『 寺子屋繁盛記 』

桂英太郎

第1話

(一)

 左ノ介が父親とふたり面と向かうのは、そうめったにあることではない。そもそも今年十八になる息子が父親に呼び出されて嬉しいわけもなく、と云うよりはその後で必ず追い打ちの小言を繰り出す、母親の神経質な顔が頭にちらつくことの方がよっぽど気を滅入らす始末。夏の盛りを過ぎた書部屋には、そんな左ノ介の落ち着きのない心持ちと、早くも秋虫の鳴くさやけき声がそこらじゅうに充満しつつあった。

 座敷に入ると父親は、いつものように正座して文を読んでいた。その整った居住まいに、普段から猫背がちの左ノ介は自然と胸を張らざるを得ない。

「参りました」

 左ノ介が正座をし声を掛けても、今年四十九になる父親の返事はない。

「父上」

 止むなく左ノ介が名を呼ぶと、父親はおもむろに読んでいた文を丁寧に折りたたみ、長男たる左ノ介の方を向いた。

「左ノ介」

 父親がひと声自分の名を呼んだ時、左ノ介はこれが単なる叱責の類ではないことを直感した。

「はい」

「今日は他でもない。お前に命じたいことがある」

 思わず左ノ介が身を固くした間際、奥のふすまの隙間から妹・お仲のどんぐりまなこが覗いているのが見える。先ほど自分を呼び出しに来てから、そのままそこで待ち構えていたらしい。道理でさっきは大人しかったわけだ。咄嗟に左ノ介は父親に気づかれないよう、顔をしかめては妹に合図を送るが、かえってその様子にお仲の目は爛々と輝きを増してくるようだ。あーあ、これで母上への告げ口は確実か…。

「何でございましょう?」

「橋本稜斬先生を覚えておるな」

 父親は問うた。左ノ介は神妙に頷く。覚えているも何も、数え七つの頃から約五年、自分は一番の子ども盛りをその先生の寺子屋で過ごしたのだ。忘られようがない。

「今日久々に先生から御手紙が届いた。先生は今年六十五になられて、いよいよ子屋を閉めようとなさっているらしい」

「え。寺子屋を、でございますか?」

「うむ。お年のせいもあろうが、どうやら最近目を悪くされたらしい。もともと我が藩の剣術指南役でもあった御方だ。若い頃からの御苦労が今頃になって祟っておられるのかも知れぬ」

 左ノ介はすでにおぼろげになりつつある、幼き頃の記憶を手繰り寄せる。先生は当時から十分に老人然とした風体で、廃寺で長く一人暮らしをされていた。その頃仏前で行われていた課業では、集まってくる子息に合わせての古書の素読が多く、かく云う左ノ介も幼くして入った当初は、ただ訳も分からずその小さい胸から精一杯の大声を張り上げていたものだ。先生はそんな子どもらの顔を半ば無愛想に、それでいて慈愛に満ちた表情で窺っておられた。藩校に移ってもうすでに五年。このところはすっかり御無沙汰している。左ノ介は己の不人情に改めて頭を掻く。

「それで先生は?」

 左ノ介は父親に問いかける。

「しばらく湯治に出られるそうだ。それからついでに江戸に上がられるとも」

「江戸へ?」

 それを耳にした途端、左ノ介の生来華奢な胸が俄かに膨らみ始める。

「そこでだ、左ノ介」

 左ノ介の耳に、父親の声がやけに響いて聞こえる。

 そうか。先生は以前から自分が西洋の学問を学びたがっているのを聞き知っていて、今回江戸に上がる際の供に連れて行って下さると云うことか…。

 左ノ介は思う。考えてみればこれと云った才覚がなく、かと云って武士らしく剣の修行にも身の入らぬ自分に、先生は何かと目を掛けてくれていた。

「おぬしの取り柄は父親譲りの実直さと、学ぶことを楽しむところだ」

 寺子屋を去る日の、我が師からの言葉が改めて懐かしく思い出される。

 待ちに待った機会と云うものだろう。これを逃したら、自分はこの小藩の中で父親の後を継ぎ、御算用係として一生うだつの上がらぬ身の上に違いない。謂わばこれは天からの指し示し、なのかも知れない。

「はい、何なりと」

 左ノ介の胸中に、突然未来永劫まで貫かんばかりの若い衝動が湧き起こる。左ノ介はその胸の高鳴りを、目の前の父親に気取られまいとするので精一杯だった。

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