第8章 月の夜

 どこかで私を呼んでいる声が聞こえた。


 カナ── 


 ああ、あの夜、歌ってくれた声だ。砂漠の街エデッサの夜を覚えている。この声をよく知っている。

 激しい銃の音、仲間たちの叫び、揺れる車、そして頭の痛み。

 私は静かに目を開けた。


「カナ!」

 目の前にいたのはヴァレリーだった。それがあまりに大きい声で、寝起きの私の耳にキンキン響いた。静かにしてよ、と私は文句を言った。しかしそれは私の頭の中だけで言葉になったようで、私の口は意思に反して動いていなかったようだ。

「よかった! もう起きないんじゃないかと思った」

 ヴァレリーは普段はこんなんじゃない。その体型と同じように、いつも大きくどっしりと構えている。そんなヴァレリーが少女のように喜んでいる。


 私は辺りを見回した。この部屋はどこだろう。全く見覚えがない部屋のベッドで寝ていた。頭がズキズキするので右手を頭にやると、包帯がぐるぐると巻かれている。あれ?と思って両手で顔を触ると、左の頬にはガーゼが当てられ、サージカルテープで顔に固定されている。そういえば頬にも痛みを感じる。怪我をして病院に運ばれたのかな、と推理した。

「あんた、自分が怪我をしたのを覚えてる?」

 私が自分の怪我に気付いたのを見て、ヴァレリーが微笑みながら言った。私は記憶を手繰り寄せ、少しずつ思い出してきた。

「爆発があった──」

「そう、あんたは吹き飛ばされたのよ」

 そうだ。エデッサのモーテルにグレネード弾が飛んできて、逃げ出した私はその爆発に巻き込まれたんだ。その時、地面に頭を叩きつけられた気がする。

「頬の怪我は車の窓ガラスの破片が刺さったのよ」

 私の記憶がスローモーションで蘇ってきた。あの時、ランドクルーザーのリアシートにもたれかかって後ろを見ていた。迷彩柄のジープが追いかけてきていた。何発も発砲があって、突然リアガラスが割れた。そこで意識を失ったようだ。

「そうだ! 私たちを襲った敵は?」

 自分たちを襲った脅威を思い出した。一体誰が私たちを襲ったのか。そして意識を失った後、自分たちがどうなったかも知りたい。それにここはどこだろう。

 ヴァレリーは私が寝ているベッドにどっかりと腰を下ろした。彼女の重い体重でベッドが軋んだ。

「反政府軍だよ」


 私たちを襲ったのは反政府軍だった。離反した陸軍と空軍の中枢の部隊であるため、その軍事力は政府軍に引けを取らないと言われている。兵器も豊富にロシアから流入しているようだ。

 急に不安がよぎった。

「じゃあ、もしかして私たちは──」

「そう、あたしたちは拉致されたんだ。医療物資も食料も、全部奪われた。あたしとケイはすでに強制的に医療活動をさせられている。あんたもこれから働かされるよ」

「ひどい。赤十字はすべての人に公平なのに。それを自分たちだけのために利用しようなんて」

「戦争なんてみんな自分たちだけの都合でやってるからね」

 ヴァレリーは呆れた表情で両手を広げた。

「いずれ人質交渉の材料としてあたしたちを使うんだろうけど、それまでは医療面であたしたち三人を利用するつもりなんだろうね」

「三人? シャルルは?」

 そう聞いた途端、私はすぐに彼の結末を思い出した。

「シャルルは」

 答えかけたヴァレリーの言葉を遮って私が続けた。

「撃ち殺されたのね」

「ああ、そうだ。車に乗り込む手前で撃たれた」

「なんてこと」

 

 ICRCの医療チームは四人だったが、フランス人医師シャルル・ラロッシュは殺され、イギリス人医師ケイ・ブレナン、アメリカ人医師ヴァレリー・ワトソン、そして日本人看護師の私、北沢カナの三人が生き残った。

 ICRCの他のメンバー五人、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のラシェッド、同行していたスイス兵、運転手やガイドたちの状況は全くわからないとヴァレリーは私に告げた。殺されたのか、逃げることができたのか、あるいは別の場所に連れて行かれたのか。戦闘地域を避け、遠回りしてでも比較的安全なルートを取ったはずなのに、戦場は何が起きるかわからない。


 ここはセルジュークという街だとヴァレリーは教えてくれた。私たちが進んでいた砂漠地帯の北東の外れにある街だ。ここはイラク政府軍の要所の一つだったが、今から二ヶ月前の四月に、反政府軍による激しい攻撃で占領されたと聞いた。三万人近くいた住民達の多くは北に向かい、シリアとの国境を目指した。そして私たちの目的地であるルトバには五千人近い住民が向かったらしい。その廃墟の街に私たちは連れてこられた。

「反政府軍はここを拠点にするつもりらしい」

「ここは何か都合がいいの?」

「ISIと手を組むらしいからね」


 イラク北部からシリアの国境一帯にかけて、イスラーム過激派組織「イラク・イスラーム国(ISI)」が実効支配する地域が増えている。彼らはイラクへのさらなる侵攻を虎視眈々と狙っていると言われていた。

 反政府軍は膠着する戦況を打開するため、ISIという禁断の果実に手を出そうとしているのだ。

 イラク侵攻の足掛かりとしてセルジュークでの駐屯は、ISIにとって非常に有益なものと思われた。セルジュークはバグダードまで三百キロの場所にある。ISIを迎え入れるために、反政府軍はセルジュークの要塞化に着手したのだ。


 そして、ヴァレリーは途轍もない物をここで見たと言った。

「自走ミサイル発射機が何台もいた。弾道ミサイル、スカッドだよ」

 彼女は真剣な目で言った。

「つまり、スカッドでどこかを狙うんだろうね」


 翌朝、ベッドから起きて身支度を始めた。やがて一人の兵士がやってきた。彼が喋るアラビア語は訛りが強くて、標準的なアラビア語でないとわからない私には聞き取りにくかった。でもどうやら診療所に来るように言っている。彼が向けている銃に逆らう気はなく、その指示に従った。


 広場から道を一本隔てた場所にある建物が、急ごしらえの診療所になっていた。この街は廃墟だったけれど、その建物はずいぶんましだった。建物の前には私たちが乗っていたランドクルーザーが停められていた。割られたリアガラスにはシートが張られている。車に取り付けられている赤十字の旗は、剥ぎ取られることなく砂風にはためいている。

 ケイとヴァレリーはすでにここに来ていた。二人の隣に白衣を着た男がいた。彼は年老いていたが、鋭い眼光をしていた。その目が私を捉えた。彼はゆっくりとしたアラビア語で私に話しかけた。

「君がカナだね。私はサーリムだ。医者をやってるイラク人だ」

 警戒していた私にとって、サーリムの静かでわかり易い言い回しは助けになった。

「はじめまして」

「看護師だそうだが、しばらく私の手伝いをしてくれないだろうか」

 無理やりここに連れてこられたのに、その裏腹な依頼に私は戸惑った。

「君たちへの無礼な扱いをすまないと思っている。しかし、私はただの医者に過ぎなくてね」

 イラク人医師サーリムは私に手を差し出した。

「ここに診療所を作りたいんだ」

 迷ったが、彼のまっすぐな眼差しに打たれ、私は手を握り返した。不安になってヴァレリーの顔を見たら、彼女は頷いた。横にいたケイが私の肩を軽く叩き、言った。

「今はやれることをやろう」


 不意に、ドアがバタンと強い音を立てて開かれた。外から一人の将校が入ってきた。診療所の中で銃を構えていた兵士が慌てて姿勢を正し、敬礼をした。

 将校は私たちを見るなり強い口調で何かをまくしたてた。早く仕事を始めろという意味のことを言ったようにも思えたが、早口過ぎて言葉をすぐには理解できなかった。呆然としていたら、彼は腰からピストルを抜き、私に近付いてきた。間近で銃口を私に向け、さらに何かを言った。私は恐怖で硬直した。

 そのとき、ピストルを持っている将校の腕をサーリムが押さえた。老医師は落ち着いた声で言った。

「私の前で人を殺すな」

 将校はじろりとサーリムを見た。しかし彼はそれを見返すことはしなかった。辺りを見回しながら手を数回叩いた。

「さあ、みんな、仕事を始めよう」

 将校は苦々しい表情で舌打ちをし、ピストルをしまった。


 この日から診療所を作る業務に就いた。この軍隊に医療器材はそれなりにあるが、十分とは言えなかった。さらに慢性的に医薬品が足りていない状況が続いていたようだ。また、医師や看護師も不足していて、私たちICRCを襲撃したのは政治的な意図だけではなく、必要に迫られていたことも理由だったようだ。

 だけど、奪われた赤十字の物資を見ると悔しさがこみ上げてくる。これはルトバ・キャンプの難民たちのための物なのに。私たちがこれを届けられないために、どれだけ多くの人々が苦しむのか。

 でもこれが現実だった。私は自分が生き長らえるのと引き換えに、難民を見殺しにするしかないのだろうか。


 私がこの作業を与えられてから五日目のことだ。暦はすでに七月に移っていた。今日も一日作業に明け暮れていた。私の頭と顔の傷はある程度癒えてきたけど、それでもジンジンとした痛みが続き、不快な暑さに全身を蝕まれていた。

 今日の作業はなかなか終わらず、すでに辺りは闇に覆われてしまった。私は診療所の灯りを点けた。反政府軍が街の電力を復旧させたので、夜の作業の効率も上がっていた。

 私は鏡の前に行き、左の頬を覆っているガーゼを外した。幸いなことに傷は浅く、刺さった直後にヴァレリーが適切な手当てをしてくれていたおかげで、傷跡は残らないで済みそうだ。胸を撫で下ろし、外したガーゼをゴミ箱に捨てた。

 それから小一時間作業を続けたが、やがて手を休め、重労働に悲鳴を上げ始めた腰を叩いた。気分転換のために少し外の空気に当たろうと思い、建物の外に出ることにした。暑い昼とは違って夜は冷えるので、愛用している赤十字の白いウインドブレーカーを手に取り、肩に羽織った。


 建物の前には私たちICRCのランドクルーザーが停めてある。でもキーは軍に取り上げられていて、私たちは乗ることはできない。割れたリアガラスはシートで覆われ、粘着テープで頑丈に止められている。白い車体には銃痕が幾つも残っている。傷だらけの赤十字のマークが痛々しい。それでも月明かりを浴びた白い車体は、力強く輝いて見える。私は大きく背伸びをした。そして空を見上げた。


 月は東に出ている。闇に閉ざされた世界でたった一つの月が煌々と輝いている。月が明る過ぎて、周囲の幾千もの星々の煌めきは霞んでいる。なんて強い満月だろう。ルトバ・キャンプでも同じ満月がきっと見えるんだろうな。私が何かをしてもしなくても、この月の輝きは何も変わらない。力強い光でこの夜を照らしている。


 ──そして、この月の夜を、私は決して忘れることはないだろう。


 光り輝く月明かりは、確かに私に見せてくれた。私たちの白い車の傍らに、一人の少年が立っていた。


 少年は、まっすぐに私を見ている。不意に現れた私に驚いたのか、隠れるタイミングを失ってしまったように立ち尽くしている。彼は私たちの白い車に手を当てている。

 少年は明らかに東洋人だった。年の頃は十代前半だろうか。はっきりと確信した。


 あの少年だ。


 夜の静寂の中で、私の心臓の鼓動だけが大きく響いているような気がした。彼は生きていたんだ。そして今、私の目の前にいる。

 声をかけようと思ったけど、うまく声が出なかった。思わず手を差し出した。


 その瞬間、少年は身を翻して夜の闇の中に走り去っていった。瞬く間に気配は消え失せ、もはや満月さえも少年を見失ってしまった。



*          *



 あれは現実だったのか、それとも幻だったのか。


 割り当てられた自分の部屋に行き、手帳を開いた。手帳には二人の子供の写真を入れてある。

 日本にいる亜矢は今頃どうしているだろう。友達はできただろうか。そして、戦場に置き去りにされた少年、ユウ・フェアフィールド。まさか彼を見つけるなんて。

 反政府軍に拉致されなければ、ここには来ていない。なんという偶然だろう。それとも運命に引き寄せられたのだろうか。この不思議な巡り合わせは私の希望になった。何としてでもユウを探したい。間違いなくこの街のどこかにいる。


 朝になり、配給されたパンを食べながら、昨夜の出来事をケイとヴァレリーに話した。ケイの驚きは大変なものだった。

「本当か! すごいじゃないか! 何としても見つけ出したい」

「どうやって探したらいいかな」

「セルジュークは廃墟になっているが、残っている住民もいるはずだ。街全体を軍事基地にするためには、住民を探し出して収容する可能性があるな」

 ケイが示した可能性に対し、ヴァレリーが補足した。

「ユウが収容所に無事に連れてこられればいいけど、逃げたり、殺されたりする可能性もあるね」

「じゃあ、私が先に探し出す!」

「捕まっている立場のあんたがどうやって自由に出かけるのよ」

 ヴァレリーの言葉に返す言葉がなかった。ケイがそれに続けた。

「俺に考えがある。少し待っていてくれ」

 私とヴァレリーはそれに頷いた。


 今日も朝から、診療所を開設するための作業が始まった。医薬品の仕分け作業を行っていたが、ユウのことが気になって仕方がなかった。

 するとケイがイラク人医師サーリムと一緒に戻ってきた。その後に一人の将校がついてきた。この将校は工兵部隊を率いるトーヒッド中尉だ。前に私にピストルを突きつけた、いけ好かない男だ。彼は軍の施設を作る責任者だった。ケイは丸めた大きな紙を持っていた。

 部屋の中央にある大きな机にそれを広げた。私も近くに行ってそれを覗き込んでみた。それはかなり詳しい地図だった。

 地図に見入っている私にケイが日本語で言った。

「セルジュークの地図を借りてきた。ここの役場にあった物らしい」

「地図を見せてくれるなんて、捕虜の私たちを信用してるのね」

「サーリムの取り計らいだ」

「これがあれば、ユウを探しやすいわね」

「必ず見つけるんだ」

「おい、何を喋ってるんだ!」

 トーヒッド中尉が問い質してきた。

「彼女はアラビア語が苦手なんだ。この後の作業について説明しただけだ」

 そんなことないのに、と心の中で苦笑した。

「ふん、まあいい。で、どうしたいのか説明しろ」

 不機嫌そうなトーヒッドに対して、ケイは真剣な表情をしてみせた。

「ご覧の通り、診療所を作るには足りない物が多過ぎる。我々がこの診療所作りに関わってから一週間になるが、資材がこうも不足していてはどうにもならない」

「今ある物でどうにかならんのか?」

「特にベッドが足りないんだ」

 拉致されて無理やり診療所作りに利用されている立場なのに、ケイは力説した。何か企みがあるようだが、戦場に生きる医師としての使命感も後押ししているのかもしれない。

「セルジュークには三つの病院があったらしい。街が壊滅したと言っても、使える物はいろいろ残されているはずだ。それを運びたい」

 ケイの言葉に老医師サーリムも頷いた。

「彼の言う通りだ。どうか協力してもらえないか?」

 トーヒッドはしばらく黙って地図を見ていた。

「どこに病院があるんだ?」

 彼の問いかけに、待ってましたとばかりにケイは答えを返した。

「まずはここだ」

 ケイはスークの近くの建物を指差した。

「我々のいるこの場所から一番近い」

 そして、残りの二つの病院がある場所も順々に示した。

「これらを全部回れば、ある程度使える物が見つかるかもしれない」

「ふむ、言いたいことはわかった」

 トーヒッドは顎に手をやり、地図に見入ったまま答えた。

「使えそうな物を一通り運んでくるように指示しよう」

「我々医療チームも一緒に行く。そうすれば必要な物を正確に選べる。無駄な作業が減るはずだ」

 トーヒッドは少し怪訝そうな表情を見せたが、ケイの意見には合点がいっているようだ。特に反論するところはないと判断したようで、しばらくしてから頷いた。

「確かにそうだな。同行するのは認めるが、捕虜であるお前たちが全員で行くのは許さん。必ず誰かはここに残るんだ。もし逃走を図るようなことがあったら、残っている者を容赦なく処刑する」

「ああ、わかった。俺とカナが行き、ヴァレリーがここに残る」

 ケイが私を見た。私は力強く頷いた。


 午前十一時頃、ケイと一緒に工兵部隊のジープに乗り込んだ。その後にはトラックがついてきた。私たちは捕虜ではあるが、ある程度の自由は与えられていた。それでも診療所と住処の往復以外に街の中を歩くことは許されていなかったから、こうして外に出ることができるのは貴重な機会だった。

 私とケイはジープから目を皿のようにして外を眺めた。しかし、そこは空襲によって破壊された建物だけが連なり、人の姿など微塵もなかった。


 やがてスークの近くにある病院に着いた。私たちは約束した通り、軍の診療所で使えそうな物を見繕う作業を始めた。思った通り、まだ使えるベッドが幾つも見つかった。私たちは工兵たちと共に、それらをトラックに積み込み始めた。

「外に出られたのはいいが、これでは仕方がないな」

 ケイが日本語で私に話しかけてきた。

「それでも可能性はあるわ」

 限りなくゼロに近くても、その可能性にかけるしかないと思っていた。でも、この一帯は完全な廃墟だった。生きている人の気配がない。痩せ衰えた野良犬を見ただけだった。


 三時間ほどの作業でトラックが一杯になった。結局この一軒の病院だけで十分な資材が揃った。それは私たちにとって思惑が外れることを意味した。外に行く機会をもっと得なくてはと、気持ちばかりが焦り出していた。ケイは自分のアイディアが役に立たなかったことに、大きなため息を漏らした。


 帰路につこうとしたとき、突然、ジープの無線機から大きな声が聞こえてきた。その声はひび割れてしまっていて、よく聞き取れなかったけど、住民が見つかったという言葉ははっきりと聞こえた。

 住民の捜索活動には歩兵中隊が当たっていたのだが、セルジューク西部で住民たちが発見されたらしい。その数は数百人近いとのことだった。私たちが来たのはセルジュークの東部だから、ちょうど反対側だ。西部の被害は比較的小さかったらしい。私はその一報に自分がひどく動揺しているのを感じた。

「地図によると、西部には大きなモスクがある。アタウッラーと呼ばれているセルジューク最大のモスクだ。反政府軍にとってもこのモスクを破壊するのは抵抗感があるだろうからな」

 ケイが言う通り、住民はそのモスクを拠り所として、激しい空襲と、その後の過酷な状況の中を生き延びてきたのだろう。

「その中にユウもいるのかな?」

「その可能性は高いだろうな。俺たちが今日行った辺りは完全に無人のようだったしな」

「捕えられるにしても、住民が全員無事に収容されるといいんだけど」

 私たちの心配を見透かしたように、何台もの装甲車が猛スピードで走っていくのが見えた。

「もしかすると住民が激しく抵抗をしているのかもしれない」

 ケイが言った。私は祈るしかなかった。


 しかし、その危惧は現実となってしまった。私たち医療チームは診療所には戻らず、住民と軍が衝突している現場に直接向かうことになった。軍の後方に待機し、負傷者の救助活動を行うのだ。

 現場に近付くに従って、私たちの耳にも大きな爆発音が何度も聞こえてきた。住民との間で起きた武力衝突は思ったより激しいようだ。しかし、この大軍の前では、住民の抵抗は無意味だと思われた。


 アタウッラー・モスクの前の広場では、その中央にバリケードが張り巡らされていた。住民たちが軍の侵攻を食い止めるために作ったようだが、この程度のバリケードでは、装甲車は何の苦も無く乗り越えてしまうだろう。

 私たちは近くの建物の前で降ろされた。その一階部分に仮設の救護所が作られていた。そこには診療所に置いてあった器具などが持ち込まれ、雑然としていた。イラク人医師サーリムと数人の軍医や看護師がその整理をしていた。ヴァレリーも連れて来られていた。


 私たちの元にサーリムが近寄ってきて、静かに告げた。

「急いで受け入れの用意をしなくてはならない」

 サーリムは白く長い髭を左手で撫でていた。その目に強い意志と覚悟を感じた。

 救護所には、じきに多くの怪我人が運び込まれてくるはずだ。そのほとんどは住民たちになるだろう。

「すまないが、君たちにも協力してもらいたい」

 サーリムの申し出に、私たちは即座に頷いた。断るはずがない。ケイが答えた。

「もちろんです。我々は赤十字のメンバーとして当然の役目を果たします」

「今から状況を見に行く。君たちも一緒に来るか?」

 サーリムの提案に私が即答した。

「ええ、同行します」

 救護所はモスク前の広場まで一区画しか離れていない。流れ弾の心配をしながら壁伝いに歩いた。装甲車の裏で待っていた歩兵が、私たちを建物の二階に案内した。その窓から広場が見渡せるようだ。

 サーリムは歩きながら、その場にいる歩兵たちに「命令が出ても住民に向けて発砲するなよ」と声をかけていた。歩兵たちは一様に困惑した表情を返した。


 これまで幾つかの難民キャンプで活動してきたが、実際の武力衝突の現場に来たのは実は初めてだった。そんな私の瞳に映ったのは、広場の中央で火だるまになっている男性の姿だった。男性の全身に火が回り、石畳の上で錯乱しながら転げ回っている。周囲の男たちが脱いだ上着で彼を叩きながら、必死にその火を消そうとしている。辺り一面には火炎瓶が撒き散らされていて、その幾つかから炎が上がっている。

 何人もの男が次々と群衆から飛び出しては火炎瓶を軍に向かって投げている。しかし所詮素人が作る火炎瓶だからか、燃料の粘度が低く、落ちた場所から炎が飛び散ってしまい、その効果は小さなものだ。逆に火だるまの男のように自らに火が移ってしまうのだ。

 しかし、軍が手を焼いていたのは火炎瓶ではなく、ライフルだった。群衆はかなりの数のライフルを所持しているようだ。しかもその幾つかは対戦車ライフルらしい。


 サーリムが言った。

「軍の我慢も限界に来そうだな」

 私は広場の端に陣取っている戦車を見た。戦車は三台来ていた。群衆から断続的に対戦車ライフルによる銃撃が行われている。そのほとんどは戦車には命中せず、周囲に飛び散っているようだ。群衆が持っている旧式の対戦車ライフルではそれほどの被害を戦車に与えられないようにも思えた。

 拡声器で軍による呼び掛けが続けられていた。籠城しているモスクからの投降を促している。しかし、暴徒化した群衆からの攻撃が止むことはなかった。

 モスクに向かって広場を中心にした五時と八時の方向に、銃撃部隊が揃っているのを見つけた。武力衝突が始まってからすでに三時間が経過している。太陽は雲に隠れ、どんよりとした空気が重苦しく広場に垂れ込めている。風はなく、燃え上がる火炎瓶の炎が赤々と立ち上っている。その赤さに目が痛むような感覚を覚えた。それは今から始まる惨劇の予兆だった。


 サーリムが私を気遣い、一言告げた。

「君はもう戻ったほうがいい」

 でもサーリム、あなたのその言葉は遅かった。


 黒ずんだ大気を切り裂くように、突然、群衆に対する一斉射撃が始まった。銃撃部隊が左右の斜めからモスク前に陣取っている群衆を撃ち始めたのだ。

 群衆が必死に逃げ惑っている。次々に人が倒れていく。それは容赦のない、正に無慈悲な光景だった。群衆の中で火炎瓶が落ちて炎が上がった。銃撃は止まず、私はこの世の地獄を目の当たりにしてしまった。銃弾が顔を撃ち抜き頭蓋骨が砕け、眼球が飛ぶ。握り潰された果実から汁が飛び出るように血しぶきが上がる。

 ひどい胸やけを覚えた。今にも嘔吐してしまいそうで、頭が真っ白になってしまった。


 その後、どうやって救護所に戻ったのかよく覚えていない。ふと気が付くと、救護所の仮設ベッドの上で寝かされていた。医療チームが慌ただしく準備をしている声が聞こえた。

「モルヒネが足りません!」

「フェンタニルを優先しよう」

「ワセリンがまだ届いていません!」

「表のトラックに積んであるはずだ」

 サーリムが起き上がった私に気付き、声をかけた。

「カナ、君はトリアージ・タグを用意しておいてくれ」

 多数の負傷者が同時に発生した場合、治療を施す優先順位を決めなくてはならない。トリアージ・タグはそのための印として、患者たちに付けられる。サーリムの言葉に、私たちがこれから迎える緊迫した事態を改めて認識した。


 一人の衛生兵が救護所に駆け込んできて叫んだ。

「お願いします!」

 サーリムがその言葉を受けて、医療チーム全員に対して号令をかけた。

「みんな、行くぞ!」

 トリアージ・タグの束を手に、私は他のメンバーと一緒に救護所を飛び出した。私たちは銃撃戦が終わったばかりの広場に駆け付けた。


 アタウッラー・モスクの前は死傷者の山になっていた。誰が呻いているのかもわからない。誰が生きているのかもわからない。死者までもが呻いているの? 私は混乱した。だってこんな場所に来たことがない。足が震えているのがわかる。いや、足だけじゃない、手もそう。心までもが震えている。これは恐怖だろうか。確かに怯えていた。

 立ち尽くす私の肩をヴァレリーが叩いた。

「カナ、怖いと思うのは仕方ない。でも、今はそんな暇はないんだ」

 その言葉にハッとした。そして手にしたトリアージ・タグの束をぎゅっと握り締めた。

 そうだ。怖がっている暇なんてない。今私の目の前には治療を必要としている人たちがいるんだ。そして私が最初にするべきこと、それはカテゴリー分けだ。


 カテゴリー分けとは、重傷者の命を選別する作業だ。誰だってすぐに治療を受けたい。しかし、数多くの怪我人が同時発生する戦場では、限られた医療は割り振られた優先順位を元に施される。死を避けられない患者に治療は行われない。医療者の労力と貴重な薬は、生き延びる可能性がある患者に対して使われる。

 私たちは地面の上であったり、担架で運ばれる途中であったり、場所を問わず次々にカテゴリー分けを始めた。私も遅れまいとその作業を始めた。カテゴリーⅠに分類された患者は最優先で治療を受けられる。辺りは痛みに喘ぐ呻き声に溢れ、やがて訪れる夜の闇に誰もが怯えている。


 モスクの入り口付近で一人の男性の状態を見始めた。男性は数発の銃弾を全身に受けているようだ。傍らではその妻と思しき女性がうろたえながら叫んでいる。

「お願い! 助けて!」

 女性の悲痛な叫びを聞きながら、彼の呼吸を確かめた。息が途絶えかけている。急いで気道確保をした。かろうじて呼吸が続き始めた。意識はない。大怪我でショック状態にあるようだ。トリアージ・タグを彼の右手首に取り付け、緑と黄の部分を引きちぎった。タグには黒と赤の表示が残った。こうして彼は、最優先で治療を受けられるカテゴリーⅠに分類された。

 しかし、その直後だった。私が彼の元を離れようとした瞬間、彼は激しい痙攣を起こし、呼吸が止まった。女性は驚いて叫んだ。

「嫌! しっかりして!」

 彼女の必死の呼び掛けをよそに、私はほんの十秒ほど彼の脈を確認した後、タグから赤い部分をちぎりとった。タグには黒い部分だけが残された。カテゴリー0だ。救命措置は行わない。タグにメモを走り書きすると、さっと立ち上がった。すぐに次の患者の元に向かわなければならない。

「え!? どうして!」

 女性はその場を去ろうとする私の左手にすがりついた。

「ちょっと待って! どうしたらいいの?」

 その手を振りほどきながら一言だけ告げた。

「あなたがそばにいてあげて」


 立ち上がった私の目の前に広がっているのは凄惨な光景だった。銃撃で蜂の巣にされ、ドロッとした腸が体から飛び出た死体が転がっている。体中の皮膚が焼けただれて真っ赤に膨れ上がり、苦しさにのたうち回る者がいる。これが戦場なんだ。

 誰かを助けるために、誰かを見捨てなければならない。私の心の中で激しい葛藤が起きている。私は何をしているんだろう。本当に人を助けようとしているの? こんな恐ろしい選択をしている私に、真実の慈悲の心はあるのだろうか。


 作業にあたりながら、あの少年を探していた。倒れている人たちの中にあの少年はいないだろうか。住民たちのほとんどは軍に収容されるはずだ。できれば無事に収容されていてほしい。


 あの月の夜、私たちは出会ったはずだ。


 ねえ、君はどこにいるの?

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