誰そ彼の空に

月生

誰そ彼の空に

 迫り来る黒く巨大な翼が脳裏にこびりついて離れない。


 強い力で右足をつかまれ、激しく振り回された。必死の思いでようやく逃げ出した僕は、いつの間にか気を失っていた。

 気が付いたら、心配そうに覗き込む少女の顔があった。

 君は誰?

 そう呼びかけたけど、僕の言葉がわからないのだろうか、君は答えずに右手でそっと僕の頬に触れた。

 年の頃は十二歳か十三歳くらいだろうか。若い君の手はしもやけで赤く腫れ、ひび割れていた。

 記憶の奥底で君を知っている気がした。でも、どうしても思い出せない。

 目を覚ました僕を見て、君は明らかに安堵の表情を見せていた。そして僕に話しかけた。

 でもそれは知らない言葉だった。君の話す言葉が僕にはわからない。

 そうか。ここは異国なのかもしれない。だからお互いの言葉が通じないのか。

 それでも君の微笑みが僕に安心をくれた。

 君は誰? だけど僕は君を知っている気がする。

 そう問いかけながら、やがて深い眠りの奈落に落ちていった。


 肌寒い風が僕の頬を撫でていく。少し開いた障子の向こうから風が静かに入り込んでくる。

 再び気が付いた僕の傍らに米が置いてあった。それを見て、自分がひどく空腹であることに気が付いた。何日も食べていない気がする。

 辺りを見回したけど君はいなかった。空腹を満たすため、置かれていた米を食べることにした。

 しばらくして、遠くの方でゴシゴシと何かを洗う音がするのに気が付いた。

 米をペロリと平らげた僕は、その音のする方に行ってみることにした。

 歩こうとして、今更ながら大変なことに気が付いた。僕の右足は膝から先がなかった。

 そのことに驚くと同時に、足にひどい痛みを感じた。さっきまでなんで気づかなかったのか。空腹は何もかも忘れさせるのか。生きるために腹を満たして、ようやく現実に引き戻された。

 痛みをこらえ、体を引きずるようにして音のする方に向かった。

 畳の部屋から縁側に出ると、広い庭の端にある井戸の前で大きな桶を洗う君の姿があった。君は時々両手を口元に当てがい、息を吹きかけて温めていた。冷たい井戸水が君の手を凍えさせている。

 君に声をかけようとした時だった。庭に面した裏口の向こうから誰かが君に声をかけた。青年の声だった。

 君は裏口の鍵を外し、青年を中に招き入れた。君は彼を庭先に待たせ、急いで家の中に入っていった。

 彼は地味な服を着ていた。綺麗に洗って皺を伸ばしたことがよくわかる。服自体は少し擦り切れているけれど清潔そうだ。

 彼は緊張した面持ちで立ち、それは今日が彼にとって特別な日であることを物語っているように思えた。

 しばらくして年配の女性が家の中から現れた。彼女は何か言いながら庭先に下り、青年の両手を握り締めた。

 少し話をしたあと、彼は踵を返して裏口の扉を開けた。扉の向こうで彼は右手をこめかみに添え、女性に向かって敬礼をした。

 去っていく青年を見送った後、女性は君を一瞥した。そして井戸に立てかけてあった洗いかけの桶を見た。

 すると女性はいきなり君の頭を右手で叩いた。倒れこんだ君の髪を乱暴につかみ、井戸の元に引きずって行った。

 桶が地面に直接置かれていたことが気に入らなかったようだ。桶を持ち上げ、土が付いてしまった場所を指し示し、目を吊り上げて何度も何度も君の頭を叩き続けた。

 そのおぞましい光景は見るに耐えず、思わず叫んだ。

 やめろ!

 でも僕の声は女性の耳には届かなかった。


 ある日、僕は君と一緒に出かけた。

 君はおつかいを言付かったようで、小さな風呂敷包みを抱えていた。

 家の外は見渡す限り田んぼだった。丹念に土が耕され、水が湛えられる日を静かに待っている。山の麓に広がる世界の底に、しんとした空気が張り詰めている。

 僕たちは畦道を歩き続けた。手で僕を支える君の表情を見たら、ニコリと優しく微笑んでくれた。

 君は僕に言葉が通じないのを分かっているだろうに、歩きながらしゃべり続けていた。僕は黙ってそれを聞いていた。言葉の意味はわからなかったけど、君の声が懐かしく、心地よかった。

 いつしか僕たちは街中に入った。街を縫うように小川が流れている。

 水草が透明なせせらぎに身を任せている。清らかな水面が日の光を反射して、幾重もの輝きを放っている。

 この美しい小川は生活のための水路として使われているようだ。ほとりに作られた川戸で一人の女性が身を乗り出して川の水を汲んでいた。

 君が目指す寺はその向こうにあった。風呂敷包みを寺に届けるため、ここまで歩いてきた。

 寺の門をくぐろうとしたとき、ざわつく声が聞こえた。中年の男に連れられた十人ほどの子供達の声だった。彼らは僕たちの前を通り、寺の中へと入っていった。

 子供達は一様に、目一杯の荷物を詰め込んだリュックや鞄を背負っていた。

彼らの服には、文字が書かれた小さな布が胸元に縫い付けられている。そういえば君の服も同じようになっている。

 それで初めて気が付いた。おそらく一人一人の名前や住所が書かれているのだろう。文字を読むことができれば、君の名前を知ることができるのに。歯がゆい思いに心の中で地団駄を踏んだ。

 子供達の喋る声を聞いて、あることに気が付いた。

 彼らの言葉は、君が一緒に暮らしている女性の言葉とは少し違う。君と同じ言葉だ。言葉の意味はわからないけど、旋律でわかる。この子達は君と同じ所からやってきたのだろうか。

 本堂から年老いた僧侶が出てきて、彼らを迎えた。彼は皆を抱き締め、何かを話しかけていた。その表情は柔和で、優しさに溢れていた。

 君はそんな彼らの姿を黙ってじっと見ていた。


 寒い日々はいつしか過ぎ去っていた。

 君の体のあざは日が経つごとに増えていた。大人に殴られる君の小さな体は悲鳴をあげている。君は歯を食いしばって我慢しているけど、体は正直にその苦しみを見せつけている。その痣は君の涙の跡なのかもしれない。

 今も庭の方から、女性の激しい罵倒の声が聞こえる。何度も大きな音がする。それは君が殴られている音だ。

 どうしたらそれをやめさせられる?

 僕は何ができる?

 思わず耳を塞ぎ、目を閉じた。それだけが卑怯な僕のできることだった。


 どのくらい時間が経ったのだろうか。庭からは何の音も聞こえなくなっていた。

 その静けさに嫌悪感を覚えた。それは波のように打ち寄せる不安に変わった。

 足を引きずりながら畳を這い、縁側に出てみた。

 庭に人の気配はない。言いようのない不安が増していく。

 不意に、小さく呻く声がした。それは納屋の方から聞こえてきた。

 庭に下りて、大きな納屋の中に入り、必死に君を探した。

 どこ? どこにいる?

 声の限り叫んだ。

 そして納屋の一番奥で、隠れるように横たわった君を見つけた。

 君の手が小刻みに痙攣している。顔は赤黒く腫れ上がり、口元には滴り落ちた血の跡がある。薄く開いた目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 心臓が握りつぶされるほどの痛みが僕を襲った。それは悲しみなんていうものではなく、不甲斐ない自分に対する怒りだった。

 君をここから救い出してくれる人を呼びに行こう。今すぐに。

 君の服の胸元にある布きれには君が流した血がこびりついている。それを外すために、縫い付けられている糸を噛み千切った。

 これを持ってあの寺に行こう。あの日、幾人もの子供達を優しい面持ちで出迎えていた年老いた僧侶の姿を思い出していた。

 そのとき、一枚の小さな写真を君の手のひらの中に見つけた。その写真は燃えかけた跡があり、半分くらいが欠けていた。

 そこには少女と少年が写っていた。 その少女は君だった。でも、彼は誰だろう。

 知っているような気がするけど、黄昏時に人の顔が見えにくくなるように、記憶にもやがかかってしまって思い出せない。

 その写真も持ち、君の元を離れた。

 いつか君と連れ立って歩いた道を、一人で歩き出した。


 畦道には背の高い草が茂り、僕の行く手を阻む。足を引きずりながら歩く僕は気ばかりが焦ってしまう。

 陽がだんだんと落ちてきて、やがて訪れる夜の気配が僕を急かす。

 歩いても歩いても先が見えない。汗ばむ僕を冷やかすように、鳥達が広い空を飛んでいく。

 もうずいぶん歩いたはずだけど、目の前には広大な田園風景しか見えない。街はどこにも見えない。

 こうしている間にも君が息絶えてしまうんじゃないかと、不安ばかりが募っていく。

 夕方の空を優雅に舞う鳥達を見上げた。

 あんな風に空を飛べたら、あっという間にあの寺に行けるだろうな。

 せめて心だけでも空を飛べたらいいのに。

 力が欲しい。僕は君を助けたいんだ。

 布切れと写真を口にくわえ、願いを込めて両腕を大きく掲げた。それを振り下ろした時、僕の体はほんの少し地面から浮いた。

 え?

 その不思議な感覚は僕に戸惑いを与えると同時に勇気もくれた。

 両腕を広げて何度も何度も羽ばたいた。するとどういうわけか、僕の体が浮いた。

 でもうまくコントロールできなくて、背の高い茂みの中に突っ込んでしまった。それでも体をよじりながら、羽ばたくのをやめなかった。

 あちこちにぶつかりながらも、夕日が染み渡った大空へと高く舞い上がっていった。

 眼下には水が張られた田んぼが千畳敷のように広がっている。水田は鏡のように夕焼け空を映している。

 雲間に残る紫の空と、堕ちゆく赤い太陽が混じり合い、世界は赤紫に輝いている。

 地平線の彼方では宵の明星がひときわ強く瞬いている。

 目に映る光景は、仕立てのいい織物のように美しく紡がれている。

 雄大な山々に護られた豊かな土地の風景の中にいつしか僕は溶け込んでいた。


 やがて、川が流れる街が見えてきた。

 その一角には堅牢な石垣が立ち並び、周りを囲うお堀には無数のアヤメが咲き誇っていた。

 アヤメのその鮮やかな紫がお堀の水面に反射している。それは夕日を浴びて赤みを帯びている。

 赤紫に染まったアヤメは石垣の上でも咲いていた。

 石垣の向こうに、機銃を担いだ大勢の軍人達の姿が見えた。そこに軍隊が駐屯しているらしい。

 川をなぞるように飛び続けた。目指す寺はきっとこの川沿いにある。

 不意に、僕を照らす夕日の光が遮られた。その方向を見やった僕の瞳に、黒い影が映った。

 心臓がドクンと脈を打った。

 僕の心の中に眠る恐ろしい記憶が脳裏で頭をもたげてきた。

 夕日を隠したのは大きなカラスだった。そいつは僕の視線に気づくと、翼を羽ばたかせて上空に舞い上がった。

 慌てて両腕をバタつかせた僕は無様にバランスを崩した。斜めに落ちていきながらも両腕を伸ばし、何とか水平になった。

 でも、その時をカラスは狙っていた。

 黒い塊が一直線に僕に向かって飛んできた。激突する瞬間、僕は身を翻した。大きな鉤爪が僕の左目を貫いた。

 カラスは再び大空に上がっていった。僕は目から血を流しながら大地へ真っ逆さまに落ちていった。

 赤紫の逢魔時おうまがときがカラスを呼び込んだのだろうか。僕の意識は混濁していた。

 それでも君の血がこびりついた布切れと写真を必死にくわえ続けていた。


 気が付いたとき、土の上で仰向けに倒れていた。

 何も感じなかった。手も足も動かすことはできなかった。感覚がないからどこも痛くない。カラスに潰された左目も痛まない。

 残された右目の視界の片隅に、布切れと写真が落ちているのが見えた。

 だけど僕はもう動けない。君を助けることはもうできない。

 思わず右目から涙が流れ落ちた。

 君のために泣くことだけが、情けない僕にできるたった一つのことだった。


 遠ざかる意識の向こうから、寺の鐘の音が聞こえてきた。

 夕刻を告げるその響きが僕を包んでいく。

 落日と共に命が静かに消えようとしているのを感じる。黄泉へと誘う漆黒の闇がすぐそこまで来ている。

 そのとき、僕を覗き込む少年の顔に気が付いた。彼は僕と目が合ったことを知ると急に走り去っていった。

 すぐに彼は戻ってきた。彼は年老いた僧侶の手を引っ張ってきた。

 僕はハッとした。

 辿り着いたんだ。

 僧侶は僕を見るなり、皺だらけの両手で僕に触れた。その哀れみの表情に顔を背け、傍に落ちている布切れと写真を、残された右目で指し示すように見つめた。

 彼は僕の意図に気づいてくれた。

 それを拾い上げると、僕の姿と交互に見ていた。目の前で起きている出来事に彼は驚いているようだった。

 彼は僕を抱き上げ、本堂の隣にある建物に入っていった。そこにはたくさんの子供達の姿があった。

 暖かな囲炉裏のそばに置かれた座布団に横たえられた。

 子供達は興味深そうに僕の姿を覗き込みながら、しきりに話し続けていた。それは確かに君の言葉と同じ旋律を持った言葉だった。

 僧侶は僕に布切れと写真をかざして見せた。そして何かを僕に告げた。

 そのとき、意識の底で、千切れていた記憶の糸が手繰り寄せられていくのを感じた。

 その写真に写っている少年を僕は知っている。そう、それは他の誰でもない、僕自身の姿だった。

 死の淵に立って初めて、忘却の彼方に置き去りにしてきた記憶が鮮明に蘇ってきた。


 そうだ。あの日、僕は高熱にうなされていた。

 朦朧とした視界の隅に、鴨居にかけられた国民服と帽子が見える。ここは僕が生まれ育った家だ。

 工場に行かなければという思いが僕を焦らせる。僕達少年工はたくさんの弾薬を作らないといけない。戦地の兵隊さん達に届けるために。

 僕が作った弾薬が遠い異国で誰かを殺す。その恐怖を心の奥底に押し込め、弾薬を作り続けてきた。

 心の目を閉ざしたまま、取り返しのつかない罪を重ねてきた。これはその報いなのだろうか。

 病気を患ってから工場を一ヶ月も休んでいる。体はみるみるうちに痩せ細り、全く言うことを聞かなくなった。

 横たわっている僕のそばには君だけがいた。君は僕にすがりつき、いつまでも泣き続けていた。

 そんなに泣くなよ。泣いてばかりいるから心配でたまらないよ。

 そう声をかけたけど、か細すぎて君の耳に届くことはなかった。

 そのとき、街中に鳴り響くけたたましい空襲警報が聞こえた。

 やがて大きな爆発音が響き、家が燃える匂いが立ち込めてきた。炎はすぐそこまで迫っていた。

 そんな中で、静かに胸の鼓動が消えていくのを感じていた。


 不意に記憶の舞台が変わった。

 僕はなぜか空中にいた。大きなカラスの固いくちばしが僕の右足をくわえていた。

 逃げようとして暴れる僕に業を煮やし、カラスは力任せに僕を振り回した。そして僕の右足は無残に千切れた。

 僕はそのまま真っ逆さまに落ちていった。


 気がつくと、僕の視界には再び君の姿があった。ここは知らない家だった。

 君は微笑みながら僕に幾つかの米粒を見せた。そして、それを僕の傍に置いた。

 やがて君はその場を去って行った。疲れ切っていた僕は、君の笑顔に安心して、そのまま眠ってしまった。


 僕の記憶は糸を紡ぐように繋がれた。

 ああ、そうか。

 息絶えた僕は違う姿で生まれ変わり、遠くに移り住んだ君の元にやってきたんだ。

 それは君のため。

 泣き虫の、たった一人の妹を守るために。


 血の付いた布切れと写真を持って、僧侶はいつの間にかいなくなっていた。

 体に力が入らない。僕の翼から羽毛が抜け落ちていく。くちばしから僅かに泡が溢れる。残された右目から一筋の涙がこぼれた。

 子供の手のひらほどしかない僕の小さな体は役目を終えて、永遠の眠りに落ちていった。

 僕は君を守りたかった。

 願いと涙をここに置いて、僕の魂は赤紫に燃える黄昏の空に飛び立っていった。




                               了

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