第5章 肩の傷と心の痛み

 放課後の校庭に生徒たちの声がこだましている。爽やかな風が校庭を囲む桜の樹々の葉を揺らしている。サワサワとした音が心地よく私の耳をかすめていく。肩にかかる私の髪が微かに揺れる。梅雨の足音はまだ遠く、清々しい大気がこの世界を覆っている。私は校庭の端の段差に腰を下ろし、部活に励む中学生の姿を見ていた。


 私の視線の先には一人の少女がいた。


 教師が出す合図とともに、生徒たちが次々に走り出す。やがてその少女の順番が来た。しかし、教師は意図的に合図を出すのを遅らせている。その理由は明らかだった。彼女はあまりにも足が速すぎるのだ。

 先を走っている生徒がトラックの半分あたりまで行った頃、教師がようやく合図を出した。静止していた少女の小柄な体に瞬間的にスイッチが入り、彼女は走り出した。走るというよりも、それはまるで小さなグライダーが地上スレスレを滑空しているかのようだった。あっという間にトップスピードに達し、彼女のシューズに埋め込まれたスパイクピンは、もはや地上を捉えてなどいないように思えた。

 トラックを一周走り終えた彼女にその疲れは見えない。数回軽く肩で息をしただけで、涼しい表情のままだ。しかし、他の部員と言葉を交わすこともなく、隅で所在無さげにしている。走り出す生徒たちを見ながら、次の順番が来るのを待っている。


 校庭を心地よい日差しが照らしている。私は自分の左肩に手を当てた。そこには消えない傷跡がある。もしかしてこの傷は、少女と自分を結ぶ絆かもしれないと、自然とそう思えた。



*          *



 私が少女と出会ったのは2003年9月のことだ。


 十字架が掲げられた建物の入り口の前で、少女が車から降りてくるのを待っていた。

 ここは房総半島の外房の街、東金にある聖エリザベト・チルドレンズ・ホームだ。キリスト教の一教派である聖公会が設立した聖エリザベト病院の系列にある規模の大きな児童養護施設だ。親が育てることができない子供たちが百人ほど暮らしている。この頃、聖エリザベト病院での看護師としての勤務の他に、小児医療の一環として週の半分はチルドレンズ・ホームに出向していた。

 先に車から降りてきた女性職員に促されて、八歳の少女が降りてきた。はっきりした顔立ちの少女だ。汚れたリュックを背負い、右手には三十センチほどの大きさのクマのぬいぐるみを抱えていた。クマの左腕は千切れかけていた。

 その瞳は、母親から受けてきたひどい虐待により、戸惑いと恐怖で硬直していた。その心情を察し、そっと少女の前にしゃがんだ。その目線と同じ高さになって、笑顔で話しかけた。

「はじめまして、私、カナっていうの。北沢カナ。これから私たちと一緒に暮らそうね」

 少女は何も答えなかったが、一瞬、私と視線を合わせた。すぐに目を逸らしてしまったけど、それで十分と思った。

 私は少女の前に手を差し出してみた。少女が望めば手を繋ぐことができるように。でも少女はクマのぬいぐるみを両手でぎゅっと強く抱き締めた。それは予想通りの行動だった。私は少女がこれまで過ごしてきた時間がそうさせたことを理解していた。

「そのクマちゃん、名前はあるの?」

 少女は小さな声で答えた。

「——ミオ」

 その名前にドキリとした。私はミオという名前が嫌いだ。一瞬の間があいてしまったことに気付き、慌てて言葉を続けた。

「そっか、ミオちゃんって言うのね。ミオちゃんも一緒に暮らそうね」

 クマのぬいぐるみに向かって笑顔で話しかけた。そして視線を上げて亜矢に言った。

「亜矢ちゃん、ここがあなたの新しいおうちだよ。お友達もたくさんいるんだよ」

 私が亜矢ちゃんと呼んだ少女は、ざわつく声に気が付いた。亜矢がそちらのほうに目をやると、建物の窓から数人の子供たちがこちらを見ていた。

「中を案内するからおいで」

 優しく、それでいて元気な声で亜矢を招いた。亜矢は怯えた瞳で辺りをキョロキョロ見回していたが、先に建物の中に入っていく私の姿を見て、少し焦ったように後を追ってきた。そんな亜矢がとても微笑ましく思えた。


「あの子、阪神大震災の日に生まれたのよ」

 職員室で児童指導員の年配の女性が私に言った。

「当時神戸に住んでて、産気づいた母親は大震災で燃える街を自力で歩いて病院に行ったらしいのよ。でも病院は怪我人で溢れてて大混乱だったみたい」

 1995年1月17日、午前5時46分、淡路島の北にある明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の大地震が発生した。阪神・淡路大震災だ。死者6434名、行方不明者3名、負傷者43792名という甚大な被害をもたらした。

「命懸けで子供を産んだんですね。なのに何で虐待なんか──」

「きっと地獄を見たんだろうね。児相からの報告によると、神戸を離れて千葉に来てから母親は重度のPTSDを発症してる。それが子供への虐待という形になったんだ」

 彼女は児童相談所から届いた資料を捲りながら話し続けた。

「亜矢は毎日のように殴られて全身痣だらけだったのに、母親から引き離そうとしても、そのそばから離れようとしなかった」

 子供を守ろうとする母性を持ちながらも、燃え盛る街を歩く恐怖が母親の心の堰を壊してしまったのだろう。母親は罪を犯したが、それを責めることができるのか。けれど、虐待を受けた亜矢の不幸はもう取り返しがつかない。亜矢の心を思うと胸が痛んだ。せめて亜矢がこの場所で幸せを感じられるようになれるといいと、心から思った。


「変わった名字ね」

 女性は資料を見ながら言った。

「『あがりえ』って読むのね」

 私も資料に視線を落とした。東江と書いて「あがりえ」と読む。朝日が昇る東の海辺に由来する、沖縄の珍しい名字らしい。母親は一人で神戸にやって来てシングルマザーとして亜矢を生み、育ててきたようだ。

「クマのぬいぐるみが宝物みたいね」

 その言葉に、私の胸がざわついた。

 私は十一歳になったばかりの頃に、アヤという名の八歳の少女を死なせてしまったことがある。その記憶は私の心の一番深い所に棲みつき、時折り苦しい呻き声をあげる。もしかして、あの時の少女が罪深い私に罰を下しに来たのだろうか。すべてはあのミオという名のぬいぐるみが知っているのかもしれない。

「あのぬいぐるみがあの子にとってたったひとりの仲間なのかもね。ミオってイタリア語で『私の物』っていう意味じゃなかった? ア・モーレ・ミオってね」

 彼女はそう言って一人でクスクス笑った。私は何も答えなかった。

 私の物か。確かにそうかもしれない。私は知っている。

 ミオはここ九十九里に伝わる恐ろしい言葉だ。私が死なせたアヤを暗闇へと引きずり込んだ魔物の名前だ。アヤはミオに捕らえられた。ううん、魔物は私かもしれない。浅はかな子供だった私がアヤを暗闇へと追い立てた。あの子を指差した私の罪は消すことはできない。

 亜矢は私に罰を下すために、生まれ変わって私の前にやって来たのだろうか。


 事件はその日の夜に起きた。


「カナちゃん!」

 この施設で暮らしている中学生の女の子が職員室に飛び込んできた。私は子供たちからは親しみを込めて「カナちゃん」と呼ばれている。その子の表情は青ざめていた。

「どうしたの?」

 帰り支度を始めていた私は、無機質な白い蛍光灯に照らされたその表情に瞬間的に嫌な予感を覚えた。

「来て! あの子が!」


 私は彼女の後を追いかけて急いで部屋に走った。部屋の前の廊下に集まっている子供たちを掻き分け、部屋の中を見た。六畳ほどのその部屋には二段ベッドが一つ置かれている。そのベッドの向こう、亜矢は窓際に立っていた。その両手には、裁縫用の尖った裁ちバサミが握られていた。ハサミの切っ先は亜矢自身に向けられている。亜矢はガタガタと震えていた。

「ちょっと! どうしたの!?」

 私は驚いて、思わず大きな声を上げてしまった。

 とっさに部屋の中に足を踏み入れた私に対し、亜矢はハサミを向けた。

「そんな危ない物、どこから」

 私の驚きを掻き消すように亜矢は聞き取れない言葉を発した。それは獣の唸り声のようにしか聞こえなかった。

 私は慌てて足を止め、意識的に一度深く息をした。そして亜矢に声をかけた。

「ごめんね、びっくりさせちゃったね。大丈夫だよ、亜矢ちゃん」

 亜矢は震えながら首を激しく何度も横に振った。助けを求めてきた女の子が不安そうに私に言った。

「あの子、着替えないから、私が着替えさせようとしたの。そしたら急に暴れ出して、私の裁縫箱からハサミ取ったの」

「ううん、いいのよ。亜矢ちゃんは人と触れ合うのがまだちょっと苦手なんだ」

 そうか、痣のことを忘れていた。なんて迂闊だったんだろう。私は唇を噛みしめた。忙しかったから? そんな言い訳が頭をかすめた。そんな自分のいい加減さに無性に腹が立った。


 私は亜矢のほうに向き直った。

「大丈夫だよ、亜矢ちゃん。なんにも怖くなんかないよ」

 そして、その場にしゃがんで両手を広げ、怯える亜矢に精一杯の笑顔を見せた。

「こっちにおいで。私、亜矢ちゃんと抱き合いたいな」

 抱き合いたい、その言葉を聞いたとき、亜矢の瞳は明らかに動揺した。涙がいっぱいに溜まっていたからなのか、それとも亜矢の心が大きく揺れたのか、私にそれはわからなかったけれど、自分の心が亜矢に伝わったのを感じた。


 亜矢は少しずつ、私に近付き始めた。私は動かず、その場でしゃがんだままじっと待った。亜矢が自分の意思で私の元に来るのを待った。子供たちも固唾を飲んでその様子を見つめていた。

 あと一歩で亜矢に手が届く。それでもじっと待った。亜矢はそれまで両手で握り締めていたハサミから左手を離した。亜矢は最後の一歩を踏み出した。


 目の前にしゃがんでいる私の首に、亜矢は恐る恐る両手を回した。その右手にはハサミが握られたままだったけれど、確かに亜矢の両手は私を求めた。亜矢はポロポロと涙をこぼしていた。その涙が私の肩に落ちて、その温かさに心が痛いほど締め付けられた。

 そっと亜矢の腰に両手を回し、その小さな体を静かに抱き寄せた。亜矢の両手が自分の首に触れていくスピードと決して違わないように、亜矢の心と一つになるように。


 そのとき、廊下の向こうから走ってくる大きな足音がした。そして、慌てて駆けつけてきた男性職員の大きな声が響いた。

「何やってるんだ!!」


 私にはその後の記憶がない──


 気が付いた時、私は病室のベッドの上にいた。ふと、左肩に激痛を覚えた。

「痛っ」

 左肩が激しく痛む。心臓が脈を打つ度に痛みが襲ってくる。左腕を上げることができない。なぜ?と自分に問いかけたけどわからない。記憶を手繰り寄せ、亜矢をそっと抱きしめたところまでは思い出した。そして、男性の大きな声。その直後に耳元で鳴り響いた亜矢の狂ったような叫び。

 そこから先はわからない。ただ、自分の左肩がすべてを物語っている。左肩は激しく痛むけれど、千切れてしまいそうな亜矢の心の痛みの深さを思うと、胸の奥を圧迫されるような酷い重みを感じた。



*          *



 大怪我を負った私が元の職場に復帰することはなかった。できることならもう一度亜矢と向き合いたかったけれど、それは始めから叶わないことでもあった。

 亜矢がこの施設にやってきた頃、私は聖エリザベト病院とチルドレンズ・ホームを退職し、出身校である日本赤十字看護大学の恩師の伝で赤十字国際委員会(ICRC)で働くことが決まっていた。

 しかし、結果的に私が亜矢の心に深い傷を負わせてしまった。その思いが拭えなかった。もう一度会いたかった。そして亜矢が自立するのを見届けてあげたかった。


 退院した後の数日間、旅立つための支度に追われていた。別れを告げるために施設を訪れたのは、怪我をしてから二ヶ月ほど経った11月のことだった。

「カナちゃん!」

 久しぶりに施設を訪れた私に、別れを惜しむ子供たちが抱きついてきた。小さな子たちが足にまとわりつくから動きが取れない。私は思わず苦笑いをした。

 年長の男の子が色紙を持ってきた。その色紙には、旅立っていく私に対するメッセージが寄せ書きされていた。子供たちの想いがたくさん綴ってある。

「これ」

 彼は照れくさそうに、一言だけそう言って渡してきた。

 隣にいた女の子が心配そうに言った。

「カナちゃん、戦争してるとこに行っちゃうんだよね?」

「うん、そう」

 私は明日、ジュネーブに向かう。そこでICRCの研修を受けた後、世界のどこかの紛争地域に派遣されることになる。

「戦争してるところでね、たくさんの子供たちが困ってるの。食べる物がなくてお腹を空かせてたり、病気になって苦しんだりしているの。そういった子供たちを助けたいんだ」

 私の言葉に、その女の子は大きく頷いた。

「カナちゃん、頑張ってね。私も大きくなったらカナちゃんみたいになる!」

 自分の生き方が、ここにいる子供たちの未来に向かう力になるなら、なんて素晴らしいことだろう。


 子供たちに囲まれながら、私の視線は亜矢を探していた。そんな私に気付いたのか、中学生の女の子が私に言った。

「亜矢は部屋に閉じこもってるの」


 施設を後にした私の前を、深まる秋の風が吹き抜けていく。道端を埋める銀杏の落ち葉が街を黄色に染めている。

 私にとっての心残りは、亜矢のことだった。遥かな遠い国へ旅立とうとしている私の心に、あの子の存在が影を落としている。それはどうしても消すことができない。せめてあの子の笑顔を見ることができたなら、その影は秋の風にさらわれる砂のように消えていくと思うのだけれど。



*          *



 それからの三年半はあっという間だった。


 ようやく日本に帰ってきたのは2007年5月のことだった。私はすでに三十歳になっていた。帰国したものの、数日後にはヨルダンとの国境に近いイラクのルトバに向けて出発することになっていた。私の新たな派遣先であるルトバには難民キャンプが設営されていて、イラクの内戦から逃れた人々が集まってきている。わずか数日の日本での滞在だったが、私にはやっておきたいことがあった。

 あの事件の後、亜矢は施設で元気に過ごしているのだろうか。あの日、私がしっかりしていれば、亜矢があんな事件を起こさずに済んだのではなかったか。遠い外国にいても、悲惨な紛争地域にいても、ずっと後悔の念から解放されることはなかった。その迷いの答を知るために、帰国後、私は聖エリザベト・チルドレンズ・ホームを訪れてみた。

 多くの子供たちは学校に行っている時間だったが、久しぶりに顔を合わせた職員たちとの会話に夢中になった。そうこうしているうちに、小学校に通っている児童たちが帰り始めてきたので、その子たちに取り囲まれ、懐かしい気持ちで一杯になった。ようやく子供たちから逃れ、施設長室に向かった。


 あいにく施設長は不在だった。温好で教育熱心な施設長に再び会いたかったがそれは叶わなかった。すると施設長室の隣の部屋から一人の男性が出てきた。男性は、昨年赴任してきた事務長の岡本だと名乗った。

 私も名乗ると彼は軽く笑いながら言った。

「知ってますよ。あなたは有名人ですから」

「有名人?」

「あれはとんでもない事件でしたからね」

 亜矢が私を刺したことを言っているようだ。私は何と答えたらいいか迷った。

「施設長に何か用事でしたか?」

「あ、はい。亜矢ちゃんの最近の様子を知りたくて」

「あなたが?」

 事務長は私の顔を覗き込んだ。

「外部の方に子供たちのプライベートについては教えられないんですよ」

 冷たいその言い方に私はちょっと苛ついて、すぐに言葉を返した。

「いえ、私、聖エリザベトの一員です」

 そう言った私の顔を事務長はさらに覗き込んだ。自分の主張の曖昧さに少し後ろめたくなった。実際には聖エリザベト病院もチルドレンズ・ホームも退職しているから、私が言いたかったのはそういう気持ちでいるということに過ぎない。

 事務長がそれをどう理解したかはわからないが、私たちの目の前にある応接室を手のひらで指し示した。

「中で少し待っていて下さい」

 彼はそう言って私を応接室に案内した。数分後に彼はファイルを手に戻ってきた。


「東江亜矢ね。気になるんですか?」

 事務長はファイルをパラパラと捲りながら、私のことを見るでもなく尋ねた。

「はい、気になってます」

「なら、ここを辞めずに亜矢と正面から向き合ったらよかったのでは? 逃げるように辞めたりするから気になるんです」

 姿勢を変えずに視線を私に向けた。思わず言い返した。

「私、逃げてなんかいません!」

「事件の後、そのまま辞めたでしょう。記録にそう書いてありますよ」

「あの時はもう辞めることが決まってたんです。残り数日だったんです」

「まあ、事情は知りませんが。えーと、転勤先は赤十字病院?」

「赤十字国際委員会、ICRCです。紛争地域で医療活動をしてます」

「立派ですねえ。若い女性で紛争地域に行こうなんてそうそういないでしょう?」

 この人は私を馬鹿にしているのか、それとも普通に話していてもこういう言い方になってしまうタイプの人なのか。

「看護大学で赤十字国際活動論のゼミに入ってたんです。それで国際貢献に興味が出て」

「それで?」

「え―と、それで、私が四年の時に東ティモールで内戦が起きまして、卒業して看護師二年目の時に短期研修で現地のディリ総合病院にICRCの活動を見学しに行ったんです。そこですごく感銘を受けて、私もこれだって」

「ああ、あなたの事はもういいですよ」

 事務長はファイルに視線を落としたまま、私の話を断ち切った。聞いてきたくせに何だと思ったが、私はその先の言葉をすっかり失くしてしまった。この人とは話しにくい。


 妙な沈黙の後、事務長は話し始めた。

「亜矢は今年の1月に十二歳になりましたが、相変わらず他人を一切受け付けないんですよ。いや、他人どころか、身寄りがないから人間を一切受け付けないといったほうが正しいかもしれませんね」

 事務長は亜矢について語り始めた。気になっていた事を尋ねることにした。

「身寄りといえば、あの子の母親はどうなったんですか?」

「自殺しました」

 あっけない返事に思わず絶句した。亜矢の母親は著しい心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療のために専門の施設に入所していたはずだが、立ち直ることなく自ら命を絶ってしまったのか。

「亜矢はほとんど口をききません」

 事務長は続けた。

「笑うこともありません」

 私は返す言葉が見当たらなかった。

「他の子たちと一緒に遊ぶこともなく、礼拝室の隅で一人ぼっちで本を読んでいるのをよく見かけます。ですが、いいこともあるんですよ」

「え? それはなんですか?」

「あの子、走るのがすごく速くてね。六年生の時、千葉県で一位になったんです」

「そうなんですか! すごい!」

「先月、中学に進学しましたが、陸上部に入りましたよ」

「じゃあ頑張ってるんですね」

「スパイクを買いに行くとき、施設長が自ら付き添ったんですが、その時はいつものきつい雰囲気とは違ったような気がしたそうです。陸上競技はきっとあの子にとって大事なものになるんじゃないでしょうか」

「よかった。スポーツで人との関わりができるようになるかもしれないですしね」

「今日も部活をやっていると思います」

「私、部活の様子を見に中学校に行ってみてもいいでしょうか?」

「まあ、それは構わないと思いますよ」

「あの子と話をしてみたいのですが」

「いや、それは遠慮していただけますか?」

「え? それは何故ですか?」

「あなたとの事件の記憶が甦ってしまうかもしれないじゃないですか」

「ですが──」

「せめて遠くから見るだけにしてください。私たちは時間が解決するのを待っているんです。そのくらいは気を遣っていただけますか?」

「そうですか。すみませんでした」

「わかってくれればいいんです。今から行くなら、私から学校に連絡しておきますよ」

「はい、お願いします。それと、できれば今のあの子の姿が写っている写真をいただけませんか?」

「ああ、そうですね。あなたが知っている亜矢は八歳でしたね。子供の成長は早いですからね」

 事務長はそう言うと、ファイルの中から数枚の写真を出し、そのうちの一枚を私に手渡した。記憶の中の亜矢は小学三年生だったけど、そこには中学の制服を着た初々しい亜矢が写っていた。子供はあっという間に大きくなる。少し不機嫌そうな表情をしているのが、逆に可愛らしく思えた。

「この写真を持っていっていいですよ。データからまたプリントしておくので」


 事務長にお礼を言って、急いで施設の外に出た。彼の言葉に複雑な思いはあったが、それでも何だかとても嬉しい気分だった。小走りで中学校に向かい始めた。

 中学校に着き、守衛室で受付をした後、校門をくぐった。校庭の真ん中にはトラックがあり、陸上部の生徒たちが走っている姿が見えた。心なしか鼓動が激しくなるのを感じる。自然に息も荒くなってきた。ひどい動悸。私が走ってるわけじゃないのに。思わず苦笑した。

 校庭の周囲には桜の木立が並んでいて、その前にはコンクリート製の四段ほどの階段がある。私はその階段に腰を掛けた。ここから亜矢を探そう。


 放課後の校庭は時間がゆっくり流れているようだった。穏やかな日差しと、生徒たちの遠い声。私が亜矢を見つけるのは容易いことだった。安堵とともに、不思議な幸福感を覚えた。私は亜矢がひたむきに走る姿を飽きることなく見つめ続けていた。


 閉ざされた彼女の心はいつか解き放たれるだろうか。事務長が言うように、このまま彼女を避けているべきなのだろうか。亜矢の存在はあのときのハサミの形のまま、私の心に刺さっている。それと同じように、私こそが彼女の心に深く突き刺さってしまっているのだと思う。


 私は、子供の頃に死なせてしまったアヤの影を亜矢に重ねていた。思い悩む私の前を、心地よい五月の風が吹き抜けていった。

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