第8話

(八)

 このところ長雨が続いている。左ノ介は寺子屋の中で外の雨音に耳を澄ます。

「先生」

 するとお静が声を掛けてきた。「次は?」

 どうやら読み番が一巡したようだ。

「あー。それじゃあ、ちょっと休憩」

 子どもたちは、その気の抜けた左ノ介の声にばらばらと腰を上げる。

 お静が近寄ってくる。「先生」

「すまん。ちょっとぼーっとしていた」

 左ノ介は頭を掻く。「それにしてもよく降るな」

「しゃんとして下さい。それでなくても皆、外に出られなくてクサクサしてるんですから」

 お静は口を尖らせる。

「分かった、分かった」

 左ノ介は構わずに次の課業の準備に取り掛かる。算術だ。

「先生、知ってますか?」

 お静は急に話題と顔色を変える。

「何を?」

「最近城下で窃盗が続いていること」

 知らなかった。このところ、半分意識的に世事には距離を置いている。

「いや。しかし泥棒など、さして珍しくはあるまい」

「それがただの泥棒じゃないから噂になっているんですよ」

 お静の声はいささか熱を帯びている。左ノ介はそんな、自分の妹とさして年の変わらぬお静を微笑しながら見る。またその様子を吉次郎が少し離れて窺っている。

「ただじゃない、とはどういうことだ?」

「どうやら親子連れの泥棒で、しかも金目の物だけを選んでは持っていくんだそうです」

「ふーん。それで?」

「え、…それだけですけど」

 お静は少々不満そうに応える。

「他所者かな。物乞いならともかく、泥棒とは物騒だな」

 左ノ介は言う。「しかし、どうしてこんな田舎にまでやって来て、わざわざ盗みをはたらくのかな。大坂や江戸だったら、それこそ金目の物はたくさんあろうに」

「先生、それって変じゃありません?まるで盗みが流行りものみたいに」

 お静は抗議する。

「先生はひょっとして、どこぞの義賊話とでもごっちゃにしてるんじゃないですか」

 そう横から口を挟んできたのは、案の定吉次郎だ。

 左ノ介は図星とばかりに苦笑する。

「確かに。子どもの頃は大泥棒石川五右衛門とか、盗賊頭高坂甚内なんかの話にどきどきしていたクチかな」

「そんな大昔の話、元だって怪しいですよ。それに盗賊は所詮盗賊です」

 吉次郎は冷たく言い切る。

「まあ、そうだが」

 左ノ介は言う。「とにかく、惨いことにならなければいいけどな」

「むごいこと?」

 お静が反応する。

「吉次郎に言われるまでもなく、盗みは大罪だ。捕まったら子どもでも只では済まない。おそらく親の方は死罪になろう」

「死罪?」

「今の藩政は、領内の秩序を固めるべく刑を重くしている。他所者なら尚の事だ」

 左ノ介が言うと、若い二人は押し黙る。ませたことを口にはしていても、やはり子どもは子どもなのだ。左ノ介は思う。


 左ノ介は一度だけ、国外れで晒し首を見たことがある。父親と遠い親戚を訪ねての帰りだった。行きとは別の峠に差し掛かった時、不意に父親が足を止めかけた。何だろうと父親の顔を見上げると、その目線の先に奇妙なものが置かれてあった。それが人の首だと気づくまでに、幼い左ノ介には暫しの間が要った。すでにいくらか時間が経っていたせいか、高台の上に四つ並びした首は、元の色が分からぬほどくすんだ様に成り果てていた。

「先月捕まった押し込みだ」

 父親は歩みを止めずに言った。「老婆を一人手に掛けたらしい」

 その声を傍らで聞きつつ、左ノ介はその大きな炭団のような首を順に見つめた。不思議と怖くはなかった。ただ、こんな峠道では風と埃でさぞ煙たかろう。そう思った。


「そうだ。ひとつ気になっていたことがある。」

 左ノ介はお静と吉次郎に問う。

「お前たちは何故、安蔵に読み番を回さぬ?」

 すると二人は急にぽかんとした顔になる。

「いや、叱ろうと云うのではない。安蔵も別に気にしているようでもないしな」

「何だ。先生、知らなかったのか」

 吉次郎が呟く。「兄貴の安蔵は、元々口がきけないんだ」

 左ノ介は言葉を失う。そして改めて、一番奥の席に座る兄弟を見た。兄の方は休憩の時も、一つでも字を多く覚えて帰ろうと筆を走らせ、時折横でいたずらしそうになる弟の頬をつねっている。随分無口な子だと思っていたが、まさかそんな事情があるとは。だから自然と素読の時は、安蔵を外して回るようになっていたのか…。

「私たち、てっきり稜斬先生が伝えてるって思ってたのに。先生、忘れてたのかな」

 お静と吉次郎は目配せする。

 左ノ介には先生の思惑が分かる気がした。先生はおそらく自分で気づかせようとしたのだ。否それよりも、子どもたちのありのままを見よ。あるいは、そもそも申し送るほどのことでもあるまい。そう云うことなのかも知れない。

「あの子らの家へは、三里はゆうにあるのだろう?」

「そうです。でも誰も行ったことがないから、本当のことは分かりません。朝は一番早く来てるし」

「最初から二人だけだったのか?」

「いえ。はじめは兄貴だけだったのが、後で安吉も泣いて付いて来るようになっちゃったんです」

 吉次郎が言う。

「稜斬先生は親からの事伝てだけを聞いて、あの子らが寺子屋に来るのを許したんです。だから親の顔はまだ誰も見たことがありません」

 お静が付け加えた。左ノ介は重ねて我が師の真意を思い計る。

「大体あの二人、碌に月謝も払ったことがないんです。たまに大根やら人参やら、そんなものを先生のところに持ってくるだけで」

 吉次郎は可笑しそうに言う。

「そうか。もう分かった」

 左ノ介は二人を席に座らせる。

 何だか無性に腹が立っていた。暢気に子どもらと時間を過ごし、分かったようなことを喋っている自分が情けなかった。左ノ介はわらわらと席に戻る子どもたちを見ながら、ふと戸の隙間から外に目をやる。

 雨はまだ当分止みそうになかった。

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