっているようだ。彼女はドアの鍵を開け、部屋の中に入った。そこが彼女の部屋のようだ。
ところが、そのドアは再びすぐに開かれた。彼女は部屋から出て、元の方向に廊下を歩いて行った。
彼女が廊下を曲がったのを見届けた後、足音を忍ばせて彼女の部屋のドアに近付いた。ドアはきちんとは閉められていない。おそらく何かの用事でいったん部屋から出たようだ。静かにドアを開けて、部屋の中にするりと侵入した。
部屋の中は暗かった。簡素なシングルベッドが一つ置かれているだけだ。しかし、窓は背丈ほどある。窓の外は中庭に面しているが、中庭の灯りは何一つ点いていないので、窓から光が差し込むことはない。
床までだらりと下がっている古ぼけたカーテンに身を隠すことにした。窓の外の暗闇が僕の陰を消してくれる。カーテンに隠れた僕は腰のサックからナイフを取り出した。右手にナイフを持ち、心を落ち着かせた。
やがて廊下を歩く足音が聞こえてきた。音の軽さとペースの速さで、足音の主の体格がわかる。彼女の足音だ。それはドアの前で止まった。
ドアが開き、彼女が部屋に入ってきた。バタンという音を立てて、ドアが閉められた。カチャカチャと音がする。彼女は何か金属製の物を取りに行っていたようだ。
彼女はベッドに腰を掛けて、フウッと軽くため息をついた。僕と彼女はさほど離れていない。閉ざされたこの部屋に、僕と彼女がいる。僕の手のひらにはナイフが握られている。僕はカーテンに隠れているから、部屋の様子を見ることはできない。でも研ぎ澄まされた感覚で気配を探る。僕には部屋の様子が手に取るようにわかる。彼女は動かない。じっとしている。
おそらく一、二分しか経っていないだろうけど、何十分にも感じられた。ようやく部屋の空気が動いた。彼女はベッドから腰を上げ、床に金属製の物を置いた。カシャンという音がした。マッチを擦る音がして、オイルが焼ける匂いがした。彼女はオイルランタンに火を灯したようだ。
カーテンの向こうが少しだけ明るくなった。カーテンの隙間を通して、ランタンに照らされた彼女の姿が窓ガラスに映っていることに気付いた。図らずも、カーテンに隠れたまま彼女の姿を観察することができるようになった。僕は窓ガラスの中の彼女を見つめた。
彼女は壁際にある木箱の上にランタンを置いた。仄かな光が彼女を照らしている。砂漠の夜の冷たさに手が凍えたのか、彼女は少しの間、燃えるランタンに両手をかざしていた。その暖かさに、彼女の頬が火照っていく。僕は窓ガラスに映る彼女を見つめ続けた。
彼女は髪を束ねていた紐を外した。彼女の髪が肩にかかる。彼女は目を伏せたまま、両手の指で髪を梳いた。そして、ベッドの上に置いてあった服を自分の元に手繰り寄せた。
彼女は白い上着を脱いだ。その下には少し汚れたシャツを着ていた。彼女はその汚れを幾らか気にする素振りをしたが、この部屋を見る限り、替えの服はあまりなさそうだ。彼女はボタンを外し、静かにシャツを脱いだ。
夜の砂風が窓ガラスを軽く叩く。カタカタと音が鳴る。僕は息を潜めている。自分の存在を彼女に知らせるきっかけを失ってしまっていることに動揺していた。ただそこには、ランタンの炎に照らされた彼女の白い肌があった。
言葉のない静かな夜だ。炎のゆらめきだけが時をゆっくりと刻んでいる。窓ガラスに映る彼女の美しい裸体に、僕は見とれていた。
──不意に、足元に風が吹いた。
それは彼女が脱いだシャツを落としたからだった。床に落ちたシャツの袖先が僕の足元に風を起こしたんだ。
彼女は屈んでそれを拾おうとした。僕はカーテンの下から僅かながら出てしまっていた自分の足先に気付いた。その迂闊さを後悔したが、彼女が僕の足先を見たことを瞬間的に悟った。
その時、僕の心は扉が閉まったかのように冷静になった。カーテンの裏から滑るように抜け出した。彼女は慌てて立ち上がったけれど、僕はすでに彼女の背後に回っていた。
瞬時に僕の左腕は彼女の首に巻きつき、右手のナイフはその喉元にあてがわれていた。彼女は突然のことに驚愕し、激しく息を吸い込んでしまった。あまりのショックに叫び声さえ出なかった。体は硬直し、小刻みに震えていた。
彼女の手から、拾い上げたはずのシャツが滑り落ちた。僕と同じくらいの背丈の彼女の肌がそこにあった。
彼女は言葉を失っていた。しかし、どうしたことだろう。凍りついたはずの彼女の表情がみるみるうちに生気を取り戻していくのがわかる。
彼女はまっすぐ前を見ていた。視線の先には窓ガラスに映った二人の姿があった。僕が姿を現したときにカーテンが捲れて、窓ガラスが露わになっていた。
彼女は窓ガラスに映った僕を見ていた。僕も窓ガラスの彼女を見ていた。この時はっきりと確信した。彼女は僕と同じ人種だ。クルド人じゃない。イラク人でもない。窓ガラスに映った二人の顔は他の誰とも違う。生まれて初めて自分と同じ種類の人間を見つけた。
触れ合う彼女の柔らかな肌からじんわりと体温が伝わってくる。仄かな明かりの中で、彼女の静かな息遣いだけが聞こえる。この落ち着きは何を物語っているのだろう。息をするように、ランタンの炎が揺れている。
僕は窓ガラスの彼女に問いかけた。
「あんたは、誰だ?」
彼女は前を向いたまま、答えた。
「私は、君が誰だか知っている」
きっと、その時の僕の表情は驚きに満ちていたことだろう。僕のことを知っている? 僕が誰だか知っている? そんな答は予想もしていなかった。
僕は空から墜ちてきたと聞かされていた。僕は自分が誰だか知らない。僕が誰なのか、ずっと教えて欲しかった。
僕の両手から力が抜けていった。全然力が入らなかった。誰なんだ、この人は。なんで僕のことを知ってるんだ? 僕は誰なんだ? 愕然としたまま立ち尽くしてしまった。
彼女は首に絡みついた僕の腕を振りほどき、僕に向かい合った。そして僕の両方の腕を両手でつかんだ。
「君に会いたかったの」
彼女はそういって、僕を抱き寄せた。僕は少しも抵抗しなかった。その柔らかい肌の温もりに身を委ねた。何だろう、この感覚は。遥か遠くに置き去りにした母親の記憶? 彼女の肌が僕の心に呼びかける。
「君に見せたい物がある」
彼女はそう言うと、両手を伸ばして僕の体を遠ざけた。
「でも、ちょっと待ってて」
その瞳は微笑んでいた。
彼女は僕に背を向けた。僕は目を逸らし、その背中を見ることはなかった。彼女は窓際に行き、捲れていたカーテンを閉めた。
そして服を着ると、僕をベッドに座らせた。そして部屋の隅に置かれたバッグから手帳を取り出した。彼女はなんだか嬉しそうだった。
僕の隣に座り、手帳を開いた。そこには二枚の写真があった。そのうちの一枚を僕に手渡した。彼女はランタンを手に取り、写真に光が当たるようにした。
「これ、誰だかわかる?」
黙っている僕に、彼女は悪戯な微笑を浮かべた。
「君だよ」
その言葉に息を飲んだ。僕の手は微かに震えていた。これが僕? 写真には一人の幼い少年が写っている。少年は松葉杖をついていて、体中のあちこちに包帯が巻かれている。そして右の上腕部には大きな火傷の痕がある。
そうだ。火傷の痕だ。僕はそれを知っている。思わず自分の右腕をさすった。
「ねえ、右腕を見せてくれる?」
「どうして?」
「君が君であることを確かめたいの」
彼女は僕の腕をつかんで袖を捲ろうとした。反射的に左手で彼女の手を押さえた。
「見せて」
彼女の眼は真剣だった。僕は黙ったまま、手の力を緩めた。彼女は僕の袖を捲りあげた。そして僕の上腕部が露わになった。
ランタンの光が僕の記憶を照らす。火傷の痕は、幼かった頃から僕の右の上腕部にある。火傷を負う以前の記憶が僕にはない。僕はこの火傷の痕と共に生きてきた。
「これが証拠」
彼女はそう言ったけれど、僕に言ったのではなくて、自分自身に話しかけたように思えた。
「君の名前はユウ──」
僕の眼をまっすぐに見つめながら言った。静かな夜に彼女の言葉が響く。それは僕の心に深く染み込む。それが僕の名前なのか。
「君は、ユウ・フェアフィールド」
違う、僕の名前はターリックだ。でもその想いは僕の口には出なかった。ただ黙って彼女を見つめていた。
「君は日本で生まれたの」
「ニホン?」
「そう。日本の沖縄で君は生まれた」
彼女の言葉をどう受け止めていいのかわからなかった。ニホンとかオキナワとか言われても、そんな名前は知らない。
「君は私と同じ国の人よ」
自分がクルド人じゃないことはわかっていた。そして今、目の前にいるのが僕と同じ国の人なのか。
「君のお父さんはイギリス人だけど日本人の血が流れてるみたいね。お母さんは日本人。沖縄の人よ。君はイギリスと日本の二つの国の国籍を持ってる」
自分のことを知りたくてこの女性に会いに来たわけじゃない。突然のことに動揺を抑えきれなかった。彼女は一体誰なんだ?
「あんたは──」
彼女の瞳に問いかけた。
「あんたは誰だ?」
その質問に答えていなかったことを思い出したのか、彼女は苦笑した。
「私? 私はカナ、北沢カナ。君と同じ日本人よ」
女性はカナと名乗った。
「あんたは赤十字の人なのか?」
「そうよ。赤十字を知ってるの?」
「知り合いに聞いたことがある」
「でも今は捕まっちゃってるの」
カナは他人事のように笑った。
「難民キャンプってどこにあるんだ?」
「難民キャンプのことも知ってるのね。私はそこに行く途中だったの」
「本当か! よかった。俺の弟たちを連れて行ってほしいんだ」
「兄弟がいるの?」
カナは驚いていた。しかしすぐに納得した表情をした。
「そうか、君には大切な兄弟がいるのね」
「特に一人はまだ小さいんだ。連れて行ってほしいんだ。そこに行けば食べ物があるんだろう? 住む所もあるんだろう?」
「そうよ。でも、連れて行ってあげたいけど──」
「俺があんたの店で働くから。だから弟たちを連れて行ってやってくれよ」
「店?」
「違うのか?」
僕の言葉はカナにとって予想外だったらしい。一瞬宙を見つめた後、カナは笑った。
「君、知ってるようで知らないのね」
僕は馬鹿にされたような気分になってカナを睨んだ。
「あ、ごめん、ごめん」
カナは慌てて僕をなだめた。
「赤十字はね、お店じゃないの。お医者さんや看護師さんや、いろんな技術を持ってる人たちがいて、世界のあちこちに病院や施設を作って、困っている人たちの治療や手助けをしているの」
それで合点がいった。カナがいた建物は確かに診療所だった。多くの怪我人がいた。
「難民キャンプでも医療活動をしているのよ」
「じゃあ、怪我や病気を治してくれるのか?」
「そう。それが私の役目」
「バドゥルは片目が見えないんだ。治してくれるのか?」
「バドゥル? 君の兄弟?」
「そうだ。弟だ」
「その子の片目が見えないのは昔からなの?」
「ずっと前に村が襲われたとき、なんかの破片で目が潰れたんだ」
カナは思わず絶句した。
「どうなんだ?」
「そ、それはかなり難しい話ね。でも、その子に会わせてくれる?」
「ああ、いいよ」
「他の兄弟のことも教えて」
「アイシャがいる。妹だ」
「君を入れて三人?」
「ああ」
「三人でずっと生きてきたの?」
「三人だから生きてこられたんだ」
砂風が窓をカタカタと鳴らす音がした。僕は急に不安になってきた。
二人を残してきた僕たちの小屋にも、以前イブラヒムにもらったランタンがあるけれど、その火を灯すためのオイルなんてない。火が絶えないように時々竈に枯れ木をくべて、灯り代わりにしている。きっと今頃はその火も消えて、バドゥルとアイシャは毛布にくるまって眠っていることだろう。
ああ、そういえば、僕が残してきた消し炭はうまく乾いてきているだろうか。
「俺、帰るよ」
二人のことが気になってきた僕は、ベッドから立ち上がった。
「ちょっと待って。私、君たちのことを迎えに行くから、住んでる場所を教えて」
「今の時間なら月の方向だ。月の下の大きなコトカケヤナギの隣だ」
「え?」
カナの驚きをよそに、足早に部屋を出た。建物の外に出ると走り出した。二人の元に早く帰りたかった。夜空には薄雲が広がっている。月も星も霞んでいる。
曲がり角で一瞬足を止めて後ろを振り返ると、いきなり飛び出した僕を追ってカナも建物の外に出ていた。しかし、カナは去っていく僕を追いかけるのではなく、夜空を見上げていた。薄雲に隠された月の位置を必死になって確かめている。
その姿を見て確信した。カナはきっと僕たちを迎えに来てくれる。そんなカナを信じようと思った。どうしてそう思えたのかは自分でもわからないけど、失くしてしまった僕のルーツをカナの中に見つけた気がした。
かすれそうな月明かりの下、僕は幼い二人の元へと走り出した。
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