第28話 鼓動を感じる

 まちはいきなり立ち上がった。

 その振り袖姿で。

 唇はぎゅっと結んでいるが、その唇は震えている。さっきの泣いているのが続いているようでもないけれど。「表情が硬い」というのがこういう顔だろう。

 まち子は千鶴ちづるのほうに来た。

 千鶴の左斜め後ろに座る。

 「だから、協力してほしい。若林わかばやしなんかじゃなくて、わたしに」

 今度も音もなく顔を平行移動させてくると、千鶴の左耳の後ろに軽く「ちゅっ!」。

 拒否しなかったと思ったのか、

 その振り袖の右手と左手を、後ろから、千鶴の右腕と左腕の上に重ねてきた。

 千鶴の鼓動がはね上がる。

 気づいたときには、千鶴はとらわれていた。

 まち子に、というより、あの体の持ち主に。

 中学生のころ、このバンドの中心は自分なんだ、と主張して、小さな体で全力で演技していたあの体に。

 いまもその表現がやりたくてたまらない、その体に。

 絹の振り袖で、まち子がにじり寄る。

 左の耳もとでささやく。

 「聞こえてるよ。感じてる。千鶴の鼓動」

 それはそこまで接近すれば感じるでしょうよ。べつに特別なことではない。

 次の段階に行く前に、千鶴は通告する。

 「副部長をやる気はないよ。部長がまち子ちゃんでも早智枝さちえでも」

 「そんなレベルの協力じゃないんだよ、わたしが言ってるのは」

 言って、その長い振り袖の両腕を、ただの長袖夏制服の千鶴の胸に回してくる。

 千鶴の唇が短いあいだだけ開いて「はっ」と息を吸い、また閉じた。

 千鶴の胸に大きさがないから、まち子の手は抵抗なく伸びていく。

 「え……あ……あのねっ……」などととまどったほうがいいのだろうか?

 とまどってみせれば、こいつはもっと勝ち誇る。

 勝ち誇ったこいつも、見てみたい。いや、感じてみたいけれど。

 千鶴が積極的に反応しないでいると、まち子は、左耳の後ろはやめて、真後ろから抱くことにしたらしい。

 胸に後ろから強く抱きついて、首筋の後ろに唇を乗せ、髪を上から押して、千鶴の髪を通して息を出したり入れたりする。

 千鶴の背中の骨に、直接にこいつの胸の骨が当たる。

 もしかすると、こいつも胸がないのだろうか。

 それとも骨が当たっている場所の問題?

 それは確かめてみたい!

 こいつも胸がないとしたら、少しは千鶴の共感度も上がるだろう。

 胸の骨を通して伝わる、まち子の呼吸。

 その呼吸から、気もちが伝わってくる。

 「これから成長したいのに。これからもっと成長したいのに!」

 まち子の気もちではない。「まち子の体」の気もちだ。

 しかし、臆病さがその体を支配し、成長することを許さなかったのだ。

 その成長したいという思いが演技に向かって爆発したとき、あのスターのような演技を、この子は見せる。

 でも、演技に向かわなかったとき……。

 まち子は次の段階に行こうとした。

 右膝を少し右にはずす。その右膝に力をこめた。

 後ろに引き倒す!

 ……つもりだったのだろう。

 ところが、右膝に力を入れたところで、スマホ立てに置いてあるスタイリッシュなスマホが呼び出し音を立てた。

 「あ、ちょっと待ってて」

 はあっ?!

 まち子は千鶴の体を投げ出すと、一直線に体を伸ばして、スマホに飛びつく。

 いや。

 飛びつこうとして、倒れそうになった。畳に転がりそうになり、左の肘でやっと体を支える。右手でスマホを持とうとしたらまたバランスを崩し、スマホごと右手をついて、それから左手でスマホを持ち直す。

 体は中途半端に倒れたままだ。

 なんだか。

 体の動きが、しなやかじゃない。

 千鶴に背中から抱きつこうとしていたときのやわらかさが、ぜんぜんない。

 千鶴はとっさに立ち上がった。鞄を持ち上げる。

 「じゃ、話終わったみたいだから、また練習でね!」

 元気にあいさつする。

 まち子は千鶴には答えず、ようやく手にしたスマホの電話に応答している。

 「あ、わたしだけど……うん」

 右膝で中途半端に膝立ちし、スマホを左手で持ち、右手を畳について、千鶴を見上げている。

 漏れてくる電話の声は、男の声のようだ。

 「えっ……いまの? なんでもないなんでもない。そんなのなんでもないに決まってるじゃん!」

 むっとした。

 「そんなレベルの協力じゃない」が一分も経たないうちに「なんでもない」になるのか!

 腹が立ったので、千鶴は勢いよくふすまを開けた。

 どこかの男からかかってきた電話に気を取られているまち子を和室に残して、襖を閉める。

 靴紐を緩く結んだままの靴を履いてとんとんとやり、教室の扉を開けて外に出た。

 夕方の光も薄れ、もう暗くなり始めている廊下に、りゆ先輩が立っていた。

 そのモノトーンの光のなかでも、血の気を失い、その唇が無意味に開いたり閉じたりを繰り返している。

 慌てて来たらしい。

 和室に乗り込むつもりだったのか、それともそれができずに和室教室の前でうろうろしていたのか。

 やっと、と言うには時間が短いが。

 でも、やっと、ふだんの千鶴に戻ることができた。

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