第6話 シクルナ

 全身、寝汗にまみれていた。

 今しがた抱き合っていた彼女の柔らかい肉の火照りが、二の腕から肩口にまざまざと残っている。

 夢の中で私たちは愛し合っていた。延々と烈しく求め続ける私を彼女もまた両腕で強く抱きしめ、悶え合う二つの体の息づかいは、いつかひとつの喘ぎへと合わさり合って、やがて死と生命いのちの狭間を頂きに向って昇りつめて行く。苦痛と快感に彼女の顔が一瞬横を向く。キャプシーヌ。彼女を取り戻すべく、わたしはその顔を確かめる。だが振り向いたそれは、キャプシーヌではなくセリーヌの顔だった。


 腕の火照りとは全く逆に、寝汗は冷たく、体の芯には寒気があった。私は濡れたシーツから立ち上がり、庭を見下ろすために窓を開く。けれど朝は私を裏切り、風のかわりにむせ返らんばかりの熱気を遣して来た。

 五月だというのに、なんという暑さだろう。私はベッドの端に戻って腰を下ろし、自分の中に淀んでいる今朝の悪寒の正体と向き合おうとした。

 一つだけ言えることがある。私はキャプシーヌに恋していた。キャプシーヌはもはや幼馴染みでも従姉妹いとこきょうだいでもない何かだった。だが、彼女の方はおそらく違う。相変わらず、気の置けない懐かしい従兄弟いとこだとでも思っているはずだ。もし、今、私が何かで急に命を落したとしても、幾しずくかの涙をこぼして墓に花束を供え、そのまま少しずつ忘れて行ける存在に過ぎないのかもしれない。が、それは大したことではなかった。

 問題は、行きずりの男と一夜を共にし、それを私に隠そうとして小間使いの頬を打つ、その不修多羅ふしだらな魔性の娘を軽蔑できずにいる自分だった。否、否、キャプシーヌは断じて魔性の女などではないし、不修多羅なはずもない。その逆だ。彼女がどれほど純粋で優しく、誠実さと気高さに満ちた者であるかは、誰よりも私が知っている。彼女には過ちも罪も犯せない。たとえ他の者が犯せば地獄に落ちるべき罪であろうと、彼女が行えば清められるがゆえ。彼女は嘘をつかない。彼女は自分を隠すのではなく、ただ私を守っているだけなのだ。

 もちろん、それはおつむの弱いお前さんのうぶな自己欺瞞さ —— セリーヌの顔をした誰かが私のなかで嘲笑した。お前さんの情欲などキャプシーヌはとうにお見通しさ。そんな風に何人もの男をたぶらかす百面相のサイコパスなのさ。知ってるかい?バザールのあの宿で、三人のかたきを裸で退治していたんだぜ …

 あの真っ赤なリンゴ飴を私は彼女の手から奪い取り、ドレスに向ってぶつけていた。「この汚ならしいガーター女!」 —— そう叫べていたらどんなに良かっただろう。なのに心の私がぶつけるより先に、彼女を信じる誰かが手にした飴を掛け替えのない真実のように頬張り、彼女の善意を守り抜いたのだ。


「キャプシーヌさま‼キャプシーヌさま‼」

 ただならぬ呼び声が前庭に起った。驚いて窓から見下ろすと、シクルナと二人の部下が粗末な荷車を馬に引かせて、玄関から少し離れた所に横付けしており、馬丁がふたり、泡を喰った様子で女あるじの名を呼びまくっている。

 寝間着のままローブを羽織って降りて行くと、シクルナが、身なりを整えて途中まで迎えに出たキャプシーヌに向って歩み寄って来た所だった。

「お早うございます」

 慇懃にそう言って、軽く会釈する。

「おはよう、シクルナ。何事かしら?」

 シクルナは、すぐには答えず、一呼吸置いて私にも目礼した。

「実はおふたりに見て頂きたいものがありまして」

 そう言うと、彼は私たちを荷馬車のそばまでゆっくりと案内した。

 荷台の真ん中には一つだけ、粗末なむしろに覆われた何かが積まれていた。        

 シクルナの合図で部下たちが不吉に膨らんだ覆いを外すと、中から男の死体が現れた。

 ミケルだった。

 背中を撃たれていた。

 首には小さな御守り人形がかかったままだった。

「ご存知ですか?」

 鋭いというより、意味ありげな眼差しをシクルナが向けてきた。

「知らない人よ」

 キャプシーヌが答える。

 私もかぶりを振ったが、彼女ほどポーカーフェイスを装え得たかは怪しかった。

 内心の動揺を隠すために尋ね返す。

「何者だい?」

 声が上ずったのが自分でも分かる。

 シクルナは特に態度を変えるでもなくつぶやいた。

「いえ、それなら結構です」

 それから、どうでも良いがという口調で付け足した。

「脱走兵ですよ。潜んでいたので尋問しようとしたら逃げ出したんです」

「脱走兵なら見逃してあげれば良いのに」

 キャプシーヌが静かに眼を向ける。

「あなたたちって、簡単に人を撃ち殺すのね」

「皆さんの安全を護るのが我々の使命ですから」

 なじられても軍人らしい冷静さを崩さない。

「でも、なぜ、わざわざここへ来るんだい?」

「あぁ、それですが …」

 シクルナはいかにも忘れていたかのように言葉を継いだが、どことなくわざとらしい。

「実は、彼が妙なものを持っていましてね」

 そう言って部下のひとりに目配せし、その品物を受け取った。

「おふたりならおそらくお分りでしょう」

 シクルナの手には、あの時、別れ際にキャプシーヌの持たせた炭のからくり箱が載っていた。

「もちろん、最初はただの大きな炭塊すみくれだと思ったのですが、異様に重かったのです。たまたま、私の副官に名家の見習い士官がいて、仕掛け箱だと見抜いた訳です。開けるのは骨でしたが、中からかなりの額の銀貨が出て来ました」

 あくまで淡々と彼は説明する。

「庶民とは縁遠い品ですから、おそらく、逃走中、やんごとなき屋敷にでも侵入して盗んだのではないかと思うのですが、お心当たりはありませんか?」

 キャプシーヌは静かにかぶりを振る。

「そうですか。—— それにしても、上流社会ではこんなものがいつも用意されているものなのですかね …」

 季節外れの暑さが、前庭に不快な空気の蓋をかぶせていた。

 炎天を見上げたシクルナが、ふいに、砕けた笑顔をキャプシーヌに向けた。

「厚かましいお願いで恐縮ですが、少し水浴びをさせて頂けませんか?昨夜は野営でしたので部下たちにも遣わせてやりたいんです」

「馬の洗い場で良ければ」

 素っ気なくキャプシーヌが答える。それから、荷台のミケルに目を落して訊いた。

「この人はどうするの?」

「どこかで火葬します」

「わたしが引き取るわ。無縁仏用の墓地に埋めておくから。死ねば敵も味方もないでしょう?」

「それは有難い。余計な手間が省けて助かります。では、我々はお言葉に甘えて、ひと風呂浴びに行かせて頂きます。—— ブラボヴズさま、東北部の情勢を伺いたいのですが浴場までお付き合い頂けるでしょうか?」

 仕方なく彼に付き合うことにする。

 だが、歩き出すと、彼は独り言のように関係のないことを呟きはじめた。

「美しいだけでなく、優しいお譲さんだ … 。だが、この辺りも、最近は少しずつ物騒なことになって来ていますので、気を付けてあげる事ですね。過ぎたる優しさがあだを呼ぶ時勢です。まぁ、そういうことは万が一つにもないでしょうが、妙な仏ごころが面倒を引き起こさないとも限りません。これだけのご名家ですから直接のお咎めが及ぶことはないとしても、父君の立場というものもあるでしょうし …」

それは独り言ではなく、明らかに慇懃な遠回しの警告だった。

 馬たちを洗うための吹きさらしの洗い場に着くと、三人はそれぞれの軍服と下着を脱ぎ捨て、脱衣かごを用意する下女たちの前で素っ裸になって、威勢よく頭から水をかぶりはじめた。一つだけ隠すように隅に置かれたシクルナのかごの目の間から、ガーターのリボンが片方覗いている。

 私は目を逸らし、キャプシーヌではなく、セリーヌならシクルナの訪問にどう対応しただろうかと、ふと考えた。ミケルの死に取り乱し、保身などかなぐり捨ててシクルナに抗議し、泣きくずれただろうか?それとも、キャプシーヌのように気丈に自らを律し続けるだろうか?神はどちらの態度を喜ぶのだろう。

 私も、キャプシーヌもその日は昼食をとらなかった。夕方、キャプシーヌの姿がないので訊くと、無縁墓地にいるという。

 少なからぬ躊躇ためらいを感じながらも、私は彼女の様子を確かめに行かずにはいられなかった。

 真新しい墓標の前にキャプシーヌの背中が小さくひざまずいていた。喜色を湛え、その横顔が悪魔のように笑っている。私は恐怖に凍り付く。だが、雲間から漏れて来たこの日最後の残光が顔に射し、キャプシーヌは、握りしめた御守り人形を胸に押し当てて、泣いていた。


第6話 挿絵:

https://kakuyomu.jp/users/betunosi/news/822139839701037077

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キャプシーヌ 友未 哲俊 @betunosi

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