第13話

(十三)

 左ノ介は目が覚めた途端、大きく一つ生欠伸をした。ゆうべは結局遅くまで寝付くことができなかった。蒲団から身を起こし隣りを見ると、ぐっすりと寝入るわたりのあどけない横顔がそこにあった。 

 何よりも左ノ介が驚いたのは、わたりが女の子だったこと。そして事情を伝えていないにも拘らず、父親がしばらくわたりを家に置いてよいと告げたことだった。

「よろしいのですか?」

 左ノ介が問うと、父親は

「お前を訪ねてきたのであろう。ならば致し方あるまい」

 そう短く返した。無論それに対しての家族の反対はなかった。

 食事の後、何とも薄汚れた身なりのわたりと風呂に入ろうとした時、突然左ノ介はそのことに気がついた。すぐさま母親とお仲に告げ、風呂はお仲に代わって入ってもらった。それでもわたりは何故か寝るのは左ノ介と一緒の部屋がいいと訴え、母親はさっさと左ノ介の隣りに蒲団を敷いてしまった。お陰でまだ湯にも浸かっていないのに、左ノ介は冷や汗まみれになった。そんなこんなで左ノ介は何も具体的なことを考えられないまま、見知らぬ女児の傍らで一晩過ごす羽目になったのだ。

「どう、ゆっくり眠れましたか?」

 翌朝、母親が優しく声を掛けると、

「うん。あんなふかふかした蒲団で寝たのは初めてだ」

 と、わたりは全く男の子の元気さで応える。父親が呼ぶので近くに寄ると、

「私が今日、城であれの父親のことをそれとなく聞いてくる」

 左ノ介はその申し出に驚き、思わず父親の顔を見た。父親は黙ってそんな息子を見返す。左ノ介はその眼差しに、ただ頷くしかなかった。


「わたり」

 左ノ介は寺子屋に向かいながら、隣りのわたりに声を掛ける。

「お前、お母あはどうした?」

 するとわたりはまたきょとんとした顔で左ノ介を見る。

「おいらを産んで、すぐに死んだってさ」

「死んだ?じゃ、それからずっとお父うと二人きりか」

「うん。でも村を出るまでは、周りにいっぱい人がいたから」

 わたりはにっと笑顔を見せる。

「やっぱり百姓をやっていたのか?」

「他の仕事もいろいろしてた。墓守とか、牛や豚を殺して肉にしたりとかさ。お父うは包丁使うのもすごく上手いんだ」

 …そうか。そう云うことか。左ノ介は青空の下、寒ささえ感じる程の風をその頬に受けながら思う。

「じゃ、どうしてお前たちはその村を出たんだ?仲間だっていたんだろう」

 するとわたりは急に黙って

「そんなに何でもかんでもおいらが知ってるわけないだろう」

 不貞腐れたようにそう言い放った。

 寺子屋に着くと、左ノ介は早速皆に事の次第を説明する。もちろん差し支えない程度に、わたりを以前所縁のあった下女の親類と云うことにして。しかし当のわたりは左ノ介の思惑など構わず、誰彼なく話しかけてはすでに馴染んでいる様子。

「やれやれ、厄介な子ザルが一匹増えたか」

 左ノ介はそう呟きながらも、わたりのその周りを巻き込む奔放さに、まずはひと安心していた。


「奉行所では例の盗人はまだ捕えておらぬようだ」

 夕食が終わると、父親がすぐに左ノ介を呼び、そう告げた。

「父上にだけは申し上げます。おそらくわたりたちは…」

「分かっておる」

 父親は文机に座ったまま毅然として言う。「皆には言うな。わたりにもだ」

「…はい。しかし何故父上は?」

 左ノ介は父親の横顔を見る。

「匂いだ」

 そう言ったきり、しばし父親は黙る。「元はと云えば、藩の穢れ事を全て担っておったのがあの者らだ。我々はその役目を押し付けておきながら、その存在をあってはならぬもののごとく扱ってきた。飢饉や災害においても、一番の働き手はあの者らであったのにも拘らずだ。住む場所も、仕事も、何一つ思うに任せられぬ、そんな畜生にも劣るあれらの境遇の上に、我々武士はずっと胡坐をかいてきたのだ。そのことを忘れてはならぬぞ」

 父親の言葉に、左ノ介は頷きながらも内心驚いている。

「わたりの父親は、学問をして自分で食べていけるようになれと、別れ際に申したそうです」

「左ノ介」

 父親は息子を見た。「学問をすると云うことは、己を変えると云うことだ。古いしがらみや思い込みから自分を解き放ち、より広い世界に飛び出すと云うことだ。あれの父親は、それを我が子に託したのかも知れぬ」

「はい」

「これはお前の仕事だ。心してしっかりやりなさい」

「…ですが、このことが公になれば父上のお立場は…」

「わしのことはよい。自分の身の振りは、とうにわきまえておる」

 左ノ介が自分の部屋に戻ると、わたりは疲れたのか、ぐっすりと眠っていた。やれやれ…。左ノ介は自分も蒲団に包まりながら、己のこれからの運命を一人探ってみる。寺子屋の師範代になって早やふた月。自分は好むと好まざるとに拘らず、その道の上を歩み始めているようだ。

 翌朝、わたりと並んで子屋までの道を歩く。ふと左ノ介はゆうべの父親の様子を思い出す。父親が自分にあんな風に語ってみせるのは稀有なことだ。父親も幼い頃は貧しく、苦労したと聞く。わたりに自分の何かを重ねる思いがあったのかも知れない。

「おい、左ノ介」

 わたりが名前を呼ぶ。

「こら。外ではちゃんと先生と呼べと言っただろ」

 左ノ介は拳でわたりの頭を軽くこづく。その瞬間、今まで感じたことのない熱く、切ない気持ちが左ノ介の中を充満させる。そして左ノ介は思う。あの父親は今、どこでどうしているのだろうか、と。そしてわたりは、その父親を今、どう思っているのだろうか、と。

「あっ」

 左ノ介がわたりの横顔を見つめながら歩いていると、急にわたりが駆け出した。何事かと前方を見ると、遥か向こうに小さい二つの姿が見てとれた。

「安吉っ」

 わたりの澄んだ声が田畑の中を響き渡る。どうやら兄弟もその声に気がついたようだ。わたりはすぐに二人に追いつき、何やら話をしている様子。そのうち三人は左ノ介の方を向くと、

「はやく、はやく」

 そう手招きしている。

 左ノ介は「おう」と返事をすると、自分も全力で駆け出す。すると何かが自分をぐいぐい背後から押してくる感じがする。しかし左ノ介は振り向くこともせずに、息を切らせながら空を見上げる。ぽっかりとした白雲が、これ以上ない秋空にゆっくりと漂っている。

「ほら、お前たち。空があんなに高いぞ」

 左ノ介の言葉に、小さい寺子たちは一斉に空を見上げ、それから左ノ介を待たずに元気良く駆け出していった。


                               ( 第一部:完 )

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『 寺子屋繁盛記 』 桂英太郎 @0348

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