第6話
(六)
屋敷に戻った左ノ介は机に向かい、寺子たちの席順表を自ら製作している。あれから子どもたちは左ノ介から順に当てられると、たどたどしくもともかく素直に自分のことを話し出した。もっとも吉次郎は通り一遍の、百姓兄弟に至ってはお辞儀のみの挨拶だったが。
ひぐらしが鳴いている。どうやら母親は内心今度のことが不満らしく、左ノ介が家に戻ってきても口数が少ない。代わりにお仲があれやこれや寺子屋のことを聞いてくる。
「そんなに気になるんだったら、お前も一緒に来たらいいじゃないか」
そう言いかけて左ノ介は咄嗟に口ごもった。冗談じゃない。自分が子どもたちの前に立ち、ものを教えている姿など、早々身内に見せられるわけがない。
「兄上」
通る声がした。弟の右ェ門だ。ついこの前までまだ細く高い声だったのが、急に声変わりして思わず耳を疑う。その方を見ると、やはりそこにはまだあどけなさの残る顔があった。
「どうした、入れ」
すると、暗がりの中を弟が入ってくる。
「勉学中でしたか」
「いや、雑務だ。何だ、何か用か?」
「兄上は今日から寺子屋に行かれたのでしょう?」
「ああ、そうだよ」
「いかがでしたか?」
「何だ、お前も気になるのか?先程からお仲もしつこくてな」
左ノ介が言うと、右ェ門は笑いながらそばに座る。
「やはり大変でしたか」
「いや。自分らの頃と違って子どもたちは大人しいし、勉学にも比較的真面目だ。少なくとも暴れて手を焼かせられることはなさそうだ」
左ノ介は図らずも寺子たちを擁護する。
「そうですか。それは良かったですね」
「お前、藩校の方はどうだ?お傍係の方は決まりそうか」
「いえ、まだ分かりません。なにぶん青木様をはじめ、良くお出来になる方が多いので」
「私が言うのも何だが、弱気はいけない。それに今度がダメでも次がある」
「まあ、そうですが」
右ェ門は苦笑する。
「何だ。そんなに自信がないのか?」
「自信と云うより、張り合いです」
「張り合い?」
左ノ介は弟の顔を見る。
「深い意味はありません」
そう言いながらも、右ェ門の顔からは笑みが消えている。「兄上」
「何だ?」
「この国は、このままで良いのでしょうか?」
「おいおい。何だよ、急に」
「学友たちもよくその話をしています。今、西洋では機械仕掛けの道具が目覚ましい発展を遂げ、国々はこぞって海を渡り、富を求めて方々で戦を仕掛けているとのこと」
「うん。どうやらそうらしい」
左ノ介は頷く。
「私たちはこのまま、御公儀のまつりごとに従うばかりで良いのでしょうか?」
「どういうことだ?」
「西洋の勢いは近い内この国にも及びます。いえ、すでに及んでいるのかも知れません。ですが、御公儀をはじめ藩もそのことをひた隠しにしている。私にはそう思えてならないのです」
右ェ門は言い切る。
「お前…、まさか藩校でそのような話をしてはおるまいな」
「もちろんです。ただ、あまりにも大人たちが無関心過ぎる気がして」
「お前の気持ちは分からんでもない。先日青木からも似たようなことを言われた」
「青木さまから。何と?」
右ェ門の声に熱がこもる。
「もう藩政の事だけを考えている場合ではないとな」
「なるほど。…それで兄上は何と仰ったのです?」
「別に何も言わんさ。私は目の前のやるべきことをやるしかない」
左ノ介はぽつりと言った。すると弟も黙り、そのことで表で鳴くひぐらしの声が一段と響いてくる。
「お前も、私が臆したと思うか?」
「そうは思いませんが。ただ、兄上はあれだけ江戸に上がって西洋の学問に触れたいと」
「うん。いや、今でもそうしてみたい気持ちはある」
「そうなんですか?」
「ああ。しかしな…。右ェ門、これを見よ」
左ノ介は机の紙を弟に広げて見せる。
「これは席次ですか?」
「いや、ただの席順表だ。大体座る場所が決まっているようだから作ってみた」
すると弟は兄からそれを受け取り、じっと眺める。
左ノ介は言う。「右ェ門、子どもは面白いぞ。何故か飽きがこない。やっていることは幼いが、そこには純粋な欲がある」
「純粋な欲?」
「うん。上手くは言えんが、そんな感じだ」
左ノ介は微笑む。右ェ門はそんな兄に席順表を返す。
「以前兄上が通っている頃、東町の寺子屋と相撲の対抗試合がありましたね」
「ああ。お前も見に来てたな」
「ええ。あの時は、珍しく兄上も興奮されていました」
「そうか?やはり仲間が一緒だと違うか」
「はい」
右ェ門は言った。「兄上は淋しくはないですか?」
左ノ介はその言葉に一瞬胸を突かれる。
「どうだろう。まだ初日だからな。もしかしたら、そのうちそうなるのかもしれない」
弟は笑顔で応える兄をじっと見てから立ち上がった。
「口にはしませんが、母上も仲も、兄上のことを案じております」
「うん。分かっているよ」
左ノ介は応える。「稜斬先生が戻るまでの辛抱だ。とにかく頑張ってみるさ。お前も悔いなきよう、しっかり励め」
「はい、もちろん」
弟は踵を返すと、自分の部屋へと戻っていった。左ノ介は再び机に向かい、席順表と子どもらの顔を思い較べる。そしてまだ幼かった弟と道場に通い、一緒に剣術の稽古に励んでいた頃のことをふと思い出す。あれからまだ数年しか経っていないのに、今は随分昔のことのように思える。
「兄上たち、夕ご飯ですよ」
お仲の声がした。
「おお」
左ノ介は立ち上がりながら耳を澄ます。いつしかひぐらしの声は聞こえなくなっていた。
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