第3話 ガーター

 キャプシーヌが向った先は、母屋おもやから少し離れた裏手に建つ、簡素でもそれなりに手入れされた平棟の共同宿舎で、住み込みの下遣いや小間使いたち用の住居すまいに充てられている建物だった。

「脱走兵⁉」

 聞き返さずにはいられない。

「えぇ、十日ほど前、衰弱して大雨の中で倒れていたところを番人が見つけたから保護しているの。放っておいたらきっと死んでいたわ。解放軍を抜けてこんな所まで迷い込んで来たらしいの」

「解放軍⁉」

 我が耳を疑う。

 解放軍は国軍、教皇軍と並ぶ三大勢力の一つで、主義主張や実態のはっきりした反貴族、反領主の小作派だ。

「敵じゃないか」

「そうかしら」

 あっけらかんと首を傾げるキャプシーヌ。

「別に私の敵じゃないと思うの。それに、脱走すればもう解放軍でもないわけだから … 」

 馬鹿か優し過ぎるかのどちらかだ。だが、キャプシーヌは馬鹿ではない。

「どんな奴だか知れないぞ」

「大丈夫よ、セザールくん。悪い人なら十日間も私を生かしてはおかなかったでしょ?」

 彼女は笑み流して両側に幾つもの小部屋のドアの並ぶ通路を奥まで進み、東南の角部屋の古びた木戸を軽くノックする。

「ミケル、キャプシーヌよ」

 そのままお構いなしに戸をあけて中に入ると、一つしかない採光あかりとり用の小窓のテーブルの陰から男が立ち上がり、「キャプシーヌさま」とつぶやいて、私に警戒の目を向けた。

「心配ないわ。従弟いとこのセザールよ。セザール・ブラボヴズ。軍人じゃないから安心して。しばらくやかたで暮すから、何かの折に見かけても怖がらないでね」

「 … 」

 男は黙礼して、それでも不安げに私の様子を伺い、ひと言、「よろお願致します」と小さく呟いた。

 私の倍ほどのよわいと思しき短髪で背の低い、どこにでもいそうな男で、一目でそれとわかる小作人だった。すでに体力は回復しているように見えたが、どこかくたびれた薄汚い印象を受けるのは、逃亡の心労故か、それとも、ここまでの半生を貧困と過酷な労働のなかで暮して来たからなのか。

「地図を見ているの?」

「へぇ、今のうちに道筋を頭に叩き込んでおきて」

「暗いわね、灯りを持たせましょう。無理やり追い出したりはしないからゆっくり養生すれば良い。この館にいる限り、誰にも手出しはさせないわ」

「なんとお礼申し上げて良いか … 」

 男は込み上げて来るものを抑え切れなくなった様子で、今更ながらに涙ぐみ、幾度もこうべを下げて十字を切った。

「キャプシーヌさまに神様のご加護がありますように」

「セザール、彼がミケル。とても信仰深いの。いきなり私を撃ち殺したりする人には見えないでしょ?」

「銃があるの?」

「大丈夫。雨で濡れていたし預かっているの。でも、ナイフならその荷袋の中よ」

 キャプシーヌは先ほどから明らかに私を心配させたがっている。

 いずれにしろ、彼がどんな男か確かめておく必要がある。

「 … 君は本当に脱走兵?」

 私は彼の目を見つめて尋ねた。

 「へぇ」

 彼はおずおずと頷いて私の顔色を窺う。

「 … まぁ、解放軍がひとりでも減ったのは有難いことには違いないけれど、それはそれとして、脱走は名誉ある人間のすべき行いとは思えないね」

「 … 」

 もとより、父同様、「名誉」などという胡散臭いお飾りには大した興味がなかった私には、脱走を咎める気こそなかったが、彼がどう出るかだけは探っておきたかった。だが、彼は黙ってうつむいていた。

「そんなにいじめないであげて」

 キャプシーヌが素直過ぎる視線でミケルのまわりに結界を張る。

「正気の人なら誰だって死にたくないし、殺し合いなんてしたくないでしょう?卑怯だという人の方がどうかしているわ」

「わしが馬鹿だったんです … 。小作では妻と三人の子供をどうしても養えんようになり、わずかばかりの支度金と手当に目が眩んでしもうて … 」

 嘘には見えなかった。私たちを憎んで問答無用で目の敵にしている輩ではなさそうだ。

「わかった、ぼくも彼女に協力しよう。君が揉めごとさえ起さなければね」

「有難いことです。セザールさまにも神様のお恵みを」

 ノックがある。

「お嬢さま」

「どうぞ」

 キャプシーヌが答えると、戸口から家令らしい男が何者かの来訪を告げてきた。

「シクルナさまがお立ち寄りですがいかが致しましょう」

「行くわ」

 彼女は頷くと、

「地元の治安を守る国軍の小隊長なの。月に二、三度巡回パトロールにまわって来る人よ。顔なじみだからすぐに帰っていただくわ。セザールはここにいて。紹介はまたそのうちにね。ミケルがここにいる間は些細なことでもあまり関心をひかれたくないの。見つかったらいくら脱走兵でも銃殺されるわ。私が戻るまで貴方もミケルとここに隠れていて」

そうウィンクを残すと、家令を従えて部屋を後にした。

 … とはいえ、田舎のことだ。誰が告げずとも、私の逗留が知れ渡るのは時間の問題だろう。

「座っていいよ」

 彼を座らせて、私も向かいのベッドの端に腰掛ける。

「それは何だい?」

 テーブルの地図の隣に置かれた民芸品のような小さな人形にふと目が留まる。親指大の木彫りの乙女像で男には似つかわしくない持ち物だ。縁取りの模様がいかにも風変わりでトラディショナルな印象だった。

「御守りです。十歳とおになる長女が入隊用に作ってくれまして … 。わしらの村のあたりに伝わる幸運の木彫りです。わしがキャプシーヌさまに救われたのも、この人形の引き会わせに違いありません」

 声と瞳の色が、この男の、家族への思いの深さを物語っていた。

 それからしばらくの間、私はもう少しミケルの様子を確かめておきたくて、思いつくままに、取り留めもない言葉を投げ続けた。

 然り、たとえばこんな具合だ。

「君たち小作が貧しい生活を強いられるのは、ぼくたち貴族が搾取して贅沢をしているからだと思うかい?」

 だが、何を訊いても彼の答は毒にも薬にもならない素朴なものだった。

「そういう話はわしの頭ではよくわからんです。まぁ、いろんな噂を耳にして、小腹の立つことも正直、ないわけじゃありませんがね。ただ、わしはこう思んです。わしら平民にも、貴族にも、良い人間もいれば悪い奴もいる。結局はそれだけのことじゃないですかね」

 貴族の中には小作や使用人たちとの会話を嫌う者も多いが、私はもともと彼らをさげすんではいない。リベラルといえば聞こえは良いが、父には政治的にも宗教的にもひどくルーズなところがあったし、一方、信仰の篤い母は、神のもとでは人間は本来、誰しも平等だと考えていた。小作が惨めな生き方を強いられるのは前世での行いが悪かった報いなのであり、善行を積めば来世では王族や司教や領主に生れ変れるし、その逆もあるという。そうした両親からの影響なのか、私も堅苦しいセレブたちとの付き合いよりは、領民たちとの雑談の方が好きだった。

 とはいえ、片や、ボワネット本家は代々厳格な保守派を標榜する家柄で、秩序と規律をこの上なく重んじ、カトリックでも正統ナヴァル派以外は認めず、名家でも5代前の血筋にまで拘るというような具合だったから、使用人たちと雑談するなど論外であっただろう。それ故、子供時代から次男たる私の父とも何かしら衝突が絶えなかったようだし、必ずしもお転婆ではないが型破りで天真爛漫な一人娘の振舞には、ほとほと手を焼いて来たはずだ。だが、そんな彼女だったからこそ、幼い私たちは意気投合し合えていたのかもしれない。 

「ただね、君たちの —— いや、解放派のインテリたちの言うように田畑を解放して貴族を皆殺しにしてしまえば良い世の中が来るとか、みんなが幸福に豊かに暮らせるようになるとかいうのは信じられないけどね。確かに世の中は不公平だけど、不公平な仕組の中にもそれなりの伝統の良さはある。世の中全体が、そういう目に見えない必要悪の恩恵にあずかっているような部分もあるはずさ。それをそっくり根っこから打ち壊してしまったら、今よりもっとひどくなる所だって出てくるよ」

 かれこれ小半時ほど、そんな具合に話していると、ドアにノックがあって、先ほどの家令の声が「セザールさま」と私を呼んだ。

「何だい?」

 戸を開けると、シクルナ様が帰られたのでセザール様をお茶にご案内するよう、お嬢様に言づかってまいりましたと告げてきた。


 結局、それから三日後、まだ明けきらぬ早朝に、ミケルはボワネット荘を辞して旅立った。キャプシーヌは私まで誘って、わざわざ見送りに出た。

 「いいこと、もし運悪く誰かに見つかったら、ボワネット家の使用人だと言うのよ。新しく雇われて来たが、仕事がきつくて逃げ出したと言えばみんなで口裏を合わせてあげるから。国軍に見つかっても、絶対に逃げてはダメ。背中を向けて走り出したりしたら、それだけで撃たれるわ。銃とナイフは置いて行って。替りに作業用のナイフを袋に入れておいたから。あと、よければこれも持って行きなさい」

 キャプシーヌは握りこぶしほどの大きさの炭の塊のようなものを彼の掌の上に載せる。

「本物の炭だけど、中が小さな空洞になっているの 。貴族の間でちょっとした袖の下なんかを贈るために使っている仕掛け箱よ。素人が開けるのは難しいから、分らなければ叩き壊せばいい。半年くらいならそれで暮らして行けるでしょう」

 彼女が本気でミケルを気遣っていることがわかる。

 「ご恩は一生忘れません」

 ミケルは、何度も何度も十字を切り、もっともらしく汚れを施された仕事衣のポケットにその炭くれを深く押し込む。その首では、小さな十字架といっしょに、例の御守りも小刻みに揺れていた。

 与えられた毛布や食器、パンやチーズやコーヒー缶を納めた袋を背負うと、私にも一礼して、彼は故郷へ踏み出した。

「無事に戻れるといいわね」

 振り向くまいと意を決して去って行く男の背中が丘を越えて行くまで、彼女は暫しその場で見守った。

 もっとも、たとえ我が家に辿り着けたとしても、脱走者の前途は多難だろう。

 一番鶏が鳴くと、キャプシーヌは二度寝しに館の寝室に戻って行った。

「朝食はいつでも家令に言いつけて」

 目が冴えて、彼女のように二度寝できそうになかった私が、あてもなくそのまま庭や裏手をぶらついていると、ミケルの部屋の片づけを終えたらしいエプロン姿の小娘がひとり、早足に建物を出て来て、私に気付くなりハッと立ち止まり、黙礼すると素早く脇をすり抜けようとした。後ろ手に何かを隠している。

「それは何?」

 呼び止められた彼女は、とぼけることも逃げ出すこともかなわず、おろおろと声をつまらせた。

「い、いえ、別に …」

 かまわず、私は彼女の手からそれを取り上げた。

 ガーターのようだ。女性の衣類のことなど何ひとつ知らない私にも、それが靴下止めガーターの片割れだということくらいは分る。その昔、太腿まである靴下を留めるのに母が使っていたのと同じガーターリングだ。薔薇形の絹のフリルがあるから、下女たちのものではありえない。

 私はぎょっとした。

「ミケルの部屋にあったの?」

 娘は半泣きで震えている。

「どうなんだ」

 少し語気を強めると、彼女はベソをかきながら白状した。

「ベッドの下の隅から出てきました …」

 訳がわからない。

 最初に浮かんだのは、ミケルが洗濯場から盗んだのではないかという疑いだった。だが、彼にその手の趣味があったとも思えない。干し場から飛ばされて来たものを拾ったのだろうか。だが、それならなぜ誰かに届けなかったのだろう。

「でも、なぜ君が泣くんだ?」

「… 、女の下着をセザールさまに見せるのが恥ずかしくて …」

 下着と言っても、たかがガーターだ。

「もういいよ」

 仕方なく娘を解放してやるが釈然としない。

「これは僕が預かっておく」

 起きたらキャプシーヌに尋ねてみよう。


∮ 第3話 挿絵:https://kakuyomu.jp/users/betunosi/news/16818792437656734595


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