第4話

(四)

「藤村」

 志功館の長い廊下で声を掛けてきたのは、他でもない学友であり、この藩校きっての秀才、青木定ノ介だった。

 課業はとっくに始まっている時刻だが…。

「おお」

 左ノ介はややあって振り向く。青木は朝陽を横に受けながら、ゆっくりと歩いてくる。その一見のんびりとした顔立ちには、むしろ秘めた欲が窺われる。

「お前、寺子屋の師範になるって本当か?」

「ああ。親に説得されてな」

「あの父上がか?」

 青木は少し驚いたふうに言う。「意外だな。どうしてだろう」

 左ノ介はその学友の様子に、これまで執拗なほど地道な出世を重ねてきた、自分の父親のことを思う。

「俺にもよく分からん。ただ『寺子屋を失くしてはならん』と」

「無くなるのか、寺子屋?」

 左ノ介は、青木と並んで細い廊下を歩く。

「先生は当分、旅に出られるらしい」

「元剣術指南役、橋本稜斬か。良い御身分だな」

 青木は皮肉な笑みを浮かべている。

「目の療養を兼ねてとのことだ」

「元々変わり者な上に、半分隠居していたようなものだ。誰も止めはせぬさ」

「まあな」

 青木の遠慮の無さに、左ノ介は屈託なく微笑する。

「しかし、それで今度はお前が後釜と云うわけか」

「さあ…。目上の考えることは俺にもよく分からん」

「相変わらず暢気な奴だ。お傍係の件は諦めるのか?」

「仕方なかろう。いや、俺には元々手の届かぬ夢だったのかも知れん」

「左ノ介」

 青木は立ち止まる。「一つ、忠告しておく」

「何だ?」

「お前はお人好し過ぎる。今、自分の志を忘れてどうする。それでなくても、これからの時代は大きく変わる。いや、変わらねばならぬ。もう藩政のことだけを考えている場合ですらないのだぞ」

「おい、青木…」

 左ノ介は周りを見回す。師範役たちに聞かれたら何を言われるか分からない。

「お前のその常識的なところを、確かに俺は買っている。こんな田舎では、日常なんてほとんどその常識の積み重ねだ。だが、時として常識だけでは乗り越えられない壁もある。今がそうじゃないのか、左ノ介?」

 青木はそれだけを言うと、同輩を置いてすたすたと先へと歩き出す。左ノ介は半ば呆気に取られながらも、その背中が見えなくなるまで見送ると、

「分かってるさ、お前に言われなくても」

 そう独りごちる。


 左ノ介が初めて西洋の学問に触れたのは、参勤交代で国元に戻ってきた殿様が、向学の為にと志功館に下賜された数々の書物によってであった。印象的だったのは、いつもは物知り顔の師範役たちが、その時は何やら気まずそうにしていたこと。一方で左ノ介たち学生は、その学問の物珍しさと神秘さに、ただ歓声を上げるばかりだった。それらの書物がどうやら蘭学ではなく、エゲレスと呼ばれる国からのものであることを知らせたのが、当の青木だった。青木の家は代々藩医の家系で、身内には遥々長崎留学をし、西洋の学問に明るい者も何人かいた。青木自身左ノ介と違い、幼少から志功館に通っていたので、左ノ介にとって青木は、すでに別世界の空気を吸っている人間のように感じていた。そして今も、青木はすでに時代の先を読み、自分が想像もつかない未来へと歩き出している。左ノ介にはそんな気すらした。

 その左ノ介の心を密かに射抜いていたのは、物を動かす莫大な力を産み出すと云う機械仕掛けだった。図の説明だけではその中身の仕組みはほとんど解せなかったが、その構造の緻密さに左ノ介は、大自然の理の結晶を目にしたかのように鳥肌が立った。しかしその後も藩校では相も変わらず四書五経や、近隣の地勢学、または武芸の修練などがその主だった修学内容であることに変わりはなく、師範役たちは西洋学問の事にはほとんど触れず、むしろ学生が興味を向けること自体忌み嫌うかの如くであった。

 次期参勤交代のお傍役が、藩校の優秀生の中から数名選ばれると云う噂が流れたのは、それから半年ほど経った頃のこと。何でも今回は江戸での留学内容が大幅に変更され、海外情勢を含めた未聞の学問が受けられるとのことだった。西洋の進んだ学問への憧れだけが水腹のように膨らんでいた左ノ介にとって、それは初めて訪れた未来への竜門のように思われた。青木ら藩校の優秀生たち数人と迷うことなく志願し、その後の選考で二人にまで絞られるとのこと。左ノ介はこれまで以上に学業に勤しんだ。志願者の中ではあまり成績の振るわぬ自分に、今できることはそれだけしかない。生来行動に斑がある左ノ介にとって、それはかえって明確な目標に向かって突き進む、爽快ささえ感じさせた。だからこそ、弟の右ェ門が同じく志願していることを聞いた時は少なからず驚いた。二つ年下でありながら、その成績は同校の中でもずば抜けている。特に和算の腕は師範役も舌を巻くほど正確で、御算用勤めの父親の耳にもその評判は届き、随分周りからも称賛されているらしい。それまでも左ノ介は弟の方が成績の良いことを何気に気にしてはいた。しかし堅苦しい城勤めの世界で、才気溢れる故の苦労をするより、かえって平々凡々の方が自分の性に合っている。なんなら家督なんて弟にくれてやってもいい。その方が何の気兼ねなく自分の好きな学問に邁進できる。そう思ってさえいたのだ。それでも、今年七月、月ごとの成績公表の際同時に出された選考の中間結果に、左ノ介は半ば夢を見失った。十数名いる志願者の中で、左ノ介はほぼ最下位だった。そして右ェ門の方は、上級生を尻目に上位にその名を食い込ませる健闘を見せていた。それは生きる自信さえ付けかけていた左ノ介にとって、失望と落胆以外の何ものでもなかった。半兵衛ら学友たちの叱咤激励で何とか志願は継続したが、正直心の中では諦めの二文字が色濃く浮遊しつつあったまさにその時、父から突然例の申し付けが下されたのだ。

 先生は自分で決めろと言い、父親は寺子屋を失くしてはならんと言う。もちろんそれには自分もやぶさかではないが、本当にそれでいいのか、その思いも拭いきれたわけではない。しかし…。

 

左ノ介はやおら歩き出す。自分は今日ここに休学の申し出に来たのだ。もとより考えている場合ではない。左ノ介は自分を言い含める。淡い憧れ以外、確固たるものを何一つ持たぬ自分は、与えられた道をまず歩くしかないではないか。左ノ介はそう思うことにする。強引だが、そうでもしなければ自分が回っていかない気がするのだ。

ふと外に目をやると、りんどうが花を咲かせているのが見えた。左ノ介は再び立ち止まり、しばしその清寂の色に目を奪われる。

あるいは、青木の言う通りなのかも知れないな…。

左ノ介は廊下の端で、一人そう自嘲していた。

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