第9話
(九)
左ノ介が妙案を思い付いたのは、それから数日経った日のこと。
「え?先生が私たちの家に来るの?」
いつも一番前に座るお転婆の八重が、まず声を上げた。
「そうだ。私がこの寺にやって来て早やひと月になるが、よく考えてみれば皆の親御たちがどんな人かも知らない。それでは良くないと思う」
「どうして?」
いつもは動き回ってばかりの孫七が、目をまん丸くして言った。
「寺子屋の勉学は皆一緒のものもあるが、それぞれの暮らしに沿うべきものでもあるはずだ。それを親御たちと話し合ってみたい。そう思ってな」
「駄目だー。おいらの親はきっと、手ほどき物を増やせって言うに決まってるよ」
そう悲鳴を上げるのは、小さな相撲取り然とした矢吾朗太だ。
「お前の家は米屋だろう。そんなに勉学に煩いのか?」
「何言ってるんだよ。米屋ほど頭の要る商売はないって、いつもおっ母あが言ってるよ」
確かに。左ノ介は大きく頷く。
他の子どもたちもそれぞれの反応を、思い思いに出している。
「と云うわけで、月の頭から一軒ずつ回っていく。ただしお構いは無用と、家の者には伝えておいてくれ」
左ノ介は武士の生まれ。幼い頃から暮らしの場はおのずと武家屋敷の周りと決まっていたから、あまり城下の他の暮らしを知っているとは云えない。寺子屋の同窓生の中にも町人の子どもがいないわけではなかったが、武士の子どもたちよりはるかに考え方が大人で、事実寺子屋を巣立っていくのも早かった気がする。
ひとつ困ったことがあった。他の子どもはいいとして、例の安蔵・安吉兄弟のところへは道が分からない。二人に案内を頼まなければ、おそらく途中で迷ってしまうだろう。
「安蔵、安吉」
左ノ介は二人を前まで呼んだ。普段はあまりないことに、二人は何か小言でも言われると思ったのか、よく似た顔をまた同じように強張らせる。
「安心せよ、今度の訪問のことだ。私はお前たちの家が全く分からぬゆえ、一緒に道案内をして欲しい。よいか?」
すると兄の方は少し俯き、その顔を弟は下から見上げるようにして覗く。
「何だ?どうかしたか」
安蔵はその問いにすっと顔を上げると、首を横に振った。
「ん?」
左ノ介が怪訝そうにすると、安蔵は弟に何やら耳打ちする。
「…無理だって。兄ちゃんが」
弟の安吉がきょとんとした調子で応えた。
「無理?何がだ」
するとまた兄は弟の耳に囁く。
「道が険しいから」
弟は再び兄の言葉を簡潔に伝える。
「大丈夫だ。こう見えても武士の端くれ。普段から体は鍛えている。心配は無用だ」
左ノ介は少々の強がりを言う。すると安蔵は幾分冷めた顔で、やはり首を小さく振った。
「分かった。とにかく付いて行けるだけ行ってみる。それでもお前の言う通りだったら引き返す。それでよいか?」
半分意地だった。まさか安蔵が自分に家族を会わせたくなさに言っているとは思わないが、それでもその頑なさは尋常ではない。左ノ介にはそう感じられた。
その夜家に帰ると、そこでも例の泥棒の話が話題に上がっていた。どうやら山をひとつもふたつも越えたところからやってくるらしい。
「スッパ者ではないかって噂ですよ」
夕餉の時お仲が言った。お椀と箸を持ったままだ。
「どうして?」
左ノ介が尋ねる。
「逃げおおせ方が鮮やかだって。何度か追手が掛かることがあったけど、その度煙のように消えてしまったって」
「まあ、おそろしい」
と母。
「そんなわけないですよ。人が消えるなんて」
右ェ門が笑い、
「まあ、そうだな」
左ノ介も同意する。
「だから皆、シノビの類だろうって言ってるのよ」
お仲は結論付ける。
「しかし…」
左ノ介は言う。「この時代に、スッパとかシノビなんかいるだろうか?それもこんな片田舎に」
その時、ふと左ノ介の頭に安蔵・安吉兄弟のことが浮かんだ。
「でも、人里離れたところで怪しい修業とかするんでしょ、あの者らは」
お仲は尚も続ける。
「お前は講釈ものの読み過ぎだ」
右ェ門が笑いながら言う。
「あるいは、奥深くでの暮らしが立ち行かぬのかも知れぬ」
黙っていた父親が言葉を漏らした。「山での暮らしは、我々が思う以上にままならぬことが多い。しかし噂になっている以上、そろそろお上も捨ててはおくまい」
皆は一様に黙る。
「押し込み、盗賊の類は今まで以上に罰せられよう。その前に何処へなりと消えてくれればよいが」
父親は低く言った。
「いかがすればよいのでしょう?」
表情を変え、右ェ門が訊く。
「言って聞かせられればこの上ないが、そう上手くもいくまいのう」
その父親の言葉を聞き、左ノ介は幼き頃に見た晒し首を思い出す。四つ並びした、くすんだ色の罪人首。
「あの、これからしばらく帰りが遅くなります」
左ノ介は話を変える。
「おや、何ゆえ?」
母親が問う。
「寺子屋が終わってから、子どもたちの家を回ることにしたんです。それぞれの事情も分かっていた方が良いと思いまして」
左ノ介は返す。
「どれくらい遅くなるのですか?」
「分かりません。夕食までには戻りたいと思いますが」
「…そうか。それも良い学びになるやも知れぬ」
父親が言った。左ノ介は小さく頷き、お椀に残っていた白米を口中に掻き入れる。
「御馳走様でした」
どうやら外で風が出てきているらしい。長雨がようやく止み、急に肌寒さも増したようだ。左ノ介は席を立つ前に家族の顔をさらりと盗み見、それからまたしばらく自分の部屋に籠った。
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