第3話
(三)
今は廃寺となっている善行寺は、もとは鎌倉時代から続く由緒正しい禅宗の寺だったらしい。それが朽ち果てるきっかけになったのは、他でもない四十年近く前に起きた大飢饉で、当時は長雨と地震、火山の噴火が合いまって、近隣の藩では村ごと全滅したところも出たらしい。しかし橋本稜斬先生は言っていた。
「我々の力は到底自然の営みには敵わぬ。それはおそらくこれからも同じであろう。しかし被害を大きく惨の果てに向かわせるのは、いつも我々の問題だ」と。
左ノ介は寺へと続く石階段を上がりながら、そんなことを思い出していた。そしてあの頃先生の話を聞きながら「もし今そんなことが起きたら、自分は一体どうするのだろう?」と、幼いながら真剣に考えていたことなども。
静かな朝である。階段を上がりきった時、左ノ介はおや、と思った。子どもたちの声がしない。確か寺子屋を閉めるのはあとひと月も先のはず。もしかしたら先生の具合が急に悪くなりでもしたのか?左ノ介の足はおのずと早まる。その時だ。小さく澄んだ声が左ノ介の耳に滑り込んできた。
「何だ。いるのか…」
見ると、上がり框にはちゃんと子どもたちの履物が揃えて並べてある。
「失礼いたします」
左ノ介は中に向かって声を掛けた。すると「入られよ」、懐かしい声が返ってくる。返事をし、年季の入った板床を踏む。ひんやりと冷たい。ああ、これだ。数年振りに自分は帰ってきたのだ。左ノ介は思う。
「御免」
中に入って唖然とした。子どもたちが整然と縦横に鎮座し、小さき者までが素読に専心している。その彼らの顔が一斉にこちらを向き、左ノ介の存在を捉えた。
「よく参られた。こちらへ」
「はい」
幾分身体が細くなった印象の先生は、それでも凛とした佇まいで左ノ介を近くに誘う。
「皆に紹介しよう。この子屋の同胞であり、今は藩校で学んでおられる藤村左ノ介殿だ」
師の紹介に合わせ、左ノ介は子どもらに真向かう。数にして三十名足らずと云ったところか。察するに多くは商家の子どもらしい。それに自分らの頃と較べて女児の数も増えたようだ。おや…。左ノ介は御堂の一番奥に、どう見ても百姓姿と思しき二人の童が、ちんまりと並んでこちらを向いていることに気づく。
「藤村左ノ介です。学業中にお邪魔して申し訳ない。今日は皆さんの様子をしばし見学させて頂きたい」
左ノ介は少なからず緊張しながら言う。正直人前に出るのはあまり得意ではない。ましてや子どもたちを前に改まった挨拶をするなんて初めて事だ。左ノ介の様子に、子どもたちも黙ってこちらを見ているだけ。なんとも中途半端な空気が流れそうになった時、
「では吉次郎、続きを読みなさい」
先生が言った。
「はい」
一番前に座っていた目元の涼しい少年が、手にしていたものを読み始めた。どうやら論語だ。
左ノ介は先生の傍らに座りながら、懐かしいと云う思いの他に、やはりどこか違和感を感じる。それはひとえに子どもたちの様子が、自分らの頃と明らかに違っているからだ。左ノ介は横に座る恩師の顔を覗き見る。確かに久しく会わないうちに先生は年を取った。それはごく当たり前のことでありながら、やはり一抹の淋しさは否めない。
時折先生が声を掛け、読み手が順に回っていく。どの子も一通りの学習は進んでいるのか、読み方も胴に入っている。やがて左ノ介の心中に不安が過り始めた。自分は恩師と父親からの薦めのもと、久々に自分の元学び舎にやってきたが、果たしてそれに見合う力を持ち合わせているのだろうか、と。どこかで自分は藩校『志功館』に学び、勉学ではそれなりの成績を取っていると自負していただけに、虚を突かれたような気持ちになる。
子どもたちの読み番が一巡し、最後にあの幼い兄弟(?)に回ってきた時、不意にまた最初の吉次郎と云う少年が澄んだ声を響かせた。どういうことだ?左ノ介は兄弟の様子を窺う。特に変わったところはない。傍らの先生も同様だ。
そのうち左ノ介は、いつしか心地よい読経を聞いている気分となり、次第に瞼が重くなってくるのを感じる。そう云えばゆうべも遅くまで調べ物をしていて、気がつくと机の上で突っ伏していた。いかん。このままでは眠ってしまいそうだ。左ノ介は必死に自分を鼓舞せざるをえない。これでは半兵衛の忠言どおりになりかねないぞ…。何度目かの欠伸をやっとの思いで噛み殺した時、
「よし、そこまで」
先生の声が飛び、左ノ介はほっと胸を撫で下ろした。と同時に、子どもたちはばらばらと次の課業の準備に取り掛かる様子。
「左ノ介殿」
師匠が声を掛ける。
「殿は止めて下さい。昔通り、左ノ介で結構です」
「そうはいくまい。そなたももう立派な武士だ」
師匠は表情を変えずに言う。左ノ介も言われて悪い気はしないが。
「それにしても今の子たちは行儀が良いですね。私らの時とは全然違います」
「当たり前だ。むしろそなたたちの方が特別だったのだ」
そう言われて左ノ介は思わず鼻白む。
「父からお話を聞きました。目の療養に江戸まで上がられるとか」
「うむ。半分は道楽気分だがな」
「しかし、相当にお悪いのでは?」
「ひとえに歳のせいだ。何事も歳には勝てぬ。そんな当たり前のことに、今更ながら気づいたと云うわけだ」
師はそう言うと初めて、かつての寺子に微笑みかけた。
「…私に、できますでしょうか?」
左ノ介は唐突に訊く。
「左ノ介、それは愚問だ」
師匠は即答する。「やるか、やらぬか。それがまず何よりであろう。そうでなければ、何故そなたは今ここにおる?」
「それは…」
左ノ介は父親とのやり取りを思い出す。
「よくは分かりませんが、父と同じく、私はこの寺子屋を失くしたくはありませんでした」
「ほう。それは何故だ?」
「それは…、やはり…。学び舎は子どもらにとって必要だと思うからです」
「お前たちはここでふざけてばかりおったがな」
そう言われると、左ノ介には継ぐ言葉がない。
「冗談だ。このご時世、幕府の力も落ち、藩政はどこも商人の顔色を窺うばかりだ。しかし時代は動いておる。幕府は公にはしておらぬが、この国の四方から異国船が多々集まりつつある。早晩、我々の生活にも影を落とすことになろう。左ノ介」
「はい」
「お前は西洋の学問を学びたがっておると聞いた」
「そうです」
「ならば、まず自分の足元から学び直せ。でなければ、ただの蛮学の徒に堕ちるぞ」
自分の足元から…。師の言葉は、重く低く左ノ介の身体に響き入る。
「元より無理強いはせぬ。わしに気を遣う必要もない。なり手が見つからなければ、それはそれでこの子屋の宿命であろう」
「…」
「さあ、皆。境内へ出て、少し体を動かすか」
師匠がそう言うと、子どもたちは急に歓声を上げ、一斉に外へ飛び出していく。あの兄弟もだ。左ノ介はさっきまでの違和感が、じんわりと和らいでいくのを感じる。
「あの子たちは?」
「隣り村の百姓の子たちだ。珍しかろう。ああして片道三里の山道を毎日やってくる」
確かに以前はここに百姓の寺子はいなかった。左ノ介は師匠に従い、自分も表に出る。
「この年になっても子どもは見ていて一向に飽きぬ。可愛くもあり、時として憎たらしくもある。そしてどうやら大人には分からぬ、子どもたちだけの世界もあるようだ。そなたたちもそうであったろうか?」
師匠の言葉に左ノ介は記憶を手繰る。はて。自分たちはただ、その日その日を夢中で過ごしていただけ。その時何を考え、感じていたのか。今となっては遥か向こうのことのようにしか思えない。
左ノ介は子どもたちの様子にしばし時を忘れ、かつての仲間たちの姿をそこに重ね合わせようとしていた。
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