第12話
(十二)
ここ五日ばかり安蔵・安吉兄弟は寺子屋を休んでいる。稲刈りの季節だ。おそらく朝早くから夕方まで、真っ黒になって働いているに違いない。それでいて、左ノ介は午後の手習いに退屈そうな子どもらの顔を眺めながら、思わず自分も欠伸が出そうになる。
あの次の朝、兄弟はごく普通に寺子屋に顔を出した。後で事情を聞くと、安蔵が番屋にいるところに父親と安吉が迎えに来て、特に怪しまれることもなく家に帰されたと云う。左ノ介が他の子どもたちに聞かれないようにして礼を言うと、二人はきょとんとして返事も返さなかった。
「今朝私が行くと、もう二人はいなかった」
するとそれには兄弟もそろって頷く。
「お前たちも行ったのか?」
左ノ介は尋ねる。
「お父うが握り飯を持っていけって。でも、もう誰もいなかった」
安吉が言う。左ノ介の頭に、カラになった祠が思い出された。「安蔵、番屋は怖くなかったか?」
左ノ介の問いに、安蔵が頭を振る。
「そうか。お前たちは強いな。それに賢い」
左ノ介は重ねて言う。「お前たちの父上もだ」
すると二人は何やら気恥ずかしそうにお互いを見る。そして左ノ介は姿を消した親子のことをもう一度考える。故郷に帰るなどと言ってはいたが、果たしてそんな場所があの二人に残されているのだろうか?
左ノ介は安蔵兄弟のいない寺子屋の中を大きく見回す。皆、一様に自分の課題に専念してはいるようだ。左ノ介はその子らの机を回りながら、一人ひとりに声を掛けていく。矢吾朗太が手習い帳に大きく『志』の文字を書いている。
「おう、そなたの『志』は堂々としておるなあ」
左ノ介が言うと、矢吾朗太は筆を駆使しながらも満更ではない顔になる。左ノ介はその顔を見て、不意に「そうだ、それで良いのだ」、そんな思いが胸中を駆けるのを感じる。
その時、寺の外に誰かの気配がある。どうやら子どものようだ。
「そなたは…」
言いかけて左ノ介は我が目を疑う。
「わたり」
思わずその名を呼んだ。すると他の子どもたちもどやどやと入口に押し寄せ、小さな闖入者に興味の目を降り注ぐ。わたりはその勢いに気押されたようで、心持ち俯いて突っ立っている。左ノ介は子どもたちを掻き分け、わたりを寺の外れにまで連れ出すと、
「お前、どうして?」
やはりそう問うた。「父上は?」
「旅に出た」
わたりは何気ない顔で応える。
「旅に?いつ」
「昨日」
「一人でか?何故だ」
「分からない。でも、お父うがおいらにここに行けって言った」
わたりはあくまで淡々と言う。もしかして…。左ノ介は男の決意を思う。そしてそのことにまず言葉を失う。
「そうか。でもよくここが分かったな」
「人に寺子屋って聞いたらすぐに分かった」
そこでわたりはにっと笑う。「安吉は?」
「今日はいない。多分家の手伝いだ。稲刈りの時期だからな」
「ふーん。そうか」
そんなわたりを見ながら左ノ介は途方に暮れる。この子をどうすればいい?もちろん番屋などに連れてはいけない。しかし寺子屋を始めたばかりの自分が、子どもを預かるなんて到底考えられないことだ。
「お父うは他に何か言ってなかったのか?」
「お前は寺子屋に行って学問をしろって。それから自分で食っていけって」
「お父うはどうすると?」
「これから戦が始まるから、そこでひと稼ぎしてくるって」
「いくさ?」
「…ん。お父うはケガさえしてなかったら、いつもはすごい軽業師なんだ。毎日修業して、おいらにもいろんな技を教えてくれるんだ」
わたりは明るく言う。「戦はお父うの稼ぎ時なんだって」
左ノ介は男の顔を思い出す。傷の痛みに耐えながら、男はあの時兄弟の父親の言葉に深く聞き入っていた。もしかしたら、もう随分前から何かのきっかけを探しあぐねていたのかも知れない。
「とりあえず、寺子屋の皆に紹介しよう」
左ノ介はわたりを誘う。どこからか稲穂の匂いが香ってくる。左ノ介は自分の脇を歩く小さいわたりを見ながら、どうにもやり切れない気持ちでいた。
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