第5話 バザール
第5話 挿絵その1:https://kakuyomu.jp/users/betunosi/news/16818622172338217808
数日後のその朝、キャプシーヌと私は、セリーヌという下使いの娘を連れて、バザールに向う馬車に揺られていた。
町では年に四度、春夏秋冬の吉日を選んで、この辺りでは単にバザールと呼ばれている一大イベントが催されるらしい。そう言われれば、確かに私のなかにも、子供時代のそれらしき遠い記憶の断片と思しきものが朧げに蘇ってくる。今日と明日の二日間は、近隣の村々の領民や有力者たちをはじめ、他の郡からの見物客などもあって、例年、大した賑わいを見せるという。
人々のお目当ては、主として、立ち並ぶ露店の棚の先々にあふれる「お手頃価格」の衣類や装身具や工芸品、骨董品や怪しげな掘り出し物のほか、各地特産の珍味や食材や立ち食い料理、それに、大道役者や素人芸人たちの繰り出す様々な演劇やパフォーマンスといった所らしいが、それだけではなく、地方の政治情勢や下世話な
この日同行させた雑用がかりのセリーヌは、ボワネット荘に通いで働く貧農の娘で、鶏の世話から、畑仕事、買い出しに洗たく、犬の散歩に至るまであらゆる雑事をこなす臨時雇いだった。臨時とはいえ、13の歳からもう四年近くになるらしい。庭師やメイドたちの話では、キャプシーヌの一番のお気に入りで、外出時のお供を仰せつかるのは決って彼女だということだった。彼女の姿は、私もすでに何度か見かけていたが、その無垢な銀髪と、他の下男、下女たちとは異質な、どこか一線を画すような
「見て、皿投げだわ!」
キャプシーヌがいきなり窓へ身を寄せて、子供のように腰を浮かせる。
道端で、奇妙な帽子と衣装を着けた道化男が、鳥笛を
宿の駅に着くと荷物を御者に任せ、私たちは彼女に従いて、早速、甘焦げた空気と散発的に起る花火や風船の破裂音に彩られた晴れやかな人込みの中へ身を投じ、暫し、そこらの屋台を気の向くままにのぞいて回った。まともなアンティーク絨毯の横に並んだ素朴な木彫人形や安っぽいセコハンのがらくた類、得体の知れない壺や絵画の隣では真贋不明なエムブレムに目の玉のとび出るほどの値札がつけられていたりする。向こうで胡散臭気な男が客引きしているかと思えば、こちらでは人の好さそうな店番の老婆が微笑んだままうたた寝しているのを良いことに、悪童がチョコレート菓子をくすねている。こうした猥雑な賑わいぶりは、はなから何も買う気のない一介の冷やかし客である私にとってさえ、なかなか心ときめくものだった。
気がつけば、キャプシーヌたちは、いつの間にか少し離れた出店に移って、民芸品をあれこれ値踏みしている。今しもキャプシーヌが
その時ふと、私は、さらに少し先の人込みの間からキャプシーヌを眺めている身なりの良い三人連れの若者たちに気が付いた。キャプシーヌの方も、ほぼ同時に気付いたようで、顔を上げて一瞬だけ彼らを見つめると、セリーヌを従えてゆっくりこちらに引き返してきた。うんざりと微苦笑を浮べるその表情から、あまり歓迎すべき相手ではないらしいことが何となく読み取れる。
「やっぱり会ってしまったわ」
そう告げるキャプシーヌだったが、言葉の感じは軽かった。
「知り合い?」
「うん、お金持ちのお坊ちゃんたちよ。頭の中には色事しかないの。少しは世の中のことも考えればいいのに」
「君に興味があるみたいだね」
「目つきが露骨でしょう?セレブならせめて
「はっきり肘鉄を喰らわせておけば?」
「他の二人はともかく、真ん中の子の家は昔から父の役職と関りがあるからそうもいかないの」
「ほら、来るよ」
私の存在に遠慮してか、三人はのろのろと煮え切らない足取りで近づいて来る。両側の二人は単なる成り上がりの金持ち風だが、いかにもそれらしい装いの真ん中の青年は由緒正しい家柄の末裔だという。
「仕方がないわ。少し付き合って片づけてしまいましょう。全く —— ああいう目つきで見つめられると、自分がドレスを着たお
セリーヌは傍らで、
キャプシーヌは自分から若者たちの方へ歩み寄り、挨拶もそこそこに、先ほどの宿屋のホールへ連れだって消えて行った。
置き去りになった私たちは、手持無沙汰のまま、どう時間を潰したものかと頼りなく辺りを見回してみる。
「字は読める?」
私が尋ねると、セリーヌは意外にも「はい」と小さく頷いた。
「じゃあ、本屋でものぞいてみるか」
とっつきに古本の屋台が出ていて、客用に長椅子が置かれている。覗いてみると、妙にインテリっぽい眼鏡をかけた学者風の男がいて、よければお掛けになってゆっくり休憩なさって行って下さいと勧めてくれた。
とりあえず腰を下ろすことにする。
立ったままのセリーヌに座るように言ったが、辞退して立ち続けている。重ねて誘うと、私から少し間を置いて申し訳なさそうに隣端に収まった。
「字が読めるなんて、素敵だけど、どうした訳だい?」
使用人で文字を読める者など殆どいない。
「父から教わりました」
「ふぅん、父上はどんな方?」
「教師をしていましたが、学校が解放軍に襲われたとき殺されました」
「そうか、気の毒に。母上は?」
「四年前から病気で寝込んでいます」
「
「五つになる弟がひとり」
彼女ひとりで一家をささえているらしい。
ただこれだけの会話に過ぎなかったが、その慎ましく素直な態度や、素朴な物腰に、私は改めて感銘を深めた。
とはいえ、セリーヌは所詮、私とは別の世界の他人に過ぎない。
キャプシーヌが彼らを「片づけて」戻って来るまで、どれくらいの時間がかかるのだろう?
私は立ち上がって、狭い屋台の本棚やテーブルに所狭しと列べられた書物たちの背や表紙を見分して行った。店主の風貌から想像された通り、学術書の類が多い。珍しい冊子や、その道の専門家が喜びそうな貴重な資料などもありそうだ。やや場違いな感じだが面白い。手もとのテーブルにも、厚めの書物が何冊か積み置かれている。その一番上、日焼けしてくすんだ表紙の一冊の古本が私の目に留まる。手にして開くとこの地方の郷土史らしい。歴史や風習、文化について書かれていた。興味をひかれて席へ持ち帰る。
「君も何か興味のある本を探してみたら?」
声をかけると、セリーヌは遠慮がちに、だが嬉しそうに礼を言って席を離れた。いかにも向学心に燃えた足取りだ。
私は目次に案内されてパラパラとページをめくり、この地の珍しい風習などについて書かれた記事を読み始めた。しばらく読み進めるが、私の知らない話ばかりで興味をそそられる。
そのまま読み耽っていると、分厚い専門書を抱きかかえるようにしてセリーヌが戻って来た。
「おやおや、随分難しそうな本じゃないか」
顔を上げて驚く私に、彼女は真面目な顔で「すみません」とつぶやいた。見ると獣医学の本ではないか。
「本気で勉強しているの?」
「はい、でも、本が買えなくて …。本物の獣医さんにはなれなくても、いつかまわりの可哀そうな動物たちを助けてあげられるようになりたくて」
そう語る娘の瞳には、寂しさではなく、愉し気な希望が潤んでいた。今、自分がどれほど無垢な微笑を浮かべているか、彼女は気付いていないだろう。
「貧しさは罪だね」
「いえ、わたしは本当に幸運です。キャプシーヌ様にこんなに可愛がって頂けて。よくお菓子や服のお下がりを頂いたり、私だけでなく、母や弟にまで何かと気を使って頂いたりしているんです」
「その本、本当に理解できるの?」
私も彼女を応援してみたくなった。
「難しいけど、何とか読めそうです」
「じゃあ、読んでみて行けそうなら買ってやるよ」
「いけません!」
彼女は跳び撥ねんばかりに驚いた。
「そんなこと!罰が当たります!ブラボヴズさま、どうかおやめ下さい。キャプシーヌさまにも叱られます」
「キャプシーヌは怒ったりしないよ。叱られるとしてもぼくの方さ」
私が値を尋ねると、店主はそれなりの額を口にし —— それは、確かにセリーヌには到底払いようのない額だった —— 商談が成立した。
セリーヌは胸が詰まって声も出せない。
その
それからどのくらいの時間が過ぎただろう。私の読んでいたある一文が、突然、私の全身を釘付けにした。それはこの地に伝わる古い裏側の俗習に言及した記事だったた。曰く ——
… この地に秘かに受け継がれて来た俗習の中でも特にセンセー
ショナルなものの一つがガーターにまつわるある儀式的な符牒
行為で、正式な婚姻関係にない目上の女性(多くの場合、未婚者)
が婚約者以外の男や行きずりの相手などと一夜を共にした部屋に、
自らのガーターの片方を残すという、いわゆる「はぐれ輪」である。
男がそれを自らの足に着けておけば再会が叶うという俗信であり、
再会を望まない場合はベッド下に返しておく。他の地域では殆ど例
のない風習だが、中部ファルザス地方では未だに広く根付いており、
おそらく二百年ほど以前から続くものと思われる。
キャプシーヌがようやく姿を現したのは、別れてからふた時半も経った頃だった。気が付くと、若者たちの姿はすでになく、彼女はホールの出口から、ひとりでこちらを見つめていた。私ではなく、獣医学書に没頭し続けるセリーヌの幸福な微笑みを見ているような気がする。いつからそうしていたのだろう。
「ごめんなさい、遅くなって」
私たちのところまでやって来たキャプシーヌは悪戯っぽく
「はい!どうぞ」
いつの間にどこで仕入れたのか、大きなリンゴ飴が一本ずつ、両手に突き出された。
「今回の敵はちょっぴり骨っぽかったわ」
思っていた通り、馬車に積んできた大層な荷物は何一つ解かれることのないまま、私たちは陽の傾く前にバザールを後にした。
帰りの馬車では皆、口数が少なかった。セリーヌは分厚い書物を首飾りの胸に押し当てて将来を夢見、私は無言でキャプシーヌの顔を何度も盗み見し続け、そしてキャプシーヌはどう見てもいつもの私の人懐こいキャプシーヌの姿のまま、流れ過ぎて行く窓外の景色を見守り続けていた。
ボワネット荘にはすでに灯が点っていた。夕食をどうするか尋ねて来た執事に、三人分用意してとキャプシーヌが頼む。
建物に入る際、いつぞやの小間使いとすれ違う。小走りに背けたその頬には、治りかけの手形の痕が黒く残っていた。
第5話 挿絵その2:https://kakuyomu.jp/users/betunosi/news/822139837936005373
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