第4章 錆びた蝶番
僕が育ったマラカンダ村はもうどこにもない。僕に名前をくれた指導者ジャッシムも、僕を救ってくれた兵士も、そして大好きだったカラフもいない。今の僕にとって、小さくて生意気なアイシャと、聡明な片目のバドゥルだけが家族なんだ。三人で暮らすこの朽ちかけた小屋が僕の居場所。小屋の隣にそびえているコトカケヤナギが僕たちを見守っている。
この前の空襲以来、街は不気味なほど静かだ。しかし、砂漠の外れにひっそりと佇ずむセルジュークから確実に人が減っていた。
この前盗んできた缶詰もだんだん数が減ってきた。そろそろどうにかしないといけない。風邪をひいても怪我をしてもいつか自然に治るけど、飢えだけは時間が解決してくれるものじゃない。食料を手に入れなくてはならない。
缶詰が一つ減り、二つ減るたび、僕の焦りは強くなってきた。
「ターリック、食べないの?」
アイシャが聞いてきた。僕の目の前に、蓋が開いたまま放置されている豆の缶詰があった。アイシャとバドゥルが食べた後の残りだ。
「ああ、今はいいや」
「おなかすいてないの?」
その質問には答えず、別のことを言った。
「しまっておいてくれよ」
アイシャは少し怪訝そうな表情をしたけど、僕に言われた通り豆の缶詰を片付けた。多少の空腹は時間が経てば忘れる。これは飢えじゃないんだ。
「ちゃんと食べたほうがいいよ。まだ缶詰あるんだから」
アイシャがそう言ったけど、何も答えず床に寝転がり、後ろを向いた。
「ねえ、ターリックが食べないと心配だよ」
「……」
「豆、嫌いじゃないよね?」
アイシャの問いかけに、背中を向けたまま何も答えなかった。
「体の具合でも悪いの?」
「なんでもねえよ」
アイシャのほうを振り向くこともなく、ぶっきらぼうに答えた。
「ねえってば」
「うるさい!」
僕の突然の怒鳴り声に、アイシャはびっくりして返す言葉が出てこなかった。自分が思わず声を荒げてしまったことに自ら驚き、僕はとっさに体を起こしてアイシャを見た。
アイシャは黙って小屋を出て行った。蝶番がひどく錆びていて、小屋のドアは鈍く軋んだ。そしてドアを閉めるときに、小さな声でごめんなさい、と言った。
言い訳が見つからなかった。怒ったわけじゃないんだ。お前のためなら何でもできる。たとえ自分が飢えてでもお前を飢えさせたりしない。だけど、缶詰は残り少ないんだよ。先が見えてる毎日に、自分の不甲斐なさを思い知る。それは焦りとなり、やがて苛立ちとなる。
それを幼いアイシャにぶつけてどうする。僕の心は葛藤していた。
* *
あくる日の朝、イブラヒムが小屋にやってきた。今日もいつもと同じ古ぼけたカフタンを着ている。彼はランタンに使うオイルを持ってきてくれた。あまり多くはないから大事に使え、と言った。そして彼は手招きをして、僕を外に連れ出した。イブラヒムはコトカケヤナギの木陰の下の瓦礫に腰を掛けた。
「噂だがな」
最初にそう前置きをした。
「ここからかなり遠い場所だが、ずっと西の方に難民キャンプがあるらしい」
「難民キャンプ?」
初めて聞く言葉だった。
「この戦争で行き場をなくした民間人を救ってくれる場所だ」
「え? そこに行けば食べ物がある?」
「私もよくは知らないが、おそらくそうだろう」
「じゃあ、俺たち、そこに行ったほうがいいよね?」
曖昧でも確信が欲しかった。
「ああ、行ったほうがいいと思う」
「よかった!」
強い安堵が僕を包んだ。
「どう行けばいいのか教えてよ」
「私もまだ場所は知らない。ただの噂なんだ」
「えー?」
不満そうな僕に、イブラヒムは微笑みながら、古い一枚の新聞の切れ端を見せた。
「何それ?」
「赤十字だ」
その新聞紙には、小さな建物の前に多くの人々が笑顔で集まっている写真が載っていた。中心にいる数人が白い旗を持っている。その白い旗には、黒文字で作られた円の中に赤い十文字が描かれたマークがあった。
「十字架? キリスト教?」
「いや、違う」
新聞の文字は英語のようで僕には読めない。僕はアラビア語しかわからない。
「なんて書いてあるんだ?」
「義肢センターが建設されたっていう記事だ。もうずいぶん前の話だがな」
「義肢センターって?」
「戦争や地雷のせいで手足を失った人たちのために、義手や義足を作る場所だ」
「それがどうしたの?」
「このセンターから帰ってきた人から聞いた情報なんだ」
「ここの人たちがそのキャンプをやってるんだね?」
「そうではないようだが、何か関係があるようだ」
「それがどこにあるか教えてよ」
急かすように僕は言った。
「今調べている。わかったら必ずお前に教えるよ」
「絶対だよ。頼むよ!」
その日を境に、イブラヒムからの連絡を待ち続けた。しかし、何日経っても音沙汰はなかった。
心配になった僕はイブラヒムやその仲間たちが住む家に行ってみた。
古ぼけたドアの鍵は壊されていた。ドアを開けて中に入った。そして、すぐに気が付いた。家の中がひどく荒らされている。襲撃を受けたんだ。
家の中央にある祭壇が滅茶苦茶に破壊されていた。祭壇に置いてあったはずの十字架が、無残に折られて床に落ちている。僕はその十字架を拾い上げた。この家は、アッシリア東方教会の信者たちの拠り所だ。イスラーム世界の片隅で、僅かなキリスト教徒たちが身を寄せ合って暮らしていた。
そして、一番奥の部屋で、喉元を切り裂かれて死んでいる老人を見つけた。それはイブラヒムだった。でも僕は驚かなかった。折れた十字架を彼の胸の上に置き、この家を後にした。
イブラヒムを襲ったのは誰なのか。異教徒を弾圧する自治政府の手の者か。それとも彼に恨みを持つ者の仕業か。
彼は、僕たち三人をこの家には住まわせなかった。それはいつか来るこの日を予感していたのかもしれない。
それでも、イブラヒムが教えてくれた難民キャンプの話は僕にとって大きな希望になった。そこに行けば飢えなくて済むはずだ。早く二人を連れて行きたい。なんとかそこに辿り着きたい。希望は僕に力を与えた。いつかそこに辿り着くまで、絶対に二人を守ってみせる。
* *
アイシャとバドゥルは草を集めに行った。
どの草が毒で、どの草なら食べられるのか、バドゥルは十分に学んでいた。僕たちが育ったマラカンダ村は、戦場で生き抜くための知恵を教えてくれていた。兵士ならどんな過酷な状況でも生き抜かなければならない。それは僕のような少年兵でも同じことだし、僕より年下のバドゥルでさえもそうだ。
二人が草を集めていた頃、僕はセルジュークの裏通りにいた。イブラヒムからもらった使い古しのカバンを持ってきていた。この赤い幾何学的な模様が入ったキリムのカバンは、確かに彼が言う通り便利だ。それを肩からたすき掛けにしていた。でも、今はそのカバンの中身は空だ。一人の男の後ろ姿を追っていた。
背が低い小太りの男だ。サングラスをかけていて、その眼差しは見えない。街の食堂から出てきたその男の後をつけていた。
男はカバンを持っている。革のカバンだ。十分に鞣された革を使っていて、いかにも高そうだ。道を漂う砂埃がカバンの表面でつるりと落ちてしまうから、見ただけで僕にもそうわかる。
僕は少しずつ距離を縮めた。だんだんと近付き、もうあと数歩でそのカバンに手が届く。男の歩調に僕の歩みを合わせながら、そっと手を伸ばした。
不意に、僕の背後から別の男の声がした。ビクッとして手を縮めた。小太りの男が振り向いた。心臓が潰れそうなほど驚いたけど、視線は合わせなかった。
小太りの男の視線は僕の横をかすめてもっと後ろを見た。僕は素知らぬ顔をして男の右側を通り過ぎた。しかし意識を背後に集中して、男の動きを探った。後ろから二人の男の高笑いが聞こえてきた。僕は安堵して、その場をやり過ごすことにした。
しかし、それは突然のことだった。僕は背後から頭をつかまれた。髪が強くむしられる痛みだけではなく、驚きと恐怖が僕を襲った。それは知らない大男だった。そいつは僕を路地に連れ込み、地面に叩きつけた。
「てめえ、ボスのカバンを狙っていただろう?」
僕の行動が見られていたことをこのとき初めて知った。僕の背後から小太りの男に呼びかけた男に違いない。こいつは僕を見ていたんだ。
倒れている僕の顔面を、男は容赦なく蹴り上げた。頬を襲った強烈な痛みにもんどりうった。視界は真っ暗になり、失明してしまったかのような錯覚に陥った。みじめにのたうち回りながら、必死にすみません、すみません、と繰り返した。
男の指摘を否定したらきっと殺される。だからとにかく謝るしかなかった。殺されるわけにはいかないんだ。僕はひたすら謝り続けた。体中を何度も強い痛みが襲った。強靭な男に先手を取られて体の自由が利かなくなった僕には、一方的な暴力の前に歯向かう術がなかった。
いつの間にか気を失っていたらしい。僕は自分が生きていることに気付いた。顔がジンジンと痺れているけど、それでも生き長らえることができたらしい。もし僕がこんな路地裏で殺されていたら、いつまでも帰ってこない僕をアイシャとバドゥルが心配するに違いない。それだけは嫌だった。
顔の痛みに耐えながら、再び街道に戻った。このまま帰るわけにはいかないんだ。僕は獲物を探し始めた。
次に僕の目に留まったのは小柄な痩せた男だった。少年である僕とあまり身長は変わらなさそうだ。男は杖をついている。右足が悪いらしい。僕が普通のスピードで歩いたら、あっという間に追い越してしまうだろう。でも彼を追い越すこともなく、ただ一定の距離を保って歩いていた。
この男なら、脅かせば金を取れる。僕はそう確信した。
男はカバンをたすき掛けにしていた。身なりがいいわけではない。ごく普通の感じだ。僕はそんな男の後をつけていた。
やがて男は建物の角を曲がった。その先に人通りはない。僕は腰のサックからナイフを抜き取り、男の背後に静かに近寄った。
そして、歩く男の左足に重心が移る寸前に、その膝の後ろを蹴とばした。男はがくんと座り込むように崩れ落ちた。その拍子に男の杖は手から離れて投げ出された。
僕は背後から男の首を絞めるように左腕を回し、右手のナイフを男の喉元に突きつけた。
「大声を出したら殺すぞ」
突然のことに男は動転し、ああ、ああ、と苦しそうに言った。
「金を出せ」
「も、持ってない」
「嘘をつくな! カバンに入ってんだろ? 早く出せ!」
僕はナイフの切っ先を男の眼球のすぐそばに近づけた。手元が狂ったら眼球を突き刺してしまうほどの距離だ。
「わ、わかった。出すからやめろ」
男は観念した。カバンから紙幣を一枚出して僕に渡した。
「ふざけんな。もっとあんだろ?」
僕は男から腕を離し、その背中を思い切り蹴とばした。男はその衝撃で息ができなくなり、激しい苦痛に身をよじった。僕は抵抗できなくなった男から、無理やりカバンごと奪った。
そのとき、背後に足音が聞こえた。誰かが来る。僕はとっさに男から離れた。息も絶え絶えの男が苦しそうに叫んだ。
「あ、あいつを捕まえてくれ!」
後ろからやってきたのは一人の老婆だった。老婆は叫んだ。
「ちょっと! あんた!」
僕はその老婆を一瞥したが、すぐに反対方向に逃げた。でも、顔を見られてしまった。大丈夫だろうか。後で大変なことにならないだろうか。あの老婆は誰だろう。何だか心配になってきた。この老婆と思わぬ形で再会する日が来ることを、この時の僕は知る由もなかった。
男は悔しそうに舌打ちをして、立ち上がろうとした。しかし、杖は手の届かないところに落ちていて、足の悪い男は不格好に倒れてしまった。
僕は少し離れた物陰からその男の様子を見ていた。大丈夫だ。あいつは僕を追ってこられない。そう思った途端、さっきまで冷静だったはずの僕の心臓が激しく鼓動を打ち始めた。これは緊張? いや、そうじゃない。心の中で得体のしれない何かが嗚咽しているかのようだ。遡ってきた胃液は僕の動揺の表れなのか。あの男は足が不自由だ。だから僕を追えない。追いかけてこられないのは足が悪いから。そう、足が悪いから。
──だから僕はあの男を襲ったんだ!
卑怯な奴。自嘲気味に呟いた。ひどい嫌悪感。煮え切らない思いが僕を苛立たせる。
そんな感覚を振り払って、そのカバンの中に手を突っ込んだ。やはり、紙幣の束があった。それは紐で無造作に束ねられていた。やった。金を手に入れたんだ。
その紙幣をよく確かめた。デノミの後、旧紙幣はこのくらいの束がないと何も買えない。今店で何かを買うとき、こんな札束が飛び交う。僕たちはこれでまた少し暮らしていける。
その紙幣の束をキリムのカバンにしまい、男から奪ったカバンを投げ捨てた。
路地でみじめに倒れた男に対して罪悪感なんて覚えていたら生きていけない。まともに歩くことができないその足のせいだよ。僕のような少年に取られるようじゃ先はないね。そんなことを何度も繰り返し呟きながら家路についた。それは呪文のように繰り返され、いつしか僕の心が落ち着いていく。僕のせいじゃないんだ。
僕はいつの間にか走っていた。誰も追ってこないのに、まるで亡霊から逃げるかのように。人々の雑踏の中をすり抜けて、アイシャとバドゥルが待つ小屋を目指していた。
やがて息は切れ、僕の足は震え始めてきた。僕は走るのをやめて歩き出した。閑散とした大通りに出た僕は路肩を歩き続けた。
そのとき、不意に袖をつかまれた。それは走り寄ってきた見ず知らずの少女だった。薄汚れたヒジャブで頭と顔を深く覆っている。イスラームの女性の典型的な服装だ。
少女は僕に何かを言ってきたが、うまく聞き取れなかった。僕が「え?」と聞き返して少女の顔を覗き込んだとき、その少女はビクッとして体をのけぞらせた。その拍子に顔を覆っていたヒジャブが少しずれた。その顔を見て、僕の背筋は凍りついた。
少女の顔はひどく腫れていた。右目は瞼さえ開かないくらいだ。鼻も大きく曲がっている。そして口はあり得ないくらい左頬まで裂けている。
その裂けた口で少女は僕に何かを言った。でもそんな口じゃ、なんて言ってるかわからない。
少女の左目から涙がこぼれた。僕は少女の心を知った。少女は助けを求めている。
突然、目の前の建物から三人の男が飛び出してきた。男たちは僕に向かって怒鳴りだした。
「てめえ、なにやってんだ!」
男たちは明らかに僕に対して威嚇している。一人の男は角材を手にしている。こいつらは僕に怒りの矛先を向けている。
どうしたらいいかわからなかった。僕はとっさに少女の手を振りほどいてしまった。この少女が僕の手を取っていることが、きっと男たちの怒りを買ったんだ。だから少女を突き飛ばした。僕は関係ないんだ。
少女は哀れな姿で転んだ。そして勢い余って路肩の石に後頭部を打ちつけた。その鈍い音を聞きながらも体を翻して、そして、逃げた。
全速力で街を走り抜け、ようやくコトカケヤナギの樹が見えてきた。二人が待つ小屋に着き、建付けの悪いドアを開けた。錆びた蝶番がギイッと鈍い音を立てた。ドアの近くに小さなアイシャがいた。アイシャを無理やり抱き締めた。とても強く抱き締めた。
「どうしたの?」
力強く抱かれたアイシャは苦しそうな声で聞いた。しかしその声は笑っていた。僕は最近苛々していて、この前もアイシャを怒鳴ってしまった。なのに、いまアイシャは僕に笑いかけてくれている。自分の不甲斐なさに苛立つ毎日は僕たちの関係を軋ませていて、錆びた蝶番を無理やり動かしているようだった。それでも、今ここにアイシャがいる。
さっきの少女のことが頭から離れない。年は十代前半くらいだろうか。それにしても、ひどく崩れたあの顔は何だったんだろう? あの男たちは? そして僕に突き飛ばされてどうなった?
何も言わずにアイシャを抱き締め続ける僕にバドゥルが声をかけた。
「今日は野草をたくさん取ってきたよ。もう煮てあるから食べようよ」
僕はバドゥルのほうを振り向かないまま、ただ頷いた。返事ができなかった。いつのまにか僕の目から涙があふれていて、声を出せなかったんだ。無理に喋ろうとしたらしゃくりあげてしまいそうで、時が過ぎるのだけを待つしかなかった。抱き締められているアイシャはそんな僕に気付き、泣いている僕の頭をポンポンと撫でた。心の中で、子供のくせに、と悪態をついた。でもそしたら余計に泣けてしまった。
* *
その夜、アイシャとバドゥルの寝顔をずっと見ていた。そして、寝床を静かに抜け出した。
僕はドアを静かに開け、外に出た。月が煌々と街を照らしている。僕は歩き出した。歩きながら腰に下げたサックに触れ、ナイフの感触を確かめた。
やがて僕の歩みは早くなり、いつの間にか走り出していた。夜の街に人はいない。戒厳令が敷かれているからだ。建物の陰を辿るように走った。昼間に通ってきた道を戻っていた。月明かりが僕を導いている。僕は迷うことなく来た道を戻り続けた。そしてあの場所に辿り着いた。
僕は路肩の石を確かめた。だけど、いくら明るいとはいえ、月明かりだけでは僕の不安の行方は見えないままだった。
三人の男たちが飛び出してきた建物が目の前にある。僕は夜に紛れるように静かに近付いた。その建物の窓から灯りが漏れている。あいつらは中にいる。建物の窓の縁に手をかけ、そっと覗いた。
僕はわずかに開いたカーテンの隙間から部屋の様子を伺った。中に二人の男の姿が見えた。もう一人はいないようだった。僕は建物の裏手に回ることにした。この建物に忍び込む手段を探していた。
僕は柵を乗り越え、裏庭に侵入した。そこは散らかり放題の庭だった。乱雑に資材やゴミが積み上げられている。その隙間を歩いて建物に近付いた。建物の裏口はすぐそこだ。鍵はかかっているのだろうか。
それは突然のことだった。僕の目の前で裏口のドアが勢いよく開けられた。僕は思わず体を硬直させ、とにかく気配を消すことに集中した。建物の中から、先ほどの部屋にいなかったもう一人の男が出てきた。男は黒い大きな袋を担いでいた。男の肩の上でそれはぐにゃりと曲がっていた。面倒くさそうな表情をしながら、男はその袋をゴミの山に放り投げた。袋は低い音を立ててゴミに埋もれた。
男は胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。月を見上げながら男は煙を夜空に向かって吐き出した。何事もない、いつもの夜のようにその行為を繰り返した。その間中、物陰でピクリとも動かずにただ時間が過ぎるのを待った。やがて男は煙草をくわえたまま建物の中に戻っていった。
僕は男の足音が建物の奥のほうに消えていくまで待っていた。音が聞こえなくなり、そっとゴミの山に向かって移動した。その袋にはいったい何が入っている?
そう、はじめから気付いていた。ゴミに埋もれた袋に触れた瞬間、僕の鼓動は痛いくらいに激しくなった。その袋を破いた。そこには、月明かりに照らされた醜い少女の顔があった。
僕は少女の顔に手を当てた。まだほんのりと温かい。しかし、その脈はすでになかった。僕の血の気が引くよりも早く、少女の体は冷たくなりだした。ついさっきまで生きていたんだ。昼間、まともに見ることさえできなかったその哀れな顔を、ただ黙って見つめていた。この少女の身の上に何が起きていたのか、少女はここでどんな毎日を過ごしていたのか。
そのとき、ある真実を知った。僕の左手がそれを教えてくれた。少女の顔を見つめるために、左手はその後頭部に触れていた。そこは穴が開くように陥没していて、妙に柔らかかった。僕の不安はこれだったんだ。そう、少女を殺したのは僕だったんだ。
後悔が波のように押し寄せ、僕の心は転がるように飲み込まれた。なぜ少女の手を振りほどいた? なぜ突き飛ばした? あいつらが怖かったから? 怒鳴り声が怖かったから? なによりも、口が裂けたこの少女の醜い顔が怖かったから?
僕は知っていた。その少女の顔に映し出された哀れな毎日が、僕を恐怖のどん底に追いやったんだ。
僕はひどく嗚咽し、胃の中の物をすべて吐いてしまった。
どのくらいの時間が経っただろう。心を失くした案山子のようにその場に立ち尽くしていた。僕の心は固く閉ざされていた。
裏口に近付き、ドアノブを回してみた。鍵はかかっていなかった。静かにドアを開き、中へと入った。黒い床がギシッとなった。注意深く、なるべく音がしないようにゆっくり歩いた。
廊下の奥にある部屋から男たちの声が聞こえてくる。忍び足でドアに近づき、蝶番の位置を確かめた。そのドアは廊下側に開くようになっている。そのドアに体を預け、耳を当てた。
部屋の中から聞こえてくる男の声は、一人、二人、いや、もう一人いる。はっきりと確信した。昼間の三人だ。しかし今の僕は冷静だった。他にも誰かいるかもしれない。それも、この部屋以外に。もしかしたらこの薄暗い廊下の片隅で僕のことを見ているかもしれない。腰のサックに手を当てたまま静かに振り向いた。
しかしそこには人影はなかった。僕は安堵し、標的が三人であることを悟った。僕の狙いは絞られた。
ドアの隙間から匂いがしてくる。少し焦げた匂い。喘いだような男の声が聞こえる。ドラッグをやってるな。僕が育ったマラカンダ村で作っていたハシシの匂いとは違う。これはコカインだ。全員か? それとも正気な奴もいるのか? 部屋の中の三人の男の動きを、僕はドア越しの声や物音だけで見透かし始めた。
突然、部屋の中からドスンという低い音が聞こえた。男が一人、床に倒れたようだ。それを合図に、ドアノブに手をかけた。蝶番がひどく錆びついているらしく、ドアはギイッと大きな軋んだ音を立てた。隠れることもなく堂々と部屋の中に入った。
「ああ? 誰だ?」
ドアのすぐ横の椅子に座っていた男は、そう言うと同時に空き缶を落とした。その空き缶は切り開かれていて、落ちた拍子に中に入れていたクラック・コカインが飛び散った。男は手が震えているのか、ライターまでも落とした。男は慌ててコカインを拾い集めようとした。何やってんだ、こいつは。今お前の目の前に、ナイフを持った僕がいるのに。
僕は一瞬のうちに部屋の様子を把握した。奥のソファーの前の床に男が倒れている。恍惚とした表情で朦朧としている。この男の前の机には拳銃が置かれている。ベレッタだ。部屋の奥には男が立っている。こいつはさっき少女を捨てに来たやつだ。こいつはほとんど正気らしい。僕を見て、明らかに驚いている。
「なんだ、てめえは!」
正気のその男は大声で僕を威嚇した。しかし、僕はチラッと見ただけですぐに視線を外した。目の前でコカインを拾っている男を見た。奥の男は壁に立てかけてあったライフルを手にした。
「おい!」
その罵声に驚いたのは、僕の目の前にいる男だ。「え?」と言って身を起こした。僕はそれを見逃さなかった。
僕の右手のナイフは、立ち上がったその男の首に差し込まれるように突き刺さった。切るのではなく、スウッと刺した。男は何が起きたかわからないようで、ただ驚いて立ち尽くしている。そいつの大きな体の向きを四分の一だけ回転させた。そして、首に刺さった僕のナイフの柄が、ライフルで威嚇する男のほうを向いた。
僕はニヤッと笑った。そして、そのナイフで男の首を引き裂いた。
その瞬間、男の首から大量の血が飛び散った。それはシャワーが噴き出すように、ライフルの男めがけて降り注いだ。男は突然のことにたじろぎ、手にしていたライフルで血の雨を避けようとした。僕はナイフを机に突き立て、そこにあったベレッタを手にした。そして左手で安全装置を外した。
僕の両手に支えられたベレッタは乾いた轟音を放った。この自動拳銃は弾丸が発射される度に次の弾丸が装填される。弾丸が尽きるまでトリガーを何度も引いた。力強い反動で両手の骨が軋む。
やがて弾倉が空になり、銃を投げ捨てた。僕に蜂の巣にされた男はまだ立ったままだったけど、すでにその命はなかった。こんな部屋の中でライフルを振りかざしたって、僕に勝てるわけがないだろう?
足元には最後の一人が寝ている。大騒ぎの中、まだ夢の世界にいるのだろうか。こんな奴に楽しい夢を見る資格なんてない。机のナイフを再び手に取り、寝ている男の胸から腹にかけて、大きくバツ印を書いた。男のシャツは切り裂かれ、深くえぐられた皮膚から鮮血があふれ出た。男は「うわっ!」と言って目を覚ました。
上半身を起こしたその男の正面に僕は立っていた。そして右手のナイフを逆手に持ち、男の左頬にナイフを突き立てた。ナイフは頬を突き破り、歯と歯の間をこじ開けた。そのまま思い切り自分のほうに手を引いた。男の頬は無残に切り裂かれた。男はあまりの激痛に顔を押さえてもんどりうった。
男は部屋の隅に逃げたが、僕はゆっくりと近付いた。そして男の右の手首にナイフをあてがい、滑らかに引いた。手首から血が噴き出した。
これ以上その男に構う気はなかった。このまま血の海の中で、激痛に怯えながら死ね。お前らみたいな奴は死んでしまえばいい。
僕はまだ生きているその男を振り返ることもなく部屋から出て行った。だけど廊下に出た僕は、来たのとは反対側にある正面の玄関に向かった。僕は、あの少女の死体を避けた。避けるしかなかった。でないと、僕は僕を殺さないといけなくなるから。臆病で卑怯だけど、まだ死ぬわけにはいかないんだ。
月明かりの下、アイシャとバドゥルが待つ小屋に向かって走り続けた。走りながら、僕が殺してしまったあの少女に対してひたすら謝り続けた。
少女が過ごした日々を思うと苦しくて涙が止まらない。激しい後悔と同情がごちゃ混ぜになって、声を上げながら泣いた。息を切らせながら、みっともなくしゃくりあげてしまったけど、今は誰もいないからと、自分で自分に言い訳をした。
自分の弱さに、心も体も引き裂かれてしまいそうだった。
* *
真夜中、大地を震わせる重い音で目を覚ました。慌ててドアの隙間から外を覗いた。暗闇の空に何度も鳴り響くそれは、地対空ミサイルの音だった。一機の攻撃ヘリが炎に包まれて墜落していくのが見えた。
激しい音と砂煙を地面に巻き起こしながら、低空を何機もの攻撃ヘリが凄まじいスピードで過ぎ去っていった。ヘリは機関銃を撃ちまくり、応戦する兵士たちに銃弾の雨を降らせた。
ヘリはやがて去っていった。しかし、しばらくした後、夜の帳を切り裂く飛来音が街に響いた。慌てて外に出て空を見た。何本もの美しい光の線が僕を照らした。その光の束はまっすぐ街の中心部に向かって飛んで行った。少しの時間を置いて、巨大な爆発音が轟いた。その衝撃は僕たちの小屋までをもジンジンと響かせた。小屋の隣のコトカケヤナギの枝葉もざわざわと音を立てていた。やがてセルジュークの中心地から火の手が上がった。
夜が明けて、アイシャとバドゥルを小屋に残し、街の様子を見に行った。街はまだ燃えていて、火を消そうと必死になっている人々をあざ笑うかのように、それから一昼夜燃え続けた。
僕が殺した少女の建物も、容赦のない灼熱の炎に焼き尽くされた。きっとあの少女は炎に包まれ、その存在をこの世から消していったことだろう。僕の犯した罪を僕の心の深い場所に沈み込ませ、少女が安らかに眠り続けられるように願った。
いま世界で何が起きているのかなんて知らない。目の前で起きていることだけが、僕にとってのすべてだった。燃え盛り、崩れ落ちていくこの街の姿が、僕にとっての世界だった。
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