第7話

(七)

 帰り道、左ノ介は口笛を吹いている。気分が晴れやかなのではない。むしろ物悲しい。この頃、だいぶ風が涼しくなってきた。寺子屋に通い始めてから十日、何やら一日が暮れるのが早い。別段何かが起きると云うわけではないが、子どもたちの性格やそれぞれの事情を垣間見るにつけ、やるべきことは多々ある気がする。そんな中、ふとこれまでの藩校での生活が思い起こされる。

 毎月下旬にある各科目の試験に向けての、同窓生との日々の競争。落第でもしようものなら退校をはじめ、将来を左右する事態にもなりかねない。嫡男ともなれば尚の事、その責任は自分に限ったものではなく、謂わば一家を背負ったものと云っても過言ではないのだ。

 それに較べればここでの生活はひとまず安穏だ。少なくとも個人間の競争はない。むしろ一人ひとりが自分の将来に見合った内容を、その習熟度に沿って学習していく。その中でも中心となるのは、やはり読み書きそろばんだ。考えてみれば、自分たちはふざけてばかりいて、ちっとも勉学に身を入れていなかったが、それも今となっては懐かしい思い出になっている。

「父上は何故、私に寺子屋に行けと命じたのだろう」

 左ノ介は声に出して、自分の疑問を問うてみる。周りは田畑ばかりだ。誰に聞かれる心配もない。咄嗟に、もしかしたら父は本当に自分を見限ったのかも知れない。そう思えてくる。それに実際いつまで、自分は寺子屋で子どもたちを教えることになるのだろう?

「分からないことだらけだ」

 左ノ介はすじ雲の空に向かって言う。すると近くで物音がする。左ノ介は辺りを見回す。無邪気な気配がした。

「誰だ、そこに隠れているのは?」

 半分分かっていながらも声を掛ける。すると後方の畑の陰から、寺子の子どもたちが蜘蛛を散らしたかのように走り去っていく。ほとんどがまだ小さい子らだ。

「何だ。まるで子ザルの群れだな」

 左ノ介は呆れるが、同時に何とも言えない心持ちにもなる。あの子らがああやって寺子屋に通ってくる限り、自分もとりあえず行くしかない。そう思える。

「先生は独り事が大き過ぎるんですよ」

 見ると、そこにお静が立っていた。

「どうした?帰ったんじゃなかったのか」

「急いで帰ったって、仕方がありませんからね」

「お前の家は商売をやってるんだろう?手伝いがあるんじゃないのか」

 するとお静は一瞬黙る。

「私、お店なんか嫌いです。皆お金の話ばかりして」

「まあ、それが商売だからな」

 二人は並んで歩き出す。

「先生は将来何になるんです。まさかずっと寺子屋を続けるんじゃないでしょう?」

「あははは…、それはどうかな」

 苦笑いするしかない。「次は、お静が師範役になるか」

「親は私が寺子屋に行くことにも反対なんです。ただ、早く大店に嫁にやって、商売を安泰させたいだけで」

「そうなのか?」

「そうに決まってます」

 左ノ介はお静の横顔を見る。広いおでこ、華奢な肩、そして見る者を捉えて離さない目ぢから。綴り方をさせてみると、子どもたちの素朴な作文の中で、とりわけ文章の上手さが際立っている。

「お前は、本当に本を読むのが好きのようだな」

 左ノ介は言う。お静は左ノ介をじっと見据える。

「だから私、寺子屋が無くなると困るんです」

 彼女は最近親に読書を咎められ、ひどい時には大切にしている本を処分されてしまうらしい。左ノ介は初日に遅刻してきたお静の顔を思い出した。

 そうこうしているうちに、二人は町はずれにまで入っている。

「学問したいと云う気持ちがあるのなら、人間はどこででも、何からでも学ぶことができる。私は稜斬先生からそう教わったがな」

 左ノ介は呟くように言った。すると

「それは理屈です」

 お静は思いがけず左ノ介を睨むと、一人ぱっと駆け出し、少し離れたところでまた振り向いた。

「先生」

「?」

 左ノ介は立ち止まる。

「それに私たち、先生が思ってるほど、元々手習いは嫌いじゃありません」

 お静はそう言うと、今度は左ノ介を待たずに小走りに去っていった。左ノ介はその細い背中を茫然と見送りながら、何だかやり切れない気持ちになる。この世を窮屈にしているのは、結局大人側の勝手な思惑と云うことか。それに子どもたちの中では、自分は計らずもそちら側になるのかも知れない…。

 やれやれ。左ノ介は歩き出しながらため息をつく。この世は本当にままならないのだな。そして我々はその中でひたすら耐え忍んでいくしかないのだろうか?

 左ノ介の問いに、秋晴れ空は何も応えず、やはり刻々と暮れていくばかりだった。

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