第7章 あの白い車に乗って

 攻撃ヘリが墜落したのはセルジュークのスークだった。


 散発的な空襲はその後何度も続いた。僕たちは小屋で肩を寄せ合って隠れ続けていた。最後の空襲からどのくらいの時間が経ったのだろう。いつしか音が全くしなくなっていた。僕たちはまだ生きていた。


 用心しながら、アイシャとバドゥルを連れてスークに来てみた。街一番の賑やかな市場のはずなのに、どこを見ても閑散としている。人の姿がない。スークの石畳で潰れているヘリの残骸が、まるでオブジェとして飾られているようにも見える。スークに立ち並んでいた数多くの店は無残に破壊され、火事で焼き尽くされ、もはやただの瓦礫でしかない。

 路地や家には多くの死体が残されていた。それらは悪臭を放っていたけど、野犬と鳥がその肉で生き長らえていた。ここは屍の街になってしまった。

 人影がないから危険も感じない。僕たちは壊れた店に残されていた品物を漁り始めた。無人の街は僕たちにとって安心だけど、もしかして取り残されてしまったんじゃないかと不安になってきた。僕たちはここで生きていけるのだろうか? 止めどない不安が溢れてきて、僕の心を焦らせる。


「ターリック、食べ物見つけたよ!」

 バドゥルが一軒の店から出てきて僕たちに告げた。

「何それ。なんかの燻製?」

 一見しただけではよくわからなかったけど、魚を燻した物みたいだ。

「いい匂いがするし、削って食べられるんじゃないかな?」

 バドゥルはいい物を見つけてきたなと思った。燻製は長持ちするから保存食になるし、少しずつ食べるのにちょうどいい。燻製の作り方を村で教わったことがある。だからその価値も知っている。


 僕たちは街はずれの住み慣れた小屋を捨て、スークのすぐそばの空き家に移り住むことにした。空き家ならいくらでもあった。僕たちはちょうどいい家を見つけた。石造りのこじんまりとした家だけど、それほどひどく壊れていないし、三人で住むのに適した大きさだ。それにここにはベッドもあるんだ。こんないいことって他にあったっけ?

 もぬけの殻になった店や家をあちこち探せば食べ物はあるし、それを見咎める大人たちもいない。死体は僕たちに何も言わない。もしかしたら、僕たちはここにいればいいんじゃないかって思えてきた。僕たちがこの街の支配者だ! そう思うことで、自分の中の不安を押し殺そうとしていた。今は大丈夫。だって、アイシャもバドゥルも喜んでるんだ。


 それでも夜が来る度に、押しやったはずの不安が頭をもたげてくる。僕たちはこれからどうしたらいいんだろう。埃っぽいけど暖かいベッドの中で安心して眠るアイシャとバドゥルの寝顔を見ながら、僕は途方に暮れていた。今、何が起きているんだろう。戦争はどうなっているんだろう。僕たちはここにいて、生き抜いていけるんだろうか。

 


*          *



 それから何日か経った頃、アイシャが息を切らして走ってきた。

「ねえ! ねえ! 人がいたよ。おばあちゃんがいた!」

「え? どこに?」

 僕は予想外の事に驚いた。この街にはもう誰もいないのだと思っていた。少しの安堵と、汗ばむ緊張感を覚えた。

「仕立屋さんの隣!」

「八街区の辺りか」

 八街区はスークからそれほど遠くない場所だ。そこに洋服の仕立屋がある。アイシャが言ってるのはその店のことだと察しがついた。アイシャがその人物を見たときの様子を詳しく聞いた。


 それは今朝のことだった。アイシャは一人で出かけてくると僕に告げた。自分も何か食べ物や使える物を探してくると言った。セルジュークには誰もいないから危険だとは思わず、そのまま送り出した。ただ、遠くには行くなとだけ念を押した。

 アイシャは路地を歩いていた。その路地に石畳は敷かれていなくて、むき出しの土の上をアイシャは裸足で歩いていた。落ちていた長い棒きれを右手に持ち、路地に続く家々の石の壁をリズミカルに叩きながら歩いていた。いつどこで覚えたのかアイシャ自身もわからないような歌を口ずさんでいた。村で過ごしていた頃に聞いた歌だったのかもしれない。

 僕の不安とは裏腹に、アイシャは今の暮らしに満足していた。この街に逃れてきてから、大人に怯えながら生きてきたけれど、その大人たちはどこにもいない。まだ六歳の幼いアイシャが、今この街を自由に歩いている。

 その時、狭い路地をビュウッと暑い風が吹き抜けた。それは砂埃を巻き上げ、アイシャは思わず顔を手で覆った。むせて咳を何度か繰り返した。たまらず、右にあった家の中に入った。その家のドアは開いていた。

 砂埃から逃げるように家の中に入ったアイシャは妙な違和感を覚えた。それと同時に、ハッとしてその小さな体が一瞬痙攣したが、声を上げることはなかった。驚いたときに何も声が出ない時がある。この時のアイシャはまさにそれだったようだ。その「違和感」はアイシャの正面の奥の暗がりにいた。

 アイシャは目を凝らして暗がりを見つめた。何かが見ている。アイシャは視線を感じた。果たしてそれは、暗がりの中で椅子に腰かけた老婆だった。

 明らかに目と目が合っていた。アイシャは身動きができなかった。しばらくして老婆が体を少し動かした。それをきっかけにアイシャの体が動きを取り戻した。とっさに踵を返し、アイシャはその家から一目散に駆け出した。僕の元に逃げ帰るために。


「どんな人がいた?」

「わかんない。でもおばあちゃんだった」

「そうか。俺たちの他にも人が残ってたんだな。全然そんな気配はなかったな」

 僕はどうしたものか判断に迷った。ただ、老婆なら僕たちに危害を加えることはないんじゃないかと思った。でも、大人には違いない。警戒しなくてはならない。

 隣で話を聞いていたバドゥルもアイシャと一緒に僕が次に何を言うのか待っていた。二人はじっと僕の顔を見つめていた。

 僕は愛用のナイフを手に取った。

「アイシャ、俺が見てくるから、バドゥルと一緒に家で待ってるんだ」

「あたしも一緒に行きたい」

「だめだ。まずは俺が見てくる」

 アイシャは少し不満そうだったが、小さく頷いた。


 僕たちの住処から八街区までは五分くらい歩けば着く。辺りを気にしながら慎重にその仕立屋を目指した。

 仕立屋の看板は路地の途中にあった。昼の暑い日差しが路地に差し込んでいる。路地は狭いけど、日が高いから日陰はほとんどなかった。自分の体が露わに見えることに少し不安を覚え、できるだけ石壁に身を寄せて歩いた。仕立屋の前に来たところで立ち止まった。

 仕立屋のドアは壊れていて、中に置かれている大きな鏡が僕を映しているのが見えた。僕は鏡が嫌いだった。だってそこに映るのは見たことがない種類の人間だから。彫りの深いバドゥルやアイシャとは違う、薄い顔つきの少年の姿だから。


 アイシャが言っていた仕立屋の隣の家のドアは開いている。アイシャはそこに入ったのだろう。その老婆は同じ場所にいるんだろうか。僕はそっと家に近付いた。

 ドアのすぐそばに身を寄せ、中から物音がしないか、じっと耳を澄ませた。でも何も音はしなかった。人の気配がしない。僕は静かにその家の中に足を踏み入れた。


 人というのはそう簡単に気配を消せるものじゃない。ピクリとも動かずにいても、息を感じる。空気の流れで匂いを感じる。僕は研ぎ澄まされた感覚を持っていた。なのに、どうして気付かなかったんだろう。老婆は確かに暗がりにいた。


 背筋がゾクッとしたのを感じた。冷や汗がにじむ。なんだろう? この老婆は生きているのか? 生気がないから気配を感じないのだろうか?

 死体のような老婆はフウッと息を吐いた。その目は虚ろだった。でもその視線は僕を捉えていた。

 この老婆は椅子に座ったまま何をしているんだろう。不安や怖れの下から好奇心が湧いてきたのを感じた。僕はナイフを握った右手を背中に隠したまま老婆に近寄っていった。

 暗がりに近寄ってみて初めてわかったが、老婆はずいぶんと痩せ細っていた。死体に見えるほど目がくぼんでいた。そうか。ようやく気付いた。この老婆はここで生き抜いてきたんじゃない。ここに取り残されたんだ。


 右手のナイフを腰のサックにしまい、老婆に言った。

「おい、あんた一人か? 家族は?」

 老婆はぼんやりと僕を見ている。なんてことだ。この老婆はここに残されてどうやって生きてきたんだ?

 老婆は小さな声で答えた。

「うるさいね。静かにしておくれ」

「何言ってんだ。あんた死にそうじゃないか」

「馬鹿を言うんじゃないよ」

「こんなに痩せて。飯食べてんのか?」

「ちょうど今から食べるとこだよ」


 老婆はよいしょと小さく言いながら椅子からゆっくりと立ち上がった。そしてよたよたとした覚束ない足取りで土間にある竈に向かった。

 鍋を手に取ると、横にある大きな甕から柄杓で水をすくった。その水は残り少なく、しかもひどく濁っていて異臭もする。この水は腐っている。その鍋をガス台に乗せるとマッチを手に取った。マッチを擦ったがそれは湿気ていて火が付かない。

 しかし老婆はそれを気にも留めず、ガス台にマッチを差し込んだ。そしてガス栓をひねったが、ガスが出てくる音も匂いもしない。それでも老婆はまるでパントマイムのように鍋の持ち手を左手で握り、軽く揺すった。

 次に老婆は、棚の前に落ちている藁を拾った。その藁は乾ききって固くなっている。その藁を手で何度かバリバリと割り、鍋の中に入れた。

「お前にやる分はないよ」

 老婆は独り言のように呟いた。


 僕は唖然とした。それは藁だよ。食べられる物じゃないだろ? 水だって腐ってるじゃないか。いったい何をやってるんだ?

「まさかこんなのを食べてんのか?」

 老婆は答えず、相変わらず鍋を揺すっている。

「おい、やめろよ」

 僕は老婆の手を押さえた。すると老婆は僕のほうを振り向いた。しばらく僕の顔をじっと見ていた。そして言った。

「お前、強盗だね」

「何言ってんだ。違うよ。あんたが変なことしてるから──」

「お前のこと、思い出したよ。足の悪い男を襲っただろ」

「え?」

 僕の心臓がドクンと脈打った。それは胸が強く痛むほどだった。

「な、なんのこと?」

「とぼけるな。あたしは見たんだよ。お前、外国人だろ。忘れるもんか」

 今僕の目の前に鏡があったなら、青白くなっていく惨めな自分の顔を見ることができたに違いない。貧血で目の前が暗くなっていくような感覚に襲われた。

 そうか、今気付いた。あの時の老婆だ。僕は顔を見られていた。これがあの時感じた不安だったんだ。

「か、関係ないだろ」

 自分に言い聞かせるように言った。アイシャを連れてこなくて良かった。アイシャに知られたくない僕の本性をこの老婆は知っている。どうしたらいい?

「体の不自由な人から金を奪うなんて、お前は卑怯だね」

「仕方なかったんだ!」

 僕は焦って言い訳をした。そして老婆に気付かれないように、腰のサックからそっとナイフを引き抜いた。僕は恐ろしい決心をしていた。

 老婆は僕から目を背け、再び鍋のほうを向いた。僕は半歩左に動いて老婆の背後に立った。そして右手でナイフを持ち、音もなく、老婆の右の首筋にあてがった。僕の醜い行いをアイシャには知られたくないんだ。後はナイフをスッと引くだけだ。


 その時、老婆が呟いた。

「お前にやる分はないって言ってるだろ」

「え?」

 突然話が元に戻り、面食らってしまった。この老婆は何を言ってるんだ? 戸惑った僕はナイフの行き場を見失い、再びサックに戻した。

 老婆は再び鍋を揺すり始めた。


 僕は愕然としながらその家を後にした。一体何だったんだ? どうするべきだったんだ? 自問自答しながら住処に戻った。

 戻るなり、アイシャが駆け寄ってきた。

「ね、どうだった?」

 興味深げに聞いてきた。

「あ、ああ。いや、そうだな」

 僕は曖昧な返事をした。そうしたらアイシャは不満そうに僕を見返した。何か言わなくちゃと思った。

「確かに人がいた。でもちょっと危ない感じだから、今後は絶対に近付いちゃだめだ」

「えー、そうなの?」

 僕は答える代わりにアイシャの頭を撫でた。小さなアイシャはそれでなんとなく気分が収まったようだ。その様子に少し安心した。


 数日後、僕は再び老婆の家に行ってみた。

 老婆は暗がりの中で椅子に座ったまま死んでいた。僕は何もしていない。鍋と藁が床に落ちていた。僕が手を下すことなく、僕の醜い秘密は暗がりの中に閉ざされたんだ。


 そうだ。僕は何もしていない。腐った水も固い藁も、僕は見て見ぬ振りをした。自分の秘密を守るために、僕はおぞましい選択をした。



*          *



 老婆の死から何日が過ぎただろう。あれから生きている人の姿を見る機会は全くなかった。今度こそ、このセルジュークにはもう誰もいなくなったのかもしれない。そんなことを考えながら民家の台所を漁っていた。

 ほんの少しのデーツを見つけた。ナツメヤシの果実だ。乾燥させてあるから保存食として使える。野菜も多少あったけど、かなり腐っている。せっかく見つけても、腐っていたらどうにもできない。ここのところ、そういう物ばかりだ。


 ふと、遠くのほうで地面を響かせる音を感じた。

 なんだろう? 風だろうか?

 それは徐々に連続した音になってはっきりと聞こえ出した。僕は驚いた。車の音だ。しかも何台も来る!


 他の部屋を漁っていたバドゥルとアイシャを呼んだ。三人で身を寄せ、小さな窓越しに道路を見張った。車の音はどんどん近づいてくる。やがて車列が姿を現した。

 三台のジープが先頭を切って走ってきた。それらには迷彩服を着た兵士が乗っている。続いて五台のトラックが来た。多くの物資や兵士を運んでいるようだ。その次に装甲車が二台来た。たぶんこの装甲車は兵士を輸送するやつだ。

 さらに戦車が三台やってきた。キャタピラーが大きな音を立てている。砂煙を巻き上げながら、覗いている僕たちの前を威風堂々と走り去っていった。まだ来る。次は二台の自走砲だ。これは迫撃砲だろうか。マラカンダ村にも迫撃砲はあったけれど、それは人間が運ぶやつだった。こんな立派な自走式じゃなかった。

 その次に来たのは巨大な自走ミサイル砲だった。村でいろんな兵器について教わってきたけど、ここまでの大きな兵器を直に見たことはない。おそらくあれは地対空ミサイルじゃないかと思う。こんなでかいミサイルだったら、ミグもイーグルも撃ち落としてしまうんだろうな。

 その後も、何台もの車が通り過ぎていった。ほとんどがカーキ色や迷彩色だったけど、何台か白い色の車もいた。


「すごい軍隊だね。どこのだろう?」

 バドゥルが驚きながら聞いてきた。

「うーん、わかんないな」

「今やってる戦争って、どことどこが戦ってるの?」

「え?」

 バドゥルの質問に虚を突かれた気がした。そういえば、どことどこが戦ってるんだ? 僕はその問いに答えることができなかった。僕は何も知らないんだ。

 車列は広場のほうに向かっていた。住処に戻るよう、二人に告げた。そして広場まで様子を見に行くことにした。それは危険を伴うが、この軍隊のことを調べないともっと危険だと考えた。


 路地を縫うように走り、奴らに決して見つかることのないよう、辺りに気を配りながら広場に向かった。そして広場に面した三階建ての建物の中に忍び込んだ。階段を駆け上がり、二階の窓辺にしゃがみ、そっと外に目をやった。


 それは目を見張る光景だった。さっき僕が見た車列だけではなかった。違う方向からも続々と車両や兵器が集結してくる。無数のミサイルや戦車が広場に並び、それはまるで軍事パレードのようだった。兵士たちも数えきれないほどいる。なんなんだ、これは。一体何が始まるんだ?

 息苦しいほどの緊張感を覚えた。まずい。ここにいちゃ絶対にまずい。本能的に危険を感じた。誰もいなくなった廃墟の街は、軍の基地になったんだ。このセルジュークは要塞になるんだ。


 噴き出す汗を拭うことも忘れ、広場に見入っていた。とにかく状況を把握しなくてはいけない。そしてセルジュークから逃げだすための逃げ道を探さないといけない。でも、ここを出てどこに行けばいいんだ? イブラヒムが言っていた難民キャンプ? でもそれはどこにあるんだ? もしかしてそれは空想の話? わからないよ。二人を連れて、どこに行けばいい?


 僕の頭の中は混乱していた。でも、急にあることが気になり始めた。広場の隅に停められている何台かの白い車はなんだろう。それに捕虜らしい人たちもいる。人数は三人だ。男性一人と女性二人のようだ。女性のうちの一人は具合が悪いのか、ぐったりした様子で担架に乗せられている。彼らは一ヶ所に集められ、数人の兵士たちに銃を向けられている。

 兵士たちが白いトラックの荷台からいろんな物を降ろし始めた。何かよくわからないけど、大事な物みたいだ。捕虜たちが運んでいた物資だろうか。

 白い車に描かれたマーク、あの赤い十文字には見覚えがある。確かにどこかで見たはずだ。しばし思いを巡らせ、記憶を辿ってみたけれど、どうにも思い出せなかった。きっと敵国のマークだろうなと、とりあえず自分で結論を出した。そんなことにかまっているわけにはいかないことを思い出した。僕は窓辺を離れ、階段に向かった。


 タン、タン、タン、と階段を下り、建物の出入り口に来た。そして、半開きのドアに手をかけた瞬間だった。

 数人の大男たちが道を通り過ぎていくのがドアの隙間から見えた。ギョッとして、ドアノブにかけていた手を慌てて引っ込めた。僕はとっさにドアの後ろに身を隠した。

 男たちの足音は次第に遠ざかっていった。それを察して僕は安堵した。でも、彼らが歩いて行った方向にはスークがある。住処に隠れているアイシャとバドゥルのことが急に心配になった。急いで戻らないといけない。

 このドアから出るのは危険だ。僕は反対側にある窓に行った。慎重に窓を開け、外の様子を伺った。うまい具合にこちら側の路地に人の姿はない。桟に足をかけ、窓から外に出た。

 僕は辺りを見回しながら小走りでスークの方に向かった。右手には腰のサックから抜き取ったナイフを持っていた。


 廃墟になったスークが見えてきた。ここにもジープが一台停まっていて、迷彩服を着た数人の兵士たちがいる。二人が隠れている建物も見える。その窓を凝視したら、ゆらっとした人影が見えた。どちらかが動いているようだ。兵士に気付かれないかハラハラした。僕は彼らの気配に注意しながら、壁に沿うように移動して、ようやく住処の中に入った。


 アイシャがすぐに駆け寄ってきた。僕は口に人差し指を当てて、声を出さないように指示した。バドゥルにも目配せをした。僕は二人に小声で伝えた。

「軍隊がここに集結してきてるんだ。ここにいちゃまずい。ひとまず元の家に戻るぞ」

「うん、荷物はどうする?」

 バドゥルが聞いた。

「食べ物はできるだけ持っていこう。持ちきれないものは置いていく」

 二人は大きく頷いた。僕の緊張感が伝わっているようで、二人の表情もこわばっていた。

「俺たちが荷物を詰めるから、お前は外の様子を見張ってるんだ」

 僕はアイシャにそう指示した。

「うん、わかった」

 アイシャは真剣な目で僕を見つめ返した。


 僕はバドゥルと一緒に食べ物を麻袋に詰め込んだ。赤い幾何学模様が入ったキリムのカバンにも目いっぱい詰め、その隙間にイブラヒムにもらった古ぼけた聖書を押し込んだ。キリムのカバンの肩紐を少し短く結んで、窓辺で見張りをしているアイシャに背負わせた。

 外の道に誰もいないのを窓越しに確認して、ドアをそっと開けた。僕は慎重に外に出た。路地の向こう側の建物の陰に入ればスークに対して死角になる。僕は足早にその壁に身を寄せた。さらに辺りを見回して安全を確認し、二人を手招きした。

 二人は僕と同じように慎重に外に出て、僕がいる壁まで小走りでやってきた。僕とバドゥルは大きな麻袋を二つずつ持っている。アイシャはカバンを背負い、食材を入れた鍋を両手で抱えている。


 僕たちはこの前まで住んでいた街はずれの小屋に向かい始めた。バドゥルが先頭に立ち、それをアイシャが追い、僕は一番後ろについた。何度も後ろを振り返りながら、誰も追ってこないことを確かめた。気になるのは、さっきまで僕たちがいた住処のことだ。兵士がそこに来たら、誰かがついさっきまで生活していたことに気付くはずだ。生活の痕跡を消していく余裕がなかった。今さらながらそのことが気になって仕方がなかった。


 僕はガシャンという音に驚いた。ハッとして前を見るとアイシャが転んでいた。鍋の中に入れていた食材が路地に散乱している。強い日差しで焼けた石畳の上を小さなデーツが転がっていく。彼女がたすき掛けにしていたキリムのカバンから聖書が滑り出ていた。

 アイシャは右膝をしたたかに打っていた。道に寝転んだまま両手で右膝を抱え、苦痛に顔を歪めている。今にも泣き出してしまいそうなのを必死にこらえているのがよくわかる。僕たちのこの状況が、小さなアイシャの心を追い詰めている。

 少し先を行っていたバドゥルも音に驚いて戻ってきた。僕は聖書をカバンに戻し、自分が持っていた麻袋の一つをバドゥルに渡した。バドゥルは両手で麻袋を持ったまま、僕に渡された麻袋を胸の前で抱えた。僕は右手に麻袋を持ち、左手で鍋をつかんだ状態で、アイシャを背中におぶった。アイシャは右膝の痛みをこらえながら、走り出した僕の背中から振り落とされないよう、僕の首に回した両手をしっかりと繋いだ。


「ねえ」

 僕の背中で揺られながら、アイシャが小さな声で呼びかけてきた。でもだいぶ疲れてきていたのか、息が上がってしまっていて、僕はすぐに返事をしなかった。鍋を持った左手で背中のアイシャを支えているから、腕が痺れて感覚がない。

 追いかけられていないか、気が気じゃなかった。うだる暑さが僕の体力を奪っていた。汗が止まらず、しがみついているアイシャが滑り落ちてしまうんじゃないかと思っていた。アイシャの呼びかけは聞こえていたけど、僕は上の空だった。


 その時、僕の思考を占領していたのは白い車に描かれていた赤い十文字のことだった。どこかの国旗かと思ったけど、僕の記憶が否定する。いつだろう。どこで見たんだろう。誰かに見せられた気がする。それは僕にとって大事なことではないのか。思い出せそうで思い出せない。赤い十文字が記憶の網に絡み付いて解けない。


「──ねえ」

「ん? 何だ?」

 ようやく返事をした。空耳のような気がしていた。

「あたしたち、これからどうなっちゃうの?」

「どうもなんないよ。これからも三人で暮らしていくんだ」

「あたしたち、捕まっちゃうの?」

「平気だよ。捕まったりしないよ」

 それは僕の強がりかもしれない。だけどそう言っていれば、自分でもそう思えてくるんだ。

「だから何も心配するな」

「あのおばあちゃんはどうなったの? 捕まったの?」

 僕は返す言葉に詰まってしまった。僕は息が切れて、言葉を発しにくくなっていたから、アイシャもそれ以上は何も聞いてこなかった。アイシャはそのまま黙ってしまった。


 やがて街はずれの小屋が見えてきた。僕たちが最初に三人で暮らしていた小屋だ。隣には大きなコトカケヤナギがそびえている。ここには僕たちが使っていた毛布もある。またここで暮らそう。そしてこのセルジュークから逃げる方法を考えよう。きっとどこかに三人で生きていける場所があるはずだ。



*          *



 その夜、僕たち三人は、薄汚れた毛布にくるまって一緒に眠った。


 押し寄せる不安に、浅い眠りを繰り返していた。寝返りを打ったとき、左手が固い物に当たった。手のひらでまさぐるとそれは聖書だった。夢うつつで僕の脳裏に浮かんだのは聖書をくれた老人イブラヒムの姿だった。最後に会った時、彼は難民キャンプの事を教えてくれたっけ。そして赤い十文字のことも。そうだ、イブラヒムが教えてくれたじゃないか。


 僕は再び眠りに落ちた。波打つ砂丘を転がるように夢にならない夢の中を彷徨っていた。ふと気が付くと、いつの間にか石畳の上に立っていた。

 そこはセルジュークの広場だった。僕は慌てて広場から逃げ出した。でも、どんなに走っても広場の中にいた。走っても走っても、足元の石畳がくるくる回ってしまって、全然先に進むことができないんだ。気が付いたら、後ろから車が猛スピードで走ってきた。


 不意に、閉ざした記憶が蘇ってきた。ずっと昔、小さかったバドゥルと一緒に二人だけでセルジュークに来たことがある。その時この広場で、カラフが運転するトラックが僕の横を猛スピードで走っていった。そのトラックはどうなったっけ? 吹き飛んだはずの記憶が、いま鮮明に僕の前に映りだした。ああ、思い出した。あの時、大好きだったカラフの怯えた瞳を見た。そしてトラックはこの広場で人々を跳ね飛ばし、轟音と共に自爆した。

 そうだ、僕はこの広場が怖くて怖くて仕方がなかったんだ。


 うなされる僕に向かってきたのはカラフのトラックではなく白い車だった。車体に赤い十文字が描かれている。それはあの日、イブラヒムが見せてくれた新聞の写真に写っていた。赤十字って言ってたっけ? 義足を作ってる店だったな。そういえば、難民キャンプにも店を出してるって、イブラヒムが言ってた気がする。じゃあ、あの白い車に乗れば、僕たちをそこへ連れて行ってくれるのかな?


 白い車は僕の横を風のように通り過ぎた。慌てて手を伸ばした。待ってよ、僕たちを乗せてよ。だけど、白い車は砂のように消えてしまった。いつの間にか広場も消えて、僕はどこまでも長く続く石畳の道の上にいた──


 目が覚めたとき、辺りはまだ薄暗かった。二人が起きないようにそっと毛布を抜け出して小屋の外に出た。暑い昼間と違って、夜の空気は冷たい。東の空がじんわりと明るくなってきている。もうすぐ夜が明ける。


 断片的な記憶は夢の中で繋がった。暁に見た夢は、僕に生きる希望を与えてくれた。

 イブラヒムが最後に教えてくれた道筋が今僕の目の前にある。僕たちの救いの地となる難民キャンプ。そして赤十字のマークが描かれた白い車。僕たちが生き抜くために残されたチャンスはあの白い車にある。あの車に乗れば、きっと僕たちを難民キャンプに連れて行ってくれるはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る