第4話 木苺

 ボワネット荘での生活は、我が将来さきゆきへの不安をさえひと時忘れさせてくれるほど心安らぐものだった。同じボワネットの血を分けた兄弟でも、伯父と父では暮らし向きには雲泥の差があることに新ためて気づかされる。この地を離れる以前は私たちも同じボワネット一族として優雅な日々を過ごしてきたわけだが、む無き事情から父が母方のブラボヴズ家を継ぐことになって以来、我が家勢は急速に傾きはじめ、今やそこらの新興の土豪や小領主たちも同然の暮らしぶりにまで落ちぶれてしまっていたからだ。まだ幼かった頃のキャプシーヌには私との許嫁の話もあったらしいが、いつの間にかそれも立ち消えになってしまったのは自然の成り行きだったいうべきか。それでもブラボヴズ一族が曲りなりにもここまで持ちこたえ得たのは、ボワネット本家という後ろ盾の大きさのおかげであったことは紛れもない事実だろう。

 この屋敷では私の訪れることのなかった10年余りの間、柱時計の針は動きを止め、どの部屋の家具にも、どの廊下の調度にも、昔のままの威厳と静けさが香っていた。磨き上げられた古めかしい寝台にも、重厚で風情のある暖炉にも、踊り場に掲げられて階下を見下ろす歴代当主たちの肖像にも、それらを照らし出す銀色の燭台の焔の揺らめきにも、懐かしさと共に、本物にしか醸し出せない落ち着きが宿っている。

 今はそんな館の仮初めのあるじを務めるキャプシーヌは、子供時代と少しも変らず、何の屈託もない親しみで私を受け入れてくれた。ともすると、七の頃に戻った自分が生活を続けているかのような錯覚にいざなわれて行きそうになる。そして、二人がもはや子供ではないことさえ気づかせぬほど、彼女の気配りはさりげなく、気さくなものだった。

 一日をこの館からはじめられるのは何という悦びだろう。

 朝食ひとつとっても、洒落たカットの七色に瞬くガラス鉢や見事な陶磁器に盛られた果物や、パンやサラダは、朝日のこぼれかかる窓辺のテーブルに、給仕たちの名人芸によって絶妙の芸術的センスで配り置かれ、風通しの良いカーテンにも、テーブルクロスの刺繍にも、シックだが今風の軽やかさが潜んでいるのは明らかにキャプシーヌの趣味を反映したものだったに違いない。

「そうだ」

 給仕たちが一度下ったのを見計らい、私はスープ皿にスプーンを置いて、ポケットから未明の戦利品を取り出して見せた。

「ねぇ。これ、誰のだろう?」

 ガーターを見るなり、キャプシーヌは首を傾げて微笑んだ。

「私のよ?どこにあったの」

「ミケルのベッドの下から出て来たらしい。掃除の小間使いが見つけて、隠したがっていたから預かっておいたんだ」

「きっとだわ … 」

「心当りが?」

「えぇ」

 彼女は悪戯な瞳で真っ直ぐに私を見つめてクスクス笑った。

「死にかけているミケルを温めるために裸で抱いてあげたの」

 私は絶句した。

「きっとその時留め忘れたんだわ」

 頭の中が真っ白だ。

「嘘だろ?」

 下品な軽口だ。彼女らしくない。

「本当よ」

 私の顔を見つめて吹き出すキャプシーヌ。

「真っ裸で?」

「えぇ」

「ミケルも?」

「えぇ、私がタオルで全身をぬぐってあげたの」

「まさか⁉」

 焦って言葉を探す。

「だって、体くらい誰かに拭かせれば良いじゃないか!?それに、暖炉だって湯たんぽだってあるし、行火あんかだってあっただろ!」

「でも、本当に死にかけていたんだもの」

「だとしても君がすることじゃないさ!本当にそんな必要があったのなら犬か子豚でも抱かせておけば —— 」

 だが、彼女の言葉を真に受けてになっている自分の滑稽さに今更ながら気が付いて、私はそのまま口を閉じてしまった。あり得ない。

「 … それが事実なら、この地面が太陽の周りを回っているという噂だって本当さ」

「セザール、信じていないのね?」

「もちろん」

「でも、考えてみて?だとしたら、他にって言うの?」

 悪戯に見つめて、キャプシーヌは最後にひと口だけ、美味そうに水を含んだ。

「 … 」

 混乱して一言も口をきけなくなっているうちに、給仕たちが皿を下げに戻って来る。

「さ、セザール。木苺ラズベリーを摘みに行きましょう。今日はプディングを作るのよ」


 ガーターの件だけで頭が一杯だった私を差し置いて、遅い朝食を片付けさせると、キャプシーヌは最初の日に私を出迎えたあの清楚な黄色いドレスに着替えて来て、四日続きの陽気の中へ私を連れ出した。

 春が庭園を包んでいる。キャプシーヌはガーターの事など何でもなかったかのように嬉し気だ。それ以上何かを説明する気など毛頭ない様子で、バロック・ダンスのステップでも踏むかの如き足取りを軽やかに運んで行く。いつも私の前を駆けていた少女に置き去りにされぬよう、今も私はあとを追って行く。

 その気になればもっと彼女を問い詰めることはできたかもしれない。そうすれば、彼女は多分本当の事情を教えてくれただろう。十中八九、何かつまらない真相だったに違いない。あるいは、彼女自身、実は何も知らないまま、ただミケルを庇うために咄嗟にお道化てみせているのだろうか。だが、いずれにしろ、キャプシーヌには、そもそも、私にそこまで問い詰められなければならない筋合いなどなかったし、この優し過ぎる幼馴染みの気分を損ねてまでこれ以上詮索する気にはなれる訳もない。

 よく野イチゴを摘んで食べたわね、とキャプシーヌが振り向く。

「服も手も唇も真っ赤に汚して叱られていたわね?」

 その透き通った柔らかい声と笑顔が私の胸を刺すように疼かせるのを、今はっきりと感じている。

 ラズベリーがこの地の特産品の一つであったことは私も覚えていた。が、やがてひらけてきたなだらかな木苺の茂みは予想をはるかに越えて広大なものだった。自生の野原とはとても思えない。見渡す限りの大地に、二人の胸ほどの背丈のラズベリーが目立たぬ細やかな白い花弁を、どこまでも、ちらちらとほころばせ続け、はやくもあちこちで早生はやなりの実をまばらに結びはじめている。そして、その実は思いもかけず、赤くもなければ黒くもなく、全てがトパーズめいた黄色に澄んでいたのだ。

「さぁ、初苺でこのかごを一杯にしてあげましょう」

 いかにも上機嫌でそう言いながら、彼女は愉し気に葉陰から葉陰へと、小さな宝石粒を集めはじめる。その指先が触れると、小苺ベリーたちはほとんどひとりでに自分からがくを離れて、たなごころからかごへとこぼれ落ちて行く。それにつれて、彼女の唇からは、奇妙に懐かしくうら哀しい古謡めいた調べが、そこはかとない清らかさでひっそりと紡ぎ出されて行くのだった。


      木苺の恋にもなれず甘きかな

         含めば解けて思い留めず


「… 呪文みたいだな …」

 私がつぶやくと、キャプシーヌは一旦こちらに微笑みかけ、それから、この季節にしては珍しく雲ひとつない空のどこかを仰いで遠い目になった。

「覚えていない?野イチゴを摘んでいたとき、私の姿を見失ったあなたが驚いてあちこち捜し回ったことがあったでしょう?あの時ね、私、妖精と一緒だったの。うん、小さな体に二枚の羽根のあるあの妖精よ。『私が見えるの?』―― 最初、彼女は困ったように、それでいて何だか興味深げに言っていたわ。言葉ではなく心の中に直接話しかけてきた。それで、私も『あなたにも私が見えているのはどういうわけかしら?』って心の声で答えたの。そうしたら、彼女はすっかり喜んで『素敵な宝物をあげましょう』って言うの。『ただし、あなたはこれから私の出す三つの課題に正しく答えて、あなたがその宝物にふさわしい子であることを自分で証明しなければいけない。もし、一つでも間違えたら二度と人の里には戻れなくなるけど、それでもいい?』『えぇ、わかった』深く考えもせぬまま私はうながしていた、『それで一つ目は何?』『じゃあね、さっき一緒に苺を摘んでいた男の子を殺して来て』『いやよ!』『どうして?』『だってセザールは友達よ。大好きなのになぜそんなこと言うの?』『宝物は欲しくないの?』『私にはセザールが宝物よ』『 —— えぇ、それでいいわ。一つ目は合格よ。でも、彼がもし友達でも何でもないただの知らない男の子だったらどうする?これが二つ目の問題よ』『やっぱり殺さないと思うわ』『どうして?』『… だっていくら宝物が欲しくても人を殺すのはいけないことでしょ』『 … そぅ、それでいい。でも最後の問題はどうかしら?とても難しいわよ』そしてこう言ったの、『もし、その知らない子を殺したら一瞬だけ幸せになれるとしたら?』 —— 本当はよく分からなかった。でも、何となくそんな気がして正直にそう答えたの、『殺すかもしれない』。『合格よ。あなたは、やっぱり私の思った通りの女の子だった。約束通り宝物をあげましょう』そう言って、彼女はこのうたうたってくれた。最初のひと節を聞いただけで大昔から知っていたうたみたいに、そのあとの言葉や調べまでひとりでに思い出せていたわ。『いいこと、これは人が歌ってはいけない禁断のうたよ。この歌を聞いたあなた以外の人は、みなあなたとは結ばれなくなる。そして、いつかあなたが死ぬ時にその歌詞ことばを思い出せば、あなたを赦してくれるうたでもあるの』妖精はとてもやさしく微笑んでいたわ。なのに、その瞳を見たとたん、私はぞっと寒気がしたの … 」

 私には分らなかった。その幼な児めいたおとぎ話で彼女は何を言おうとしたのだろう。それで、ただ、

「じゃあ、ぼくたちはもう結ばれないね?」

 と冗談めかして呟いてみる。

「あぁ、良かった!」

 キャプシーヌは笑い出した。そこには、もちろん「大好きよ」の同義語のような親愛の情が溢れている。

「見て!」

 突然、嬉し気に彼女が声を上げる。

「ほら、なんてきれいなの」

 陽ざしの中に、その実は、他の実たちとは比べものにならないほど深く透き通り、昆虫の瞳に似た複眼のその一粒一粒に、覗き込む乙女の数十の顔をどこまでも黄色く宿していた。

「この実は摘まないで」

 彼女が言い切る。

「本当に大切なものには触れられないの」

 そう言うと、その実を下からそっと包むように、片手を宙に受けて、愛しむ仕草を見せた。

 その刹那、ひとりでに伸びた私の右手が、彼女の手のひらを襲って外側から乱暴に握り込ませていた。それは私自身にも思いがけない咄嗟の出来事だった。

「何てこと!」

 驚いた彼女のもう一方の手から小篭こかごが離れ、木苺たちがこぼれ散る。

 無理やり握り込まされたキャプシーヌの指の間から、二滴、三滴と実汁みじるが滴り落ちて行った。彼女はこぶしをいて無惨に潰されたキイチゴの粒を茫然と見つめる。

「何てこと」

 だが、二度目に呟かれたその同じ言葉は、愛するものを傷つけさせずにはいられなかった私の残酷な衝動を哀しく赦していた。

 どこからか吹いて来たひときれの風が彼女の黒髪をそよがせる。

「ナンテコト … 」

 七歳だったキャプシーヌが、笑って私の首に手を回す。

 私も笑って抱きしめる。

 だが懐かしさが私のなかで欲情に変わる寸前、彼女は身を翻し、こぼれた苺を拾いはじめていた。


∮ 第4話 挿絵:https://kakuyomu.jp/users/betunosi/news/16818792440158186503

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