第6章 バジリスクの大地

「飛んでませんじゃなくて、いつになったら飛ぶのかを聞いてるの!」

 私はかなり苛ついていた。日本からの中継地としてこの熱帯の街ドバイにやってきたが、すでに三日間も足止めを食らっている。私は次の中継地であるヨルダンの首都アンマンに行くことができないでいる。

「わかりませんよ。テロの予告で大混乱してるみたいですからね」

 今から二年前の2005年11月9日にアンマンの三軒の高級ホテルで起きた連続自爆テロは、ヨルダンにとって衝撃的な事件だった。イラク入国の主要な経由地であるアンマンは安全を確保するために過敏に反応する。大規模なテロの予告によって、三日前から空港での発着が制限されているのだ。

 目の前にいる空港職員の男は少し面倒くさそうな表情でぶっきらぼうに言った。

「私に聞かれても困るんですよ」

 その言い草に、私は呆れて両手を広げてみせるしかなかった。


 空港の建物から出たとき、携帯電話が鳴った。同僚のケイ・ブレナンからの電話だった。ケイは日系イギリス人だ。

「何?」

「カナ、どこにいる?」

「空港よ。状況を見に来たんだけど、いつになったらアンマンに飛べるか全然わからないわね」

「そうか。ところで今からホテルに戻れるか?」

「ええ、すぐに行けるわ」

「俺の国からある情報が届いたんだが、俺や君に関係ありそうな話なんだ」

「ふうん」

 容赦のない強い日差しが照りつけている。日本では梅雨の頃だが、この国は日中に四十度を超えることもある灼熱の時期だ。暑い季節ともなれば日本なら蝉の声が聞こえてきそうなものだが、ここではまったく聞かれない。あまりに暑すぎて蝉は生きられないのかもしれない。湿度も非常に高い。のぼせるような暑さだ。私はサングラスをかけ、ジープに乗り込んだ。

 空港から二十分ほどの場所に私たちが滞在している古いホテルがある。砂煙をあげてジープはその建物の前にやってきた。街路には整然とヤシの木が立ち並んでいる。私はうまい具合にその葉影にジープを停めた。


 この小さなホテルの館内は少し強すぎるくらいに冷房が効いている。宿泊客は私たち赤十字国際委員会(ICRC)のメンバーだけだ。ミーティングルームに使っている部屋のドアは開いていた。部屋の中を見ると、ケイがノートパソコンの画面を見たまま考え込んでいる。彼は私が来たことに気付かない。開けっ放しのドアをノックした。

「ああ、カナか」

「ずいぶん熱心に見ているのね」

「これが事実なら非常に興味深いことだね。君も見るか?」

 ケイの言葉は好奇心旺盛な私を色めき立たせた。もったいぶった言い方が癪に障る。

「当たり前でしょ。あなたが呼んだんじゃない」


 画面にはイギリスの新聞が映し出されていた。日付を見ると、1999年9月1日となっている。今から八年前の新聞だ。【The hijacked airplane crashed in Iraq】と大きな見出しが躍っている。ハイジャック機墜落。そういえば、そんな事件があったような気がする。


 二十世紀末は、私たちが今向かおうとしているイラクが破滅への道をひた走っていた時期だ。湾岸戦争後の武装解除の査察を拒むイラクに対し、アメリカとイギリスは国連安保理の承認を得ぬまま、1998年12月16日から激しい空爆を開始した。数百発に及ぶトマホークや巡航ミサイルを四日間に渡って撃ち続けたこの攻撃は「砂漠の狐作戦」と呼ばれた。イギリスの民間機墜落はその翌年に起きた事件だ。

 1999年8月31日、多くの市民を乗せたイギリス行きの民間機がクウェートを飛び立った。しかし離陸後にハイジャック犯に占拠された。そして飛行ルートを変えさせられ、イラク北西部の空域で自爆して墜落した。直後にアルカイーダをはじめ複数の武装組織が犯行声明を出し、事件は混迷の一途を辿った。これは日本でも報道された。

 当時私は日本赤十字看護大学を出たばかりで、新人看護師として聖エリザベト病院で働き始めた頃だった。仕事を覚えるのに必死で、いつしかこの事件のことは私の記憶の隅に追いやられていった。病院と聖エリザベト・チルドレンズ・ホームでのキャリアを積んだ後、ICRCのメンバーになった。


「この墜落には続きがあるんだ」

 ケイは意味ありげに言った。

「行方不明の生存者がいるらしい」

「行方不明の生存者? 何それ。矛盾してるわね」

「確かにそうだな。生存がわかっているなら行方不明者じゃないし、行方不明なら生存してるかわからないわけだしな」

「どういうこと?」

「行方不明だったが、その数ヶ月後に生存が確認されたんだ。だが、その後の消息は不明だ」

 腑に落ちない表情を見せた私に対し、ケイはパソコンを操作して別の新聞記事を画面に映し出した。それは墜落から三ヶ月半後の1999年12月15日の記事だった。そしてそこには、この事件の続報が綴られていた。


【Live?! Lost Boy】

 記事の見出しにはそう書いてあった。そして写真が掲載されていた。それは森の茂みに立つ二人の少年の写真だった。二人とも幼いが一人は六歳くらいで、もう一人は四歳くらいに見える。背が高いほうの子は大怪我をしているようで、松葉杖をついていて、体のあちこちに包帯が巻かれている。そして、右の上腕部には大きな火傷の痕が見える。

 小さいほうの子はアラブ人で現地の子供のようだが、もう一人の大怪我をしている子は明らかに東洋人だ。黄色人種の子供がこんなアラブの奥地の森の中にいるなんて、あまりに不自然だった。そこは戦場のはずだ。なぜこんな場所に? 親は? 私の目は写真に釘付けになった。

「どういうこと?」

 私は独り言のようにつぶやき、真剣な目で新聞の文字を追った。


 記事によると、1999年8月31日、ハイジャック犯によりイラク北西部で民間機が自爆、墜落した。翌9月1日にイギリス軍による捜索隊が組織されたものの、墜落現場はアルカイーダ、クルド人武装組織、イラク政府軍が複雑に絡む戦闘地域だったため、捜索隊が現場に行くことは非常に難しいことだった。捜索を開始できたのは、墜落から一週間も経った後のことだった。

 9月9日、捜索隊が墜落現場に辿り着いたが、機体は無残に崩壊していた。さらに火災も発生し、大部分が焼け焦げていた。そして残念ながら、そこに生存者はいないことが確認された。

 9月10日から17日にかけて、遺体の収容が行われた。しかし、遺体は衝突や火災による損傷が激しく、搭乗者リストとの照合は困難を極めた。結果として、照合できない搭乗者は行方不明者として記録され、捜索は打ち切られた。


 そして、それは偶然の出来事だった。

 墜落から三ヶ月ほど経った1999年12月1日、アメリカ軍の従軍カメラマンが、森にいた二人の少年を見つけてシャッターを押した。少年たちはカメラマンに驚いたようで、すぐに森の中に消えてしまった。

 カメラマンは単に戦地で暮らす子供の写真を撮ったつもりだったし、少年たちはすぐに姿を消したのでその場ではわからなかったが、後で写真を見返したときの驚きは大変なものだった。少年のうちの一人は明らかに現地の子供ではなく東洋人だ。あそこは戦場で、外国人の子供が立ち入るような場所ではない。

 カメラマンが少年たちを撮影したのは、墜落現場から約十キロ離れた場所にある森だった。連絡を受けたイギリス軍が遺体と照合されていない搭乗者の調査を行った。そうしたところ、クウェート領事館で料理人として勤務していた日系イギリス人がいることがわかった。搭乗者リストにはその一家の名前が記されていた。


Akira Fairfield / Male / Date of birth 12 February 1959

Naoko Agarie Fairfield / Female / Date of birth 2 April 1963

Yu Fairfield / Male / Date of birth 15 August 1993


 そして、クウェートの外交官が一枚の写真を持っていた。それは外交官がその一家と並んで写っている記念写真だった。カメラマンはその写真を見て、この子供こそが自分が出会った東洋人の少年だと確信した。名前はユウ・フェアフィールド。この子に間違いない。ユウはあの民間機に乗っていた。そして墜落した後も生きていて、おそらく現地の人間に助けられ、そこで生活しているのだ。ユウは生きている。

 このニュースはイギリス本国でセンセーショナルに取り上げられた。「失われた少年」「戦地に舞い降りた少年」「空からやってきた少年」など、少年には様々な形容詞が付けられた。それと同時に、戦地から助け出そうという世論が巻き起こった。


 新聞記事から読み取ることができるストーリーはここまでだった。


 救援隊は向かったのか? ユウは戦地から助け出されたのか? 鼓動が早くなっている自分に気付いた。続きを知りたい。とっさにケイのほうを振り向いた。

 ケイは私が求める答を用意していた。言葉に詰まった私を待たずにケイは話し始めた。

「少年が発見された場所は欧米のコントロールが及ばない、まぎれもない戦地だったんだ。子供一人の捜索のためにイギリス軍が危険を冒して捜索隊を派遣するなんて、どうしてもできなかったんだよ」


 飛行機事故から二年後の2001年9月11日、世界を揺るがす衝撃的な同時多発テロがアメリカで発生した。同年10月7日、アメリカはテロへの報復としてアフガニスタン戦争を起こした。テロの首謀者と断定されたアルカイーダの引き渡しに応じなかったアフガニスタンのターリバーン政権は崩壊することになる。

 年が明けて2002年1月29日、アメリカのブッシュ大統領による一般教書演説での「悪の枢軸」発言で、世界の標的はアフガニスタンからイラクへと移った。2003年2月5日、アメリカのパウエル国務長官が国連で行った報告により、イラクが大量破壊兵器を持っているとされた。

 そして2003年3月20日、アメリカとイギリスは「イラクの自由作戦」を標榜して空爆を実行し、イラクへの侵攻を開始した。こうしてイラク戦争が幕を開けた。

 そのわずか一ヶ月後にフセイン政権は崩壊し、イラクは連合軍の占領下に置かれた。戦争が終わったと国際社会は声高に言うが、イラク国内は以前にも増して複雑な内戦を繰り返していくことになる。混沌とした月日は残酷なもので、「失われた少年」は人々の記憶から消えかけていた。


 それから四年経った今年 ── 2007年、イラクの内戦はさらに激しさを増していた。


 前年の2006年5月20日にイスラーム教シーア派のヌーリー・マーリキー首相を中心としたイラク正式政府が発足し、自立の道を歩み始めた。しかし国内ではテロや武力闘争が連日繰り返されていた。

 この年の12月30日、サッダーム・フセイン元大統領の死刑が執行された。そして今年に入ってすぐにイスラーム教スンニ派を中心とした反政府軍が蜂起した。アメリカのブッシュ大統領はイラク内戦の鎮圧に躍起となり、二万人を超える兵士の増派を決定した。終わったはずのイラク戦争は出口のない迷路に入り込み、悲惨な戦いの連鎖が未だに続いていたのだ。

 反政府軍は陸軍や空軍から造反した中枢部隊で構成されていて、政府軍に引けを取らない武力を持っていた。さらにはロシアから武器の提供を受けていると推測されていた。そして3月22日、未遂に終わったものの、バグダードで国連事務総長を迫撃砲で襲撃する事件が起きる。このとき犯行声明を出したのがイラク北部で強大な勢力を持ち始めた「イラク・イスラーム国(ISI)」を名乗る武装組織だった。政府と袂を分かった反政府軍はISIとの結びつきも報じられていた。

 混沌とした戦況にしびれを切らしたイラク政府は欧米の制止を振り切り、非人道的であるとしてジュネーブ議定書で禁止された化学兵器の製造を始めているとの憶測が流れていた。さらに、無差別殺人兵器であるクラスター爆弾や、対戦車兵器として劣化ウラン弾の積極的な配備も始めているとも言われていた。開戦から半年近く経つこの内戦は、もはや先の戦争を超える悲惨なものとなりつつある。


「もしかして、この子はまだ生きているかもしれないの?」

「いや、それは誰にもわからない」

「どうして急にこの情報が私たちの元に届いたの?」

「当時写真を撮った従軍カメラマンがICRCに連絡してきたんだ」

「写真を撮った場所はルトバなの?」

「いや、アル・キムから南へ三、四十キロ行った所にある山の中らしい」

「アル・キムっていうと?」

「アル・カイムは知ってるか?」

「ええ、イラクとシリアの国境の街ね。ユーフラテス川沿いの大きな街」

「ああ、そうだ。アル・カイムからユーフラテス川をバグダード方向に行くとアル・キムがある。そこは重要な軍事拠点だ。アメリカ軍は砂漠地帯にあるセルジュークからアル・キムを目指して進軍していた。この写真はその途中で撮影されたようだ」

「ルトバからはだいぶ遠いわね。だけど、連絡してきたカメラマンは私達が少年を発見する可能性にかけたのね」

「だが、誰かが保護していない限り、子供が戦地を生き抜くなんて限りなく不可能だろうな」

「でも、可能性はゼロじゃない」

 私の言葉にケイは頷いた。彼はパソコンを操作し、画面にメールを映し出した。

「そのカメラマンからのメールだ。少年に出会ったのに、自分がすぐに気付かなかったことをずっと気に病んでいたようだ。あれから自分でいろいろ調べたらしい」

 そう言うと再びメールに視線を戻し、文字を追った。

「ナオコ・アガリエは沖縄のホテルで料理人をしていた日系イギリス人のアキラ・フェアフィールドと出会い、結婚した。ユウは沖縄で生まれた。ユウはイギリスと日本の両方の国籍を持っている」

 ケイはメールを読みながら、私に話し続けた。

「アキラの血縁者はイギリスでは見つかっていない。だが、沖縄でナオコの親戚の一人を見つけた」

「じゃあ、もしその子が生きていたら、帰ることができる国があるのね」

「そうだな。とにかく俺たちはこの子供を見つけ出せるように、この写真を持っておこう」

「生きていれば十三歳かな?」

「ああ、資料によると8月15日が誕生日だから、あと二ヶ月くらいで十四歳だな」

「この写真の面影が残ってるといいんだけど」

 ケイは画面に映っている新聞の写真をトリミングしてユウだけを切り抜き、プリンターで印刷した。そしてその写真を差し出した。私はそれを受け取ると、カバンから手帳を取り出した。


 その手帳にユウの写真を挟もうとしたとき、手帳から一枚の写真が滑り落ちた。それは日本にいる亜矢の写真だ。ケイはそれを拾って私に渡しながら聞いた。

「この子は?」

「私の心残り」

「心残り?」

「この子の未来を見ていてあげたいの」

 私はニコリと笑ってそう言った。


 でもこの時、笑顔の裏で私の心はひどく動揺していた。それはユウの母親の名前を見たせいだ。アガリエ? もしかして漢字は東江だろうか。それは沖縄の珍しい名字だ。そんなにいるわけじゃない。

 そして、ユウと亜矢の写真を重ねて手帳に挟んだ。



*          *



 眼下には広大な砂漠が広がっていた。


 変だ変だと、血の気が引いた表情をしながら私は呪文のように呟いた。

 隣の席に座っている医師のヴァレリー・ワトソンは、私のお決まりの行動に付き合うつもりはさらさらないようだ。ヴァレリーはアイマスクをして腕組みをした。彼女は体の大きな黒人女性だ。そのため、ごく普通の日本人女性の体格の私は彼女の隣にいるとやたらと小さく見えるらしい。

「この飛行機、揺れ過ぎてない?」

 寝たふりをする彼女の腕をつつきながら、心配そうに声をかけた。僻地に行くと、本当に飛ぶのか怪しい飛行機によく巡り合うけれど、何度乗っても慣れない。私の手のひらは汗ばんでいた。だいたいこんな鉄の塊が空を飛んでるって変じゃない? こんな重い物が宙に浮くなんて絶対おかしい。小さな窓の向こうを眺めながら、呪文のように変だ変だと呟いていた。私を乗せた中型のプロペラ機の古い機体は、果たしてガタガタと不穏な響きをさせていた。


 ダン、という衝撃と共に飛行機は滑走路に落ちた──ようにしか私には思えなかった。砂っぽい滑走路を、飛行機はズルズルと滑りながら速度を落としていった。やがて飛行機は停まり、乗客たちはシートベルトを外し始めた。私はとりあえず無事だったことに安堵した。

「ここまで来るのに一週間か」

 飛行機のタラップを降りた私は大きく背伸びをして、深く息を吸った。熱い大気が肺の中に充満していくのを感じる。

 ここはアル・アサード空軍基地だ。首都バグダードまで二百キロの距離にある軍用飛行場だ。ユーフラテス川沿いにある。


 ドバイとアンマンを経由して、ようやくイラク国内に入ることができた。それにしてもずいぶん日にちがかかってしまった。最終目的地であるルトバ・キャンプまでは、ここから陸路で五時間ほどの予定だ。

 本来、ルトバに行くにはヨルダンの首都アンマンからバグダードに続く幹線道路を行けば良い。アンマンからイラクの国境まで三百三十キロ、国境を越えたらルトバまで百三十キロ、車で六時間程で行くことができる。しかし今その国境付近で戦闘が起きていることと、ヨルダンがイラクとの国境を事実上封鎖していることから、アンマンから陸路で直接向かうのは難しいと結論づけられた。

 そこで遠回りだが、アンマンから空路でイラク中央部に入り、国連平和維持軍(PKF)のこの拠点からスイス軍に同行してもらって移動することになった。しかし、こちらからのルートでも内戦状態のこの国では何が起きるかわからない。ようやく着いたこの飛行場は、最前線への入り口だった。


 不快だったプロペラ機には、大量の医療物資と食糧が積まれていた。貨物の引き渡し手続きのためにケイ・ブレナンをその場に残し、他のスタッフと共に赤十字国際委員会(ICRC)の車両を呼びに行くことにした。

 アル・アサード空軍基地にはPKFの白い車両が何十台も集まっていた。それらの車体には国際連合のイニシャル「UN」の黒い文字が書かれている。トラックやSUVの他に、装甲車の姿もあった。

 PKFの車両を横目に見ながら歩いて行って、ようやくICRCの車両を見つけた。それらも白い車体であることは同じだが、黒文字で描かれた円の中に赤い十文字が描かれている。私が所属するICRCの車だ。トラックが五台、そしてSUVが二台あった。私たちの姿を見つけて、一人の男が近寄ってきた。


「やあ、お疲れ様。ラシェッドです」

 男が声をかけてきた。彼の名前は、ラシェッド・ハキム・アル=ガーミディーだ。会うのは初めてだが、何度もメールでやり取りしていたからずいぶんよく知っている気がする。ラシェッドはイラクの出身だ。濃い立派な髭をたくわえている。大きな手を差し出してきたので、その手を握り返した。

「カナです。やっと着きました」

「ずっと待っていたよ。このまま君たちが来なかったら、俺たちは何も持たずにルトバ・キャンプに戻るしかなかった」

「お待たせしてすみませんでした。物資はこの後も順次やってきます」

「助かるよ。今この国の民衆には食べ物も水も薬も、すべてが足りないんだ」


 長く続く内戦は、国民からあらゆるものを奪っていた。イラクは疲弊しきっている。国連の報告によると、現在までに二百万人が国外に脱出し、同じく二百万人の国内避難民がいる。イラクの北にあるシリアを目指した民衆が多かったが、国境地帯ではイラク・イスラーム国(ISI)が勢力を強め、大きな影を落としていた。イラクの西にあるヨルダンを目指したのは五十万人、別の情報によると百万人近いとも言われている。

 私たちはヨルダンとの幹線道路上にあるルトバという街の外れに造られたイラク国内の難民キャンプ「ルトバ・キャンプ」を目指す。ルトバは現在、イラク政府軍が掌握し、アメリカ軍も駐留している。そこには現在五千人近い難民が収容されていて、さらに続々と集まってきている。しかし衛生状態は悪く、コレラの発生によってすでに乳児を中心に死亡者が報告されている。今ここで止めないと大変なことになる。

 手元のファイルに目をやりながら、ラシェッドに言った。

「塩化ナトリウム、塩化カリウム、グルコース、重炭酸ナトリウム、これらは指定された数量を用意できています。ただ、抗生物質は足りていません」

「重症患者も出ているから、抗生物質は早めに欲しいところだな。ただ、ルトバで発見された菌はニューキノロン系に耐性があることが確認されたので、エリスロマイシンを追加したいとの報告が来ている」

「では、リストを変更しておくので、後で数量の確認をお願いします」

「ああ、助かるよ」

「汚水処理は進んでいますか?」

「多くの難民たちがトイレの設営に参加してくれているのだが、我々が目標とする必要数にはまだまだなんだ」

 ラシェッドは困ったような表情でため息をついた。彼は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の職員で、ルトバ・キャンプの責任者の一人だ。腕時計を一瞥した後、私に言った。

「トラックへの積み込みが終わったらすぐに出発しよう」



*          *



 ランドクルーザーは果てしない地平線に向かって走り続けていた。

 アル・アサード空軍基地を出て、ユーフラテス川沿いの道を八十キロほど南に行ったところにあるアル・ザイヤで最初の休憩を取った。レストランの隣のガソリンスタンドでの給油が終わるとすぐに出発した。ここで交差する大きな幹線道路を東に行けばバグダードに向かう。西に行けばヨルダンに向かう。私たちは西に進路を取った。


 ヨルダンに続く幹線道路は広く、中央分離帯がある片側三車線の区間もあるほどだ。しかし周囲は見渡す限りの砂漠で、どこまで行っても何も変わらないように思える。走っても走っても車窓の向こうは同じ景色だ。世界の果てを延々と走り続けているだけのような気がしていた。運転手は道を間違えてない? 変わらぬ景色を見ながら漠然と心の中で呟いてみた。一本道だから間違えようもないけれど。

 ヴァレリーがニヤニヤしながら言った。

「あんた、車も苦手なの?」

「車は平気よ」

 私は少しムッとして言い返した。

「地面の上だしね」

 そう言ってヴァレリーはフフンと鼻で軽く笑った。


 砂漠を行くこの車列は、一台のSUVが先頭を走り、四台のトラックを挟んで、その次にもう一台のSUVが続き、最後を残り一台のトラックが走る、といった構成になっている。車列の中程を走る四台のトラックには食料や医療関係の物資がぎっしりと詰め込まれている。

 先頭を走るSUVは、ドライバー以外、武装している。最後尾のトラックも多くの機材を積んでいるが、荷台に設けられたベンチにはICRCのメンバー五人と、武装した兵士が五人乗っている。この兵士たちは、国連平和維持活動(PKO)に参加しているスイス軍だ。彼らがICRCの護衛も担当することになった。

 私たち医療チーム四人とラシェッドは、後ろから二番目を走るSUVに乗っていた。1996年式のトヨタランドクルーザー77だ。二十万キロ以上走っている年季の入った左ハンドルの車だ。


 夕方になって砂嵐がだんだんひどくなってきた。

 車列はやがて古びた街エデッサに着いた。砂嵐の中から唐突に街が現れたように思えた。私たち一行がこの街にやってきたのではなく、映画の背景が切り替わるように、スッと街の風景が目の前に広がったような気がした。

 エデッサは小さな街だった。街道を行き交う旅人たちが時折り立ち寄るだけの、今にも消えそうな砂漠のオアシスだった。まるで蜃気楼の中にいるかのような気がした。アル・アサード空軍基地を出たのが午後三時頃だったので、今日の移動はここまでだ。今夜はこの街で一夜を過ごすことになる。

 見渡す限りの地平線に、ゆっくりと太陽が傾いていく。私たちは街道沿いのモーテルの前に車を停めた。今日一日、プロペラ機と車に乗り続けていたから体が痛い。ラシェッドがモーテルの年老いたオーナーと話しているのを横目に見ながら、凝り固まった体をほぐすため、少し散歩することにした。

 ここは時間が止まったような場所だ。目の前には広大な砂漠地帯が広がっている。荒れた地面を踏みしめて、歩きながら考え込んでいた。


 灼熱の昼が終わり、凍える夜が来る。人々が武器をかざして殺し合っていても、飢えた子供たちが涙さえも枯れたまま無表情に死んでいこうとも、大自然は何も変わらない。この雄大な景色を見ていると、人間の愚かさを思い知らされる。誰かのエゴイズムが誰かを苦しめている。いったい何をやってるんだろう。自問自答を繰り返した。

 その時、私の右足の爪先を何かがかすめた。確かに何かが触れた。思わず驚いて足を引っ込めた。すぐそばの草むらを覗きこんだら、それは琥珀色をしたヘビだった。


 ヘビが私を見ている。じっと見つめている。その目は冷たく、心の奥底まで読み取られてしまいそうな気がした。きっと人間が戦争で殺し合って死に絶えても、きっとこのヘビは生き残るんだろうなと思った。


 そうだ、思い出した。そういえば、バジリスクという想像上の生物がいる。それはヘビの姿をしていて、生きとし生けるものを石にしてしまう恐ろしい力を持っている。この世に砂漠を作ったのはバジリスクだとも言われている。それは畏怖の存在であって、いつか人間を滅ぼしてしまうような死神なのかと思っていた。でも、人間を滅ぼすのはバジリスクなんかじゃない。人間自身かもしれない。


 人間同士が殺し合い、そして人間たちが地球上から消え去ってしまっても、この満天の星空は何も変わらないだろう。いつか来るそんな夜に、果たしてこのバジリスクは愚かな人間たちを思い出して、その夢を見てくれるのだろうか。



*          *



「この街はあたしの生まれ故郷に似ているよ。寂れ具合なんか特にね」

 夕闇が迫ったモーテルの庭に古ぼけたベンチがあった。そこに腰掛けていた私の左に体の大きなヴァレリーがドカッと座った。私はベンチが壊れるんじゃないかと思った。

「ここはアリゾナの風景に似ている」

 彼女が生まれ育ったのはアリゾナ州の田舎で、アメリカ合衆国を横断しているルート66沿いに佇む小さな街だ。砂漠気候の暑い大気にうんざりしながら少女時代を過ごしたと、以前言っていたのを思い出した。

「どこまで行っても地平線しかないんだ」

 ヴァレリーは遥かな地平線を見つめながら言った。アラビアの地平線のその先に、懐かしいアリゾナの風景を見ているのだろうか。


「いつ故郷を離れたの?」

 私の問いかけに、彼女は過去を語り始めた。

「医者を目指していたあたしは奨学金を得てフェニックスの大学に行った。故郷を離れたのはその時だよ。大学を出た後にメディカル・スクールにも通うんだけど、その学費は奨学金だけじゃ足りなかった。働きながらだったから他の人より一年多くかかったね」

「医者になってからはずっと戦地に?」

「五年くらい軍医をやった後にICRCに入った。確かに長いこと戦地にいるね」

「どうしてICRCに入ったの?」

「そうだね、ベトナム戦争で父を助けてもらったことへの恩返しと、父が犯した罪の償いのためかな」

「どういうこと?」

「ベトナム戦争から手を引いたアメリカが軍を撤退させた後、北ベトナム軍がサイゴンに攻め込んできたんだ。だけどその頃サイゴンには、まだ残ってるアメリカの軍人や民間人がいた。軍人だった父もその一人だった。そんな時、アメリカ人の脱出が終わるまで北ベトナム軍に侵攻しないように仲介したのがICRCなんだよ。父はICRCに助けられた。それを後で聞いてね、あたしはlCRCのメンバーになりたいと思ったんだ」

「そんなことがあったのね。じゃあ、罪の償いというのは?」

「アメリカ軍がやったランチ・ハンド作戦を知ってる?」

「枯葉剤ね」

「そう。パイロットだった父は何度も何度も空から枯葉剤を撒き続けた」

 ベトナム戦争でアメリカ軍は森林の中でゲリラ戦を仕掛けてくる北ベトナム軍に対し、大量の枯葉剤を空中から散布するランチ・ハンド作戦を実行した。それは1962年から1971年まで十年もの間続けられた。枯葉剤が撒かれた地域で奇形児の出生率が異常に高くなっていることをアメリカ国内外の研究機関が発表し非難したが、アメリカ軍は作戦を強行し続けた。

「父は、数え切れないほどの奇形児が生まれてしまったのは自分のせいだと後悔していた。枯葉剤なんか撒かなきゃ、子供たちは健康な体で生まれたかもしれないんだ。正気な目じゃ見ることもできない恐ろしい奇形もたくさんあった。戦争は人間に許された行為じゃない。やっちゃいけないことなんだよ。だからあたしはせめて戦地で苦しむ人たちを助けたいんだ。父が犯した戦争という大罪を償うためにね」

 そう言ってヴァレリーは唇を噛み締めた。

「そうだったのね。お父さんは今どうしてるの?」

「サイゴン陥落の直前に父は家に帰ってきた。1975年のことだから、あたしが八歳の時だ。でもね、帰ってきた父はもうあたしの知ってる父じゃなかった。感情的でひどく乱暴な人になってた。そして心を病んだまま死んじまったよ」

 彼女の言葉を黙って聞いていた。深刻な表情をしている私をちらっと見て、彼女はニコリと笑った。

「そうそう、もう二十年以上前になるかな。フェニックスの大学にいた頃『バグダッド・カフェ』っていう映画が公開されてね。その舞台があたしの故郷のモハーヴェ砂漠だったんだよ」

 モハーヴェ砂漠はアメリカでも随一の広さを誇る砂漠地帯だ。ヴァレリーが生まれ育ったアリゾナの街はそこにある。

「あたしはその映画を何度も見ては故郷を思い出してた。ベトナム戦争に行く前の、優しかった父との記憶をね」

 そしてヴァレリーは静かに歌い始めた。彼女が口ずさんだ歌は1985年に公開された旧西ドイツの映画「バグダッド・カフェ」で使われたジェヴェッタ・スティールの「コーリング・ユー」だ。

 黒人特有の伸びやかで音域が広い歌声は、大してきちんと歌っていないのに、映画のシーンの中に私の意識が溶け込んでいくのに十分だった。艶めかしい高音を纏って、砂漠の風がスロー再生のようにゆっくりと流れていく。退廃的で、それでいて心地よい気怠さに、今にも時が止まってしまいそうな感覚に落ちる。

 

 その歌が彼女の心を遠い故郷に導いたのだろうか。視界の片隅で、彼女の目から涙がこぼれ落ちたのに気付いた。でも私は地平線から視線を外すことはなかった。そっと彼女の右手に触れた。ヴァレリーの悲しみも思い出も彼女だけの物。だから今は、ただ黙ってそばにいよう。静かな時間と夕闇が、彼女の心を優しく包み込んでいくように。



*          *



 その夜のことだった。突然の衝撃が私の心臓をドンと押し潰した。


 私の眠りを妨げたのは、外で轟いた激しい銃撃戦の音だった。驚いてとっさに飛び起きた私を同じ部屋で寝ていたヴァレリーが制した。彼女はすでに起きていて、窓のカーテンを少し捲って外を見ていた。銃を撃ち合う音が衝撃波となって窓ガラスをビリビリと鳴らしている。

「どうしたの?」

 小声でヴァレリーに聞いた。

「襲撃だ」

 窓の外に目を凝らしながらヴァレリーは答えた。

「私たちを? 赤十字の旗は見えてないの!?」

「赤十字だろうと赤新月だろうと、何とも思わない奴らもいるんだよ」

「そんな!」

「国連軍にしても内戦に首を突っ込んできた部外者だって思われてる」

「私たちはこの国の人たちを助けるために来ているのに!」

「こんな泥沼の戦争に、正義を振りかざしたって通用しないんだよ」

 これまで幾つかの紛争地に派遣されてきたが、襲撃に遭遇したことはなかった。戦争で傷ついた人々を救済することが私の仕事だから、戦争の前線にいても私たちのような赤十字や、イスラーム教圏の赤新月は、その名の下に安全は保障されているといつの間にか思い込んでいたのかもしれない。そんなのは私の思い上がりだった。自分の軽率さを今さらながらに恥じた。


「落ち着いて、大丈夫だから」

 ヴァレリーは私を諭すように言った。明らかに私は動揺していた。私が取り乱したりしないように気を遣ったのだろう。

「いつでも逃げられるように準備をしておくんだ」

 ヴァレリーはそう言うと、私に赤十字の白いウインドブレーカーを渡した。

「夜は冷えるからね」

 呑気そうなその一言は私への配慮か。私は強張った表情のまま、それを受け取った。そして彼女は私のバッグも取ってくれた。そこには大切な手帳も入っている。


 窓の外をそっと覗くと、スイス軍の兵士たちが暗闇に向かって発砲しているのが見えた。彼らの緊迫した怒号が聞こえる。敵の姿は私の位置からは見えない。敵はどこにいるの? 誰が襲ってきたの? 激しい息苦しさを感じた。恐怖で息ができない。


 そのとき、私たちの部屋のドアが激しく叩かれた。ドアの外からスイス兵の怒鳴り声が聞こえた。

「ここから出るんだ!」

 兵士は叫んだ。

「車で逃げろ!」

 私たちは急いで部屋の外に出た。銃撃戦が起きているのとは反対側だ。車もこっちにあったはずだ。だが、私の足は思ったように動かなかった。こんなに激しい銃撃戦を目の当たりにしたことなんてない。足がガクガク震えている。

 建物の外に出た途端、激しく転倒した。勢いで投げ出された私のバッグをヴァレリーが拾い上げた。暗闇で何も見えなかったのか、それとも私を襲う恐怖が視野を奪ったのか。私の視界は暗闇だった。


 突然、辺りがパアッと明るくなった。照明弾が打ち上げられたらしい。

 誰かが叫んだ。

「グレネードだ!」

 その声とともに、銃撃戦の音が一瞬止んだ。そして、ヒュウッという風切り音が聞こえた気がした。次の瞬間、私の体は突然の爆風に吹き飛ばされた。

 ランチャーから放たれたグレネード弾が、私がさっきまでいた建物を木端微塵にした。私は固い地面に叩きつけられ、うつぶせのまま何メートルも滑っていった。


 衝撃で意識が朦朧としている私をヴァレリーが抱え上げた。私に向って何か言っている。でも私の耳は彼女の声を聞くことができなかった。ひどい耳鳴りがする。頭が痛い。ヴァレリーは私を無理やりランドクルーザーの後部座席に押し込んだ。そして私のバッグを車内に投げ込むと、彼女自身も乗り込んだ。


 私が何とか座席に座った時、左にある運転席のドアが開いてケイが乗ってきた。車の外でラシェッドがケイに何か叫んでいる。ケイはそれに大きな声で何か答えた。なんて言ってるのかわからない。急にケイが後ろを向いて私に何か言った。なんて言ってるの? わからない。それより私は頭が痛い。

 ケイはエンジンのスイッチを入れた。恐る恐る窓の外を見た。モーテルの出入り口から、同僚のフランス人医師シャルル・ラロッシュが走り出してきた。この車に向かって走ってくる。シャルルと目が合った。そのとき彼の目がカッと見開いた気がした。彼は一瞬棒立ちになり、突然大きくのけぞった。彼の胸から何かが飛び出してきた。血しぶきが上がり、それはスローモーションのように飛び散った。


 ランドクルーザーは勢いよく走りだした。反動で背もたれに肩を強くぶつけた。私は後ろを振り返った。リアガラスの向こうに数台のジープが追いかけてくるのが見えた。銃を持った男がジープから身を乗り出して、その銃口をこちらに向けている。

 突然、車体にガン、ガン、という大きな音が響いた。その直後、リアガラスがパンと割れた。キラキラ光るガラスの粒が私の視界で弾け飛んだ。私は驚いて悲鳴を上げた。ケイはアクセルを強く踏みつけ、車はモーテルの柵を突き破って敷地から外へ飛び出した。左の頬に熱い痛みを感じた。おぼろげな私の視界で、ヴァレリーが何か叫びながら私の頭を抑えた。私の耳の前にある動脈を圧迫している。やめてよ、私は頭が痛いの。あなたは力が強過ぎる。私はヴァレリーに悪態をついた。でもそれが声になっているのかはよくわからなかった。


 ヴァレリーは医療器材の箱のロープを片手で外した。ロープは激しく揺れる車内で飛び跳ねた。彼女はタオルを私の頭にあてがい、私の右手を持ち上げてそのタオルを私に押さえさせた。そして脱脂綿で私の頬を拭いながら、私の頬に刺さった何かを抜き取った。ヴァレリーが私に何か言ってるけれど、わからないよ。車の激しい振動でロープが飛び跳ねている。目の焦点が合わない。飛び跳ねるロープはまるで生きているヘビのようだ。


 ああ、そうか。このヘビはバジリスクだ。私を殺しに来たのね。私は漠然と思った。迂闊で思い上がった私を冷たい瞳で石にしてしまうのね。そうだった。ここはバジリスクの大地なんだ。


 私の記憶が乾いた皮のように剥がれ落ちていく。遠のく意識の向こう側で、銃声が私をどこまでも追いかけてきていた。

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