第2話

(二)

 左ノ介は城下を闇雲に歩き回っている。その後ろを妹のお仲が必死に付いてきているのが分かる。しかし構わず左ノ介は往来をどんどん先へと歩いていく。

今日は一日晴天で、空にはすでに高い雲も浮かんでいる。長かった藩校の一日から、左ノ介は一旦家に戻りはしたが、自分の書部屋にも身の置き所がない感じがしてすぐにまた表へ出た。

「あら、どちらまで?」

出際に母親から問い掛けられ、左ノ介は「ええ、まあ…」と、適当な口実すら返せなかった。その時から、妹はずっと後を付いてきている。全く、面倒な奴だ…。左ノ介は背中越しにも、お仲の息が随分上がっているのが分かった。

「お仲」

 左ノ介は急に歩みを止め振り向くと、自分の妹を正面に見る。「何故付いてくる?」

 そう言う兄の顔を、母親譲りの丸顔のお仲は、半分びっくりした様子で見つめている。

「俺は今、猛烈に不愉快だ。そして怒っている。それ以上後から付いてくるのなら、この場でそのふくれっ面をひっぱたいてやるぞ」

 そう言った途端、目からじんわり涙が滲み出そうになったのは、むしろ左ノ介の方だった。往来では顔を真っ赤にして突っ立っている若侍と娘の横を、怪訝そうな顔をして行き過ぎる者や、面白がってわざわざ覗き見る者までいる。自分は何とみじめな存在なのだろう。左ノ介は思う。この小さな城下の、歩き回っても一刻もすれば大概は歩き通せるほどの田舎で、自分は年を取り朽ち果ててしまうのかと思うと、腹が立つより哀しかった。屋敷での父親の云いつけが、自分から望みの全てを奪い去った気すらした。


「お前は先生に代わって、寺子屋を継ぐのだ」

 昨日、父親は息子を真っ直ぐに見たまま言った。左ノ介は一瞬自分が何を言われたのか分からなかった。しかし急速に静まっていく胸の高鳴りが、自分に望まぬ転機を告げているように思われた。

「私が、でございますか?」

 自分の声がやけに遠くで響いている。

「うむ」

 父親は頷くと、机上にあった師からの手紙を手に取った。

「これはもちろん先生からの希望ではあるが、他でもない私の意思でもある。寺子屋を失くしてはならぬ。お前、学問とは何の為にあるか、分かるか?」

 父親からの問いに、左ノ介は即座に返す。

「はい。武士として藩の情勢に関わり、微力ではありながらも己の力を尽くし、とりわけ実務を中心として…」

「そうではない」

 父親は息子を制した。「今はお前の考えを問うておる」

 そう言われると、左ノ介は急に返事に詰まる。

 学問が何の為にあるか、なんて今まで考えたこともなかった。小さい頃は当たり前のように寺子屋に通い、藩校に上がってからは日々学友と成績を競い合う毎日。そのうち自分も父親に倣って、藩の財政の末端を与ることになるのか。その為にはあの永遠と続く帳面整理を我が身に習得しなければならないのか。左ノ介は幼い頃から見慣れた、書斎での父の後ろ姿を思う。

「将来の、お勤めの為と思いますが」

 左ノ介がようやくそれだけを言うと、父親はにこりともせず

「その意味を確かめるためにも、当月から寺子屋の臨時師範として精進せよ」

 そう言ってするりと再び机に向かい、持ち帰ってきたであろう仕事に取り掛かり始めた。 

父親の繰る算盤の音が、まるで時間の進みをあざ笑うかのように聞こえる。どうやら話は終わったらしい。左ノ介はゆっくりと立ち上がり座敷を出ていこうとしたが、自分の足元が心なしふらついているのが分かった。


「兄上」

 妹の声が聞こえ、左ノ介は我に返る。「何だ?」

「兄上は、江戸に上がりたいのでございましょう?」

 左ノ介はハッとして妹を見る。「それがどうした」

「だったらどうして家出でも何でもして、自分の志を遂げようとはなさらないのです」

 左ノ介は胆がさっと冷えるのを感じる。

「…お前に何が分かる」

「分かります。それに城下をいくらぐるぐる歩き回っても、目指す江戸には着きませんことよ」

 その刹那、左ノ介の右手がお仲の左頬を張っていた。そしてそのことに二人とも驚いていた。すまん、つい…。思わず謝ろうとした途端、妹は目から大粒の涙を浮かべ、踵を返すとそのまま屋敷のある方角へと駆けて行ってしまった。

 何故こうなる…。左ノ介がやりきれない思いで歩き出すと、前から見知った侍姿が近寄ってくるのが分かった。やれやれ。左ノ介は頭を振る。今更知らぬ顔もできまい。

「左ノ介!」

 無闇矢鱈に大きな声を出すのは、幼馴染で今は藩校『志功館』の学友でもある、山中半兵衛だ。「貴様、参勤交代お傍方の志願、取り下げるらしいな」

「ああ、そうだよ」

 左ノ介は半ば自棄に応える。この地獄耳が…。

「何故だ?」

「事情ができた」

「事情?」

 半兵衛は多少馬面とも云える、その長顔をのけ反らせる。瞬間左ノ介は、悪い奴ではないんだけどなあ、と思う。いやむしろ、半兵衛ほどの善人はめったにいないとさえ思う。しかしいかんせんヤツの善意は常に空回り。せっかくの相手への施しも、変に受け取られるか、逆に利用する輩までいるくらい。お陰でヤツは徹底的に不器用で、なおかつ女にもてない。左ノ介は半兵衛の顔を再度見て、不思議な感慨がわが身に湧いてくるのを感じる。

「半兵衛。俺はな、寺子屋を継がなければならなくなった」

「寺子屋?何故だ。お前、稜斬先生の養子にでもなるのか?」

「そんな訳ないだろ。父上からのお達しなんだ」

 左ノ介は一連の話を語って聞かせる。

「…ふーん、先生がな。そう云えば、確かお前の父上も、以前先生から教えを乞うたのだったな」

「うん。若い頃剣術の方をな」

 二人はいつの間にか並んで家路を歩いている。

「俺は、お前に江戸に行って欲しかったな」

 半兵衛はしみじみと言う。

「まあ、次ってこともあるさ」

「お前、青木と争うのに臆したわけではなかろうな」

「だから、俺ではどうしようもない事情だ」

「あ、そうか」

「お前覚えてるか。寺子屋の頃のこと」

「忘れるわけなかろう。皆で勉学そっちのけ。騒いでばかりいた」

 半兵衛は懐かしげに返す。

「そうだな。しかし俺は不思議なんだ」

「何が?」

「あの頃、碌に開きもしなかった往来物に書いてあることを、今頃になってたまに思い出すことがあるんだ」

「ああ、それはあるな。やはり小さい頃ってのは、覚えが良いのかな」

 半兵衛はそう言うと、にんまりと笑ってみせた。左ノ介はその変わらない笑顔に、先程までの暗欝とした心持ちが多少和らいでいくのを感じる。

半兵衛は藩校では正直できる方の男ではない。母親を早く亡くし、下の兄弟の面倒を見るのに精一杯で、普段から勉学どころではないと事ある度に言い訳しているが、それもあながち嘘ではなかろう。寺子屋の頃は人一倍はしゃぐお調子者で、先生から叱られることも誰より多かったが、それも家庭の寂しさ故だったのかも知れない。

「考えてみれば、あの頃の俺たちは本当に悪かったな」

 半兵衛はまた笑いながら言う。

「悪かった、じゃないだろう。碌に手習いはせずに、ふざけたり喧嘩したり。しかも先生が見ている前でだ」

「その割には先生、あんまり怒らなかったよな」

「うん、まあな」

 課業中の先生は、騒ぐ子どもたちにはお構いなく素読を続け、あるいは小さい子への手習いをするので、寺子屋の中はさしづめ、魑魅魍魎の中に一人修行僧が佇んでいる有り様だった。そう云えば、その頃から先生は時折素読を中断し、両の眼を手でこすることがあった。もしかしたらその頃から、先生は目を患いかけていたのかも知れない。

「半兵衛」

 気づくと、二人は武家屋敷の立ち並ぶ一角まで来ていた。

「何だ?」

「学問って、何の為にあると思う?」

「は?」

 半兵衛は途端に目を丸くする。「そ、それはだな…」

 それでも至って真面目に考えている様子。「知識と教養を身につけて、藩政の一翼を担うべく、だな。それから、あとは…」

「はははは。もういいよ」

 左ノ介は笑う。「俺は一度、先生のところに挨拶に行くよ。話はそれからだ」

「お前、昔みたいに叱られんなよ。先生の勘所は今でもよく分からん」

 左ノ介は半兵衛を家の前まで送ると、薄暗くなった道を一人歩く。持つべきは友、とはよく云ったものだが、今日は半兵衛との語らいに、いつの間にか心がほぐされていく感じがした。江戸への憧れはもちろん早々に消えたものではないが、少なくとも寺子屋の仕事も、自分にとってそう仇なすことにはなるまい。そう思えてきた。

「ただいま帰りました」

 屋敷の中に入り元気良く挨拶をすると、そこに母親が鎮座し、真っ直ぐに長男を待ち構えていた。

 あー、そうだった…。左ノ介は一旦後ろを振り返り一呼吸すると、苦笑いを浮かべながらゆっくり母親の方に向き直った。

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