河童

佐藤宇佳子

鮎とか鮭とかウナギとか。

 Aはさわらの塩焼きをつついていた手を止め、社食のクリーム色のテーブルの上に並べられた二枚のチケットを当惑しながら見た。

「Aはさ、クラシック好きだけど、オペレッタってあまり聞く機会ないんじゃね? ねえねえ、bさんもさ、オペレッタって、そんな堅苦しくなくって聞きやすいよ。というのは表向き。頼む、今回チケットの売れ行きが悪くってさあ、お願いするよ。来週の日曜日、午後二時から二時間。どう?」

 チケットをこれ見よがしに並べておいて「どう」もないだろう、心の中で軽くためいきをつきながら、Aは右隣りにちらりと目をやった。細い指が八本、テーブルの端にそろえて置かれている。その爪がオレンジ色のマニキュアでつやつやと光っているのを見ていると、昨年入社したばかりのbの明るい声が意気込むように響いた。

「あたしは行ってみたいです。その日空いていますから。Aさん、良かったら一緒に行きませんか」

「あ、ああ、そうですね、じゃあ、そうさせてもらおうかな」

「お買い上げ、ありがとうございます」

 調子のよい同僚の声に、Aは苦笑しながら財布を取り出した。


 どうせなら、お昼一緒に食べてから行きませんか、遠慮がちに切り出したbの誘いを無碍に振り払うことはできなかった。Aは演奏会のホール最寄りの駅前で高いヒールの靴を履いたbとガレットのランチプレートを食べ、コーヒーをすすりながらbのいつもより弾んだ調子のおしゃべりに三十分ほど相槌を打ち、オペレッタでヴァイオリンを弾く同僚に渡す小さな花束を買ってから会場へと向かった。

 客席に並んで坐り、プログラムを見ながらあれこれ話しかけてくるbに生真面目に返答しようとするが、Aもオペレッタには疎かった。何を聞いても要領を得ない答えしか返ってこないことに呆れたのか気を遣ったのか、しばらくするとbはスマホをいじり始め、そのまま演奏が始まった。


 同僚の所属するアマチュアオーケストラの演奏はまずまずの仕上がりで、前回の演奏会ほど、はらはらすることもなく、Aは楽しんでいた。しばらくすると、舞台にまだ少女と言ってもおかしくないほど、ほっそりとした女性歌手が登場した。彼女があどけなく口を開くや、Aは神経に直接麻酔の針を突き立てられた衝撃を感じ、身をこわばらせた。なんという魅惑的な歌声だろうか。彼女のソプラノには可憐な容姿から想像もつかないほどの貫禄があった。危うさをまったく感じさせない安定ぶりは、すでに円熟の妙技という言葉がぴったりだった。ホールはあっというまに、彼女が放つ圧倒的な情趣に満ち満ちた。オペレッタのストーリーも、他の歌手たちの歌も、隣に坐っているはずのbのこともすっかり忘れ、Aはそのソプラノ歌手だけを追った。休憩時間にプログラムで出演者名を確認した。ソプラノ:c。


 終演後、bと一緒にロビーに出た。演奏者たちが現れ、ホールから続々と出てくる観客にお辞儀をしたり声を交わしたりしている。ソプラノ歌手cを探していたAの目は、すぐに、同僚の隣の隣にいた彼女を探し当てた。

「あの、とても良かったです」

 ふだん自分から女性に話しかけることなどいっさいないAの声は震え、左の口角を上げて好奇の目で見守る同僚や、オレンジ色のくちびるを引き結んでオレンジ色のハンドバッグを握りしめたbのことをすっかり忘れ去っていた。

「ありがとうございます。歌はお好きですか」

 ソプラノ歌手とは思えないほど低く、露のきらめく草原のようにしっとりと湿った声がAの頭の中でいつまでも反響した。それから何がどうなったのか、ちっとも覚えていない。気づくと古い小さなアパートに帰り着いており、スマホにcからメッセージが届いていた。


 Aは熱心なファンとして、cとゆっくり親交を深めていった。月に一、二度、会って一緒に食事をとり、コーヒーや紅茶を飲みながら、音楽の話をして別れる。彼女の声はいつだって美しく、会話をするたびにAは幸せな気持ちになった。でも、何かが違う。あの出会いの時の痺れるほどの興奮にははるかに及ばないことに、Aの心は密かにざわついた。何が違うのだろう。その違和感の理由は彼女の次のコンサートに行ったときにわかった。歌だ。彼女の語る声ではなく、彼女の歌声こそが、Aを魅了し眩惑させていたのだった。それに気づいたAは、cの歌を聞く機会さえあれば、どこにでも足を運ぶようになった。


 出会って一年が過ぎたころのことだった。開放と爛熟の香り漂う八月が去り、空に穏やかさが戻りはじめた九月、水色のさらりとしたワンピースを着たcは、ミルクティーのカップをソーサーに戻しながらAに言った。

「もしよろしければ、来週の土曜日、遠出して海に行きませんか?」

 Aはちょっと驚いた。cから旅行の誘いをもらったのなんて初めてだったからだ。即答できず、視線をさまよわせていると、cがほほえみながら言い添えた。

「X海岸のそばにある小さな割烹旅館なのですが、今ごろから落ち鮎を食べさせてくれるのです」

 耳に入った旅館という言葉にAはさらにうろたえた。

「あ、あの、それは、泊りがけでということですか?」

 cはちょっと目を見張り、頬を染めた。

「そういうつもりはなかったのですが」

 Aは自分の早とちりに気づき、うろたえた。

「あの、その、すみません、行きましょう、鮎、楽しみですね」

 cは小さく口を開いてミルクティーのカップを見ていたが、ぽつりと「泊りがけでもいいのですよ」とつぶやいた。


 日曜日はあいにく雲の多い空模様だった。大ぶりな雲が二百二十日の風に吹き散らされていく。雨は降りそうにないから、まあいいか、Aはひとりごちた。駅で落ち合い、列車に乗って海を目指す。目的地の最寄り駅は、かつて一大歓楽地として名をはせた海辺の温泉地から各駅停車で三つ先だった。駅前は静まり返り、ただ波に洗われた清涼な空気に包まれていた。たった三駅しか離れていないのに、往年の繁華街にこびりつく錆びの浮いた熱気はここではみじんも感じられない。駅のすぐそばを碧色の川が海に向かって流れていた。その川に沿って海岸のほうへと下っていくと、五分も歩かないうちに木造三階建ての古めかしい建物が見えた。

「ああ、これは良い雰囲気の旅館ですね」

 両手にボストンバッグを揺らすAの言葉に、黒い日傘を差したcは嬉しそうにはにかんだ。

 十五時ごろ、川に面した個室に案内され、遅めの昼食をふたりでゆっくりといただいた。落ち鮎の背越し、甘露煮、天ぷら、塩焼き、釜飯に子ウルカを添えたもの。卵をたっぷりと腹に抱えた鮎はまさに初秋の恵みだった。Aは初めて味わう落ち鮎の味わいに舌鼓を打ち、鮮やかな手つきで塩焼きの骨を抜くcの白い指先に見惚れた。


 食事のあと、ふたりで海辺を散策しようと旅館を出た。傾きかけた日が薄綿のような雲に隠れては現れ、頼りなく天を照らし上げている。日暮れまであと一時間ほどある。海に沈む夕日をcと一緒に見てみたいとAは密かに願った。

「それにしても、こんな海辺で鮎料理だなんて、珍しいですね」

 Aの言葉に、頭ひとつ小さいcがつば広の白い帽子の下で目を見開いた。

「あら、鮎は海にもいますのよ」

「海に? 清流の女王って、言いませんか」

 cが白い顔を子供のように輝かせた。

「鮎は河口の汽水域で産卵するんです。ふ化した稚魚は海でしばらく成長し、そのあと川を上り、清流でさらに大きくなるんですよ。そして産卵期を迎えた今ごろ、川を下ってくるのです」

 Aが驚いて見つめていることに気づくと、cは赤くなり、全部旅館のご主人の受け売りですが、と言い添えた。

「ご主人は漁師なのですが、川釣りもお好きで、この時期はいつも落ち鮎を釣りにいらっしゃるのだそうです。それを知っている常連客にだけ、完全予約制で落ち鮎をふるまってくださるのです」

「cさんはよくいらっしゃるのですか」

「毎年この時期に一度」

 そう言うと、風にあおられそうになった帽子を左手で押さえた。その拍子に二の腕がむき出しになり、その白さがAの目に焼き付いた。cが帽子の下からAを見上げ、柔らかに笑う。Aはどぎまぎしたが、目をそらせなかった。


 まばらな松林を抜けると、もうそこには砂浜が拡がっている。ときおり強く吹き付ける風が黄色みを帯びた砂浜に緩やかな波模様を作る。Aとcは足裏の砂がさくりと崩れる感触を楽しみながら、のんびりと浜辺を歩いた。海はまだ穏やかだったが、灰色の雲がまばらにかかる沖合から腹に響くような海鳴りが聞こえた。ときおり、雲の合間から橙色の太陽が顔をのぞかせた。

「そう言えば、鮭も川で生まれて海に行って、大きくなったらまた川に戻って来て産卵するのでしたね」

 弾むように歩きながらcが答える。

「そうですね。河川から海へ下って行った個体は、海で栄養を蓄えて大きくなると、川を遡上して産卵します。卵を産むと死んでしまうのですが、だいたい、三年から五年の寿命だそうですよ」

「鮎もそうなのですか?」

「いいえ、鮎は年魚といって、一年で死にます」

 向き直ってそう言ったcの顔が、帽子の影のせいかどこか恐ろし気に見えて、Aはぞくりとした。たった一年の命。海から川をさかのぼって大人になり、釣り人や天敵から辛くも逃げおおせ、めでたく次の世代へと命をつなげようとしていた矢先に。その卵に舌鼓を打ってしまった自分に罪悪感を覚えた。人間の貪欲さ、あさましさ。気まずい気持ちになり、ちらりと隣を歩くcを見る。もう穏やかな表情に戻り、前を向いて歩いている。

「つ、次の公演はいつでしょうか」

「十月十五日です。フィビフのメロドラマ、『ヴォドニーク』をやります」

「メロドラマ? ヴォドニーク?」

 横顔のcがあでやかに笑った。

「メロドラマって、あまりなじみがないジャンルですよね。音楽に合わせて詩の朗読をするのです。『ヴォドニーク』はチェコの作家エルベンの詩集『花束』の中の一篇で、水妖、あるいは河童と訳されます。フィビフがそれに美しい伴奏をつけ、メロドラマに仕立て上げたのです」

「エルベンの『ヴォドニーク』ですか。初めて聞きました。どんな詩なのですか?」

 cが流し目でちらりとAを見上げた。その目は誘うような妖しい輝きを帯びていたが、Aは気づかなかった。

「河童が美しい娘をさらい、無理やり妻にし、子をなすものの、最終的には悲劇を迎えるお話です。娘の母は河童を憎み、娘を家に留めようとしますが、娘は坊やが心配で湖へ戻ろうとします。でもね、娘は坊やのことももちろんですが、じつは、河童のことを愛していたんじゃないかって思うのです」

 その言葉を聞いてAは無邪気に笑った。

「河童と人間の愛ですか? それは難しそうですね」

 cが不服そうにくちびるをとがらせ「どうしてですか」と問うた。その顔があまりにもうぶで愛らしく、Aは頭に血がのぼるのを感じた。

「だって、人さらいとの、しかも異類婚でしょう。cさんは優しいからそんな解釈をするのかもしれません。でも、人には人の、河童には河童の幸せがあって、それが重なる部分はずいぶん小さそうな」

 女がやや冷めた目でじっと見つめているのに気づき、途端に焦り、話を変える。

「そ、そういえば、河童こそ、淡水にしかいませんね」

 cが、くい、と口角を上げたので、Aはほっとした。

「ふふ、そんなことはないのです」

「え、それは嘘でしょう。だって、海の河童なんて聞いたことがありません。今の、外国のお話だって、湖でしたよね」

 雲間に隠れてしまった太陽は、いよいよ沈む直前のようだ。姿は見えず、ただ雲と海面を禍々しいほどの朱色に染めている。つば広帽子をかぶったcの暗い顔がほのかに赤く照らされている。

「九州や四国では、海にすむ河童の話も残っていますよ」

「え、そうなんですか」

「Aさん、ウナギも海を泳ぐって知っていますか」

 突然話が変わり、Aは当惑しながらcを見た。

「そうなのですか」

「ええ。基本的に海は餌が多く、河川は海より安全だと言われます。だから海と川を行き来する魚なら、河口付近で卵を産むのが効率が良いはずなんです。でも、ウナギは違う。ウナギはね、川で成長したあとに海へと下り、日本からはるかに離れたマリアナ海溝まで泳いでいって、そこで卵を産むのです」

 Aはますます驚き、目を見張った。cはそんなAをからかうように笑い、その笑顔はしだいに煽情的な笑みに変わっていく。

「そ、そんなところで卵を産んで、孵った稚魚はどうなるのですか」

「また海を渡って、日本の川へ戻ってくるのです」

「そうなんですか。すぐに日本の川に戻ってくるのなら、なぜそんな遠いところで卵を産むのですか」

 cはゆっくりと波打ち際に進んだ。白いサンダルがきゅう、きゅうと砂を踏みしめる。

「ウナギはね、成熟したあとでマリアナ海溝の底層水を浴びることで、ようやく雌雄の別がつくのです」

 Aは面食らった。

「生まれたときは性別が定まっていないのですか。そんなバカな」

 cが白い顔をほころばせ、ころころと艶めかしく笑う。

「あら、環境による性転換は、魚の世界ではありふれています。クマノミは群れで一番大きな個体が雌になり、他は雄として生活します。もしもその雌が死んでしまうと、残された雄たちのなかで一番大きな個体が雌になります。約三百種類もの魚があたりまえに性転換するのです」

 Aはcの博識に気おされていたが、なぜウナギの話を持ち出したのか、理解できずにいた。

「河童もね、実はそうなんです」

 cの顔を見た。おりしも水平線に滓のようにたまった灰色の雲間から真っ赤な夕陽がちろりとのぞき、cの瞳を燃え上がらせた。

「河童も、ですか」

「ええ。川で大きくなった河童は、海に下ることで、ようやく性別が決まるのです」

「ま、マリアナ海溝まで、河童が泳いでいくのですか」

 cは赤いくちびるを舐めた。官能的な仕草にAは違和感を覚えつつも、目が離せない。頭の奥がじいんとしびれた。

「さあ、どこまで泳げばよいのでしょう。でも、海に呼ばれるがまま、泳いでいればよいのでしょう」

 そう言うと、cは白い帽子を優雅に脱いで砂浜に置いた。サンダルにそっと触れるとそれはするりと足から落ちた。ゆっくりと波打ち際へと向かい、ざざん、ざざんと打ち寄せる波の中へとためらいもなく足を滑り込ませる。白い波打ち際を抜け、沖へと進むにつれ、白いスカートが水に浸り、水面に花のように広がる。膝がすっかり浸かったところで、上半身をひねり、Aを振り返った。

「私は女になるのでしょうか、それとも男になるのでしょうか。私にもわかりません。でも、Aさん、私はあなたが欲しいのです。一緒に行きませんか?」

 Aは背筋にぞっと寒気が走るのを感じ、後ずさった。cは含羞の笑顔を浮かべ、身を震わせるAを見つめている。そのくちびるが開かれ、深みのあるソプラノが波音を柔らかにねじ伏せる。


Měsíčku na nebi hlubokém,

světlo tvé daleko vidí.

……(※)


 清流のせせらぎのような歌声はAの胸を強烈に焼き、その熱が一瞬にして体中を燃え上がらせた。歌に導かれてAは波打ち際へと進み、水に足を取られながら、よろよろとcのところまでやってきた。cは莞爾と笑い、そっとAの左手を取った。ふたりはそのまま沖へと進む。水がcの胸元にまで達すると、cはAの体を掻き寄せて頬ずりし、赤黒い海をさらに沖へと向かって泳いでいった。




(了)



※ ドヴォルザークのオペラ『ルサルカ』より「月に寄せる歌」から抜粋

【日本語訳】

空のたかみのお月さま

が光、遥かに照らす。



※)ウナギの雌雄について

ウナギについて、二点補記しておきます(2025年9月15日)。

(1)cの語った「ウナギはね、成熟したあとでマリアナ海溝の底層水を浴びることで、ようやく雌雄の別がつくのです」の一文はフィクションです。正しくは次のとおり。

ウナギの稚魚は性別が定まっていません。成長していく過程で雌雄に分化するのですが、その誘因が何かはまだはっきり解明されていません。普通に養殖すると、ほとんどが雄になるそうです。

(2)ニホンウナギの産卵地点は、正確にはマリアナ海溝域ではなく、マリアナ海溝から100キロメートルほど北にあるマリアナ海嶺域です。

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河童 佐藤宇佳子 @satoukako

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