第5話
(五)
寺子屋に続く階段を上がりながら、左ノ介は静かに緊張している。その脳裏に昨日旅立っていった師匠の言葉が甦る。
「なるようになる。己も人もそれは同じだ。その流れを堰き止めたり、無理に突き進む必要はない。左ノ介、また会おう」
その後ろ姿は楽しげのようでもあり、またどこか淋しげのようでもあった。他に見送りはなく、師は一人で旅立っていった。左ノ介は小さくなっていくその背中に、深々と頭を下げた。
階段を上りきった時、左ノ介の耳に聞き覚えのある物音が響いた。
「?」
この前訪れた時は静まり返っていた境内が、今朝は賑やかな声で溢れている。左ノ介はゆっくりと寺の上がり框を上がっていく。そこで左ノ介の目に入ってきたのは、中を縦横無尽に走り回る、寺子たちの奔放な姿だった。
「何だ?」
左ノ介が見回すと、あの百姓の兄弟だけが変わらず、板の間に座り本を眺めている。それでも弟の方はまだ小さく、周りの騒ぎの方が気になるのか、半分困ったような顔をしている。左ノ介は皆の前まで進むと、
「静まれ、何事だ」
大きな声を出してみた。子どもたちは一瞬黙ったが、またすぐに騒ぎ出す。左ノ介は訳が分からず、しばし口を開け様子を見守るしかない。そのうち段々腹が立ってきた。左ノ介は一番年かさと思われる吉次郎と云う少年を見た。吉次郎は左ノ介の方は見ずに、隣りの男の子と何やら楽しげに話を続けている。
「吉次郎君、皆を静かにさせなさい」
左ノ介は近寄り言った。すると名を呼ばれた少年は
「それは、先生の役目ではありませんか」
と、事も無げに返す。
「何?」
左ノ介は思わず吉次郎を睨んだ。吉次郎は年の頃十二、三。どうやら商家の子どものようだ。やがて二人のただならぬ様子に、周りの子どもらも静まり始める。すると吉次郎はつまらなそうな顔になり、それでも不敵な表情は変えず左ノ介を牽制する。
左ノ介は天神机の前に座ると言った。
「もう課業は始まっている時間だ。出席を取る。誰か休みの者はいないか?」
子どもらはもう黙っていた。そしてそれぞれバツが悪そうに自分の周りを窺っている。
「全員いるな」
左ノ介がそう言って師匠から預かった帳面を仕舞いかけようとした時、
「お静姉ちゃんがいねえ」
訛りの効いた、澄んだ声が最後列から響いた。百姓兄弟の弟の方だった。
「お静?誰か、その子を知らぬか?」
しかし、やはりその他大勢は黙ったままだ。
「お静姉ちゃんは休んだことないけどなあ」
またおっとりとした、あどけない声が言った。左ノ介は思わず微笑む。
「病気だろうか?風邪でも引いたのかな」
するとその小さな弟は、不思議そうな顔をして左ノ介を見た。そして同時に吉次郎がじっと後ろの兄弟を窺っている。兄の方はその間ずっと黙ったままだ。左ノ介は全体を見回す。何なんだ、この子らは。皆それぞれに中途半端な顔をして左ノ介を見ている。
「先生が旅に出られて皆がそれぞれに戸惑うのは分かるが、ここは気を引き締めて勉学に勤しまねばならぬ。そうは思わぬか?」
左ノ介は静かに続ける。「皆にはまだ分からぬかも知れぬが、これからの世は大きく変化していく。どんなことがそれぞれの身に起こるやも知れぬ。良い事、悪い事、訳が分からぬことも多々あるだろう。そんな時大事になるのが己の教養と、そして何より丈夫な身体だ」
寺子たちは静まり返っている。
「でも…」
ある男の子が言いかけて止めた。
「何だ、申してみよ」
左ノ介は促す。
「おらの親は『教養じゃ飯は食えん』っていつも言います」
すると子どもらの何人かも同意するように頷く。
「なるほど。確かにある意味そうかも知れん。ではそなた…、名前は?」
左ノ介が問うと、男の子は鼻を掻きながら「惣太」と小さく応えた。
「惣太か。では惣太、お前はここで学ぶことは無駄だと思うか?」
「無駄?…無駄とは思わねけど」
惣太は口ごもってしまう。
「皆はどうだ?この寺子屋で学んできたことは無駄だろうか?」
「先生はどう思うんです?」
その時、凛とした声が横から響く。見るとそこに背の高い女の子が立っていた。
「あ、お静姉ちゃん」
また小さい弟が言った。
「君がお静ちゃんか。座りなさい」
左ノ介が促すと、お静は席に座った。
「そうだな。私の考えか…」
左ノ介は一瞬思案する。子どもらが注目しているのが分かる。父親や、師匠に言われたことが頭を過る。
「皆はここで字の練習や手紙の書き方、人や土地の名などを学んでいると思う。それにこの前私が来た時は、古書の素読をやっていたな。皆、なかなかに上手かったぞ」
左ノ介がそう言うと、子どもらは一様に顔をほころばせる。
「しかし、学ぶとは本来人間の生きる姿勢を育むことだ。役に立つということだけがその主眼ではなかろう。むろん金儲けの手段では決してない」
その言葉に教場は再び静まり返る。その神妙な顔を眺めながら左ノ介は苦笑いを浮かべる。
「とは言いつつ、実は私にも本当のところはよく分からぬ。皆の親が言うように『教養では飯が食えない』、それも一理あると思う。だが、飯が食えないからと云って、それが全くの無駄とも思わない」
「何故ですか?」
お静がすかさず問うた。
「それは…」
左ノ介は慎重に言葉を探す。
「私が、ものを習うことが好きだからだと思う」
すると、子どもたちの何人かがひどく落胆した顔になり、皆もまたざわつき始める。
「それは学問好きの、特別な人の例じゃないですか」
はっきりとした声が近くから聞こえた。吉次郎だ。「それにここでやってることは道楽じゃない。一緒にしないで下さい」
その尖った言い様に、周りはしんと静まる。
左ノ介はハッとした。師匠から聞いていたことではあったが、今この寺子屋に来ているのはほとんど商人や職人の子どもで、武家の子どもは少なくなっている。習う内容もそれぞれの事情も、左ノ介の頃とだいぶ差があるに違いない。
「そういうつもりで言ったのではないが…」
左ノ介は言葉を返す。「勉学はやらなければならないもの、苦しく嫌なもの。そればかりではないと云うことだ」
瞬間、左ノ介の中に書斎で仕事をする父親の姿が浮かんだ。父親は元々養子で、当家とは所縁もなかったと聞く。その父が今の仕事で頭角を現し、認められるようになるまでには一方ならぬ努力があったはず。
自分が言っていることはあまいのかな。左ノ介は思う。
「食わず嫌いと云うこともある。まずはやってみることだ。竹刀も振らずば当たらんからな。そしてひと振りひと振り、心を込めるんだ。そうすれば嫌々やっていたのでは分からない、不思議と澄んだ気持ちになれる」
そう言って左ノ介は笑顔で頭を掻く。「もっとも、これは稜斬先生からの受け売りだが」
子どもたちはそんな左ノ介を半分呆れたような顔で見ている。そう云えば、この前来た時は子どもたちの顔をあまりちゃんとは見ていなかった。左ノ介は改めてそれぞれの顔をゆっくりと見渡す。確かに、面白いものだな…。左ノ介は思う。皆、それぞれに特徴のある顔をしていて、見ていて飽きない。
「今日はどうだろう。まずは自己紹介から始めてみないか?吉次郎君、どうだ」
吉次郎は応えない。
「他の者はどうだ?」
やはり返答はないが、少なくとも嫌がる者はいないようだ。
「よし、じゃあ決まりだ」
左ノ介が言うと、子どもたちはまた静かにざわつき始める。そしてその中でお静と百姓の兄だけが、左ノ介から一度も目を離さなかった。
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